第12話 彷徨う心

文字数 1,889文字

 月明かりの中、駅からアパートに向かう。
 奴は、付かず離れず後ろを付いてきた。

 私は、ドアを開け、部屋の中に入ると、寝室の入り口で立ち止まっていた。後ろで、ドアを閉める音、鍵をかける音がした。
 振り向かなかった。背後に気配を感じる。
 奴の手が、髪を掻き分け、背中のファスナーを探る。そのまま腰までゆっくりと下げる。肩をはだけられ、萌葱色のワンピースが、足元に落ちる。スリップの肩紐を、一本ずつ外す。剥き出しになった肩に、唇を寄せる。首筋へと移動していく。
「お前…こんなに綺麗だったんだ…真っ白で柔らかい…」
 ブラが落とされた。後ろから抱き締められる。下腹部へ手が伸びていく。
 次の瞬間、抱え上げられ、ベッドへと運ばれた。
 奴は悠々と服を脱ぎ、傍らに横たわる。
「一年待った。我慢がキツかった」
 肌にゆっくりと手を滑らす。
「これは、偶然の再会?」
「まさか。この春から仕事が休みの時、あの駅をうろついてた。アパートの場所、知らなかったから」
 びっくりして、奴を見つめる。
「前の時にこれが、最後。と言ってたじゃない」
「…無理だ」
 唇が塞がれる。舌が絡みつき、私を捉える。奴の手が熱い。触れられた所から、溶けていく。
 
 奴といると、否が応でも彼の事が思い出されて、心に開いた傷が疼く。けれど、奴に抱かれて、忘我の中を漂っている時だけは、痛みを忘れた。大きな矛盾を抱えて、闇を彷徨っている気がする。出口が見えない。

 夏が去り、秋が巡ってくる。
 あの日から、月に数回の逢瀬が続いていた。会わない間は、忘れていたのに、会ってしまってからは、求め合う事が止められない。将来の約束も、愛の言葉も無い。今更、愛なんて感情は、芽生える訳がない。少なくとも私はそう思っていた。お互いの満たされない部分を、その刹那だけ、埋め合える。それだけのために、抱き合うのだ、と思っていた。奴も同じだろうと。

 この間、あの先生からは、度々誘いがあり、二度食事をした。その十倍断りもしたが。いろんな誘われ方をしたが、食事以外は、期待を抱かせることに繋がるのでは。と警戒していた。

 秋が深まった。その日、四度目の食事に誘われた。ホテルのレストランだった。いつもより、豪華なディナーが不安を掻き立てる。
 デザートの後、彼が唐突に指輪の箱を取り出した。
「これ、どうぞ。婚約指輪です」
 何を意図しての発言か、全く理解ができなかった。
「どういうことでしょう?」
 すると、彼は何を分かりきったことを聞くのだ、と言わんばかりに、
「付き合って、五ヶ月だし、大体三回デートしたら、次はプロポーズが定番でしょう」
 それは、お見合いの定義だ。第一、付き合ってなんかいない。
「私は、お付き合いしているつもりは、全くありません。職場の同僚として、お食事を一緒にしている認識なんですけど…」
「同僚?立場が違いすぎるでしょ。食事代は、僕が払ってるし。恋人だから当然ですけど」
「だから、恋人なんかじゃありません。誤解されては困ります」
「だったら、恋人らしくなりましょう。上に部屋がとってありますから」
 さすがに頭に来た。こちらの話を聞く耳持っていない。
「人を何だと思ってるんですか。立場が違う?失礼にも程があります。その上、部屋だなんて、バカにするのもいい加減にしてください!」
 やってしまった、と思う。けれども、ここまで舐められて、黙っていられない。
「帰ります!」
 憤然と席を立った。
「待ってください!」
 彼が怒って言い返すかと思いきや、床に座り込んだ。
「ごめんなさい…女の人とお付き合いした事がないから、いつもこういう失敗をするんです。気に障ったら謝ります。本当にごめんなさい。でも、考えて欲しいんです。僕とのことを。好きなんです。結婚したいんです。お願いします」
 深々と頭を下げた。捨て身の懇願に度肝を抜かれた。周りの視線が集まっている。
「…分かりました。考えますから、立ってください」
 あまりの率直さ、一途さに少し感動していた。
「ちゃんと、考えますから、今日はもう帰らせてください」
「はい!」
 嬉しそうな、返事だ。ため息が出た。

「好きなんです」

 何年ぶりに聞いた言葉だろう。

 大学一年、彼と付き合い始めた頃に、聞いて以来かもしれない。
「好きだよ…」
 誰もいない部室、校舎の物陰、耳元で囁き、唇を合わせた。
 恋が美しく、輝いていた頃のことだ。あれから、誰も、言ってくれなかった。
 あの頃に比べると、自分はなんと薄汚れてしまったことか。自分を好きでもない相手と、先の見えない情事に溺れている。

 「好きなんです」
 その言葉に、心が揺れていた。


 

 

 

 
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