第3話

文字数 13,062文字

 翌日からの連休は、職場での残務整理や直美の手伝いで、あっという間に過ぎていった。嬉しいことに今年のゴールデンウィークは、こどもの日の翌日が土日のため、例年よりも長かった。
 そのこどもの日に、直美が井村を気遣って、土日は来なくてもいいと申し出た。せっかくの連休なのにどこへも行けなくて申し訳ないから、せめて井村ひとりだけでも休んでほしいと。
 それでは直美が全然休めないのではないかと井村が訊ねたが、直美は笑いながら、真一が寝ている時は案外自分の好きなことをして過ごせているから、結構休めているんだと答えた。実家だから気兼ねなく過ごせるし、仕事が残っている中で井村に毎日来てもらうのも悪いから、とも言った。
 そこまで言うのなら、と、井村はこの土日、完全オフを決め込んだ。仕事はある程度片付いたし、正直、疲れて気が滅入っていた。糸日谷の言うとおり、少し気分転換してリフレッシュしてから連休明けを迎えた方がいいだろう。
 とはいえ、何も予定を立てていなかったため、直美の実家から帰ってきた井村は何をしようかと思案した。普段忙しい時はあれもしたい、これもしたいと思い浮かぶのに、こういう時に限って忘れてしまう。これからは思いついた時点で、スマホにメモでも残しておいた方がいいかもしれない。
 そういえば、この近くの海沿いの市民公園にカフェができたと、いつぞやのニュースが報じていた。あそこの公園は広い花壇があり散歩にもうってつけだし、ドライブがてら行ってみようか。午前中なら駐車場もすいてるだろう。井村はそう思い、寝床についた。
 翌朝、気持ちのいい快晴の下、井村はマークXに乗り込み、市民公園へ向かった。
 インターネットで調べたところ、例のカフェは、今日は朝八時から開いているとのことだった。食事もできるようなので、朝食はそこで済ませることにした。
 公園の駐車場は予想通りすいており、井村は隅の木陰になっているスペースにマークXを停めた。この天気だと、日なたに停めたら一気に車内が暑くなってしまうだろう。
 カフェは広大な草原の広場の一角に建っていた。地元の木材を使用した、温かみのあるデザインの外観だった。今どきの建物らしく、環境にも配慮しているのか、屋上緑化が施されており、ソーラーパネルも幾つか設置されていた。インテリアも白に近い色合いの木材が使われており、窓が大きいため、太陽光が注ぎ込まれて照明も要らないくらい明るかった。
 井村は店に入り、注文カウンターに向かった。若い女性店員が「いらっしゃいませ」と笑顔で井村を迎えた。井村はメニューをじっくりと見た末に、ひときわ大きく掲示されている自家製ワッフルのモーニングセットを注文した。
 出来合いのものをレンジで温めて出すんだろうと井村は思っていたが、焼くのに時間がかかるため、後ほどお持ちしますと店員に言われ、セットのヨーグルトとコーヒーだけ先に受け取った。席に着くと、ワッフルメーカーで焼いている店員の姿が見えた。この手の店では珍しく、本当に自家製のようだ。道理でメニューにも大きく掲示されているわけだ。
 やがて店員が運んできた皿には、分厚い自家製ワッフル二枚に加え、スクランブルエッグとソーセージ、サラダまで付いていた。ワッフルは焼き立てでふんわりしており、二枚も食べれば井村には十分なボリュームで、期待を超える満足度だった。
 女性や少食の人は果たしてこの量を完食できるのだろうかと、井村はふと疑問に思い、コーヒーを飲みながら何気なく店内を見渡した。自分よりも高齢の人が多い印象を受けた。そういえば、直美のバイト先のファストフード店でも、開店前から高齢者が大勢並んでいると以前話していたのを思い出した。
 だが、ワッフルを食べている人はなかなか見当たらない。さすがに朝からこれほどがっつりしたものは食べられないよなと思っていると、窓際の席で二十代くらいと思われる女性がひとりで、井村と同じモーニングセットを食べているのを発見した。
 女性は小柄ながらも黙々とワッフルをたいらげ、付け合わせまで完食した。そして、セットのアイスティーと思われる飲み物も飲み干すと、そこで井村を目が合った。
 まずい、我を忘れてついガン見してしまった。井村は慌てて目を逸らした。
 女性は井村の視界の隅で、不思議そうな顔を一瞬見せたが、すぐに視線を戻して席を立ち、ゆっくりとした足取りで食器を返却口まで運んでいき、店を出て行った。
 俺は変な人に思われたかもしれない。井村は頭をかくと、女性と同じように食器を返却し、カフェを後にした。
 広場には花壇があり、地元のボランティアが植えた季節の色とりどりの花が咲いていた。花を愛でるようになったのは、自分自身に余裕が出てきて関心が向くようになったからなのか、逆に、余裕がない状態だから、現実逃避でそちらに気を惹かれてしまっているだけなのか、よくわからなかった。いずれにしても、誰にも邪魔されることなく、鮮やかな花をのんびり眺めることで、鬱々とした気分が晴れてきているのは確かだった。糸日谷の助言を聞いてよかったと井村は実感した。
 公園を散策したことで、腹ごなしにもなり、汗ばんできた。そろそろ帰ろうかと思い、井村は駐車場に戻った。来た時よりもクルマの数は増えており、昼を待たずに満車になりそうな勢いで、次から次へとクルマが入ってくる。マークXの両脇の車室もさっきは空いていたが、今はクルマが停まっている。片方は日産・セレナで、ダッシュボードに子供向けの音楽CⅮが何枚か置かれているのがフロントガラス越しに見え、二列目の席にチャイルドシートが設置されていた。きっと今頃、両親が、遊具のあるスペースで子供たちを遊ばせているのだろう。
 もう片方の車室には、トヨタ・セリカが停まっていた。丸目四灯のヘッドライトが特徴的なシルバーのボディは、多少くたびれている感はあるものの、コーティングをまめに行っているのか艶があり、大事に乗っている印象を受けた。
 セリカとマークXの隙間に入り、井村がドアを開けようとした時、背後から声がかかった。
「あの、すみません」
 井村が振り返ると、セリカの運転席側から女性が顔を出していた。井村は驚いた。さっきカフェでワッフルを食べていた、あの女性だったからだ。
「何か?」井村は平静を装って女性に訊ねた。
「すみません、クルマのバッテリーが上がっちゃって、手伝ってもらってもいいですか?」
 女性が申し訳なさそうな顔で井村に訊ねた。
「ああ、いいですけど――」
 確か、バッテリー上がりの時は、ケーブルを他のクルマのバッテリーに繋いでエンジンをかけることができたはずだ。「手伝ってほしい」と言うのは、俺のクルマのバッテリーを使わせてほしいということなのだろうか。
 井村が考えていると、女性は嬉しそうに「ありがとうございます」と礼を言った。
「ボンネットを開けてもらってもいいですか? ジャンピングしたいので」
 そうか、ジャンピングと呼ぶんだった。井村は思い出した。
 すぐにマークXのドアを開けると、運転席下のボンネットオープナーのレバーを引き、ゆっくりとボンネットを開け、ストッパーをセットした。
「ありがとうございます」
 女性はセリカのバックドアを開け、ラゲッジスペースから赤と黒の二本のケーブルを取り出した。そして、ボンネットを開けると、慣れた手つきでケーブルをそれぞれのクルマのバッテリーに繋いだ。
「エンジンをかけてください」
 言われるがままに、井村はマークXの運転席に座り、エンジンをかけた。
「少し、回転数を上げてもらってもいいですか?」
 井村は少しだけアクセルを踏んだ。「こんな感じ?」
「はい。そのままキープしていてください」
 女性は井村にそう言うと、素早くセリカの運転席に乗り込み、エンジンをかけた。すると、スターター音の後に、エンジンが回り始めた。
 女性は安堵の表情で運転席から降り、ケーブルを外してボンネットを閉めた。
「助かりました。ありがとうございました」
 井村がマークXのボンネットを閉めると、女性が頭を下げた。
「いいえ、無事にかかってよかったですね」
「ええ」
「それにしても、凄いね。説明書とか見ずにやれちゃうんだから」
「ああ……」女性は恥ずかしそうに笑った。「前にもバッテリーが上がっちゃったことがあったので……」
「そうなんだ」
 井村は女性のセリカを眺めて言った。「格好いいクルマですね」
「ありがとうございます」
「セリカ、懐かしいなあ」
「乗られていたんですか?」
「昔、知り合いがね」
 井村はそう言うと、助手席側の窓から車内を覗いた。
「どうして、セリカを選んだんですか?」
「クルマを見て一目ぼれしちゃって。あちこち中古車屋さんを見て回って、買ったんです」
 こうしたスポーツタイプのクルマを選ぶとは、今どきの子にしては珍しい。井村はそう思いつつ、車内を見ていてふと気が付いた。
「マニュアルなんだ」
「あ、はい」
「凄いね」
「そうですか?」
「最近の若い子は、オートマ限定の人が多いみたいだから」
「確かにそうですね。私の周りで免許を持っている人は、ほとんどオートマ限定です」
「まあ、今売っているクルマでマニュアルって、ほとんどなくなっちゃったみたいだからね」
 以前、職場で誰かがそんな雑談をしているのを思い出しながら、井村は話した。
「何だか寂しいですね。マニュアル、楽しいんですけどね」
「楽しい、かあ。私はもうずっとオートマだからなあ。マニュアルなんて教習車でしか乗ったことがないよ」
「そうなんですか?」
「うん。今、運転しろと言われても、正直、自信がないよ」
 井村は力なく笑った。
「そういえばさっき、カフェでワッフルを食べてましたよね?」
 急に話題が変わったので、井村は一瞬戸惑った。
「あ、ああ。君も食べていたよね?」
「はい。友達が食べたっていうのをSNSで見て、私も食べたくなっちゃったんです。結構ボリュームがありましたよね?」
「そうなんだよ。思っていたよりも食べごたえがあって、驚いたよ」
「ですよね。残すと勿体ないから全部食べちゃったんですけど、見られて少し恥ずかしくなっちゃって」
 女性は井村に右手を向けつつ言った。
「ごめん。ちゃんと完食するなんて凄いと思って」
「いえ。もういっぱいいっぱいでした。腹ごなしに散歩して戻ってきたら、クルマがこんなことになってて……。何だか今日はいろいろありますね」
「ははは。とんだ休日になっちゃったね」
 そこでふと、井村はセリカがずっとアイドリングしているのが気になった。
「あっ、早く、クルマ屋さんに持って行った方がいいんじゃない?」
「そうですね。確かこの近くにありましたよね、カー用品店。バッテリー、交換します。本当に助かりました。ありがとうございました」
 女性は井村に一礼し、運転席に乗り込んだ。
 車室から少し出たところで、女性は窓を開けて、井村の前でクルマを停めた。
「ここには、よくいらっしゃるんですか?」
「いや。でも、これから週末は来ようかなって思ってて。ワッフルは旨いし、散歩していて気持ちいいし」
「私も週末はよく来てます。またお会いできるといいですね」
「ええ。今度また来ますよ」
「私、野瀬明日香と言います。今日はありがとうございました」
「私は、井村と言います。気をつけて」
 明日香のセリカが駐車場を出て行くのを見届けてから、井村はマークXに乗り、公園を後にした。

 ゴールデンウィークが終わり、五月末までに行う決算処理も大詰めを迎えつつあった。六月の理事会で決算案の承認を受けなければならないため、そのデータのチェック作業を井村が行うことになった。昨年度の担当者がいい加減で、きちんと書類やデータを整理整頓していないため、どれが確定版でどれがドラフト版なのかが当初わからず、作業に苦戦した。
 ようやく作業も軌道に乗ったかと思いきや、今度は集計表の合計金額が元の根拠書類の金額と合わない。各担当から提出してもらった根拠資料の数字を集計表に転記しており、その転記を誤ってしまったかもしれない。井村は資料を引っ張り出し、突合作業をしたものの、転記ミスはなかった。
 もう一度根拠資料を洗い直した。他の業務も立て込んでおり、作業がなかなか捗らない。
 原因が特定できた時は、日付が既に翌日に変わっていた。
 協会主催のイベントを担っている、事業担当の梶原から提出された資料のエクセルデータに入っている表の関数に誤りがあることがわかったのだ。表のフォーマットは井村ら経理担当が作成したものであり、関数もあらかじめ経理担当が設定していたものだ。梶原は資料作成中に関数をいじってしまったのだろう。しかも、関数をいじった箇所は複数あり、なぜ修正したのかも見当がつかす、井村は立ち往生してしまった。
 これは明日、梶原本人に確認しなければわからないな……。井村はため息をつくと、資料を片付け始めた。
 翌日、井村は梶原の席に赴いた。パソコンに向かっている梶原に声をかけると、梶原は振り向いた。やや怯えた表情をしている。いつもそうなのだろうか。
「梶原さん、決算資料の件で今少し、お時間よろしいですか?」
 井村は威圧感を与えぬよう、努めて穏やかに訊ねた。
「あ、は、はあ……」
 梶原が戸惑った様子で席を立とうとすると、奥から野太い声が聞こえた。
「今、イベントの準備で忙しいんですけど」
 井村が声のした方に目を向けると、梶原の向かい側に座っている事業担当課長の服部が井村を睨みつけていた。
「すみません、お忙しいところ。決算の関係で至急確認させていただきたくて……」
「準備がひと通り済んでからでいいですかね?」
「今日中には何とかしたいんですが。お時間は取らせませんので」
 井村が身体を小さくして言うと、服部は露骨に舌打ちをした。
「じゃあ、梶原さん、今日のどこか空いてる時間で、相手してあげて」
「は、はい」
 梶原は小刻みに首を縦に振りつつ答えた。
「ありがとうございます」
 井村は服部に一礼し、梶原に手が空いたところで連絡してもらうよう伝え、事業担当の席を後にした。
 自席に戻ると、井村は服部の態度に腹が立ってきた。元はと言えば、お前たちがちゃんと資料を作らないから、こんなことになっているのではないか。忙しいのはこっちだって同じだ。それなのにあの女のあの態度は一体何なんだ。
 苛立つ気持ちを静めようと、職場の自販機で缶コーヒーを購入し、別の仕事に取り掛かった。
「何かあったの? 井村さん」
 向かいの席に座っている永池が唐突に声をかけてきたので、井村は「あっ、はっ」と慌てて顔を上げた。
「顔が怖いけど、どうしたの?」
「えっ、そんなに私、怖い顔でしたか?」
「うん」
「いや、実は……」
 井村はさっきの服部とのやり取りについて、永池に簡潔に話し、最後に質問した。「服部課長って、いつもあんな感じなんですか?」
「うん、まあ、そうだよね」永池は苦笑いを浮かべつつ、答えた。「基本的に他人に厳しく、自分に優しいからね、あの人は。自分の都合しか考えないって感じだよ」
「そうですか……」
「俺はこんなだから、彼女も普通に接してくるけどね。周りの人は大変だと思うよ」
 永池は自分の顔を指差して言った。「こんな」というのはおそらく、永池自身が服部よりも先輩であること、加えて今年定年を迎える「上がり」の人間であるということを意味しているのだろう。井村も旅行会社時代は、定年間際の社員に対しては、多少のことは大目に見ていた経験があるので、永池に対する服部の態度はある程度理解できる。
「まあ、大変だと思うけど、上手くやってよ」
 永池はあくび混じりでそう言うと、目の前のパソコンの画面に視線を戻した。
「は、はあ…」
 井村はマイペースな永池に戸惑いつつも、自分以外の人も服部に対して同じような印象を持っていることがわかり、少しほっとした。仕事を進めているうちに、さっきまでの怒りによる顔の強張りもいつの間にか消えていた。

 昼休み、井村は空いている会議室に入り、隅に置かれているソファに腰を下ろした。スマートフォンで「セリカ」と検索し、調べてみた。
 トヨタ・セリカは一九七〇年から二〇〇〇年代まで三十年以上にわたり、七世代のモデルが生産されたそうだ。井村の知り合いが乗っていたのは、五代目のT180型で、当時流行っていたリトラクタブルヘッドランプと流線型のデザインが特徴的だった。確かこれの4WⅮターボ仕様のグレードで、雪山にも連れて行ってくれたんだよな。次々と表示される写真を眺めながら、井村は当時のことを思い出した。
 そして、明日香が乗っていたのはその一世代後のモデル、T200型だった。こちらも流線型だが、サイズアップしたこともあり、先代よりも一層グラマラスなデザインだ。4WⅮモデルには、フロントにグリルやターボエンジン車特有のエアインテークが設けられているが、明日香のクルマにはそれがなかったため、おそらく手頃なFF(フロントエンジン・フロントドライブ)仕様なのだろう。こちらの方が見栄えがスマートで明日香には似合っている。
トランスミッションは四速オートマチックと、五速マニュアルの二種類が設定されていた。五速マニュアルの方が、わずかに馬力が大きいそうだ。この大柄なクルマをマニュアルで乗り回しているのだから、大したものだ。井村は改めて感心した。
 通勤でマークXに乗る度に、明日香のセリカが気になった。そして、学生時代、自動車学校でマニュアル車の教習を受けたことを思い出した。自動車学校は山の中腹にあったため、路上教習では、一回は必ず坂道発進をすることになる。坂道発進はクラッチがうまく繋がらず後退したり、エンストしたり、急発進したりと、すんなりできたことはほとんどなく、苦手意識を持ってしまい、なかなか上達しなかった。たまたま路上検定試験でうまくいったため、免許は無事取得できたのだが、それからというもの、井村はマニュアル車の運転を避けるようになった。坂道発進で全然前に進まず立ち往生してしまったらどうしようという不安があった。もたもたしていて後続車から怒られたり、ましてや後退して後ろのクルマにぶつかったりでもしたら最悪だ。オートマ車がこれだけ普及するものわかる気がすると井村はつくづく思った。
 しかし、世の中には明日香のように、マニュアル車に乗って楽しんでいる人もいる。井村は、坂道発進は苦手だが、クラッチペダルをその都度踏んでシフトレバーを操作する作業自体は嫌いじゃなかった。クルマを自分の思い通りに操っているという感覚があり、楽しかった。これまで乗ったスターレット、デミオ、マークXはどれも運転は楽だったが、意のままにシフトチェンジできないのが時に不満に思うこともあった。今のマークXにはマニュアルモードもついており、ある程度自分の好きなタイミングで変速することもできるが、速度によってシフトチェンジできる範囲が限られ、加えて、急な加減速の際は自動でシフトチェンジするようになっており、完全に手動ではないため、マニュアルほど楽しくはなかった。
 別の日、井村は職場から帰宅し、エントランスの郵便受けを確認した。直美がいないため、郵便受けは毎日チェックしないと、通販や飲食店やインターネットプロバイダのチラシですぐにいっぱいになってしまう。必要ないチラシはすぐ近くのごみ入れに捨てたが、うっかり、郵便ハガキを一枚誤って放ってしまった。
 慌てて井村はハガキを拾い上げた。マークXの購入や点検でお世話になっているトヨタのディーラーからの新車の案内だった。井村は郵便物の束の一番上にハガキを重ね、自宅に入った。
 ディーラーからは法定点検の案内の他に、たまにこのような新車の営業通知が来る。担当の森は昨年度入社した新人で、下手だが心のこもった字でメッセージをいつもハガキの隅に書いて寄こしてくるのだが、新車なんて買うつもりはなかったので、内容もろくに見ずに自宅のゴミ箱に捨てていた。
 だが、今回は違った。
 井村は他の郵便物をひと通り読んだ後、テーブルの隅に置いておいたディーラーのハガキを手に取った。宛先の下部には最近フルモデルチェンジしたばかりのハイブリッド車の写真が載っており、圧着シールをはがすよう矢印が記されていた。
 シールをはがして内側を見ると、左半分にそのハイブリッド車の詳細が載っており、右半分には「話題の新型車が続々登場!」の見出しとともに、テレビCMでもよく見かける車種の写真が幾つか掲載されていた。
 一番下には、カローラの写真があった。このクルマもそういえばちょっと前に、人気の男女俳優が歌を唄いながら山道をドライブしているCMをやっていた。
「カローラか……」
 井村は思わず呟いた。
 小学生の時、父親がカローラに乗っていたのを思い出した。当時流行っていた直線基調のデザインで、ビニール素材のシートから漂う、車内の独特の匂いが、今も記憶に残っている――芳香剤の類は母親が嫌っていて、付けていなかった。
 あのカローラも確かマニュアル車だった。四速しかないため、高速道路を走る時はやかましく、エンジン音や風切り音に負けじと、カセットテープレコーダーの音量を最大近くまで上げるのがお約束になっていた。
 今のカローラはその当時と比べると、別のクルマかと思うくらい立派になった。マークXから乗り換えても、安全装備もさらに充実していて不満はないと思う。今もマニュアル車はあるのだろうか。
 ハガキを裏返すと、一番下に森の手書きのメッセージが記されていた。
「井村様、おクルマの調子はいかがですか? 何かございましたら、いつでもご連絡ください。お待ちしています!」
 新人の初々しさが残る森の顔が脳裏に浮かんだ。

 六月の週末、井村は市民公園にマークXでやってきた。ここのところ、梅雨で雨の日が続き、なかなか公園へ行くことができなかったが、今日は久々の晴天でようやく来ることができた。ただ、昨晩まで雨が降っていたため、地面がまだ濡れており、今朝の公園の中は人もまばらだった。
 それでも例のカフェは営業しており、数人ほど客が入っていた。今回も井村はワッフルのモーニングセットを注文し、壁際の席に座った。
 昨日、協会の理事会が向かいの運動場内の会議室で開催され、井村も会場設営や理事たちのアテンドなど、手伝いに駆り出された。理事会では一柳事務局長が、井村が作った資料をもとに決算案の概要を説明し、シャンシャンで承認された。
 これで大きな仕事がひとつ片付いたため、井村はほっとしていた。ワッフルを食べ終わると、ついつい肩の力が抜け、ソファに寄り掛かってしまった。
「おはようございます」
 その声で井村は慌てて背筋を伸ばした。顔を上げると、すぐそばに明日香が立っていた。
「ああ、おはようございます」
 井村は赤面しつつ挨拶した。
「ここ、いいですか?」
「ええ、どうぞ」
 明日香は井村の隣の席に、斜め向かいで座った。
「今日もワッフルですか?」
 井村の前に置かれた空の皿を見て明日香が訊ねたので、井村は「ええ」と苦笑いしながら返事した。
「私もいただきます」
 明日香は、自分のテーブルに置いたワッフルのセットを食べ始めた。
「お仕事、忙しいんですか?」
「えっ、どうして?」
「さっき私が来た時、何だか疲れた様子で座っていたから」
「ああ」井村はつい笑ってしまった。「そんなに疲れているように見えた?」
「はい」
「そうか。実はその逆で、昨日、仕事が一段落したもんだから、つい気が抜けちゃってね」
「そうだったんですね。でしたらよかったです。リラックスしてたんですね」
「ははは、見られちゃって恥ずかしいな」
「ごめんなさい」
「いやいや、気にしないで」井村は慌てて明日香に言った。
「その後、セリカの調子はどう?」
「はい。おかげさまで、あの後、バッテリーを交換できて、今は問題なく走れています」
「そうか。ならよかった。今日もセリカで来たの?」
「はい。井村さんのクルマがあったので、ここに来ているかなと思って、井村さんの隣に停めて、すぐ来ました」
「じゃあ今日も、もしバッテリーが上がっても、私のクルマがあるから大丈夫だね」
「さすがに今日は、バッテリーは上がらないと思いますよ」
 二人はそこで声を上げて笑った。
「これでもしバッテリーが上がってたら、クルマ自体に問題があるかもしれない」
「そうですね。ディーラーに見せに行かないとですね」
「ああ、ディーラーと言えば、野瀬さん、今のクルマは詳しい?」
「うーん」明日香は少し首を捻った。「同年代の女子よりかは幾分詳しいかも、ですね」
「そうか」
 井村は、トヨタのディーラーの森から届いたハガキのことを話した。
「カローラですか」
「ああ」
 明日香はスマートフォンを取り出して、しばらく操作した後に、井村に画面を見せた。
「どれ、ですかね」
 今のカローラはバリエーションが四種類用意されている。伝統的なスタイルの4ドアセダン、荷物を多く積めるステーションワゴンの「ツーリング」、現在世界中で流行っているSUVタイプの「クロス」、そして、疾走感のあるデザインのハッチバック「スポーツ」である。
「これだね」
 井村が「スポーツ」の写真を指差すと、明日香は画面を自分の方に向けて、写真を検めた。
「これ、格好良いですよね。発売されたばかりの時にちょっと気になって、セリカを点検に出した時に試乗したことがありますよ」
「どうだった?」
「良かったですよ。セリカよりも軽快で、運転していて楽しかったです」
「マニュアルだった?」
「それが、オートマだったんですよ。試乗車でマニュアルがなかったんで」
 明日香はやや残念そうに言った。
「そうか」
「井村さん、クルマ、買い替えるんですか?」
「どうしようかなと思ってね……」井村は腕組みをしながら答えた。「今のマークXも長いこと乗ってきたから、そろそろ替え時なのかなって」
「そうなんですね」
「子供の頃、親父がカローラのマニュアルに乗っててね。だからというわけじゃないんだけど、もうこの先、電気自動車が普及したら、マニュアル車なんてなくなっちゃうんじゃないかと思ってさ」
「それで、今のうちに乗っておこうと」
「そうなんだけど、運転に自信がなくてね……。ちゃんと乗りこなせるかどうか」
「大丈夫ですよ。慣れてしまえば、どうってことないですし、楽しいですよ」
「そんなもんかね」
「もしよかったら」明日香はナイフとフォークを置いた。「ちょっと乗ってみます?」

 明日香の先導で、井村は駐車場にやって来た。駐車場はまだ空きスペースが十分にあるのに、明日香のセリカが井村のマークXの隣にぴったりと停めてあるのが妙におかしくて、井村は思わず笑ってしまった。
「最初は私が運転するんで。さあ、どうぞ」
 明日香に促され、井村はセリカの助手席に乗り込んだ。マークXよりもドアが大きく、そして、着座位置が低いことに驚いた。さすが、スポーツタイプのクルマは違う。女性のクルマらしく、車内は仄かにローズのフレグランスの香りがした。
 明日香は素早く運転席のシートに座ると、手慣れた様子でシフトレバーを左右に動かしながらエンジンをかけた。思っていたよりも静かだった。その直後、FMラジオが起動し、スピーカーからCMが流れてきたので、明日香は音量を下げた。
「ちょっとこの辺を周ってみましょうか」
 明日香はそう言うと、シフトレバーを1速に入れ、サイドブレーキを解除した。セリカが低い唸り声を上げながら、前に動き始めた。
 駐車場から一般道に出た。片側二車線で直線が続く道路だが、明日香はゆっくりとシフトアップさせながら、のんびりとしたペースでセリカを走らせた。
「意外とおとなしく走るんだね」
 井村がそう言うと、明日香は笑いながら答えた。
「一人の時は、もっと運転が荒いです」
 前方の信号機が赤に替わり、明日香はシフトをニュートラルにした。セリカは滑らかに減速して停まった。
 インパネ中央部はスイッチ類が並んでいて、ほんの少し運転席側に向いており、ドライバーを優先したデザインだ。明日香は前方を見たまま、エアコンの温度調節のダイヤルを少し回した。冷風が車内に流れ始めた。
 海沿いの県道をしばらく走る。明日香の運転操作のひとつひとつに余裕が感じられた。変速操作も、初心者の運転に見られるような不快な揺れや挙動はほとんどない。
 そして、程良いスピードで走らせている明日香の表情は、生き生きとしており、気持ちよさそうだった。言葉には出さずとも、ドライブを心から楽しんでいる様子が、助手席の井村にも伝わってくる。
「どうか、しましたか?」
 ずっと明日香の方を見ている井村をちらと見て、明日香が訊ねた。井村は我に返り、「いや、なんでも」と答えた。
 セリカは海沿いの無料駐車場に入った。海水浴シーズンは連日満車になるが、今日はほとんどクルマが停まっておらず、殺風景だった。
 明日香は駐車場の空いているエリアに白線を無視してセリカを停めた。
「じゃあ、ここでちょっとだけ、運転、替わりましょ」
 そう言うと、明日香はクルマから降りた。
「いやあ、どうかな……。上手くできるかな」
 頭をかきながら苦笑しつつクルマを降り、井村は明日香に言った。
「ちょっとだけ。ここなら広いから大丈夫ですよ」
 明日香は笑いながら答えると、さっさと助手席に乗ってしまった。
「まいったね……」
 井村はそう呟きながら、アイドリング音のするセリカの前方を回って、運転席へ乗り込んだ。ペダルの位置を確認すると、改めて床面が低く、足を前に投げ出すような着座位置であることを実感した。そして、広すぎず狭すぎず、スイッチやレバーは届きやすい位置にレイアウトされており、助手席よりも包まれ感があるが、それが何故か心地良かった。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「どうぞ」
 明日香に促され、井村はシートとミラーの位置を調整し、クラッチペダルを踏み、ギアを1速に入れた。
「こうだったかな……」
 遠い昔の教習所での記憶を呼び起こしながら、サイドブレーキレバーを下ろし、恐る恐るアクセルペダルを踏み込む。エンジンが予想以上に大きな唸り声を上げたため、井村は驚いた。少し踏み過ぎたか。
 左足の踏力を緩めて半クラッチにすると、セリカは大きく車体を揺らしながら前進した。
「2速に入れましょう」
 明日香に言われて、井村は慌ててクラッチを切り、シフトレバーをせわしなく動かした。車体がまたガクガクと揺れる。
「大丈夫、落ち着いて」
 明日香の言葉に応じる余裕もなく、井村はステアリングを強く握りしめながら、セリカをゆっくりと走らせた。
「じゃあ、この辺でUターンしましょう」
 井村はスピードを落とし、ステアリングを大きく回した。2速のままスピードを落としたため、九十度ほど車体の向きが変わったところでセリカはノッキングを起こし、エンストしてしまった。
「おっとっと……」
 井村はギアをニュートラルに戻してキーを回したが、エンジンがかからない。若干パニックになった井村に明日香が「クラッチ」と声をかけた。
 井村ははっとして、急いでクラッチを踏み、キーをもう一度回した。エンジンがかかり、再び唸り声を轟かせながら、セリカは発進した。
 ようやくさっきクルマを降りた場所まで戻ってくると、井村はクルマを停め、サイドブレーキを引き、大きく息を吐いた。
 隣でその様子を見ていた明日香が笑いながら言った。
「どうでしたか?」
「いやあ、オートマがいかに楽だったかを改めて実感したよ。面倒臭いね」
 井村は苦笑いした。そして続けて言った。
「面倒臭いけど、でも、何だか楽しいよね、マニュアルって」
「もうちょっと、運転します? せっかくですから」
「そうだね、じゃあ、もう少しだけ」
 井村は再び、セリカを発進させた。さっきよりも車体は揺れずに済んだ。ゆっくりとしたスピードでシフトチェンジを繰り返しながら、駐車場内を何周も回った。そのうちに運転にも慣れてきて、海辺の景色を楽しむ余裕も出てきた。
「井村さん、そろそろ……」
「いや、あともう一周だけ」
 明日香の交替の申し出も聞かず、井村はセリカを運転し続けた。時計の針は正午近くに差し掛かっていた。
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