第6話 女

文字数 1,227文字

 その日は幼稚園から優斗が発熱したと連絡がきたので、パートを早引きして優斗を迎えに行き、いつもよりずいぶん早く家に戻った。自転車で寝てしまった優斗を抱っこして、起こさないよう静かにドアを開けると、あるはずのない人の気配。久子は一瞬、泥棒! とパニックになり身を固くした。頭の中でどうしようどうしようが回る。

 でも次の瞬間、音と気配は寝室からのものでしかもそれは紛れもなく。男女のものだと気づいた。久子は自動人形のようになって、優斗を抱っこしたまま機械的な動きで音のする方へ歩いていき寝室の中をそっと覗いた。広志。そして、女。
 女は広志の上にまたがり広志の右手は女の胸をつかみ、左手で腰を押さえて激しく動かしている。二人ともうめき声をあげ今にも、今にも……(快楽の果て)

 夢中な二人は久子たちにまったく気づいていないようだった。頭の中がしいんとなり体じゅうに気持ちの悪いなにかが絡みつき吐き気におそわれた久子は、テレビと台所のある部屋へふらふらと戻った。

 ううん、えっと、ううん、だから何だっけ。頭の芯がしびれる。ぎゅうううう。広志、広志? 広志がいた。なんで? 今日はまだ早いし、優斗は熱出してて、でもお熱は下がったみたいね。よかった。あれ、おかしいな。女、女が……女、女、女

 久子は良く寝ている優斗を二人がけのソファの上にそっとおろし、そのまま台所に向かうと流し台の下から包丁を一本取り出し右手でぎゅっと握る。そうそう夕飯の支度しなくちゃ。今日は寒いし優斗も調子悪そうだから、暖かいシチューにしよう。ルーなら買い置きがあるし冷凍庫に鶏肉もあったな。うんそうしよう。
 その時、寝室から女の小さな笑い声が漏れ聞こえてきた。頭の芯が、揺れた。
 突然、爆発音がして、久子は驚いて包丁を取り落としそうになった。足が動かなくなり、立ちすくんだまま部屋の中をきょろきょろと見まわした。でもどこも何ともないみたい。変なの、気のせいかな? でもあんなに大きな音がしたのに。

 するとまた女の忍び笑いの声が聞こえてきた。それを聞いた久子は、自分でもおどろくほど落ち着いて冷静な気持ちになった。同時に今、自分が何をしようとしているのか、何をすべきであるのかを瞬時に理解した。

 せまい我が家だもの、いちにいさんしいご。あと5歩あるけば寝室の入り口だ。いちにいさんしいご。やっぱりも少し広い家に越さないとね。防音もしっかりして、気持ちが乱れる、嫌な音が聞こえない所に。

 寝室から漏れる女のくすくす笑い声。いやだいやだいやだきもちわるい聞きたくない。あたしを乱さないで。思考が揺れる。頭の中で、またなにかが大きな音で爆ぜる。久子は右手に包丁を握りしめたまま左手で額を軽く押さえ、ふらつく体をささえるため寝室の開いたドアにゆっくりともたれかかり、ベッドの上を見た。古い蝶つがいがぎぃぃと音をたてる。はっとなり一斉にこちらを見る、男と女。久子の顔から目が離せぬまま、固まる二つのからだ。

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