第20話 燎原の火の如く

文字数 2,359文字

 自宅のリビングから、窓の外へと目を向ける。
 庭の紅葉の木が、レースのような葉を広げ、夏の陽射しを揺らめかせている。耳に慣れてきた蝉の声が、法師蝉へと移り変わり、この酷暑も終わりに近づいていることを教えている。
 リビングの隣にある和室には、先日交わした結納の品々が置かれている。その中に、婚約指輪の箱があった。
 お盆休みを利用して、父母は父の新潟の実家に、挨拶と報告に行った。明日の午後には戻る予定だ。私のことも連れて行きたかったようだが、体調不良と草花への水遣りを理由に、一人、ここに残った。

 十月の初めに、式を挙げる。式場も招待状も引出物も、全て手配が済んでいる。忙しかったので、少しゆっくりしたかったのだ。

 お見合いをした相手は、誠実そうな人だった。今までの男達の、誰とも違った。口数の多い方ではないようだが、周囲の人とのコミュニケーションを疎かにする程ではない。穏やかに、微笑みながら話を聞いている。こちらの思いを最優先に考えてくれる。一緒にいると、静かな落ち着いた気持ちになってくる。
 最初は、周囲にいないタイプだったし、容姿も服装も歳に似合わないくらい地味だったので、正直断ろうと思っていた。
 その時、その人の、コーヒーカップを持つ手に目が止まった。
 繊細で美しい指だった。哀しくなる程に。

 四回目のデートで、うちに来て、父と母と四人で話をして、結婚を決めた。それから一月がかりで、結婚式の準備を(せわ)しなく行い、やっとホッとしたところだ。招待状の返事が来たら、また忙しくなるのだろう。
 六月から、隣市の文学館の職員として、働き出した。まだまだ分からないことだらけで、戸惑っている。始めたばかりの仕事と並行しての結婚準備で、息つく暇もなかった。おかげで、余計な事を考えずに済んだ。

 これで、いい。

 今、一人になって、自分の気持ちを確認した。きっと、穏やかな日々が確実に私達の結び付きを育んでくれるだろう。そして、いつしか私は、自分の傷を忘れて行くのだ。新たな家族の誕生もあるだろう。また、責任ある仕事で自分の居場所を作れるだろう。そうして、ゆっくりと、いつか訪れる死へ向かって歩んでいく。振り返る事もなくなる。そう、信じている。

 そんな事を考えながら、いつの間にか微睡んでいた。

 不意に、リビングの電話が鳴ったので、びっくりして飛び起きた。反射的に、受話器を取る。

「…、俺だ」

 私の名を呼んだのは、これが初めてかもしれない。そんな考えが、まず浮かんだ。ドクっドクっと、心臓に血が集まってくる。
 やはり、来たか。
 しかも私が一人の、このタイミングで。運命を司る何かに、弄ばれている気がした。

「どうして…?」
 奴が、絞り出すような声で、聞いてくる。
「昨日、帰国して、聞いた。招待状が届いた、と」
 あの友人にも、招待状を出すまで黙っていた。現在、つわりの真っ最中なので、心配させたくなかった事もある。

「お見合いしたの。結婚します」
 受話器の向こうで、息を吸い込む様子がわかる。
「なぜ…だ」
 声を聞いているうちに、だんだん苦しくなってくる。早く、この通話を終わらせなければ。
「私達、もう、会わない方がいいわ。私達の関係って、何?未来もない。何の約束もない。これ以上、一緒にいても苦しいだけ。だから、この前みたいに、私を、結婚に送り出して欲しい。お願いだから」
「二度とごめんだ!!」
 受話器が震えるほどの、血を吐くような叫びに驚愕した。
「あの後、死ぬほど後悔した。また、お前の傷を増やしただけだった。もう、誰にも触れさせたくない」
 それは、自分の都合だろう、と言おうとした。

「好きだ」

 えっ…。言葉が、出て来なくなった。
「…、お前が好きだ。ずっと前から」
 私の名が、再び呼ばれる。驚きと混乱で、胸が潰れそうだ。
「…嘘。そんな事、一言も言わなかったじゃない」
「言えるわけないだろ。お前にした事を考えると、受け入れて貰えるはずないじゃないか。好きだと言って、拒絶されたら、もう会えなくなる」
 絶句する。やっとのことで、聞く。
「いつから?」
「多分、あいつよりも先だ。躊躇っているうちに、あいつに持ってかれた。お前が、ずっと、あいつを好きな事も気付いてたから」
「何で、あんな事、したの?」
 私を、無理やり奪った。
「若かったから、他に方法を思いつかなかった。ああでもしないと、お前は俺の方を見ないだろう。お前は、呆れるほど一途だから」
 その通りだけど…。言葉が出ない。
「お前は、炎みたいだ。一度火が点くと、どこまでも燃やし尽くす。初めて会った時から、そう感じてた。あいつと付き合ってた時も。危なくて見てられなかった」
 以前、そんな事を言ってた。「ずっと見ていた」と。この人は、私よりも長い時間、思いを抱えていたというのか。俄かには信じられなかった。

 でも、もう遅いのだ。何もかも。
「…私、結婚するの」
「好きだ」
「もう、決めたのよ」
「好きなんだ」
「他の人と幸せになって」
「お前以外の女なんて、いらない!お前以外の女は、抱かない。ずっとそうしてきた、あの日から」
 私が炎なら、この人もそうだったんだ。心の奥に燃え盛る炎を、ひた隠しにしていた。今なら、分かる。だから、あれほど私に火を点けて、狂わせた。

「今から、そこに行くよ。まだ都内だから、時間がかかるけど、待っててくれ」
 だめだ。だめだ、だめだ。
「お願い、来ないで」
「嫌だ。お前にもう会えないかと思うと、苦しくて息ができない。好きなんだ」
 一度、吐き出してしまった思いは、留まるところを知らない。奴の想いに、飲み込まれてしまう。

「…もう、会えないのよ」
 私の頬を、涙が伝う。嗚咽を抑えきれない。

「好きだ。一生、お前だけを、愛してる」

「来ないで…」

「好きだ…」
 


 電話が、切れた。


 
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み