第8話

文字数 6,053文字

 新年度に入って最初の週末、井村は海沿いの市民公園に向かった。
 U県内は、一昨日に桜が満開になったとテレビや新聞が報じており、道中の桜の木々は一面桃色に染まっていた。春休み期間中でもあるため、おそらく公園は花見客で混雑するだろうと井村は予想し、早い時間に自宅を出てきた。
 職場も人事異動で人が入れ替わったが、井村は残留だった。一年目で異動するのは、よほど優秀な人かその真逆な人に限られるだろうと思っていたため、残留について思うところは特になかった。
 永池は年度末に定年で退職した。四月からはU県庁で再任用職員として働くことになったそうだ。隠居生活をするつもりじゃなかったのかと井村が訊ねると、もう少しだけ小金を稼いでからにすると、彼は答えた。
 また、事業担当課長の服部は、協会が指定管理を行っている県立西部体育館へ異動した。大沼の一件に限らず、以前から素行不良で職員から評判が悪かったこともあり、事務局の職員の多くは、彼女が異動すると知るや否や、表情が明るくなった。ウォーキングイベントを担当していた梶原もその一人だった。
 あれからすぐに再度業選が開かれ、無事に入札が行われて委託業者が決定した。イベント担当の彼が中心になって業者と連携を取りながら、滞りなく準備が進んでいるようだと、大沼が話してくれた。
 大沼も井村と同様に残留で、席も変わらなかったものの、彼のデスク周りは昨年度とは見違えるほどに整理整頓されて綺麗になっていた。暇さえあれば、アルコールティッシュでデスクを拭き、書類を片付けているくらいだ。あの一件以来、井村や職員たちとも打ち解け、表情が柔らかくなった。
 おそらく、今後は協会のプロパーとして大いに活躍することになるだろう。契約職員の立場でそんなことを職場では言えないものの、井村は内心そう思っていた。
 井村は公園の駐車場の入口で駐車券を取り、場内へゆっくりとカローラを進ませた。やはり花見客が多いせいか、駐車場はいつもより混んでいた。だが幸い、いつも停めている駐車エリアは、公園から離れていることもあり、空いていた。
 そして、明日香のセリカも停まっていた。
 運転席で明日香はスマートフォンをいじっていたが、井村がクラクションを鳴らすと、明日香は顔を上げ、笑顔で井村にお辞儀した。
 井村がセリカの隣にカローラスポーツを停め、外へ出ると、明日香もクルマを降りてきた。外はまだ肌寒く、明日香はベージュ色のニットのセーターを着ていた。
「お久しぶりです」明日香が改めて井村に挨拶した。
「久しぶりですね。元気でしたか」
「はい。井村さんもお元気そうで」
「おかげさまでね」
 明日香は嬉しそうに笑った。
「いつものカフェ、行きますか?」
 明日香が訊ねると、井村は首を横に振った。
「今日はおそらく混んでますし、花見日和ですから、外で過ごしませんか? 私、実は甘いものをちょっと用意してきたんですよ」
 そう言うと井村は、カローラスポーツの後部座席から紙の包みと水筒を取り出した。
「素敵」明日香が小さく拍手した。「それは何ですか?」
「これは、近所の和菓子屋で買った団子です。」
 井村は紙の包みの方を少し高く掲げた。「花より団子っていいますからね。美味しいんですよ、これ」
 明日香がふふっと笑った。
「それからこっちは、ほうじ茶。お団子に合うかと思います」
「嬉しい。ありがとうございます。私、何にも用意してなくて……」
「気にすることはないですよ。明日香さんのお口に合うかどうかだって、わからないし」
「私、甘いものは大体オッケーなので、大丈夫です」
「本当ですか? ならちょっと安心した。さ、行きましょう」
 井村は後部座席からさらに、レジャーシートなどが入った紙袋を取り出し、団子の包みと水筒をその中に入れると、カローラのドアをリモコンで施錠し、公園へ向かって歩き出した。明日香もそれに続いた。
 公園内は予想通り、花見客で賑わっていた。大きなブルーシートの真ん中にポツンと座っている若者の姿があちこちに見えた。おそらく大学生や会社員の若手が、早朝から花見会場を押さえ、先輩や上司が来るのを待っているのだろう。宴会を敬遠する人が増えた昨今でも、この時季のこの風景は相変わらずなんだなと、井村はしみじみ思った。
 桜が良く見える場所を求めて歩き回るものの、考えることは皆一緒で、そういう場所は既に人で埋まっていた。井村はこだわりを捨て、人気の少ない場所にターゲットを変更した。
「このあたりとか、どうですか?」
 井村が振り返り、明日香に訊ねた。景色がそこそこ良い割に、皆気付いていないのか、人がそれほどいない場所だった。
「いいですね。ここにしましょう」
 明日香が応じたので、二人は早速レジャーシートを敷き、腰を下ろした。地面が思ったよりもひんやりとしていた。
 井村は水筒の蓋代わりとなっているコップに、温かいほうじ茶を注いだ。淹れたてのほうじ茶の湯気と香りが、二人の間に沸き上がった。そして、団子の包み紐を解いた。
「わあ、美味しそう」
 串団子を目にした明日香から笑みがこぼれた。
「いろいろ種類があって、とりあえず一つずつ買ってみました。どれがいいですか? お好きなのをどうぞ」
「じゃあ」明日香は少し迷った後に、「これにしますね」と言い、みたらし団子の串を手に取った。
「私は、これにしようかな」
 井村は粒あんが乗った草餅の団子に手を伸ばし、食べ始めた。
「美味しい」
 明日香が団子を口に含みながら言った。
「良かった。お口に合わなかったらどうしようかと思いました」
「懐かしい感じがします」
「昭和の味と言うか、素朴なんだけど、それが良いんですよ。今の和菓子って、オリジナリティがあるというか、奇をてらっているというか、美味しいんだけど、何か違うなって気がするんですよね」
「わかります。昔から変わらない味がいいって言う人も多いですよね」
「そうなんですよ」
「お餅も少し火で炙って焦げ目をつけてますけど、それが香ばしくていいですね。お茶にもよく合います」
「ありがとう。私が作ったわけではないけど、嬉しいですよ」
 二人は声を上げて笑った。
「お茶は井村さんが淹れたんでしょ?」
「いや実は」井村はほうじ茶を一口飲んで続けた。「妻が淹れたのを、少し恵んでくれたんですよ」
「そうなんですか。奥さんはお茶が好きなんですね」
「まあ、そうだね。通販で定期的にいろいろ茶葉を買っては、飲んでるよ」
「素敵ですね。私も今度お茶を買ってこようかな」
 二人は桜の景色を眺めながら、のんびりとお茶の時間を過ごした。
「試験、どうでしたか?」
 明日香が訊ねてきた。
「ああ、落ちました。残念ながら」
「そうでしたか……」
「他に長く勤めていて優秀な人がいたから、私が入り込める余地はなかったんですよ」
「そんなことないでしょう」
 明日香が否定したが、井村は続けた。
「まだまだ私は、新参者で修行不足の身ですから。新しい年度になって心機一転、また頑張りますよ」
「次は受かるといいですね。応援してます」
「ありがとう」
 井村はほうじ茶をゆっくり飲んだ。花見客の賑やかな声があちこちから聞こえてくる。
 今日、せっかく明日香に会えたのだ。あのことを訊かずに帰るわけにはいかない。
 井村はコップを置くと、顔を上げて明日香の方を向いた。
「野瀬さん」
 井村の改まった様子に、明日香はやや緊張した面持ちで応じた。「何でしょう?」
「訊きたいことがあるんですが」
「訊きたいこと?」
「あなたはひょっとして、もうこの世にはいないのではないのですか?」
「え……?」
 明日香は一瞬きょとんとした顔を見せたものの、すぐに微笑んで答えた。
「どうしたんですか、井村さん。突然そんなことを訊いて」
「ごめんなさい、いきなり変な質問をしてしまって。ただ、ちょっと気になったものだから」
「どうしてそのように思われたのですか?」
「実は、去年の暮れに、妻と旅行に行ったんですよ」
 井村は例の温泉地の名を告げた。すると、明日香の表情から笑みが消えた。
「あの近くに山があって、その頂上に展望台がありますよね? その前を通る有料道路の横断歩道で私は、クルマに轢かれそうになった女の子を助けました。その時ね、かなり昔にも同じ場所で同じようなことがあったのを、思い出したんです」
「井村さん……」
「その子は親御さんと離れ離れになってしまっていたようで、信号機のない横断歩道を一人で渡ろうとしていました。その時、道路からクルマがかなりのスピードで横断歩道に差し掛かろうとしていました。近くにいた私は無我夢中で横断歩道に飛び出し、女の子に覆いかぶさりました。クルマはギリギリのところで急停止したので、女の子も私も無事でした。親御さんたちもすぐに駆け付けて、涙目でお礼を言われました。それから、たまたま県内の行楽地の様子を取材していたテレビ局のカメラがその模様を撮影していて、私はインタビューにも応じました」
 明日香は黙ったまま、井村を見つめていた。
「その翌日、私は妻と温泉街で土産物屋を散策していました。その時、温泉街の目抜き通りに、一台のスポーツカーが信号待ちで停まったんです。エンジン音も凄いし、デザインもずば抜けて格好良いし、滅多にお目にかかれない高級車だったこともあって、そのスポーツカーは通行人の注目の的になっていた。そんな中、一人の女の子がスポーツカーに近づこうと通りを渡ってきたんです。その子は、昨日私が助けた女の子だったんです」
 井村は続けた。
「その時、反対車線から別のクルマがやって来たんです。私は少し離れた場所にいたので、気付いた時にはもう間に合わなかった。クルマはスキール音を立てて急ブレーキをかけましたが、その直後、ドンという鈍い音がして、その女の子は宙に舞っていました」
 井村はその時の光景を思い出し、思わず目を閉じた。
「近くにいた通行人が女の子に駆け寄り、応急処置や人工呼吸を施し始めました。救急車もすぐにやって来て、病院へ搬送されていきました。何とか助かってほしいと祈りましたが、その夜のニュースで、女の子が搬送先の病院で亡くなったと報じられました」
 明日香が俯いた。
「私は自分を責めました。前日、道路に急に飛び出さないよう、もっと厳しく注意すれば良かったとか、温泉街でもっと周りの様子を気にかけていたら、もう一度助けることができたんじゃないかとか……。後になって、どんなに悔やんだところで『たられば』論になってしまうのはわかっていても、ついね……」
 その時、明日香が顔を上げた。
「井村さん」
「はい」
「ごめんなさい。私のせいで、そんな辛い思いをさせてしまって……」
 明日香が頭を下げた。
「ではやはり、あなたは……」
 井村はまじまじと明日香を見つめた。
「はい。あの時クルマに轢かれた女の子です」
 明日香が再び頭を下げる。
 井村は思わず口が半開きになった。そして、しばらくしてからようやく話し始めた。
「こんなことってあるんだね……。およそ二十年前に天国に行った子が、現世に姿を現すなんて、アニメやドラマの世界だけの話だと思っていたよ。しかも、こんなに立派になって……」
「驚きましたか?」
「そりゃあ、驚いたよ」井村は声を上げて笑った。「驚いたけど、何だか嬉しいよ。こうして再び、君に会うことができたんだからね」
「ありがとうございます。でも……」
 明日香がそこで表情を曇らせた。
「でも?」
「私の正体が知られてしまったら、もう私はこの世には来られなくなるんです」
「えっ……」井村は絶句した。
「だって、この世にいるはずのない人間がこの世にいたら、おかしいじゃないですか」
 明日香は寂しそうな笑顔を見せた。
 井村は胸が締め付けられる思いがした。
「せっかくこうして仲良くなれたのに、もう会えなくなるなんて、何だか、残念だな」
「私も残念です。残念ですが、そういう決まりになっているんです」
「決まり、か……」
 井村は食べ終えた団子の串を弄りながら、呟いた。
 知らないままでいた方が、良かったのかもしれない。そう思った。
「井村さん」
「何でしょう?」井村は顔を上げた。
「あの時、身を挺して私を守ってくださり、ありがとうございました」
「そんな。お礼を言われるほどのことじゃないですよ」
「でも、それなのに翌日、あんな目に遭ってしまって、本当に申し訳ないです」
「謝らないでください。私の方こそ、君を守り切れず、申し訳なかった」
 井村は頭を下げた。
「私は、あの世で楽しく生きてます。生きてますって言い方が正しいかどうかはわかりませんが」
 二人はそこで声を上げて笑った。
 井村が改まって言った。
「君のおかげで、私も今回、マニュアル車を手に入れて、ささやかながら楽しませてもらっているよ。人生に少しだけ彩が付いたような気がする。本当、ありがとう」
「そう仰っていただけると、私も嬉しいです」
「いつか、私があの世に行くことになった時は、またドライブしましょう」
「そうですね。私、ずっと待ってますから、急いで来なくていいですよ」
 井村は頭をかきながら苦笑した。
「ああ。だが、そんなに長く待たせることはないと思うよ」
 
 しばらく花見を堪能した後、二人はレジャーシートを畳み、駐車場に戻った。
「ここからどれくらいかかるの? 君の帰る場所は」
 井村はセリカに乗り込もうとしている明日香に訊ねた。
「どうですかね。渋滞にもよるけど……」
「渋滞があるのか?」
 井村は思わず身体を仰け反らせた。
「ありますよ。花見シーズンですし」
 明日香が事も無げに答えた。
「そんなに多くの人が、この世に花見に来ているのか?」
「毎年そうですよ。ここの公園にも結構来てるんじゃないかな」
「へえ……」
 井村は、駐車場と公道の境界にずらりと植えられている桜の木々を見つめた。
「それじゃ、私はこれで」
 明日香の声に、井村は我に返り振り向いた。
「井村さんに会えて良かったです。本当にありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう」
 明日香が隣のカローラスポーツの方に目を向けた。「おクルマ、大事になさってくださいね」
 井村が大きく頷くと、明日香は深々と井村にお辞儀をし、セリカに乗り込んだ。セルモーターが甲高い音を立てて回り、エンジンがかかった。
 エンジンの回転数がやや上がり、セリカがゆっくりと車室を出て行く。
「さようなら。またいつか」
 運転席の窓が開き、明日香が言った。
「ああ。さようなら」
 井村は明日香に軽く手を振った。
 車路を進むセリカはだんだんと小さくなり、奥で左折して、駐車場出口のゲートを通過した。
 井村は小走りで、駐車場の境界の木々の間を抜け、公道に出た。だが、公道に出たばかりのはずのセリカの姿は、どこにも見当たらなかった。
 またいつか、会おう。いつか、きっと。
 井村は目頭から湧き出てくる熱いものを指で拭い、空を仰いだ。
 空から、セリカの力強いエンジン音が聞こえたような気がした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み