第5話

文字数 10,477文字

「何考えてんの?」
 直美が呆れた表情で言った。
 井村は直美の実家へ行き、クルマを買い替えることを報告した。それを聞いた途端、直美の顔が険しくなった。
 道子は脳梗塞の手術を無事終えて、病院で療養したのち、リハビリのために専門の病院へ転院したばかりだった。そこでリハビリ治療を行い順調に回復すれば、退院して自宅に戻って来られるが、直美は、道子の治療が長引いて入院費用が嵩むのを心配していた。
「何でこのタイミングで、クルマなんか購入するのよ。別に今のクルマには不具合は出ていないんだし、まだ先でも良かったんじゃないの?」
「いや、あのクルマはもう長いし、維持費も結構かかってるんだよ。歳も取ってきたし、今のうちに、安全装備の充実したクルマに乗り換えておいた方がいいと思ってさ」
「だったら、せめてお母さんが退院してからにしてほしかったな」
「納車は退院後になると思うよ。今、半導体不足や世界情勢の悪化で、納期が長くかかってるんだ」
「私、お金は出さないからね。あなたのお金で払ってよ」
「君だって運転するだろう? 少しは負担してくれよ。今のクルマよりは安いんだから」
「嫌よ。私は今のクルマでも問題なかったんだから」
「運転もしやすいし、いいじゃないか」
「ハイブリッドなの?」
「いや、ハイブリッドではない。ターボエンジンだ。そして、マニュアルなんだ」
「マニュアル」という言葉を聞いた途端、直美は目を丸くした。
「は? マニュアル? オートマじゃないの?」
「免許、オートマ限定じゃないから、いいだろう?」
「そういう問題じゃないわよ。私、教習所でしかマニュアル、乗ったことないのよ」
「俺だってそうだよ」
「じゃあ何で、マニュアルにしたのよ」
「オートマじゃ、つまらないだろう?」
「全然つまらなくなんかないわよ。オートマで十分よ」
「いいじゃないか。自分でギアを替えてクルマを操るのも、悪くはないぞ」
「運転したことないあなたにそう言われても、ちっとも説得力がないわよ」
 井村は気まずさを隠すため、咳払いをひとつした。「とにかく、納車されたら、俺と一緒に練習しよう。慣れてしまえば、なんてことないよ」
「嫌よ、そんな面倒なこと」
「生活に刺激が入っていいじゃないか」
「これ以上、刺激なんか求めてないわよ。親の入院と介護でもう十分です」
 直美はすっと立ち上がり、台所へ行ってしまった。
 井村は介護用のベッドで昼寝している真一に声をかけた。
「お義父さん、いいじゃないですかねえ。クルマを買い替えるくらい」
 真一はすうすうと寝息を立てて、気持ちよさそうに眠っていた。
 カローラスポーツが納車されたのは、契約からおよそ四ヶ月後のことだった。当初は三ヶ月程度と森から言われていたが、夏場の天候不良で輸送体制に影響が出て、工場の稼働がしばしば停止したために、スケジュールに遅れが生じたそうだ。
 それだったらそうと、電話で一報を入れてくれれば良いものを、森は納車予定日が近づいても何も連絡を寄越してくれなかったので、井村は少し残念に思った。その直後、マークXの六ヶ月点検――手放すまで残りわずかだが、職場や直美の実家に通う最中に不具合があると嫌だし、今回の点検分までメンテナンスパックで既に支払いを済ませてしまっていた――に行った時に、そのことを原島に話したところ、原島から森に、納車に関わらず、お客様の予定変更にかかる連絡はきちんと行うよう、井村の名前は出さずに指導したと、原島から報告の連絡が入った。井村は「手間をかけて済まなかったね」と、原島に詫びた。
 納車日当日、井村はマークXにしまってあった荷物を自宅に一旦保管し、簡単に掃除機で車内を清掃した後、ディーラーに向かった。長年乗ってきた愛車を手放すのは寂しいものの、新しいクルマに出会う高揚感の方が、それに勝っていた。
 ディーラーに着くと、森の案内で納車の手続が行われた。現物確認、操作方法の説明、書類への記名捺印に加え、専用のアプリケーションソフトのダウンロードの手続があったのが、井村にとっては衝撃だった。これをスマホに入れておけば、施錠や消灯の忘れを知らせてくれたり、燃料残量などクルマの状態を教えてくれたり、カーナビとの連携ができるそうだ。リモートでエンジンをかけることもできるそうだが、有料のサービスのため、とりあえず今回は申込みを見送った。駐車場が自宅から離れている場合は重宝するかもしれない。
 登録も、車検証をスマホのカメラで撮影すれば、いちいちナンバーや車台番号などを入力しなくても、自動で認識してくれるため、短時間で済んだ。今のクルマはここまで便利になっているのかと、井村は驚いた。
「井村さん、この度はご納車、おめでとうございます」
 森が事務手続きをしている間に、原島が受付の女性とともに、納車祝いを持って現れた。花束、コーヒー豆の詰め合わせ、オリジナルタオル、エコバッグ、ティッシュペーパー、車内用消臭剤……あっという間に商談用のテーブルが埋まってしまった。
「何だか凄いな」井村は苦笑いした。「いつもこうなの?」
「ええ、まあ。日頃の感謝の気持ちも込めて、ご用意させていただいております」
「景気がいいね。儲かってるんだね」
「いやいや、そんなことは……。ほんの気持ちですので」
 原島が照れ臭そうに、右手を左右に振った。
 納車の手続が済み、あとは新車に乗るばかりとなった。光沢で眩いカローラスポーツがエントランスに横付けされると、森ら若手スタッフが手分けして、納車祝いの品をラゲッジルームに積み込んでいく。
「何かございましたら、お気軽に森にご連絡ください」
 店を出るときに、原島が井村に言った。
「ああ。機能がたくさんあって覚えられないよ。説明書も辞書みたいだし、わからないことがあったら、電話するよ」
 井村は、車検証と一緒に助手席に置かれている分厚い取扱説明書を指差しながら、応じた。
 カローラスポーツの前で待っていた森が、運転席のドアを開けた。井村は森たちを待たせないようにと、急いで運転席に乗り込んだ。
 ドアを閉めると、新車特有の匂いを感じた。かつての新車は香りが強めだったが、最近は控えめになっているようだ。オートエアコンが作動しているため、クーラーの送風音がエンジン音をかき消している。
 慣れない手つきでシートベルトを締め、シートを調整する。これまでの電動ではなくレバー式で、少し懐かしい。ミラーもそそくさと調整し、運転の準備は整った。
 シフトレバーを1速に入れて、電子パーキングブレーキのボタンを押して解除し、いよいよ出発だ。井村は左足の踏力を緩めて、歩道までクルマを進めた。
 店の前の県道は交通量が多く、なかなか車列が途切れない。森が右手で井村を制止しつつ、クルマの流れを見計らっている。
 一分ほど経ち、最寄りの信号機が赤になったため、クルマがいなくなった。森が大きな声で「どうぞ」と井村に呼びかけた。
 井村はペダルを戻して半クラッチにしたが、踏力を緩めすぎてしまい、エンストしてしまった。エンジンスイッチが見つからず、一瞬焦る。マークXはステアリングの右側にあったのだが、カローラは左側だった。そのことにようやく気付いてスイッチを押すが、何も反応しない。異常かと思い、メーターを見ると、「クラッチペダルを踏んでください」と表示されていたため、踏み直して再度ボタンを押すと、エンジンがかかった。昔の教習車とは勝手が違う。
 もたもたしている間に県道の信号は青に替わり、再びクルマが流れてきた。またこれをやり過ごさなければならない。次はしくじらないようにと、井村はクラッチペダルを踏んでいる左足に力を入れた。ディーラーのスタッフがずっと井村に注目しているため、恥ずかしくて顔が熱くなった。
 ようやくクルマがいなくなり、井村は車道にクルマを出した。クラッチミートの場所の感覚が掴めず、車体が大きく前後に揺れつつも、どうにかクルマの流れに乗ることはできた。しかしその後、何度か信号に捕まり、発進でエンストしてしまい、後続車からクラクションを鳴らされつつ、井村は自宅に辿り着いた。
 四苦八苦しながら駐車場にカローラスポーツを停めると、井村は大きく息を吐いた。
 俺は、このクルマを乗りこなすことができるようになるのだろうか。

「大丈夫ですよ。慣れれば、楽しいですから」
 翌週末、いつもの公園の駐車場で井村がその懸念を話すと、明日香が笑いながら答えた。
「そんなもんかねえ。この一週間、通勤で乗ったけど、全然慣れなかったよ」
「一週間ならまだしょうがないですよ。練習あるのみです」
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 今日はこれから、明日香に助手席で運転を教わりながら、ドライブすることになっていた。井村がカローラスポーツの契約をしたことを明日香に伝えた時、納車されたら運転を教えると申し出てくれたからだ。井村は、こんなオッサンのためにそんなことをしてもらうのは悪いからと断ったが、明日香は半ば強引に日時を決めてしまったため、やむなく申し出を受け入れることになってしまった。
 行先は、明日香の提案でこの公園から五十キロほど離れている湖に決めた。その湖は以前、井村も行ったことがあり、道中、高速道路、市街地、峠道などバラエティに富んでいて、運転の練習にはもってこいだからだ。それにこの時期は、景色が紅葉でひときわ美しい。
「うわあ、綺麗ですねえ」
 明日香が井村のカローラスポーツの助手席に乗り、開口一番、感嘆の声を上げた。
「買ってしまいましたよ」
 井村は苦笑いしながら運転席に座った。
 慣れない手つきでカーナビに湖の名前を入力し、ルートを確定すると、井村はシートベルトを締め、クルマを発進させた。
「井村さん、最初、アクセル吹かしすぎじゃないですか?」
 明日香が井村の足元を見つつ言った。
「こんなもんじゃないのかな。何だか、エンストするのが怖くて」
「そんなに吹かさなくても大丈夫ですよ。というか、アクセル踏まなくてもいいんですよ」
「そうなの?」
「クラッチミートすれば、ゆっくりと前に進むように、クルマの方で制御してくれるんです。バックの時、アクセル踏まないですよね」
「ああ。あの要領でいいのか」
「クルマが動き出したら、アクセルを踏めばいいんです」
 信号で停められたため、再発進の時に井村は、明日香に言われたとおりにペダルを操作した。すると、オートマ車と同じような挙動でスムーズにクルマが動き出した。
「なるほど、こういうことか」
「そういうことです」
 高速道路のインターチェンジに向かって、しばらくの間、幹線道路を走らせた。
「急いでなければ、早め早めに高めのギアに入れた方がいいですよ。エンジンの回転を抑えられるので燃費が良くなります。あと、6速もあると操作もまどろっこしくなるから、2速から4速へといったように一段飛ばしちゃってもいいと思います」
「こう?」
 井村は加速時にシフトレバーを3速から5速に入れた。すると、車体がガクンと揺れた。
「クラッチ操作が速すぎるからですね。慌てなくても大丈夫です」
「そうか。いやあ、難しいなあ」
 井村は首を傾げながら呟いた。
 高速道路のインター入口までやって来た。
「私は高速道路、初めてなんですよ。マニュアルで」
「えっ、教習所ではやらなかったんですか?」
 助手席の明日香が驚いて振り向いた。
「うん。高速教習の時は、オートマの教習車だったんだ」
「えー? 私、高速教習もマニュアル車でした」
「そうだったんだ」
「どうしてなんでしょうね」
「東京の自動車学校だったから、首都高をマニュアルで運転するのは難しいんじゃないかな」
「ああ、首都高」明日香が大きく頷いて納得した。「確かに生徒があそこをマニュアルで走るのは怖いですよね。オートマだって怖いかも」
「実際、怖かったよ。車線変更とか合流とか」
 井村が当時を思い出しながら、しみじみと言った。
「このクルマなら力も十分にあるから、落ち着いて加速して流れに乗れば、いけますよ」
「うわあ、緊張してきた」
 井村は恐る恐る料金所のETCゲートをくぐった。手元がお留守のまま減速したため、ノッキングが発生して車体がぶるぶると震えた。慌てて、低いギアに入れ直す。
「さっきの幹線道路と同じように加速してください」
 合流車線が見えてくると、明日香が声をかけた。井村はギアを飛ばすことなく、一段ずつ変速していく。幸い、休日で大型車が少ないため、すんなりと本線に入ることができた。
「本線に入ってしまえば、オートマ車とそんなに変わらないと思います」
 明日香の言うとおり、高速道路では6速に入れたままでシフト操作をせずに済むので、マークXの時と大差なく運転できた。登り坂も、シフトダウンさせなくても、ぐいぐいと駆け登ってくれる。
 高速を降りると、再び市街地を走る。沿道のドラッグストアやスーパーに出入りするクルマをやり過ごしつつ走らせていると、やがて、建物がまばらになり、峠道に入っていった。カーブとアップダウンが続き、2速と3速を頻繁にシフトチェンジしながら進んでいく。
「このコースは確かに、いい練習になるね」
「ですよね」
「この道はよく通るの?」
「たまにドライブで来たりしてます。景色もいいし」
「そうだよね。今なんか最高にいい時期じゃない」
 井村は前方を指差した。周りの山々が赤や黄で染まっており、鮮やかで美しい。
「運転に集中してくださいね」
 明日香が釘を刺したので、井村は慌てて前方に意識を戻した。
 しばらくすると、目の前の景色が開けて、湖面が姿を現した。井村は湖のほとりにある公共駐車場にクルマを入れた。昼前にもかかわらず、紅葉狩りの客で混雑していて、なかなか空いている車室が見つからない。
 停めにくいところしかなかったらどうしようかと、井村が不安に思いつつ車室を探していると、一緒に探していた明日香が「あそこにしましょう」と早口で声をかけた。その瞬間、カローラはエンストしてしまった。井村はクラッチを踏み直して再始動させ、空いている車室に向かって方向転換した。
 ゆっくりと車室の前まで寄せ、ハザードを点けながらバックでカローラを車室に入れていく。車路も車室もスペースが広く取られているため、思ったほど駐車に難儀しなかった。
 クルマから降り、湖のそばの広場まで来ると、井村は大きく伸びをした。
「いやあ、運転疲れたよ」
 その様子を見ていた明日香が笑いながら言った。
「お疲れさまでした。結構、肩、ガッチガチでしたもんね」
「そうだよ。未だに緊張するよ」
「でも、少しずつ上達していると思います」
「本当に?」
「ええ。これで井村さんも、マニュアル人間の仲間入りですよ」
「マニュアル人間か」井村は声を上げて笑った。「そりゃあいい。これからそのフレーズ、使わせてもらうよ」
 明日香は照れ臭そうに笑った。
「少し早いけど、どう? お昼にしようか」
「そうしましょう。今日は混みそうですし」
 二人は湖沿いの道路を歩きながら、昼食処を探し始めた。湖と反対側の道路沿いには、飲食店が軒を連ねており、大抵の店には入口にメニューの掲示板が設置されているため、どこに入ろうか迷ってしまう。
「何系がいいですか?」
「私は、何でもいいですよ。井村さんのお好きなところで」
 井村は一軒一軒、店の外観、混み具合、メニューを見ながら店を選ぼうとするものの、なかなか決められない。
「あ、私、ここがいいかも」
 明日香が白いコンクリートで外壁が覆われている建物を指差した。入口に掲げている国旗を見る限り、イタリアンレストランのようだ。テラス席で食べている客の料理をこっそり覗くと、空腹のせいかもしれないが、どれも美味しそうに見えた。
「でも、結構混んでるみたいだけど?」
 入口付近に群がっている席待ち客を見て、井村が表情を曇らせた。
「人気の店ってことじゃないですか? 井村さん、待つのは苦手ですか?」
「いや、そんなことはないよ。急いでいるわけでもないし、野瀬さんさえよければ」
「じゃあ、ここにしましょう」
 井村は、入口を入ったところにあるタッチパネル式の機械で人数を入力し、呼出番号が記された紙を手に取った。パネルの表示を見ると、井村たちの前には十二組の客が待っていることがわかった。
 待機用の椅子は全て埋まっていたため、井村たちは店の前の歩道脇で待つことにした。メニューが何冊か置かれていたため、井村は一冊手に取り、明日香と何を食べるか相談した。ピザ、パスタ、リゾット……どの料理も魅力的で、これだけ大勢の客が来るのもわかる気がした。ただ、メニューの名称がかなり独特だ。
「これ、食べてみたいですね」
 明日香がメニューのひとつを指差した。
「一度は食べていただきたいソフトシェルクラブの唐揚げ……」
 メニューには写真が載っておらず、一行程度の説明書きと手書きのカニの絵しかなかった。殻が柔らかいカニで、丸ごと食べられるそうだ。メニューのかなり目立つ位置に書かれているということは、おそらく、店の自信作なのだろう。
「いいね。これ頼もう」
 井村は頷いた。
 小一時間待ったところで、店員が井村の名を呼んだ。テラス席ならすぐにご案内できると言われたため、承諾した。外は、耐えられない程の寒さでもないし、湖の全景が見渡せるので、むしろ、店内よりもこっちの方が良かった。
 食べたいものが決まり、井村は店員を呼んで料理を注文した。メニュー名が独特な上に長くて、読むのがまどろっこしい。前菜扱いにはしてほしくないシーフードサラダ、真っ赤に燃えた太陽のスープパスタ、シェフが気まぐれじゃなく真剣に作ったピザ、ミラノ「風」ではなく本当にミラノで食べられているカツレツ、できればガーリックトーストと一緒に頼んでほしい海老のアーリオオーリオ、そして、一度は食べていただきたいソフトシェルクラブの唐揚げ……。
 正式名称でメニューを読み上げて注文すると、ソフトドリンクを一人一杯サービスしてくれるため、井村は名前を端折らずにゆっくりと読み上げて注文した。応じた女性店員は笑顔で、ドリンクサービスさせていただきますと言ってくれた。
「ガーリックトーストはよろしかったですか?」
 去り際に店員が訊ねてきたので、井村は渋々「じゃあ、それも」と答えた。
「あってもいいんじゃないですか? 食べましょ」
 明日香が苦笑しながら言った。
「頼み過ぎじゃなかったかな?」
「お腹が空いちゃったから」
「まあ、何とかなるか」
 すぐに差し出された、サービスのブラッドオレンジジュースを飲みつつ、湖を眺めながら話していると、やがて、サラダを皮切りに次々と料理が運ばれてきた。どれも名前負けしておらず、美味しかった。海老のアーリオオーリオは、食べ終わった後、ガーリックトーストを残ったソースにつけて食べた。
 あっという間に、テーブルの上の皿はどれも空っぽになった。
「ソフトシェルクラブ、美味しかったですね」
「ああ。川海老の唐揚げみたいなのを想像してたけど、あれよりも大きくて殻も柔らかいしね。初めて食べたよ」
「こんなに人気の店があるなんて、知らなかったです。また来たいかも」
 糸日谷はこの店を知っているだろうか。今度会ったら訊いてみようと、井村は思った。
「野瀬さんは、ご出身はこっち?」
 食後のコーヒー――これは有料だった――を飲みつつ、井村は訊ねた。
「はい」
「もうずっと?」
「ええ」
「そうなんだ。今、どんなお仕事を?」
「仕事は特に……」
 それまで明るく応じていた明日香が、口を濁した。
「そうか……」
 訊いてはいけない部分に触れてしまったと思い、井村は話題を変えた。
「普段は休みの日は何をしているの?」
「そうですね……。セリカでドライブしたり、あの公園とかを散策したりしてますね」
「ひとりで過ごすのが好き?」
「はい。私、大して友達もいないし、グループで何かするのとか、苦手で……」
「いいんじゃないの?」井村は明るい声で言った。「今は昔と違って、一人で楽しめる娯楽も多いし、友達はいればいたでいいけど、いなくたって、なんてことないよ。こんなおじさんくらいになると、だんだんと人付き合いも煩わしくなってくるし、早々とあの世に行っちゃう奴もいるし、嫌でも友達は減ってくるよ」
「ですよね」
「何か、他に趣味とかないの? スポーツとか、文化系とか」
 明日香は少し考え込んで言った。
「特にないんです……。つまらない人間ですよね」
「そんなこと――」
「私、あまり引き出しがないから、今度は井村さんの話を聞きたいな」
「いや、私だって、そんなに引き出しはないよ……」
 井村は苦笑いした。
「最近、何か変わったこととか、ありましたか?」
「変わったことね……」井村は腕組みをして考え込んだ。「変わったと言えば、クルマが変わったし、仕事も変わったな」
「お仕事、転職されたんですか?」
「そうなんですよ。いろいろあってね……」
 井村は転職に至るまでの経緯をかいつまんで明日香に説明した。
「大変ですか?」
「まあね。仕事は大抵大変なものだから、仕方がないよ」
「そうですよね……」
 井村は明日香に話を聞いてもらうことにした。「実は……」
「実は?」
 明日香がやや不思議そうな表情を見せた。
「今は契約職員なんだけど、上の人から、固有社員採用試験に応募しないかと打診されててね」
「えっ、そうなんですか?」
「今の職場――U県庁の外郭団体なんだけど、契約職員で何年か勤務した人は、固有職員の採用に応募することができるんだ」
「固有職員……」
「まあ、いわゆる正社員だね」
「一般の方は応募できないんですか?」
「うん。契約職員しかできない。私はまだ一年目なんだけど、その前に社会人経験が長くあるからってことで、応募ができるそうなんだ」
「そうなんですね。ぜひ応募した方がいいんじゃないですか」
「どうなんだろうね……」井村は頭をかいた。「この仕事を長く続けていけるかどうか、少し不安でね」
「井村さんて」明日香がアイスカフェラテを一口飲んだ後に、笑顔を見せた。「結構、慎重派なんですね。さっきのクルマの運転ぶりからも伝わってきましたけど」
「そうなのかな? ううむ……そうなんだろうな」
 井村は天を仰いだ。自分が慎重な性格だとは思っていなかったので、明日香からそんな風に言われたのは意外だった。
「歳をとったからなのかな。ここまで歳を重ねると、思い切ったこともしづらいからね」
「そういうものなんですか?」
「そういうものだよ。だから、野瀬さんも若いうちに冒険をした方がいいよ」
「私はもう……」
 明日香は口を濁した。
「もう?」
「いえ、なんでもないです。冒険、した方がいいですよね」
「うん」
「でも、井村さんも冒険、しているじゃないですか」
「えっ?」井村はコーヒーカップを手にしたまま、顔を上げた。
「愛車をマニュアル車に変えたことですよ。十分、冒険だと思いますけど」
「そうか」
「よく、わからないですけど」明日香が言葉を選びながら言った。「固有職員になれるチャンスがあるんだったら、挑戦してみてもいいんじゃないですか?」
「そう思うか」
「はい。一度きりの人生ですから、後悔しない方がいいと思うんです」
「一度きりの人生か……」
 井村は思わず笑ってしまった。「若い君の口から、そんなフレーズを聞くとは思わなかったよ」
「ごめんなさい、生意気なことを言って」
「いや、謝ることはないよ。私の方こそつい笑ってしまって申し訳ない。こんなこと、相談できる人が近くにいなくてね。妻も実家に帰っちゃってるし」
 井村は直美の両親の事情を簡潔に話した。
「そうだったんですね。それで私に」
「ああ、君なら何て言うんだろうって思ってね」
「でも、繰り返しになっちゃいますけど、後に悔いを残さないように、やれることはやったほうがいいかなって思うんです。先のことは誰にもわからないですし、仕事を続けられないんだったら、その時はその時に考えればいいんじゃないですか」
「そうか。そうだよね」
「井村さんが羨ましいです。いろいろなことに挑戦できるチャンスが与えられて。私はもう、できないから」
「できない? どういうこと?」
「あっ、いえ」明日香は井村から視線を逸らし、湖の方を見つめた。「とにかく、一度きりの人生を無駄にしない方がいいと思うんです。チャンスすら与えられない人も、世の中にはたくさんいますから」
 明日香の表情が少し寂しそうに見えたので、井村はどう声をかければよいかわからず、黙ってしまった。
 そこへ、店員が食後のスイーツ――極上チーズをふんだんに使った大人のティラミス――を運んできた。明日香の表情がぱっと明るくなり、二人はティラミスにフォークを伸ばした。

 明日香とのドライブから数日後の夜、井村は自宅のリビングのテーブルで、協会の固有職員募集要項と申込用紙を広げた。
 募集要項には、応募締め切りが明日の日付で記載されていた。結局、応募すべきか否か決めきれずに、ずるずると来てしまった。
 自分はこの先、あの職場で正社員として上手くやっていけるのだろうか。上手くいかずに協会を去って、またあの時のように転職に苦心するのはもう嫌だった。
 しかし、契約職員から固有職員になれば、収入面でも待遇が良くなり、直美の両親を支えることも幾分楽になるはずだ。
「井村さんて結構、慎重派なんですね」
 明日香の言葉が脳裏に浮かんだ。
 そうだ。確かに自分はこれまで慎重すぎたのだろう。もしかしたらそれで、何度か訪れていたチャンスをふいにしてきたのかもしれない。
 井村は申込用紙を手元に寄せた。
 そもそも、この採用試験に受からなければ、固有職員にはなれないのだ。先のことは試験に合格してから、固有職員になってから考えればいい。ここでうじうじ悩んでいても仕方がない。
 よし、やってみよう。
 井村はボールペンをノックし、申込用紙に必要事項を書き始めた。
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