第1話 別れの瞬間

文字数 1,859文字

 その瞬間は、唐突にやってきた。
「もう、来ないでくれないか」
 一瞬、自分が何を言われているのか、理解が追い付かなかった。しかし、彼の不機嫌そうな、困った顔を見て、少しずつ、今の状況が飲み込めてきた。
 彼のアパートの駐車場、仕事帰りの彼を待って、腕時計を見ながら、時間を過ごしていた。待つのは慣れているし、学生の自分とは違って、社会人一年生となった彼にしてみれば、覚えることが多過ぎて、大変な毎日である事は、容易に想像が付く。だからこそ、夕食を作ってあげようと、スーパーで食材を買って、彼の車が入って来るのを待っていたのだ。
 既に夜の9時を回った。
「…遅いな」
 思わず、呟いたその時、見覚えのある赤のセダンが駐車場に入って来た。彼が運転席から降りて、助手席のドアに手を掛けた時、自分がいるのに気が付いたらしい。
 ドアから離れ、足早にこちらに来る。嬉しくて、顔が緩む。その笑みのままで、
「遅かったのね。夕食を作ろうと思って…」
と、話し始めた瞬間、彼の口から飛び出したのが、その言葉だった。
 その時、助手席の窓が開いた。彼と自分よりだいぶ年上と見える女性がいた。
「どうしたの?」
「ああ、ごめん。すぐ行くよ」
 その会話だけでも、二人の距離感が分かる。これは、ただの職場の先輩というわけではなさそうだ。そうは思っていても、それ以上相手に近づく事ができない。それほど、落ち着き払った大人の女だった。
 彼は、踵を返すと助手席に近づき、二三、言葉を交わした。助手席の女が、ちらとこちらを見る。
 そして、彼は運転席に乗り込んで、そのまま車を発進させ、自分の前を通り過ぎた。
 …一体、何が起きたのか。十分前には、想像もしていなかった。つまり、別れるという事なのか?先週末、彼の部屋で過ごした時には、そんな素振りは微塵も無かった。…いや、本当にそうだろうか。見たくない事実に、蓋をしていただけなのかもしれない。

 稲妻が光り、雨が、降り出した。

 すぐにずぶ濡れになるような降り方だ。
 だけど、その場を動けなかった。

 …信じられない。突然すぎて現実とは思えない。でも、その一方で、とうとうこの時が来たんだ、という思いがあった。とにかく、話をしなければ。このまま引き下がれるものか。そんな思いで、その場に佇んでいた。

 三十分程して、彼の車が戻ってきた。
 運転席から降りて、傘をさす。チラッとこちらを見て、ため息を吐きながら近づいて来る。
「言ったよね。もう来るなって。意味わかんないの?何でまだいるの?」
 傘は自分だけ。差し掛けてはくれない。
「意味なんか、分かる訳ないじゃない。どういうこと?」
「だから、もう、終わってんだよ。俺達。うんざりしてたの気付かなかったの?」
「この前、何も言ってないよね。いつも通り私の事、抱いたでしょ!」
 彼の目が、釣り上がってきた。怒っている証拠だ。
「だから、そういう所、鈍感で無神経だよな。こっちは別れたがっていたのに、察することもできないの?」
 口調がキツくなってくる。こうなると、取り付く島がない。自分の主張を自分の理屈で押し通す。それがいつものこの人だ。二歳年上の大学の先輩。そこで、逆らうのを諦めてしまう。でも、今度ばかりは、そうはいかない。
「さっきの人、誰?どう見てもずっと年上よね。あの人と付き合いたいから、別れたいって言うの?」
 彼の口が、への字に曲がる。
「もう付き合ってる。お前がしつこく押しかけて来るだけ」
 何を言ってるのか。理解が追いつかない。呆気に取られて、黙ってしまった。
「もうしばらく前から、お前の事こっちから誘ってない。なのに、勝手に部屋に来るだろ。うんざりなんだ」
 それだけで、気付けというのか。新しい恋に浮かれていて、言ってることが支離滅裂だ。
 この人には、今、あの女の人しか眼中にないんだ。自分の恋路を邪魔する目の前の女を、振り捨てようと必死なんだ。そのためには、言葉を選んで、傷つけないように、なんて配慮が入り込む余地は無いんだ。なり振り構わず、自分を捨てたいんだ。
 その理解が、自分の中に、重くドロドロと渦巻いてきた。

 ああ、私は、恋人に、自分にとって初めての男に、こんな風に、まるでゴミみたいに捨てられるんだ。

「とにかく、終わりだ。もう、来ないでくれ」

 理解はしたが、納得できない。納得できない事には、感情もついて来ない。おかげで、涙の一滴も出てこない。彼の後ろ姿に声も掛けられず、ただ、呆然と雨に濡れている。
 
 二十歳の初夏。彼は、二十二歳、社会に出て、まだ二ヶ月だった。 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み