第3話 戸惑い

文字数 2,103文字

 サークル内の恋愛関係だから、きっと秘密にしておくに違いない。気付かれないように、気をつけなければ、という気構えは全くの無駄だった。
 彼は、その日のうちに、堂々と交際宣言をした。
「俺の、彼女。手を出すなよ」
 講義が終わって、ドヤドヤと繰り出してきた面々は、皆呆気に取られた。私を含めて。女性陣の態度は、冷ややかだったり、含みを持たせるものだったり、様々だった。男達は、今まで存在を認識さえしていなかった私に、露骨に興味を示し始めて、あまり良い気はしなかった。
 その中でも、特に不躾な眼差しで、値踏みするように眺めまわし、距離を詰めてくる男が一人いた。私は、入部当初からこの人物が苦手だった。理工学部の四年生。最上級生の高圧的な態度で、近寄りがたかった。背が高く、口元には皮肉な笑いと毒舌、一重の切長の目が鋭くて怖かった。この男は、彼と同じ高校で、家も近いことから、彼をとても可愛がっていた。彼も絶大な信頼を置いていた。
就活もあり、滅多に顔を見せないが、できれば避けて通りたい相手だ。
「へー。どうやって奴を落としたの?地味な感じなのにやるじゃん」
 答えに困っていると、彼が助けてくれた。
「純粋なんですよ。心が綺麗で…、目がとても綺麗なんだ」
 私を、正面からじっと見つめる。赤面を隠せず、戸惑う。
「ふーん。そんなもんなんだ。まあ、よかったな」
 目が笑っていない。早くこの男から、離れたかった。

 自分が好きな相手が、同じ思いを抱いていてくれる。そんな経験は、今までの人生で初めてだった。会いたくてたまらなかった人が、いつも近くで自分を見つめてくれる。こんな幸福なことがあるだろうか。たまにそっと手を繋ぐ。人目のない場所で、短い口付けを交わす。毎日が有頂天だった。
 幸福の絶頂に上り詰めたら、後は下るのだということを知るのは、まだもう少し先のことだ。
 サークル内で、彼と同じ学部の三年生の先輩がいた。色白で目の大きな、いわゆるモテるタイプの人だ。彼の友人と付き合っていた。
「ねえ、良いこと、教えてあげるね。彼ね、高校からずっと付き合ってた彼女と、別れたばかりだったのよ。ラッキーだったね。その彼女ね、トラウマがあるとか言って、彼に最後まで許さなかったらしいの。それで、別れちゃったみたい。あなたも、勿体ぶってると、すぐ捨てられちゃうカモね」
 悪意しか感じられない忠告だった。
 季節は、冬。あの日からまだ三ヶ月だ。勿体ぶっているわけではないけど、今のままで十分楽しい。学内を一緒に歩くだけでなく、街で映画を見たり、食事をしたりすることもある。彼の話を聞くのが、楽しかったし嬉しかった。少しずつ、彼のことを知っていく。お互いの心の距離がどんどん近づいていく。一緒にいる時間が、何よりも大切だった。少しでも長く一緒にいるために、電車通学の私を駅まで送るのが、日課になった。改札口まで、手を繋いで歩く。そこで別れて、私がホームへ下りる。ホームからは、彼が駅の通路を歩いていくのが見える。彼は必ずそこで立ち止まって、私を見て、手を振る。その瞬間が、好きだった。ずっと電車が来なければいいのに…と、思わずにはいられなかった。
 恋に浮かれていると、月日の過ぎるのは、あっという間だった。

 春が来た。四年生が卒業し、あの男が近くから消えたことにホッとしていた。会えば、いつも緊張感に苛まれることになるから。
 彼も、四年生へと進級し、俄かに身辺が慌ただしくなってきた。教育学部は、教育実習、採用試験、卒論と、息つく暇もない。こちらは、まだ二年生。のんびりしたものだ。この頃から、私が彼をイラつかせることがある、ということに気付き始めた。ちょっとしたことで、言い合いになる。黙るのが、彼が怒った証拠だ。しまった!と思って「ごめんなさい」と謝る。そんなことが起こるようになった。彼は、自分より年上の先輩だ。そこは立てなければならないという、遠慮があった。
 ある時、付き合い始めた日のことが、話題に上がった。八百屋お七だ。彼は、お七がまだ未熟な十代の少女で、一目見た吉三郎に心奪われ、また会いたさに短慮を起こしたと書いていた。
「…お七は、子供じゃないわ。そんなに純情でもない。情を交わした相手だから、命を賭けても会おうとしたのよ」
 言った途端、彼の顔が険しくなった。
「そんな言葉、使うなよ!情を交わすだなんて。意味わかって言ってんのか」
 地雷を踏んだ。持論を否定された怒りを、別のことで噴出するのが、彼のパターンだ。
「君が、汚れて見える。やめてほしい」
「…ごめんなさい」
 こういうやりとりの後は、いつもこちらが断らないことを、知っている。知っていて、切り出す。
「話は、変わるけど、五月の連休、何処かに行こう。その後は忙しくて、あまり会えなくなるから」
 頭の中で、警鐘が鳴っている。
「一泊で、鎌倉にでも行こうよ」
 さっき、言ったことと、矛盾してないか。と心の中で、反問する。
「そうね…」
 承諾するしかなかった。彼と離れたくない。そのためなら、何でもできると思った。
 その時こそ、闇の入り口に、立っていたことに気付くのは、もっと後の事になる。
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