第6話

文字数 11,082文字

 翌月は師走で、慌ただしい日々が続いた。U県スポーツ振興協会も主催イベントが目白押しのため、井村も事業の勉強という名目で、手伝いに駆り出された。旅行会社時代で客の応対には慣れているため、受付業務などでは現場から重宝された。井村自身は濃密な人付き合いは好きではないのだが、客を相手にしている時は案外気が楽だった。おそらく、ほとんどがその場限りの関係で終わるからなのかもしれない。社交的な人は、実はかえって接客業には向いていないのではないかとも、時折思う。
 十二月二十八日の御用納めを終え、井村は自宅に帰る前に机周りの片づけをしていた。大沼が身支度をして、いつものように黙って退庁していった。年の最後の日くらい、「今年はお世話になりました」「来年もよろしくお願いします」とかの挨拶があってもいいのではないかと内心思ったが、今の若い人の感覚は、年末年始なんてその程度のものなのだろうと思い直し、すぐに諦めた。
 かく言う井村も、以前は年越しが特別なことのように思えたが、今はただカウントが一増えるくらいの感覚しかない。時代のせいなのか、それとも自分が年老いたからなのか……。
 帰宅途中、カローラの車内に流れるラジオを聴きつつ、井村はそんなことを考えながら運転していた。テレビと違って、ラジオは年末年始も休まずに通常通り放送することが多い。流れている番組も、いつもと変わらない内容だった。
 このように、何か別のことを考える余裕ができるくらい、井村の運転技術は進歩していた。同乗する直美も最初は怖がっていたが、今は以前のマークXと変わらずに車内でリラックスできるようになった。
 翌日の休みは、直美と旅行に出かけることになっていた。井村の仕事も軌道に乗りつつあることや、嬉しいことに、道子も無事今月退院して自宅に戻ってきたため、一年間ご苦労さんということで、糸日谷に頼んで県内の温泉宿を予約したのだった。
 道子が退院したので、直美も実家から帰ってきた。今後しばらくは週末だけ実家に行くつもりとのことだ。昨日から直美の姉の宏美が北海道から帰ってきており、旅行中に何かあっても宏美に任せられるため、温泉宿を目指すカローラの助手席に座っている直美の表情は、いつもよりも晴れやかだった。井村自身も久しぶりに家の外で夫婦水入らずで過ごせるので、気分が軽やかだった。
 温泉地へ続く山間の国道から脇道を入り、カローラは狭く曲がりくねった林道を登っていく。
「大丈夫なの? こんな道に入っちゃって」
 直美が今日初めて、表情を曇らせた。
「ナビを信じるしかないよ。ここしか道がないみたいだし」
 インパネのモニターを指差しつつ、井村は答えた。モニターにはカーナビの画面が表示されており、今進んでいる道の他には何も映っていなかった。
「本当にこんなところに、蕎麦屋なんてあるの?」
「こんなところだから、むしろありそうじゃないか。グルメ通の友達がおすすめしたんだから、おそらく間違いないよ」
 昼は、糸日谷が教えてくれた蕎麦屋に寄ることに決めていた。僻地にあるが、そんじょそこらの蕎麦屋よりも格別に旨く、行かなきゃ損だと力説してきたものだから、そんなに言うのならと、今朝、カーナビに目的地を登録しておいたのだ。
 昼間だが、木々のせいで道は暗い。安全のため、井村はハイビームを点けた。道はクルマ一台が通れる幅しかなく、対向車が来ないことを祈りつつ、1速と2速を交互に使いながらクルマを走らせる。場所によってはガードレールもなく、脱輪したら谷底に真っ逆さまに落ちてしまうようなところもあった。
 見通しの悪いカーブを過ぎた先で、奥からヘッドライトを点けた軽トラックがやって来た。井村は慌ててブレーキを踏んだため、エンストしてしまった。
「まいったな……」
「さっきのカーブのところまで戻ったらどう?」
「バックでか?」
 直美の提案に井村は顔をしかめながら、軽トラックの運転手の方を見つめた。作業服を着た高齢の男性が、井村に向かって済まなそうに軽く会釈したが、動く気配がない。奥には退避場所がないのだろうか。
 仕方がない。直美の言う通り、こちらがバックで下がろう。井村はエンジンをかけ直し、ギアをリバースに入れ、慎重にカローラを後退させ始めた。
「オーライ、オーライ」
 直美が窓を開けて顔を出しながら、後方を確認してくれた。井村はインパネのモニターの後方カメラ画像とサイドミラーを交互に見つつ、登り坂をバックしているため、半クラッチにしなくても、ブレーキを離すと自然にクルマが後退していく。なので、左足はもう踏みっぱなしにしておき、右足で速度を微調整することにした。
 やっとのことで、カーブの空きスペースまでバックすることができた。前からゆっくりと軽トラックが進んできて、井村のカローラとすれ違った。すれ違いざまに、運転手の老人が再び済まなそうに頭を下げたので、井村も会釈して応じた。
「ふう、こりゃあ大変だな」
 井村はギアをローに入れ、再び今戻った道を走り始めた。
 しばらく進むと、林道から脇に伸びている道へ左折するよう、カーナビが案内したため、井村はそれに従い、未舗装の道を入っていった。凸凹が連続しており、車内が大きく揺れ、直美が小さな悲鳴を何度か上げた。
 坂を登りきると、視界が開けた。畑の奥に、この景色には似つかわしくないコンクリート打ちっぱなしの都会的な建物が見えた。目的地の蕎麦屋だ。店の手前は駐車スペースになっており、クルマが数台停まっていた。
 直美が車から降り、店の建物をまじまじと眺めた。
「凄いおしゃれな建物ね」
「ああ。他県からも来るくらいの名店なのかな」
 井村が、隣に停まっているクルマのナンバープレートを見ながら応じた。
 店の玄関を入ると、耳障りにならない音量でジャズのナンバーがかかっている。女性の店員がやって来て、席に案内してくれた。席は中二階にあり、向かいの大きな窓から雄大な山々を望むことができる。
「素敵」
 おしぼりで手を拭きながら、直美がうっとりと呟いた。窓を背に座っている井村も、しばらくの間振り返り、出されたそば茶をすすりながら、景色を眺めた。
 メニューは今どきの店らしく、タブレット端末が置かれていた。品目は他の蕎麦屋とそれほど大差ないが、凝った食器に盛り付けているので、ひときわ豪華で美味しそうに見える。
 タブレットだが端末から直接注文ができないことに気付くと、ちょうど良いタイミングでさっきの女性の店員がやってきたので、井村はざるそばとかつ丼のセットを、直美は鴨南蛮と山菜のかき揚げセットを注文した。
「少しお時間を頂きますが、よろしいですか?」
 女性店員が申し訳なさそうに訊ねてきたが、「大丈夫です」と井村は即答した。時間はたっぷりあるし、急ぐ旅でもない。むしろ、すぐに料理が出てきたら、作り置きなのかと思い、興ざめしてしまうだろう。もしかしたら待たせるのも一種の「演出」なのかもしれないが、それは実際の料理を食べれば、すぐにわかることだ。
 店員の言ったとおり、料理が出てくるまでに時間はかかったものの、直美と二人で窓の外の景色を観察しながら喋っていたので、待たされたという感覚はさほどなかった。そばは更科粉を使った白めの十割そばで、ざるそばのつゆに少しだけ浸して一気にすすりこむと、のど越しが良く、そば粉の香りが口中に広がった。セットのかつ丼も肉厚で、こちらがメインなのではないかと思ってしまうくらいボリュームがあって美味しい。
 直美が頼んだ鴨南蛮も、透き通ったつゆに白いそばが入っており、上品な味わいだった。かき揚げの山菜は自家製のようで、想像していたよりもかなり大きかったが、衣が軽いため、直美でもぺろりと完食することができた。
「ねえ」
 食器が下げられ、テーブルの上に食後のそば茶が置かれると、直美が声をかけた。
「ん?」
「どうだったの? 試験」
「ああ」
 井村は大きく伸びをしながら答えた。「手応えはあったんじゃないかな」
 先週、職員採用試験の一次選考が行われた。一次選考は筆記試験で、択一回答と論文記述を一日かけて実施した。
「何だか他人事ね」直美が呆れ気味に言った。
「客観的に見ていると言ってくれ」
「客観的に見て手応えがあったなら、まあ、よかったけど」
「まだわからないよ。来月、二次試験があるんだし」
「あら、まだ終わってないの? 二次って何をするの?」
「面接だよ面接」
「面接ね……。それで試験は終わり?」
「ああ。あとは今年の勤務評定を見て、決まる感じかな」
「勤務評定はいいんじゃないの?」
「どうなんだろうね。ミスもいろいろしてるし」
「ミスなんて誰だってするわよ。仕事へ取り組む姿勢とか見てるんでしょ?」
「姿勢は悪いな。猫背だし」
「その姿勢じゃないわよ」直美はにこりともせず言った。「試験はどれくらいの人数受けてたの?」
「二十人くらいだったかな。皆、若いからね」
「若けりゃいいってもんでもないけどね」
 直美が苦笑いした。「うちのバイト先でも、若い子を見ていると、正直微妙よ。まあ、皆が皆そうというわけじゃないけど」
「どう微妙なんだ?」
「何だか熱意が伝わってこないというか……、言われたことしかやらないし、下手すると、言われたことすらまともにできないかも」
「あそこはマニュアルがきっちりしてるから、問題ないんじゃないのか?」
 直美のバイト先のファーストフード店は、アメリカ発祥で全世界に展開しており、マニュアルが完備されているため、どの国で食べても同じ味である。以前、テレビのドキュメンタリー番組で、徹底したオペレーション管理がなされている様子を見たことがあった。
「そうだけど、結局実際にやるのは人間だから、意識の差がサービスの差に直結するのよ」
「意識の差がサービスの差に直結、か……。なるほどね」
「とにかく、年齢は関係ないんじゃない? そうじゃなかったら、試験すら受けさせてもらえないでしょう。あなたくらいの歳になったら」
「噛ませ犬かもしれないぜ。幅広く門戸を開いてるってことを示したいんじゃないかな」
「そうだとしても」直美は苦笑いしながら言った。「噛ませ犬になれるだけ、まだいいんじゃないかな。チャンスがあれば、いつかきっと、いいことがあると思うよ」
「そうか……。そうだよな」
「そりゃあ、正社員になれれば、生活も楽になるからそれに越したことはないけど、私がもう少しバイトに入れば、今のところは何とかなるし、落ちたって気にしなくていいわよ。来年だって受けられるんでしょ?」
「おそらく、な」
「ごめん。まだ落ちたわけじゃないのに、来年の話なんかしちゃって」
 二人は小さく声を上げて笑った。
 井村は会計をするため、カローラのスマートキーを直美に渡し、先に行かせた。レジの前で先客がクレジットカードの暗証番号を入力しているため、後ろで覗いていると思われないよう、身体の向きを変えて、大きな窓から見える山の稜線を眺めた。
 直美はああは言っているものの、本心としては固有職員になってもらいたいのかもしれない。だから探りを入れてきたのだろう。もしかしたら、道子から介護費用の援助をもっと増やすよう、プレッシャーをかけられたのかもしれない。
 まだ結果はわからないが、休みの間に、面接対策をしておいた方がいいだろう。
「どうも、ありがとうございました」
 先客を送り出す女性店員の声で、井村は我に返り、伝票を女性店員に手渡した。

 元来た林道を戻り、再びカローラスポーツは国道を北上し、温泉地を目指す。平日は大型車も多く通行しているが、年末ということもあり交通量は少なめで、ドライブにはうってつけだった。
 登り坂が延々と続くが、各ギアの許容範囲が広く設定されているのか、高めのギアを維持してもカローラは淡々と走ってくれる。父親が乗っていた昔のカローラは、2速でガーガー音を上げながら苦しそうに山道を登る記憶があったために、何世代も進んだ今のクルマが優秀であることを改めて実感した。
 前方の景色が開け、国道は山頂に辿り着いた。スカイラインという名前が付けられた有料道路に入り、文字通り稜線をのんびりと走っていく。助手席で直美が感嘆の声を上げつつ、絶景に見入っている。
 やがて、車速が落ち、カローラは渋滞の最後尾についた。この先にある展望台の駐車場を出入りするクルマで本線まで車列が続いているようだ。
「やっぱり混んでるな」
 井村が半クラッチを繰り返しながら、呟いた。この展望台は県内では有名な観光スポットで、週末はいつも大混雑している。さすがに年末はそんなに混まないだろうと井村は高を括っていたが、読みは甘かったようだ。
「これだけの絶景だもん。みんな来るはずよ」
 直美が、すぐ脇の歩道を見ながら応じた。この有料道路は全線歩行者通行禁止だが、展望台付近に限っては車道の脇に歩道が設置されている。歩道は登山道へも通じているため、重装備の登山客もいれば、景色をバックに自撮りをしている軽装姿の若者たちもいたりして、混みあっている。
 渋滞でクルマが停まっているのをいいことに、隙を見て車道を渡る若者たちが見えた。かと思えば、それを見ていた高齢の女性たちも真似して、ガードレールがあってもお構いなしで跨ぎ、車道を小走りで横断していく。
「危ないぞ」井村は顔をしかめた。
 展望台の建物が徐々に大きくなっていき、交通整理をしている警備員の笛の音がけたたましく聞こえてきた。車道の両脇にある駐車場はいずれも満車で、車室が空いたかと思えば、すぐに別のクルマが駐車し、出入りが激しくなっている。
 十五分ほど経ち、ようやく井村のクルマは車道から左折して駐車場の敷地に入ることができた。ハイシーズンで高めに設定されている駐車料金を、先払いで料金所の係員に渡し、誘導員の指示にしたがって駐車場を進んでいく。車高の高いミニバンが多く、その陰から歩行者が飛び出してくるため、その度にブレーキを踏んでしまう。ここには昔から何度か来ているが、その時よりも観光客のマナーが悪くなっているのではないか。井村はクルマを徐行させながら、そんなことを感じた。
 遠くに見える誘導員が大きな手振りで井村のカローラを呼んでいる。井村は歩行者に留意しつつ速やかにカローラを走らせ、誘導員が指し示している車室に滑り込ませた。
「こんなに混んでいるとはな」
 運転席を降りた井村が辺りを見渡しながら言った。
「あれのせいじゃない?」
 防寒用のストールを纏った直美が前方を指差した。その先には真新しい展望台の建物が見えた。
「あれ? 新しくなってるぞ」井村が建物を凝視した。
「そう言えば、建て替えリニューアルするってテレビでやってたかも」
「それでみんな、来てるわけだ」
 展望台に近づくと、建物を大勢の観光客が出入りしている様子が見えた。井村たちも他の客に混じり、建物の中に入る。
 以前の展望台よりも建物自体が大きくなっており、建物内は、土産物屋や飲食店がひしめきあっていた。
「すっかり変わったな」井村は驚きの声を上げた。「昔来た時は寂れている印象があったけど」
「確かにそうね」直美がきょろきょろしながら同意した。
 休憩でもしようかと、案内図を頼りにカフェへ向かった。しかし、カフェは満席で、店の外のベンチは空席待ちの客でびっしりと埋まっており、その先にも行列ができていた。
「テイクアウトにするか」
「寒いけど、仕方がないわね」
 テイクアウト用のカウンターにも列はできていたが、こっちの方が、回転が速かった。井村はホットコーヒーを、直美はミルクティーを購入し、建物の外に出た。
 有料道路の本線を挟んで向かい側の駐車場を通り抜けたさらにその奥に、緩やかな傾斜の原っぱがあり、子供たちが楽しそうにそり滑りや鬼ごっこなどをして遊んでいた。大人たちは原っぱに腰を下ろし、休憩したり、ピクニックで食事を楽しんだりしていた。
 井村たちも原っぱの片隅に座り、景色を眺めながら、飲み物を片手にのんびりとくつろいだ。
 だが、温かい飲み物が底を尽くと、身体が冷えてきて、のんびりする気にはなれなくなった。直美が身体をぶるぶるさせながらクルマに戻りたいと言い出したので、井村は空の紙コップを持ち、立ち上がった。
「宿であったかい温泉に入りたい」
「俺は熱燗が飲みたいよ」
 そう言い合いながら、二人は有料道路本線を跨ぐ横断歩道に差し掛かった。ここを渡らないと、向かいの展望台脇の駐車場に停めてあるカローラには辿り着けない。
「あれ?」
 井村は横断歩道に目をやった。さっき渡った時は、旗を持った年配男性の誘導員がクルマを止めて歩行者を誘導していたが、今はその誘導員の姿が見当たらない。
 辺りをよく見ると、さっきの誘導員は観光客に横断歩道から少し離れた場所で、何やら観光客に説明をしていた。声は聞こえないが、身振りから推測して、道案内をしているのだろう。道路は車列が絶え間なく続いていて、そのせいで横断歩道を渡れずに立ち往生している観光客が徐々に増えてきた。
 井村は横断歩道の向かい側に目を向けた。すると、わずかな車列の合間を縫って、小さな女の子が、見るからに不安定な足取りで横断歩道を走り抜けようとしていた。手前側の車線まで走ってきたところで、女の子はバランスを崩して転んでしまった。
「危ない!」
 井村は咄嗟に車道に出て、女の子を抱え上げた。右側からやって来た車高の低いスポーツカーが微かにスキール音を立てて急停車し、車体が大きく揺れた。井村は女の子を担いだまま、もといた歩道まで急いで戻ってきた。
「大丈夫?」
 直美が井村を心配そうに見つめた。
「俺は大丈夫。それよりも……」
 井村は女の子を降ろし、声をかけた。「大丈夫かい?」
 すると女の子は、今にも泣きだしそうな顔でこくりと頷いた。
 井村は女の子の手をとった。手のひらは擦り傷でわずかに血がにじんでいたが、この季節で厚着をしているため、怪我は大したことがなさそうだ。
「お母さんやお父さんはどこ?」
 直美が女の子に訊ねると、女の子は思い出したかのように、べそをかいて泣き始めた。
「見つからなくなっちゃったか」
 井村が確認すると、女の子はしゃくりあげながら、首を縦に一回振った。
「迷子か……」
 直美がざっと辺りを見渡したが、子供を探している人の姿は確認できなかった。
「展望台の迷子センターに連れていこう」
 さっき展望台の寄った時に、迷子センターの看板があったのを井村は思い出し、直美に言った。
「そうね。そうしましょう」
 そうしている間に、誘導員が戻ってきて、横断歩道の交通整理を再開したため、観光客の滞留は解消された。
 井村たちが横断歩道を渡ると、さっきは気付かなかったが、渡った先の歩道で、地元テレビ局のロゴが入ったカメラを持った人や、局の取材用の腕章を身に着けたスタッフ数名が、何やらこっちを見つつ話し合っていた。
 彼らのことが気になったが、今はこの子を迷子センターに連れていくことが最優先だ。井村は女の子を抱っこしたまま、速足で展望台に入っていった。
 展望台の建物の一階に迷子センターはあった。井村はセンターの女性スタッフに声をかけ、女の子を預かるよう依頼した。部屋の中を見る限り、誰もいなかった。おそらくこの子の親も今頃必死で探しているだろう。
「館内と外に放送をかけますので、後はこちらにお任せいただいて結構ですよ」
「よろしいですか? 恐れ入ります」
「よろしくお願いします」
 井村と直美は揃って頭を下げた。別の年配の女性スタッフが優しく声をかけ、女の子を部屋の中へ連れて行った。
 二人は展望台の建物を出て、駐車場に向かった。
「早く親御さんが見つかるといいよね……」
 直美が展望台の方を軽く振り返りながら言った。
「そうだな。この人混みじゃあ、迷子の子も出てくるよなあ」
「しかし、危ないところだったね」
「ああ、もう少しで轢かれるところだったぞ」
 すると、背後から男性の声が聞こえた。「すみません」
 井村たちは声のした方を向いた。そこには、さっき見かけたテレビ局の腕章を付けた穏やかそうな年配男性が立っていた。彼の後ろにはスタッフたちもいる。
「U県民テレビの者ですが、さっき、あそこの横断歩道でクルマに轢かれそうになった女の子を助けた方ですよね」
 背後にある横断歩道を手で指し示しながら、年配男性は訊ねた。
「あ、ああ。確かにさっき助けましたが」
「女の子は、今どちらに?」
「展望台の迷子センターに連れて行きました」
「えっ? ということは、娘さんとか、お知り合いの子ではないんですか?」
「ええ、全く知らない子です。目の前で轢かれそうになったんで、咄嗟に助けたんです。それでその子に話を聞いたら、迷子だったので」
「そういうことでしたか。でも、事故にならなくて良かったです」
 男性は安堵の表情を見せた。
「そうですね」
「実は……」男性は身体の向きを変え、スタッフたちの姿を井村に見せた。「私たち、夕方のニュースの取材でこちらに来ておりまして、年末の行楽地の様子を今日の放送でレポートする予定なんです。先ほど、あなた様が女の子を助けた様子も、勝手ながら撮らせていただきまして、もしよろしければ、レポートに使わせていただきたいのですが……」
「今日のニュースで、私が助けたところを流すということですか?」
「はい。交通安全の啓発にもなるかと思いますので」
「そうですか……」井村は苦笑した。他に画になりそうな場面はないのかと思いつつも、首を縦に振った。
「私なんかでよければ、別に構わないですけど、女の子はいいのかな。さっきも言ったように、見知らぬ子なんでね」
「映像は、女の子の背中側から撮っているので、顔は映ってないのですが、一応、ぼかしを入れて女の子が特定できないようにはします」
 男性は丁寧な口調で説明した。
「わかりました」
「それから……」男性が申し訳なさそうに言った。「もし可能でしたら、現場の近くでインタビューを撮らせていただけませんか?」
「いやいや、それは勘弁してください」
「ええ? いいじゃないの。人助けしたんだし」
 横から直美が口を挟んだ。
「いやあ、恥ずかしいよ」井村は右手を左右に振った。
「それでしたら、お話だけでも少し聞かせてもらえませんか? 撮影も録音もしませんから」
 男性は、肩にかけていたカバンからメモ帳とペンを取り出した。
「ああ、それなら構いませんよ」
 井村たちはクルマや人の邪魔にならない場所に移動した。幾つかの質問に答えると、男性とスタッフたちは井村にお礼を言って去っていった。
「夕方、テレビに映るのね」
 スタッフたちの後ろ姿を見ながら、直美が呟いた。
「わからないよ。撮れ高次第で他の画に差し替えられるかもしれないし、他に重要なニュースが入ってボツになるかもしれん」
 井村はカローラの停めてある場所に向かって、再び歩き出した。

 展望台からさらにクルマで三十分ほど走ったところに、今日泊まる宿はあった。山あいの温泉街の中心にある、一番大きな旅館だ。
「ここの旅館も久しぶりね。相変わらず立派だよね」
「そうだな」
 そんな会話を交わしながらチェックインを済ませ、部屋に入ると、井村は早速浴衣に着替えて浴場に向かった。広々とした露天風呂でゆっくりと肩まで浸かると、運転の疲れが少しずつ癒えてくるのを感じた。ひんやりとしている澄んだ空気が顔を覆って心地良い。客も少なく、静かな時間が流れていく。
「最高だな」
 井村は思わず独り言を言った。少し恥ずかしくなり、顔を洗った。身体全体がコーティングされたかのように、肌が滑らかになった。
 温泉を出て部屋に戻ると、時計の針は夕方五時を回っていた。
「私、お風呂に入ってきてもいい?」
 直美が訊ねた。タオルや化粧品を入れたバッグを持ち、既に立ち上がっていた。
「ああ、待たせて済まなかったね」
「行ってきます」
「どうぞ、ごゆっくり」
 夕飯は六時半に部屋食でお願いしているので、手持ち無沙汰だ。井村は右手で頭を支える格好で横になり、テレビを眺めた。昔来た時と違い、薄型の液晶テレビのため、画面がやけに大きい。この部屋の広さなら、もう少し小さくても良いのではないか。
 テレビは点いたままで、U県民テレビの夕方の情報番組が映っていた。さっき展望台で遭遇したスタッフたちのニュース番組は六時過ぎからだが、この情報番組でも少しだけニュースのコーナーがあるため、直美はそれをチェックしていたのかもしれない。さっき何も言わなかったところを見ると、井村の映像は流れなかったのだろう。
 部屋は暖房が効いており、温泉で身体全体が温まっていることもあり、井村は徐々に眠気を催し、うとうとし始めた。
 そのまま熟睡してしまい、直美が戻ってきた物音で、井村は目が覚めた。テレビは既にニュース番組が始まっていた。
「あれ? 映ってた?」
 直美が座りながら訊ねた。
「寝てたからわからない」
 井村が答えると、ニュースは年末の県内各地の様子をレポートし始めた。
「ここで映るんじゃない?」
 直美が身を乗り出した。井村は冷めたお茶を一口飲んで、テレビに目を向けた。
 すると、さっきの展望台の建物が映り、現場にもいた女性のアナウンサーが、歩きながら混雑ぶりを伝え始めた。
〈私たちが取材をしていると――〉
 女性アナウンサーのナレーションに続き、有料道路の横断歩道で、クルマに轢かれそうになった女の子と、必死で救出に向かう井村の姿が映し出された。
〈皆さん、年末年始はくれぐれも事故のないよう、気を付けてお過ごしくださいね〉
 ご丁寧に井村の救出シーンがスローモーションで流れ、アナウンサーの神妙な声のナレーションが聞こえた後、画面は別の行楽地に切り替わった。
「へえ、こんな風に取り上げられるのね。かっこいいじゃん」
「よしてくれよ。恥ずかしくて敵わない」
「職場で言われちゃうかもね」
「バイト先で言いふらすつもりだろう?」
「もちろんよ。いいじゃん、別に悪いことしたわけじゃないんだし」
「それはそうだけどさ……」
 その時、井村の脳裏をある出来事がよぎった。
 前にもこんなことがあったような……。
「失礼いたします」担当の仲居が部屋にやって来た。「お食事のご用意を始めてもよろしいでしょうか」
「はい、お願いします」
 直美が返事をし、席を立った。井村は無言のまま広縁に移動し、椅子に座ると、外の景色を眺めながら考え込んだ。
 そうだ。昔もあの展望台の横断歩道で……。
 直美は部屋に散らかした荷物を、急いで隅に片付けている。
 そして、その時も直美とここに泊ったんだよな。そして、テレビを見てたら……。
 仲居たちが次々と夕飯を運んで、テーブルに整然と並べていく。若い仲居が、はずみで空のグラスを畳の上に落としてしまった。
「ああっ!」
 井村はそこで声を上げて立ち上がった。
「も、申し訳ございません」
 予想外の大きな声に若い仲居は驚きつつも謝罪し、すぐにグラスを拾い上げ、外に出て行った。
「どうしたの? グラスを落としただけでそんな悲鳴上げちゃって」
 直美が不審そうに井村を見つめた。
「いや、な、なんでもないんだ」
 井村は慌てて答えた。
「変な人」
 直美は自分の席に座り、テーブルに並んだ料理を一つ一つ確認し始めた。
 井村はその様子をぼんやりと見つめながら、思いを巡らせていた。
 あの時の子が、まさか……。
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