第7話 匂い

文字数 1,071文字

「え、久子、だって今日は、え、」

 広志の顔が醜くゆがみ、なんともいえない表情で口をパクパクさせて意味をなさない言葉をぽろぽろと放つ。人間の口ってゴムみたい。よく動くなあ。タテにヨコに、むにゃむにゃと動く。なんか言ってる? でもわかんない。

 女の顔は、なぜだかよく見えなかった。夕暮れの薄暗い光の中で、それでも、真っ赤な口紅を塗ったくちびるだけは、鮮やかに見えた。白い乳房が薄闇の中に、まるで発光しているかのごとく浮かび上がる。久子は眉間にしわを寄せ目を細めて、女の顔を読み取ろうとした。でもどういうわけか、まるでそこだけモヤがかかったかのように、どうしても判然としないのであった。

「あ、あのさあ久子、あのだからね、」

 久子はしっかりした足取りで、ベッドの方へ近づいた。匂い。男と女の、匂い。自分のものではない、匂い。

 久子の嗅覚はどうやら人より敏感なようで、他人の香水の匂いや独特な体臭に酔ってしまい、混雑している電車の中などではそれで頭痛が起きたりもした。

 その時の久子も、醜悪な臭いが体じゅうに絡みつき這い上がってくるような感覚におそわれて、頭がガンガンと痛み出した。

 ああいやだまた頭痛だ。薬、飲まなきゃ。ああそれよりも、まずは臭いを消さないと。

 久子は包丁を持った右手をゆっくりと上にあげ、左手も添えて握りなおし横たわったままの広志の腹にまっすぐ突き立てた。

「ちょ、え、なん」

 血が、噴き出した。包丁の先はずぶずぶと腹の中に消えている。 
 先日買ったばかりの真っ白いセラミック包丁。ちょっと高かったもんね、さすがよく切れる。いい感じ。
 さらに二度三度、腹やら胸やらをざくっざくっと刺した。けいれんし始めた広志の横に、女のからだがあった。素っ頓狂な声を出してベッドから落ちそうになっている。
 なに言ってるの? よくわからないよ。

 頭痛はどんどんひどくなり、目の前がチカチカして視界はぼやけ、耳の奥もじんじん鳴ってよく聞こえない。
 痛い痛い痛い久しぶりに大きい発作だ。痛い痛い痛い痛い。臭いが、臭いでひどくなるんだ。消さないと早く。
 
 久子はとっさに女の腕らしきものをつかみ、大きく振りかぶって白い乳房に包丁を突き立てた。やせ型であまり力のなさそうな久子であったが、子どもを産んでからは抱っこをしたまま重い買い物袋を運んだりして、おのずと鍛えられたようだ。
 位置も良かったんだろう、丸鶏の胸肉を肋骨をよけて刺すように、わりと難なくきれいに刺さった、気持ちいいぐらいに。勢いよく噴き出す血しぶき。

「やだあひろしひろしぃあたし死んじゃうぅぅ」

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