第7話

文字数 13,983文字

 年明けは、理事長の年頭挨拶から始まり、日々の支払業務に加え、県に提出しなければならない今年度の決算見込みの報告や、来年度の予算編成業務に追われた。
 井村は上司の永池課長とともに各職場から提出された予算要求資料を精査し、担当者とヒアリングを行っていた。だが、相変わらず永池は仕事に対する意欲がなく、井村が社会人経験が豊富であるのをいいことに、資料の精査は完全に任せっきりである。ヒアリングも同席はするものの、ろくに質問もせず、たまに何か話すとしても、他愛のない雑談ばかりである。
 井村は諦めていた。彼にしてみれば、あと三ヶ月の間は波風を立てず、無事に定年退職を迎えたいという思いがあるのだろう。その気持ちはわからないでもないし、ましてや契約職員の自分ごときが咎める筋合いはない。
 新規事業が多く、わからないことだらけなため、井村は担当者にいろいろと質問をしたり、資料請求をしたりするものだから、一部の職場からは疎まれつつあった。だが、これも仕事だから仕方がないと井村は半ば開き直り、粛々と業務をこなしていった。
 また、来年度に向けた準備契約の事務も、井村たち経理担当の仕事だった。これに関しては、大沼や別の担当者が中心となって作業を進めていた。
 御用始めから数日後のこと、大沼は事業担当課長の服部に呼ばれ、服部と彼女の部下の三人で会議室に入っていった。永池は見て見ぬふりをして、パソコンを覗き込んだまま、席を立とうとしない。
 服部のことが苦手なのだろう。いや、永池に限らず、協会の職員で彼女に苦手意識を持っていない人は、少数しかいないのではないだろうか。ちょっとでも不手際をしようものなら、相手が上司でも部下でもお構いなしに、大きな図体で職場に乗り込んできて、野太い声で長々と説教をしてくるのだから、たまったものではない。噂ではそれで休職に追い込まれてしまった職員も過去にいたそうだ。
 今日のターゲットは大沼なのだろう。一時間ほど会議室に籠りきりの後に、疲れ切った表情で席に戻ってきた。肩で風を切って自席へ戻っていく服部の迫力ある後姿が、井村の席からも見えた。
「だいぶやられたようだね」
 永池がニヤニヤしながら言った。自分の部下なのに他人事のような物言いだ。
「準備契約の手続の依頼でしたよ。なんでもっと早く言ってくれないんだよ」
 大沼がぼやいた。
「準備契約? また追加なの?」
 永池が両手を後頭部に置いて、椅子の背もたれに寄り掛かりながら言った。
「ええ。この間の夏休みシーズンに実施したウォーキングイベントが好評だったから、急遽、今度のゴールデンウィークにも開催することになったらしいんですよ。だから、その運営業務委託契約を早急に進めたいって」
「うん? そんな話、聞いてないんだけどなあ」
 井村が、事業担当の予算要求資料を見ながら言った。
「理事長のオーダーみたいですよ」
「理事長……」
「県議からぜひやってくれと言われたとか」
「県議……」
「その県議、理事長の県庁時代の上司みたいで」
「上司……」
 井村は立て続けにおうむ返しし、ため息をついた。そうなると、事業担当の予算編成作業をやり直さなければならないかもしれない。五月のウォーキングイベント分の予算を単純に上乗せできればいいが、他のセクションからの新規要求も多く、支出金額が拡大傾向にあるため、難しいだろう。事業担当自体も他のイベントなどで新規に積んできているので、その中で泳いでもらうしかないか……。いずれにしろ、永池や事務局長の一柳と相談しなければならない。
 そして……。
 井村は仏頂面でパソコンに向かっている大沼に声をかけた。
「何か手伝えることがあったら、言ってくださいね」
 大沼は井村の方を見ることなく、顎だけ動かして会釈した。
 契約事務は時間も手間もかかる。ウォーキングイベントのような高額案件については、指名競争入札で契約業者を決めるのが、協会のルールとなっている。そのため、仕様書など入札に必要な書類を準備し、協会内で業者選定委員会を開催して指名業者を決めなければならない。選定する業者数は予定価格によって異なるが、前回のイベントと同規模と考えると、十社ほどになるだろう。業者を選定したら、その業者に通知などの書類を送り、質疑応答を経て入札となる。ここまでに二ヶ月ほどを要するので、業者が決まって契約後、五月のゴールデンウィークに向けて準備できる期間は約三ヶ月となる。過去の例を見ても、スケジュール的にかなりタイトである。年度を跨ぐため、担当者が異動で交代すると、円滑に準備が進まなくなるおそれもある。
 果たして大沼はこのギリギリのスケジュールを無事にこなすことができるのだろうか。井村は少し心配になり、大沼に声をかけたのだった。
 無論、大沼もそのことは十分認識しているのだろう。実際、服部から依頼があってから、大沼は一層不機嫌な態度で周りに接するようになり、夜も遅くまで残業する姿をよく見るようになった。その後も井村は大沼に何度か手伝いを申し出たが、大沼は「必要になったら、自分から声をかけるんで」と言って不愛想に断るばかりだった。あまりしつこく申し出ても余計に彼が嫌がるだけだと思いつつも、彼の姿を見ているとやはり心配だった。
 一月の下旬になり、大沼は幹部職員や関係者を会議室に集め、業者選定委員会を開いた。井村も後学のためにと、大沼に無理やりお願いして、資料のコピーや会場設営などの手伝いに入り、委員会に同席した。
 会は委員長の一柳によって進行し、初めに担当の大沼から、事業担当が作成した仕様書に沿って、当契約の概要について説明した。続いて、配布された指名業者の候補リストをもとに、選定が行われた。リストは大沼が作成したもので、二十社ほどの業者の情報が一覧表となって示されていた。今回はこれらの中から十三社を選定することになる。
「この業者は、過去に実績があったから入れますか?」
「いや、あまり仕事ぶりがよくなかったから微妙ですよ」
「でも、そっちの業者も候補に入れるんだったら、入れてもいいんじゃないですか」
「こっちは、うちでは実績がないけど、余所で類似のイベントをやってるみたいですね」
「やっぱり、こっちを入れて、そっちを外しますか」
 委員たちの意見交換は活発に進み、無事に十三の業者が選定され、会は終了した。
「井村さん、後は俺がやっておきますんで」
 会議室の片づけをしていると、大沼が声をかけた。
「わかりました。お疲れさまでした」
 井村は素直に従い、会議室を後にした。
 これで選定業者に通知文を送り、スケジュール通りに入札を行って業者が決まれば、イベントの準備を本格的に進めることができる。予算も理事長案件と言うことで増額させてくれたし、このまま行けば大丈夫だろう。井村はそう思い、少し安堵した。
 しかし、その数日後、井村の安堵がふいになる事態が発生した。

 その日の朝、井村が出勤すると、大沼がいつになく青ざめた顔で、受話器を持って話していた。
「……はい。申し訳ございません……ええ。こちらの不手際で……その見積書につきましては、返送していただけますでしょうか……恐れ入ります……またこちらからご連絡させていただきます……はい、よろしくお願いします……失礼いたします」
 大沼は受話器を置くと、ファイルを開き、書類を確認し始めた。焦っているため、ページがなかなかめくれず、何度も指を紙の上に滑らせてしまっている。
「どうしたんですか?」
 大沼のただならぬ様子を見て、井村は荷物をデスクに置きつつ、訊ねた。大沼は井村の問いかけには答えず、ひたすらページをめくって、何か書類を探している。
「ああ……」
 大沼の動きが止まった。手元のファイルには、金額が幾つも記された書類が綴られているのが見えた。
「その見積書は……?」
 井村が大沼に訊くと、大沼はファイルをデスクに置き、身体を背もたれに預け、苦悶に満ちた表情を見せた。
「これって、ウォーキングイベントの入札実施原議ですよね」
 井村はファイルの表紙をちらと覗いて確認すると、見積書の手前のページを数枚めくった。事務局長以下関係職員の捺印がされている書類が現れた。井村が言ったとおり、それは、ウォーキングイベントの運営委託契約の入札実施に関する稟議書であった。稟議書の後ろには、指名業者への通知文などが添付されていた。
「去年のウォーキングイベントの運営委託業者に下見積もりをお願いしていたんです」
 大沼が背もたれに寄り掛かったまま、井村に言った。
 過去に実際に契約した業者にお願いして、非公式で見積書を作成してもらい、予定価格の算出の参考にすることがある。井村もかつて、別の契約を締結する時に、下見積もりをとったことが数回ある。それは他の公文書に混ざらないよう、井村は原議とは別の個人用ファイルに綴って保管していた。
「その見積書を、今回の指名業者に送ってしまったんです」
 大沼の顔がさらに歪んだ。
「指名業者って、十三社全部に?」
「おそらく」
 井村の問いかけに大沼が答えた瞬間、大沼のデスクの電話が鳴った。大沼が素早く受話器を取った。さっきの電話と同じようなやり取りがあり、大沼は力なく電話を切った。
「別の業者ですか?」
 井村が訊ねると、大沼は無言で頷いた。
「とりあえず、上司に報告しましょう。このままだと入札が成立しない」
 大沼は机の一点を見つめたまま、微動だにしない。いや、よく見ると、身体が小刻みに震えていた。井村は大沼を覗き込むような位置に回り込み、声をかけた。
「緊急事態です。私もお手伝いしますから、すぐに対処しましょう」
 井村と大沼はまず永池に顛末を説明し、すぐに上司の一柳を会議室に連れてきて報告した。大沼は動揺しており、説明がたどたどしいため、井村がその都度補足した。
「要するに、入札に関する通知をコピーした際に、下見積書も一緒に印刷してしまって、そのまま封入して業者に送ってしまったということね」
 一柳が確認すると、大沼は恐る恐る首を縦に振って頷いた。
「封入時に複数の人間で確認作業をしなかったの?」
「私が手伝いを申し出ましたが、大沼さんは大丈夫だからと仰って――」
 そこまで話して、井村はしまったと思った。これでは大沼を非難しているように聞こえてしまう。
「――でも、私がその時手伝いに入っていれば、このようなことは起こらなかったと思います。申し訳ございません」
「いえ、井村さんが謝ることではないわ」
 一柳は手で制しながら言った。「ともかく、まずは起こったことについて速やかに対処し、今後の再発防止策を講じなければなりません。大沼さん」
「はい」
「すぐに全部の業者に連絡して、資料一式を回収してください。そして、入札を最初からやりなおしましょう。不正が行われないよう、指名業者も変えます」
「はい……」大沼が首をうなだれて返事した。
「時間がないから、永池さんと井村さんも、彼を手伝ってくれるかしら? 同じミスは許されないから、複数の目できちんとチェックして作業を進めてください。忙しいところ申し訳ないけど、私もできる限りサポートするから」
「承知しました」
 永池が力強く返事した。この男、返事だけはしっかりしているなと内心思いつつも、井村は「かしこまりました」と、一柳に向かって返答した。
「そして、全職員に対して、契約事務に関する研修をやらないとね。それは研修担当にお願いするわ。あと永池さん、後で理事長に報告するから、一緒に入ってくれる?」
「はい」
 三人は執務机に戻り、早速作業に取り掛かった。
 大沼はすべての指名業者に電話をかけ、入札を取りやめることについての説明と謝罪をして、見積書などの送付書類一式を回収に伺うアポ取りを始めた。その間に井村は理事長への説明資料のたたき台を作成した。永池はそれをチェックして資料を完成させると、一柳に見せに行った。
「六社については、今から伺っても良いとのことです」
 電話を終えた大沼が、井村に言った。
「了解です。では、すぐに行きましょう」
 井村たちは荷自宅をし、コートを羽織って、駐車場に向かった。協会のクルマは出払っていたため、井村のカローラスポーツで行くことにした。
「汚いクルマで申し訳ないね」
 助手席に乗った大沼に、井村は運転席に座りながら言った。
「いえ、そんなことないです」
 大沼は小声で応じた。
 カーナビに六社全ての住所を入力すると、最短で回れるルートが検出された。井村はカーナビの案内を開始し、カローラを発進させた。
 指名業者は県内各地にあり、アポが取れた六社を全て回り終わる頃には、日が暮れるであろう。しかし、全ての書類を回収しなければ、仕切り直しはできない。残りの七社も明日には回収を終えたいところだ。
 大沼の携帯が鳴り、本人が素早く電話に出た。
「井村さん、もう一社、アポ取れました」
「よし、そこも後で行きましょう。もう一、二社行けるかな」
「先方からの連絡待ちなんで、うまく都合が合えば、行けるかと思います」
 井村はクルマを路肩に停めて、新たにアポが取れた業者の住所を入力した。最後に行く業者の一つ前に行けば、効率が良さそうだ。
 やがてカローラは、一社目に到着した。大沼が先方の担当者に謝罪して書類を回収し、井村が用意してきた協会のキャラクターグッズの詰め合わせを手渡した。担当者は特に怒りや不快を露わにすることもなく、淡々とこちらの説明を聞いてくれて、再入札では指名しないことも了承してくれた。
 一社目の訪問が無事に終わり、大沼は心なしかほっとしているようだった。
「さあ、この調子で、次に行きましょう」
 井村は大沼に明るく声をかけ、カローラのエンジンをかけた。
道は空いていて、急ぎたいのは山々だが、法令遵守が求められているこの時代に、事故でも起こしたら元も子もない。安全運転で行かなければ。そう言い聞かせながら、井村はステアリングを握りしめた。
 その後も、ほぼカーナビの到着予定時刻と同じくらいに業者を回り、昼前には四社目の事業所に辿り着いた。
 先方の担当者と面会し、大沼が謝罪の弁を述べると、担当者は苦々しい表情で言った。
「うちは規模の大きい会社じゃないから、一件一件の案件について全て落札するつもりで対応しているんです。そうしなければ、会社はあっという間に傾いて、社員の暮らしを守ることもできなくなるんですよ。今後は、こんな初歩的なミスをするようなところの仕事はお引き受けしたくないですね」
「申し訳ございませんでした」
 大沼は身体を小さくして謝罪した。担当者が片手で突き出してきた書類を受け取り、二人はその場を辞した。
「そろそろ、お昼にしましょうか」
 元気のない助手席の大沼に、井村が明るく声をかけた。
「何か食べたいものとかありますか? 大沼さんの好みで良いですよ」
「自分は、何でもいいです」
 大沼はぼそっと答えた。
 しばらく街道を走ると、ログハウスの建物を見つけたため、井村はカローラを駐車場に入れた。県内で十数店舗展開している喫茶のチェーン店だった。ここなら食事のメニューも充実しているため、問題ないだろう。
「昼休みのピークを過ぎたから、入れるかな……」
 そう呟きながら、井村は入口のドアを開けて中に入った。大沼も黙って後に続く。
 幸い、二人掛けの席が空いていたため、井村たちはすぐに案内してもらえた。
「いやあ、腹減ったあ」
 井村は店員が置いていった厚手のおしぼりで、顔をごしごし拭いた。大沼は水を少しだけ飲んだ。
「今日は好きなものを食べてください。私がご馳走しますよ」
「そんな。ご馳走してもらうなんて」
「いいんですよ。日頃世話になってるし、大した金額でもないから」
 実際、ここの食事メニューは値段の割にかなり量が多く、店内を見渡しても、食欲旺盛な若手の社会人男性が多い。また、スイーツや飲み物も種類が豊富で、ランチタイムが過ぎてティータイムになると、今度は女性客の比率が大幅に増えるため、男性客が入りづらい雰囲気になる。
 井村は店員を呼び、食事を注文した。井村はお子様ランチを大人向けのがっつり系にアレンジした「お殿様ランチ」を、大沼はクラブハウスサンドイッチを選び、二人ともアイスコーヒーをセットで頼んだ。
 店員がすぐに、大ジョッキに入ったアイスコーヒーを運んできた。この店では、冷たい飲み物は基本的に大ジョッキで出されてくる。ストローが付いているが、まどろっこしいため、井村はジョッキに口を付けて、生ビールよろしくぐびぐびと飲んだ。大沼はストローでちびちびと喉に送り込んでいる。
「さっきの業者、怒られちゃいましたね」
「ええ。すみませんでした」
「何、気にすることはないですよ。次は別の業者を指名するんですから」
「でも、他の事業で指名しづらくなってしまったから」
「まあ、気にしないことですよ。あの担当者だって異動するかもしれないんだし」
「そうですけど……」
「どうしたんですか」井村は笑いながら言った。「いつもの大沼さんらしくないですよ。やけに弱気じゃないですか」
「こういうミスって、経験がないものですから」
「そりゃあそうですよ。こんな経験ばかりしていたら、クビになっちゃいますもん。ミスを好んでする人なんていませんから」
 そこへ、店員が食事を運んできた。
「さあ、食べて元気を出して、午後も頑張りましょう」
 井村が力強く言うと、大沼は頷き、サンドイッチに手を伸ばした。
 俺は果たして食べきれるのだろうか。
 井村は目の前で湯気が出ているお殿様ランチを見つめ、少し不安になった。

 午後もカローラスポーツで各業者を回り、謝罪と書類を回収した。さらに二社から訪問可能の連絡を受けたため、今日は九社から書類を回収することができた。残りの四社は明日に訪問することで調整もつき、井村はほっとした。
 最後の社が職場から最も遠く、六十キロほど離れているため、井村は高速道路を使って職場に戻ることにした。
「マニュアル車って、自分、初めて乗りましたけど、難しそうですね」
 大沼が井村の運転操作を見ながら言った。
「慣れればどうってことないですよ。そりゃあ、オートマと比べたら慣れるのに時間がかかるかもしれないけど、コツさえ掴めば、ね」
 入口の料金所を通過し、カローラは高速道路の本線に差し掛かった。
「合流とか、オートマでも大変なのに、大丈夫なんですか?」
「合流って加速して流れに乗らなければ、というイメージがあるかもしれないけど、そうじゃないんですよ。何よりも、本線の後方確認が一番」
 井村はウインカーを点滅させた。「後方を見て、入る場所を見定めたところで、スピードを調整すればいいんです」
 スピードを維持したまま、加速車線で本線の大型トラックをやり過ごした後、井村はカローラを本線に入れ、アクセルを踏み込んだ。徐々にエンジンの回転数が上がり、本線の流れに乗ることができた。
「さすがですね」大沼が前方を見ながら言った。
「今のマニュアル車は低速トルクが厚めだから、高めのギアのままでも余裕で加速できます。だから、昔のクルマと違って、そんなに難しくはないんですよ」
「井村さんはどうして」大沼が井村の方を向いた。「マニュアル車を選んだんですか?」
「知り合いでマニュアル車に乗っている人がいてね」井村は両手でステアリングの下端を握りながら答えた。「その人のクルマに乗せてもらったことがあるんだけど、彼女の運転している時の表情が、凄く生き生きしていたんだ」
「彼女、って、その方、女性なんですか?」
「そうそう。大沼さんよりも若いかな」
「凄いですね。自分はオートマ限定で免許取ったから」
 大沼は目を丸くした。彼がそんな反応をするなんて珍しいと井村は感じた。
「昔は、男性女性関係なく、みんなマニュアル車を運転していたからね」
「ですよね」
「それで、その人のことが印象に残って、次のクルマはマニュアル車にしようって一念発起して、これを買っちゃったんですよ」
 井村がステアリングを軽く叩きながら言った。
「買って、どうですか?」
「うん、ドライブするのが前よりも楽しくなったかな。このクルマにしてから、外出する機会も増えたと思う。買って正解だったよ」
「へえ、そうなんですね」
 大沼はそう答えると、視線を前方に戻した。そして黙ったまま、何かを考えているようだった。
 井村は高速道路を運転しながら、明日香のことを考えていた。最近忙しくて、なかなかあの公園に行くことができずにいた。彼女はこの週末もセリカで公園に行くのだろうか。年度内は仕事が立て込んでいるため、会うのは難しいだろう。しかし、春には一度会って、彼女にあのことを確かめてみたい。
 次のインターで降りるよう、カーナビから指示があったため、井村は減速し、カローラを走行車線へ向けた。

 陸上競技場の駐車場にカローラを停め、職場に戻ると、永池が浮かない表情で席に座っていた。井村と大沼の姿に気付くと、「お疲れ」と声をかけてきた。
「何かあったんですか?」
 永池の深刻そうな様子を見て、井村は思わず訊ねた。
「服部さんが、今回の件について、担当者からきちんと説明してほしいって。もうカンカンでさあ」
 永池が頭をかきながら答えた。
「カンカン、ですか……」井村はおうむ返しで応じた。
「帰ってきたら呼んでくれって言われたから、いいかい?」
 永池は電話の受話器を手に取って、二人に訊ねた。二人が返答し終わる前に、永池は内線番号をプッシュしていた。
 井村と大沼は会議室に入り、服部が来るのを待った。
「井村さんも同席するんですか?」
 大沼が意外そうに訊いた。
「ああ。私も同席しますよ。何だか面倒なことになりそうな予感がするし」
「すみません、何だか巻き込んでしまって」
「気にしないでください。同じ係なんですから」
 うなだれている大沼に、井村は優しく声をかけた。
「めっちゃ怒ってるんですかね……。服部課長」
 大沼がぼそりと呟いた。
「仕方ないですよ。とにかく経緯を説明して、誠意をもって謝りましょう。そうすれば、わかってくれますよ」
「そうですかね……」
 大沼は半信半疑な様子で答えた。
 ドアをやや強めにノックする音が聞こえた。井村はドアに向かって「どうぞ」と声をかけた。
 ドアが開くや否や、不機嫌そうな表情の服部が会議室に入ってきた。
「下見積もりを指名業者に渡したんですって?」
 服部は井村たちの向かい側の席に座ると、開口一番にそう言った。
「はい。申し訳ございません」
 大沼が軽く頭を下げて謝罪した。彼の態度が気に入らなかったのか、服部は声を荒らげた。
「謝って済むような問題じゃないですよ。業者に下見積もりを渡すなんて、ありえない。それにこのような事故があったなら、まずはこちらにすぐ報告すべきではなかったんですか? きょう今まで、何をされてたんですか?」
「永池課長からは何も仰ってませんでしたか?」
 井村が思わず訊ねると、服部は「ええ」と答えた。
 何のための課長なんだと、井村は心の中でため息をついた。だが、その直後、服部は知っててわざと訊いているのではないかと思い直した。永池は確かに優秀な職員ではないかもしれないが、さすがに自分の部下の行動についても答えられないほどのポンコツとは思えなかったからだ。そして、服部はあえて質問を投げかけることで、自分の立場を有利な方へ持っていこうとしているのではないかとも思った。
「すみません、今まで、指名業者を回って、入札関係の書類を回収に行っておりました」
 大沼が小さな声で説明した。
「それより先に、こちらに説明するのが筋じゃないですか?」
 服部が再び主張した。
「ご報告が遅くなってしまったことは謝ります」井村は頭を下げた。「ですが、書類を回収しないと、今後の業務にも支障をきたす恐れがありますし、一柳事務局長からもそのような指示を受けましたので。申し訳ないです」
 一柳の名前を出したのが効いたのか、それまでぴんと伸びていた服部の背筋がやや丸くなった。
「今回、どうしてこんなことが起こったんですか?」
 さっきよりも若干低いトーンで服部が大沼に訊ねた。
 大沼はぽつりぽつりと説明した。
 業者選定委員会が終了し、選定した指名業者に書類を送るべく、大沼は日中に書類一式をコピー機からプリントアウトした。勤務時間内は職員が頻繁にコピー機を使用し、自分が大量印刷でコピー機を占領するのは憚られるため、職員が帰り始める夕方に指名業者分の十三部を印刷しようと思い、あらかじめその印刷原本として一部出力し、書類が散らかっている机の上に無造作に置き、他の仕事を行っていた。
 夕方になり、コピー機が空いてきたところで、大沼は机に置いておいた原本を手に取り、コピー機へ向かった。その際に、原本の下敷きになっていた下見積もりの書類も一緒に持って行ってしまい、それに気づかないまま印刷し、確認をしないまま封筒に入れてポストに投函してしまった――
 説明を終えると、服部の顔が一段と険しくなっていた。
 井村は今初めて、大沼から事故に至るまでの経緯を聞いたため、思わず頭を抱えそうになった。普段から机の整理整頓ができておらず、散らかった状態で作業を行ったのも原因の一つだろうが、それよりも、大事な書類を送るのに、ダブルチェックどころか通常のチェックすら何故しなかったのだろうか。
 いや、彼だけを責めることはできないと、井村は思い直した。上司である永池の監督責任も問われるだろうし、我々係の人間も、自分の担当でないからと彼任せにせずに、もっと積極的に関与したり手伝いを申し出たりすべきだったであろう。井村は悔やみ、思わず目を強く瞑った。
「呆れて物も言えないとは、このことね」
 服部が嘆くと、大沼と井村は蛇に睨まれた蛙の如く、身体を小さくした。
「仕事に対する認識がちょっと甘いんじゃないですか? そうでなかったら、こんな事故なんて起こらないでしょう。違いますか?」
「そのとおりです。申し訳ございません」大沼はさっきよりも深く頭を下げた。
「どうするのよ。これじゃあ、本番までの準備期間が短くなってしまうじゃない」
「すぐに業者選定委員会をもう一度開催し、入札をやり直します」
「時間がないから、特命随意契約で、前回の委託業者にお願いできないの?」
「それはできないです」
 井村が身体をやや前屈みにして答えた。井村はさっき永池に、特命随契で対応できないのかと訊いたところ、一柳事務局長が認めないと言っていると返答があったのだ。
「速やかにもう一度業者選定から始めれば、ギリギリのスケジュールにはなりますが、開催には間に合うとの判断です。私たちもそう認識しております」
「そんな……、特命が認められないの? 緊急事態なのよ」
 服部が声のトーンをまた上げた。
「まだ間に合います。特命随意契約はあくまでも例外的な取扱いですので、時間が足りなくなるからという理由のみではできないんですよ」
「それなら、あなた方のミスも理由に入れればいいでしょ?」
「な……」
 あまりにも度を越えた服部の主張に、井村は思わず絶句した。
 服部は構わず続ける。
「あなた方がもう少し手際良く仕事をしていれば、こんなことにはならなかったのよ。何とかして特命で契約するよう、事務局長に掛け合いなさいよ」
「本気で言ってるんですか? そんなこと、できるわけないじゃないですか」
 井村は思わず声が大きくなった。「それで特命になったとしても、今後、監査で書類を見られた時に、こんな理由じゃ耐え切れないですよ」
 その時、バン! と机を叩く音が響き渡った。そしてその直後、ひときわ大きくバン! ともう一度大きな音が鳴った。
 音に驚いて一瞬目を閉じた大沼が瞼を開けると、服部が唖然とした表情で井村を見つめていた。
 一度目の音は服部が手元の紙製のファイルで机を叩いたもので、二度目の音は井村がプラスチック製のハードカバーのファイルで机を思い切り叩いた音だった。
 井村が口を開いた。
「さっきから黙って聞いていれば、随分と言いたいことを言ってくれるじゃないですか。大体、こんなにスケジュールがタイトになったのは、元はと言えば、お宅の担当者が仕様書の作成に時間がかかって、業者選定委員会がなかなか開催できなかったのが原因じゃないですか」
「仕様書はちゃんと作ったわよ。時間がかかったって、ひ、人聞きの悪いこと言わないでよ」
 服部がやや狼狽えた様子で口答えした。
「へえ、そうですか。じゃあ」
 井村はクリアフォルダからステープラー留めした書類を取り出し、テーブルの中央に置いた。
「これは何?」
 不審なものを見る目つきで、服部が訊ねた。
「これまでの、お宅の担当者と大沼さんとのやり取りの記録です。大沼さん、メールのファイルも全て保存していたんですよ。あと、電話や直接会ってのやり取りも逐一メモに残してあったので、これはそれらを全部プリントアウトしたものです」
 服部は、井村が置いた書類を手に取り、ぺらぺらとめくって中身を読み始めた。しばらくして、ふんと鼻を鳴らしつつ、無造作に書類を元の位置に戻した。
「これが何だっていうの? そりゃあ、仕様書の作成には時間がかかったかもしれないけど、うちの担当者は一生懸命対応したのよ。仕方がないじゃない」
「そうでしょうか。この内容でしたら、こんなに時間がかかることもないかと思うんですが」
 井村が反論すると、服部は苦笑いした。
「井村さん、彼だってこの件しか担当していないわけじゃないんですよ。何件もの事業を抱えて準備にも追われている中、合間を縫って仕様書も作成しているわけですから。私だって、彼の進捗状況はこまめに確認して、遅れないようにハンドリングしていましたし」
「本当かね?」
 会議室のドアが開いて、別の男の声が聞こえた。
 井村たちがドアの方に目を向けると、永池が立っていた。
「か、課長」大沼が声を上げた。
 永池は会議室に入り、ポケットからⅠCレコーダーを取り出した。
「これを聞いてほしいんだが」
 永池はⅠCレコーダーをテーブルに置き、再生ボタンを押した。
 少し離れた場所から女性の大きな声が聞こえてきた。
「――アイツもしつこいわよねえ。こっちだって忙しいんだっつうの。いいわよ、そんなの後回しで」
「でも、早くしないと、スケジュールが厳しくなりませんか? 大沼さんにお願いして業選も開いてもらわないといけないし……」
 気の弱そうな男性の声が聞こえてきた。服部の部下の梶原だ。
「この声は……」大沼が服部の部下の名前を口にした。井村はレコーダーを見つめたまま、黙って音声を聞いていた。
「いいのよ、むしろギリギリまで粘って提出すれば、何かトラブルが発生したら特命随契に持ち込めるんだろうし」
「は、はあ……」
「そうだ、隙を見て、入札の通知書類に何か別の書類を紛れ込ませて、入札を中止させるってのなんて、ありじゃない?」
「それは、さすがにまずいのでは……」
 梶原の不安そうな声に続き、服部の「キャハハ」という笑い声が聞こえた。
「冗談よ。ともかく、これはそんなに急ぐ必要ないわよ。今は週末の事業の準備に専念して」
 ドアを開け閉めする音が聞こえ、音声はそこで途切れた。
「課長、これは……?」
 井村はまじまじと永池の顔を見つめた。
「いや、会議室で業者との打ち合わせがあって、その打ち合わせの音声を録音していたんだけど、うちの係の子が打ち合わせが終わった後、停止ボタンを押し忘れちゃったらしくて、隣の会議室の音声まで入っちゃったみたい。天井付近は壁がないから、隣の部屋でも結構クリアに音声が入るんだね。最近のⅠCレコーダーは凄いよ」
 レコーダーを手に取りながら、永池が答えた。
「今の声は、明らかに服部課長ですよね?」
 井村が今度は服部に訊ねた。
「ひ、人違いじゃないの? いつの録音よ?」
 服部が狼狽えた様子で答えると、井村は「ちょっといいですか?」と、永池からⅠCレコーダーを借りて、操作ボタンを押して録音日付をチェックした。
「この時間の会議室の予約状況は?」
 井村が大沼に訊ねると、大沼は手元にあったパソコンのマウスを操作し、会議室の予約システムを開いた。
「その日は、ここの会議室を経理担当が予約していて、隣の会議室を事業担当が予約しています」
「じゃあ、人違いじゃなさそうだね」
 永池が独り言のように言った。
 井村が訊ねた。
「今の発言は我々としては、聞き捨てならないんですけど。これがあなたの仰る『ハンドリング』ってやつですか? この音声を事務局長にお聞かせして、特命随契にしてもらうよう、掛け合えばよろしいんですか?」
 服部の顔から大粒の汗が流れていた。
「どうしましたか? この部屋の暖房は切ってあるはずですが」
 井村が重ねて訊ねると、服部は咳払いをひとつして言った。
「わかったわよ。特命が無理なんだったら、さっさと業選を開いて指名業者を決めてください」
 服部は捨て台詞を吐くかのように大沼に向かって言うと、席を立ち、会議室を大股で出て行った。
「なんだかねえ」
 永池は首を左右に振りながら、ICレコーダーを自分のジャケットの胸ポケットにしまった。
「課長」大沼が声をかけた。
「ん?」
「ありがとうございました」
「いやいや、俺は何もしていないよ」
「あの……」
「何?」
「服部課長は本当に、下見積書を紛れ込ませたのでしょうか?」
「知らんよ、そりゃあ」
 大真面目に訊ねる大沼に向かって、永池は仰け反って笑った。
「君の机は散らかってるから、我々がいない間に、服部さんが下見積書をそっと紛れ込ませた可能性はあるかもしれないな。さっきのあの尋常でない汗のかき方を見る限り、クロなんじゃないかなあ」
「ですね」井村が頷いた。
「だが、実際に彼女がそのようなことをした証拠はないからねえ。うちの執務室には監視カメラは設置されてないし」
「た、確かに」大沼は俯いた。
「とにかく、もう起こってしまったことにこだわっても仕方がないから、これ以上深追いするのはやめておこうよ。大沼くん、明日、残りの業者から書類を回収したら、すぐに業選の開催通知を出して、急いで手続を進めようね」
「かしこまりました」
「井村さん、忙しいところ悪いけど、引き続き、彼のサポートを頼むよ」
「承知しました」
 井村は永池に頭を下げた。
「じゃあ、お先に」
 永池はのっそりと立ち上がると、ゆっくりとした足取りで会議室を出て行った。
 今日ほど課長を頼もしいと思ったことはない。
 永池の猫背の後姿を見つめながら、井村はそう思った。
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