第9話 旅立ち

文字数 1,001文字

 桜が咲いた。
 淡い色合いの小さな花が、見上げる視界を埋め尽くす。その向こうに、花曇りの薄い空があることが窺える。快晴でなくて、よかった。明るい陽の下にいるのに、ふさわしい自分ではない。
 三月の最後の土曜日、卒業の日だった。紺の袴に浅葱色の着物を合わせた。華やかさに欠けるが、落ち着いた気分になれる。両親に付き添われて、式典の会場まで歩く。
 多くの同期生達が、艶やかに着飾って、大輪の花のように笑いさざめく。私は、もうあの中に入って、屈託なく笑うことはできない。
 卒論を最低限の出席で仕上げて、何とか卒業に漕ぎつけた。もちろん、就職先も決まっていない。
 あれから、両親の監視の下、ほとんど実家を出ることなく過ごした。電話を掛けることも、取ることもさせてもらえなかった。外出は、付き添いがいることが原則だった。が、出かける気分にならないので、ほとんど必要なかった。両親には、だいぶ心痛を与えたようだ。申し訳なかったと思っている。
 式典が終わり、それぞれの学部に引き上げ、卒業証書をもらった。その後は、サークルに顔を出し、後輩達からの祝福を受ける習わしだ。
 私は、行かない。
 このまま、帰ろうと思う。卒業証書を抱えて、学部棟から出ると、木立の向こうに部室棟が見える。その前に、幾つもの人だかりがあった。胴上げされている卒業生もいた。人気者なんだろう。
 両親が、正門で待っている、写真を撮ると言っていた。正門まで続く桜の下を、一人で歩いて行く。まだ七分咲き、と言ったところだろうか。蕾もちらほらあった。
 一陣の風が吹く。はらはらと花びらが散った。手の平にそれを受けた。この花びらは、まだ花として枝に付いていたかったかもしれない。それが、風によって、今ある場所から無理に引き離されたに違いない。まだ散る時ではなかったのに。
 私も、風によって散らされた花なのだろうか。他の花より、しがみつく力が弱くて、結果、自分の重みで落ちていく。花の形を保っていられず、空中で四方に砕け散る。地面に落ちて、踏みしだかれる。
 何かに突き動かされて、振り返る。様々な思い出が、目の前に翻る花びらの向こうに消えていく。胸の奥に走る、鋭い痛みとともに。

 彼は、四月から隣にある附属高校の教師となる。
 私は、もう二度とこの場所に来ることはないだろう。
 
 誰か、答えがあるなら、教えて欲しい。

 時間さえ過ぎれば、この痛みは消えるのか。

 

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み