第4話

文字数 6,990文字

 翌月、井村はトヨタのディーラーに足を運んだ。
 ディーラーの敷地に入るや否や、待ち構えていたように、営業担当の森が店内から走って出てきた。
「井村様、ようこそお越しくださいました。どうぞこちらへ」
 森は井村のマークXのドアを開け、挨拶すると、井村を中へ案内した。
「井村さん、こんにちは」
 少し離れたところに立っていた店長の原島が近づいて、挨拶した。
「どうも」
「おクルマ、移動しておきますね」
 そう言うと原島は、運転席のシートとフロアにカバーを手早く被せ、マークXを駐車場の方へ動かし始めた。
「こちらのお席でお待ちください。今、パンフレットをお持ちいたします」
 商談スペースまで来ると、森はそう言い残し、事務室の方へと消えていった。
 井村は椅子に座り、店内を見渡した。今日は平日のため、客は井村の他に二組しかおらず、静かだった。
 井村の職場は、七月から九月までの間に夏季休暇を五日間取得することができる。事務局長の一柳が、ちゃんと全部取得するようにと、事あるごとに言ってくるし、四月から全く休みを取っていなかったため、早速井村は休暇を一日申請して、森に事前にアポを取り、今日やって来たのだった。
 席の横にはSUVタイプのクルマ、C―HRが展示されていた。まるで今にもロボットに変形しそうな、斬新なデザインだ。明日香のような若者ならともかく、俺みたいなおっさんには似合わないだろうな……。
「井村さん、お飲み物は何になさいますか?」
 いつの間にか、原島が井村のそばに立っていた。
「ウーロン茶で」
 井村は慌ててテーブルに置かれたドリンクメニューを見て、返答した。
「かしこまりました」
 原島が笑顔で応じた。森と違い、笑顔も自然で、立ち振る舞いにも余裕がある。
「井村さん、カローラスポーツにご関心で?」
 原島は事務室へ飲み物を取りに行くと思いきや、続けて話しかけてきたので、井村はまた慌てた。
「ああ、まあ、どんなものなのかなと思ってね。今のクルマもだいぶ長く乗ってるし」
「そうですよね。あのマークXは、私が店長になる前でしたからね。月日の経つのは早いですね」
「原島さんには頑張っていただきましたからね。大事に乗ってきましたよ」
「ありがとうございます。自分の担当したクルマが、お客様に長く乗っていただけるのは、やはり嬉しいですからね」
「それじゃ、買い替えちゃまずかったかな?」
「いえいえ、それはそれで、ありがたいですよ」
 原島が少しおどけた調子で答えたので、井村は思わず吹き出してしまった。
「試乗車も綺麗にしてご用意しておりますので、ぜひお試しいただいて、気になることがありましたら、森に何でも訊いてくださいね」
 原島はそう言って、事務室へ戻っていった。
 入れ替わりに、森がパンフレットと手持ち資料を両手で大事そうに抱えてやって来た。
 大丈夫だろうかと井村が不安に思っていると、案の定、森はパンフレットを床に落としてしまった。森が慌ててパンフレットを拾い、新しいものと交換しに事務室に戻ろうとするので、井村は手を挙げて止めた。
「いいよ、それ、頂くよ」
「申し訳ございません」
 森は神妙な面持ちで謝罪し、おずおずとパンフレットを手渡した。
 二人は同時に着席した。井村の向かい側で、森が緊張した様子でパンフレットの内容を説明し始めた。
 固い。説明している森が固すぎて、何だかこっちまで緊張してしまう。
 ひと通り説明が終わったところで、森は試乗車へ案内した。さっきマークXを停めたエントランスに、黒のカローラスポーツが停まっていた。
 エンジンは冷え切っていたらしく、高めの回転数でアイドリングしていた。新車だけのことはあって、ボディ全体に艶がかかっている。原島が言ったように、事前に洗車をしたようで、埃や水垢も全く見られなかった。
 真横から見ると、ホイールベースの長さの割に全長が短いため、小振りに見える。後ろに回り込むと、まるでチーターが獲物を狙って身構えているかのように、タイヤが四隅で地面を捉えており、軽快かつ安定した走りを予感させる外観だった。
 リアハッチを開けるとラゲッジスペースが設けられている。外側の見た目に反して意外に広かった。ただ、リアハッチの傾斜が大きいため、嵩張るものは積みにくいかもしれない。
 そんなことを森に話すと、彼は、より多く荷物を積みたい場合は、ワゴンタイプのツーリングがおすすめですと、相変わらず固い表情で説明してくれた。
「井村さん、いかがですか?」
 様子を見にきたのか、原島が店内から出てきて声をかけた。
「格好いいね。私に似合ってるかな?」
「もちろん、お似合いですよ。このクルマは、若者にも人気ですが、実は井村さんと同年代のお客様にも好評なんですよ。当店でもこれまでに十台ほど契約させていただきましたし」
「へえ。どうしてなんだろうね」
「このカローラから、初めて3ナンバーになったんですけども、実際に乗ってみるとコンパクトで扱いやすいって、気に入っていただくケースが多いんですよ」
「そうなんだね」
「まあ、今時、5ナンバーや3ナンバーの括りもあまり意味がなくなってきてますし、日本の道路事情も踏まえて、いたずらにサイズを大きくしないように考慮して開発されましたから、運転はしやすいと思います。特に今、井村さんはマークXにお乗りなので、それから乗り換えると、より実感できるかもしれませんね」
「なるほどね。うちには子供もいないし、荷物を積み込んで移動するような趣味もないからね。このサイズで十分だよ」
 井村は森に勧められ、運転席に乗り込んだ。
「あっ、これはオートマなのか」
「はい。試乗車はこちらのCVTのものしか用意がなくて……」
 助手席に座った森が、済まなそうに頭を下げた。
 運転席のドア越しに、原島が井村に話しかけた。
「マニュアル車はターボモデルにしか設定されていないんですが、この試乗車はターボですので、エンジンは同じです」
 てっきりマニュアル車に試乗できるのかと思っていたので、井村は少し残念だった。しかし、保有台数の九割以上がオートマ車である今日、わざわざマニュアルの試乗車を用意するのは採算面で難しいのだろうと、井村は思い直した。同じターボモデルを用意してくれただけでも良しとしよう。
 内装も事前に雑誌やインターネットで確認はしていたが、実際に見ると、想像していた以上に質感が高く、父親が乗っていた70型のカローラと比べると隔世の感がある。
 ATレバーを動かし、パーキングブレーキを外そうとするものの、外し方がわからず焦っていると、森が声をかけた。
「そこのスイッチを押していただくか、そのままアクセルを踏んでください」
 井村がアクセルを踏むと、メーター内のパーキングブレーキの警告灯が消え、クルマがゆっくりと前進した。今はこんな機能もあるのかと驚いた。
原島の誘導で、カローラスポーツは一般道に出た。
 森の案内に従い、井村はディーラーの近辺を走らせた。排気量が1.2リッターと聞くと心許なく感じるが、一般道を運転している限り不足はなかった。ダウンサイジングターボで、自然吸気の1.8リッターよりも馬力では劣るものの、トルクでは上回っており、車重の軽さも相まってキビキビと走らせることができると、森は話してくれた。
 これならマークXから乗り換えても何の不満もない。むしろ、マークXよりも装備が充実していて、とりわけ安全面の装備は段違いで優れている。値段も税金も維持費も安く済むのだから、コストパフォーマンスではこちらの方が上だろう。あとは、マニュアルを上手く使いこなせるかどうかだ。直美もクルマを運転することはあるが、免許はAT限定じゃないから大丈夫だろう。何なら一緒に練習すればいい。
 十五分ほどの試乗の後、井村たちはディーラーに戻ってきた。
「いかが……でしたか?」
 店内のさっきの席に座ると、森がおどおどした様子で訊ねてきた。
「ああ、とてもいいクルマでしたよ」
「よ、よろしければ、お見積りを作成してもよろしいでしょうか?」
「はい、ぜひお願いします」
 森が事務室に入っていくと、入れ替わりで原島が現れた。
「お飲み物のおかわりはよろしいですか?」
「ええ、結構です。ありがとう」
 井村が手を挙げて断ると、原島は失礼しますと声をかけつつ、井村の向かいに座った。
「今、お見積書を森が用意しておりますので、少々お待ちください。カローラ、どうでしたか?」
「いいクルマでしたよ。便利で快適な装備が沢山付いてて、凄いですね、最近のクルマは」
「ありがとうございます」
「この店では、マニュアル車が売れたことはあるの?」
「先ほども申し上げましたように、当店では十台ほど売れましたが、マニュアルは一台か二台だったかな……だいたい、燃費のいいハイブリッドか、価格の手頃なノーマルエンジンを、お客様は選ばれますね」
 原島は天を仰いで記憶を辿りつつ、答えた。
「マニュアルを買った客の評価はどう?」
「そうですね……、特にこう、大きな不満の声を頂戴したことはないですね。細かい部分ではちょこちょこありますけど、いずれも個人の好みによるものばかりですね」
「そうか……」
 井村は腕組みをして考え込んだ。
「井村さん、マニュアルになさるか、迷ってるんですか?」
「そうなんだよね。教習車以来だから」
 井村は苦笑いしながら答えたので、原島も笑顔を見せた。
「実はさ、この間、ちょっとだけマニュアル車に乗せてもらったんだけど」
 井村は、明日香のセリカを運転した時のことを話した。原島は興味深そうな表情で、井村の話を聞いていた。
「へえ、セリカですか……。懐かしいですね。でも、また何でセリカなんだろう? うちでも扱っている86とか、他にもいろいろあるのに」
「実車を見て、一目惚れしたらしいよ。中古で値段も手頃だったのもあるんじゃないかな」
「なるほど」
「彼女は運転が上手くてね。それで、運転している時の表情が生き生きとしていて、とても楽しそうだったんだ。それが凄く印象的で、ちょっと自分もマニュアル車に乗ってみようかなって思うようになったんですよ」
「そうだったんですね。まあ、マニュアルの操作に関しては、慣れの問題だと思いますよ。昔のマニュアルと違って、今のはだいぶ扱いやすくなってますから」
「坂道発進がねえ、苦手だったんですよ」
「ああ、確かに難しいですよね。でも、最近のクルマはアシスト機能が付いてて、パーキングブレーキをかけなくても、坂道で停まったまま後退しないようにしてくれるので、楽だと思います」
「それは、このカローラにも付いてるの?」
 井村はテーブルの上のパンフレットを指差した。
「ええ、もちろん」
 原島がパンフレットのページをぺらぺらとめくり、機能説明の箇所を示した。
「なるほどね……。なら、何とかなりそうかな」
「ええ。繰り返しになりますが、慣れれば、運転が楽しくなると思いますよ。何事も経験ですから。運転も、趣味も、仕事も」
「そうだよね。経験と言えば、彼はどう? まだ仕事には慣れていないかな」
 井村は森のいる事務室の方を見ながら訊ねた。
「ああ……。彼、何かやらかしましたか? 申し訳ございません」
「いやいや、何もやらかしてはいないよ」井村は笑いながら否定した。「ただ、なんとなく動きが、全体的に固い感じがしたもんだからさ」
「そうなんですよね……。井村さんに何だか気を遣わせてしまって、申し訳ないです」
「一生懸命なのは伝わってくるけどね。ちょっと危なっかしいところもあるのかなって」
「ええ。彼は、昨年度は新人だったから、いろいろと尻拭い、じゃなかった、サポートをしてきましたが、そろそろ一人前になってもらわないと……、ね」
 原島は苦笑いしながら答えた。
「でも、私も彼の気持ちはわかるな。なんてったって、私も新人だから」
「新人、というと?」原島がきょとんとした顔で訊ねた。
「四月に転職したんですよ」
「ええっ、そうだったんですか?」
 原島がやや大げさにのけぞったので、井村は笑ってしまった。
「いろいろわからないことも多くて、ミスばっかりしていますよ。周りに助けてもらいながらどうにかやっているけどね。いずれは自分の力でちゃんとして、他の人をサポートする側に回らないと……、とは思ってるんだけどね」
「そうですか……、井村さんも大変なんですね」
「彼を見捨てないであげてくださいよ」
「ええ、もちろんです」
 それからしばらく雑談をしていると、森が事務室から出てきた。
「お待たせいたしました」
 原島は森に席を譲り、事務室へ戻っていった。
 井村は森がテーブルに置いた見積書を見つめた。森は黙ったまま、井村を見つめていた。
「ああ、中身を説明してくれますか? 何分、飲み込みが悪いもので……」
「あっ、はっ、はい」
 森があたふたしながら、たどたどしくも説明を始めた。
「こ、こちらが、本体の金額でして、オプションと法定費用がこちらになります……。オプションの詳細はこちらで、メーカーのセットオプションがこれで、ディーラーの――」
「あれ?」
 森の説明を聞きながら見積書を精査していた井村は、声を発した。森が説明を中断した。
「これ……、グレードが違うんじゃない? 『ハイブリッド』って書いてあるよ」
 森は見積書を自分の方に向けて確認した。みるみるうちに、表情が青ざめていく。
「も、申し訳ございません。作り直します」
「あっ、待って」
 慌てて事務室へ行こうとする森を、井村は呼び止めた。
「ついでに、オプションも直してくれるかな? ドアバイザーはいらないし、あと、ボディコーティングもいらないな……。それと、ドライブレコーダーを追加してくれないかな」
「かしこまりました」
「それから、今のクルマの下取りって、それには入ってる?」
 井村は森が手にしている見積書を指差して訊ねた。森が目を瞑った。
「入っていませんでした。申し訳ございません」
「じゃあ、それらを反映させて持ってきてくれますか?」
「承知いたしました」
 しばらくして、森が駆け足で戻ってきた。
「大変失礼いたしました」
 井村は新しい見積書を確認した。総支払金額がさっきよりもやけに少ない。
「私のマークXの下取りって、こんなにいいの?」
 井村は森に訊ねた。下取り金額には二百万円と表記されていた。新車価格はそれなりにするとはいえ、十年以上も乗っていて、十万キロ以上の距離を走ってきたマークXに、三桁万円も下取りがつくものなのだろうか。
 森は再び見積書を手に取り、穴のあくほど見つめると、頭を下げた。
「申し訳ございません。二十万円の間違いでした」
「だよね。そんなにつかないよね。別に二百万で買い取ってもらっても、全然いいんだけど」井村は苦笑いした。
 森はまた事務室へ消えた。
 その後も森が作った見積書は、何かしらの不備があり、実に六回も作り直してもらう羽目になった。さらにその後、値引き交渉も入ったため、契約に漕ぎ付けた時は、既に午後に入っていた。
 森が契約書類と押印用の朱肉を持ってきた。言われるがままに、書類に記載して捺印するものの、途中、違う箇所に書かせたり、必要な書類を用意していなかったりと、とにかく手際が悪かったので、さすがに井村は耐え切れなくなり、原島を呼んでくるように森に言った。
「井村さん、申し訳ございません」
 原島が現れ、深々と頭を下げた。
「いや、私はいいんだけど、彼のあの対応だと、客によっては怒る人も出てくるんじゃないかな」
 井村は苦笑しながら、小声で言った。
「本当に申し訳ございません」
「ちょっと隣で、サポートしてあげた方がいいと思う」
「かしこまりました」
 その後、原島が森を手助けしてからは、手続きはスムーズに進み、カローラスポーツの契約は無事に済んだ。
「私の監督不行き届きで、ご迷惑をおかけしました」
 帰り際に原島が、紙袋に入った大量のノベルティグッズを手渡し、謝罪した。
「とんでもない。私も今、彼と似たようなものだから、偉そうなことは言えないよ」
 駐車場に停めてある井村のマークXを取りに行く森の姿を見ながら、井村は答えた。
「私もきっと、周りの人たちに彼と同じようなことをしていると思う。なかなか、仕事に慣れなくてね」
「井村さん……」
 力なく笑う井村を、原島が心配そうに見つめる。
「まあ、経験不足だから、もう場数を踏んで慣れていくしかないと思う。そんなに器用な人間でもないし、歳だからさ」
「大変ですよね。お察しします」
「彼はまだ若いんだし、これからだよ。だから、あまり彼を責めるようなことはしないであげてよ。気長に育てていけばいいんじゃないかな」
「そうですね」
「今後も、私の担当は彼で頼むよ。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 原島は深々とお辞儀した。
 森がマークXをエントランスまで運んできた。
「すみません。お昼を過ぎてしまいましたね」
 原島が、まだ昼食をとっていない井村を気遣った。
「何、今日はそんなに食欲がないから、ちょうどいいよ。ありがとう」
 井村はそう答え、マークXに乗り込んだ。シートに身を委ねた瞬間、腹から音が鳴ってしまった。身体は正直だ。
 ディーラーを後にし、井村は運転しながら、遅めの昼食を何にしようか考え始めた。
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