第2話

文字数 8,895文字

 着任初日は、理事長をはじめとする協会幹部の年度初めの挨拶や、職員の案内で事務局向かいの総合運動場の見学に行くなどして、一日があっという間に過ぎていった。
 帰り際に、事務局長の一柳和代が井村に声をかけてきた。採用試験で面接官をしていた女性で、U県庁のOGだ。どうやら、新規採用の職員一人ひとりに声をかけて回っているようだ。
「井村さん、よろしくお願いしますね」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
 井村は席を立ち、一柳に頭を下げた。
「経理の仕事は、前職ではなさってたの?」
「いえ、あんまり……」
「そう。じゃあ、最初のうちは慣れなくて大変かもしれないわね。でも、以前県庁にいらしてたから、その時の経験は活かせるかもね。うちは県の外郭団体だから、結構、決まり事やルールは県庁と同じだったりするのよ」
「そうですか」
「何かあったら、いつでも相談に来てくれて構わないから。頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
 その夜は、新規採用職員を含む事務局への転入者の歓迎会が、近くの居酒屋で執り行われ、井村も参加した。職場が職場だけに体育会系の人が多く、一升瓶やピッチャーが次々と空になっていった。会の途中で、新規採用職員の自己紹介の時間が設けられ、皆に続いて井村も挨拶をした。自らビールを注いで各席を回っていた理事長の話によると、今回採用された契約職員の中で井村が最年長であるとのことだった。確かに、自己紹介している他の職員は皆、二十代から三十代と見られる人ばかりで、井村は少し肩身の狭い思いをしていたが、職員たちから温かい声援を受け、少しばかり安心した。
 翌日は他の体育施設へ異動した前任者が、引継ぎでわざわざ事務局まで足を運びに来てくれ、井村は半日がかりで引継ぎを受けた。しかし、聞き慣れない言葉も多く出て、何が何だかわからないままに終わってしまった。後でもう一度、前任者が作ってくれた引継書に目を通さなければ。
 経理担当は課長の永池博昭を筆頭に、井村を含め五人が所属している。今回異動してきたのは井村と永池で、残りの三人が昨年度から引き続き業務を担っている。年度替わりのため、前年度決算処理の真っ最中で、事務机の上には大量の書類が積み重なっており、皆、脇目も振らずに黙々と電卓とパソコンを叩いていた。
 就任三日目から、井村も本格的に担当業務に取り掛かり始めた。
 井村自身は旅行会社時代、経理の部署に配属されたことがなかった。担当業務で経理関係の事務処理があっても、すべて部下や他部署に任せており、ほぼ未経験といってよかった。
 書庫へ行って過去の資料を探したり、サーバーの共有フォルダ内を調べたりするものの、勝手がわからず、時間ばかりが過ぎていく。
 これでは仕事が終わらない。
「すみません、大沼さん」
 井村は隣の席に座っている、プロパーの大沼俊平に声をかけた。大沼は、採用面接の日に、総合運動場で女性職員に不愛想な態度で話していた男性職員だ。執務室でも態度はそれほど変わらず、ほとんど誰とも仕事以外の会話を交わすことなく、黙って仕事をしていた。
 大沼は不機嫌そうな顔でパソコンの手を止め、井村の方を向いた。
「これって、どう処理すればいいんですか? 過去の書類を見てもよくわからなくて」
 井村は作業中の書類を見せながら訊ねた。大沼は書類を一瞥すると、再びパソコンの方を向いて作業を再開しつつ、答えた。
「マニュアルに載ってませんかね。確か書いてあったと思いますよ」
「あっ、マニュアル。そう、マニュアルね」井村は照れ笑いしつつ、業務マニュアルを探したが、なかなか見つからない。
「大沼さん、さっきおっしゃったマニュアルって、どこにあるんですか?」
 井村が再び訊ねると、大沼はさっきよりも苛立った表情を露骨に見せた。
「サーバーに入ってませんか? 検索すれば出てくるはずですよ」
 これ以上話しかけてくれるなと言わんばかりの態度で、大沼は作業を再開した。井村は仕方なく、サーバーの中を探し始めた。
 ようやくそれらしいものが見つかり、井村はマウスをクリックして、ファイルを開いた。だが、ビジュアルの類は一切載っておらず、文字だけの説明のため、なかなか理解しにくい。図を描いたりして頭の中を整理し、ようやく作業が完了したときには、時計の針は夜十一時を回っていた。
 それからというもの、連日四苦八苦しながら、井村は経理業務に取り組んだ。慣れない作業に加えて、職場特有のルールや作法も把握していないため、事務の手戻りも生じて、仕事が遅々として進まなかった。
「井村さん、お電話です」
 ある日、同じ経理担当の職員から電話を取り次いだ。相手は人事担当が実施している研修の講師派遣を請け負っている会社の担当者からだった。
「すみません。先日お振込みいただいた委託料ですが、どうも、請求書の金額と違うようなんですが……」
「えっ、本当ですか? すぐに確認します。申し訳ございません」
 井村は電話を切り、支払の決裁書類を調べた。決裁書類には不備がなかったものの、会計システムに入力した際に謝った金額を入力してしまい、請求よりも少ない額を振り込んだことが判明した。
 井村は、ひとり暇そうにしている永池にそのことを報告すると、「まあ、次から気を付けてよ」と素っ気ない返事をされた。井村は戸惑いつつも、永池に謝罪し席に戻った。
 漏れ伝わってきた話によれば、永池は今年が定年ということもあり、仕事に対するモチベーションも下がっているとのことだ。余計なことはせずに、このまま平穏無事に年度末の退職を迎えたいのだろう。実際、面倒ごとにはなるべく関わらず、他の職員に丸投げしている様子がしばしば見受けられた。
 井村は先方に電話して謝罪し、修正の手続を行った。
 金曜日。この日も井村は日付が替わる直前まで仕事し、帰宅した。いつもなら妻の直美はこの時間だと既に就寝しているはずだが、まだリビングで起きていた。
「どうしたんだ?」
「ちょっと、話があって」
 直美が申し訳なさそうに井村の方を向いて言った。
 どうやら、いい話ではなさそうだ。井村はスーツ姿のまま、直美の向かいのソファに座った。
「お母さんが、入院することになって」
「えっ」
 直美はU県出身で、地元の大学を卒業後、県内の会計事務所で事務員として勤めていた。井村とは結婚相談所の仲介で知り合った。結婚してからは、スーパーやファミレスなど客商売を中心にアルバイトをしていて、現在も近所の大手ファストフード店で働いている。
 実家の田中家は、クルマで井村の自宅から一時間ほどの街にある。直美には姉がいるが、現在は北海道で暮らしているため、父の真一と母の道子の二人暮らしだ。十年ほど前から真一が認知症になり、道子が介護をしている。
「入院って、どこか悪くなったのか?」
「脳梗塞だって」
 いつも社交的で朗らかな直美が、沈んだ面持ちで答えた。
 井村は思わず背筋を伸ばした。
「ええっ、それじゃあ、お父さんは――」
「そう。だから、私が代わりに面倒を見なければならなくなったから、しばらく実家に帰らないといけなくて。身寄りで一番近くにいるのは私だから」
「そうか……。でも、そうだよな。直美しかいないもんな」
 道子の看病、真一の世話の手伝い、実家での諸々の作業……。井村も夫として直美のサポートをしなければならないだろう。そして……。
「じゃあ、俺はしばらくここで一人暮らしということか……」
「うん。ごめんね」
「いや、俺のことは気にしないで。お父さんとお母さんのそばにいてあげるといい」
 翌朝、井村は直美をクルマに乗せて、直美の実家に向かった。道子の入院の手続など一日中、直美に付き添い、その夜、一人で自宅に帰ってきた。
 ベランダに出しっぱなしだった洗濯物を取り込み、そのまま洗濯乾燥機に突っ込み、スイッチを入れた。ブオーンと音を上げて、乾燥が始まった。この季節だと洗濯物はほぼ乾いているが、花粉を落とすために十五分ほどこうして乾燥機に入れるようにしている。
 井村は息をひとつ吐くと、ソファにどしりと腰を下ろした。
 久々に真一に会ったが、以前よりも認知症が進行しているような印象だった。この分だと、どこか施設に預けることも考えなければならないだろう。若しくは、自分たちがこのマンションを引き払って、直美の実家に入るか……。
 だが、井村は思い直した。それは道子が退院してから決める話だ。今は道子が無事に手術を終え、元気になってもらうことが何よりだ。
 しかし、脳梗塞ともなると、後遺症が残る可能性がある。場合によっては再度入院もあり得ると医者も言っていた。重症化したら生死にも関わる。そうなったら……。
 頭の中でぐるぐるとそんなことを考えていると、突然、洗面所からピーピーピーと、けたたましく電子音が鳴った。井村が驚いて洗面所に向かうと、乾燥作動中のはずの洗濯乾燥機が止まっていて、何やら見たことのないアルファベットと数字を組み合わせた表示が点滅していた。
「何だ、これは?」
 どうやら、何らかのエラーが発生して乾燥機が停止してしまったようだ。井村は一旦ドアを開け閉めするとエラー表示は消えたので、スタートボタンを押した。乾燥機は再び回り始めた。
 しかし、一分と経たないうちにまた電子音が鳴り、乾燥機が止まった。購入してから今までこんなことは一度もなかった。井村は取扱説明書を見てみようと思い、部屋中を探したものの、なかなか見つからない。家のことは直美に任せっきりだったので、どこに何があるかを把握しきれていない。
 クソッ、職場だけでなく、家でもこんな目に遭うとは。それもよりによって直美がいない時に……。井村は頭をかいた。直美に訊こうかと思ったが、今頃は真一の寝る準備をしているだろう。その光景が頭に浮かび、こんな些末なことで邪魔するわけにもいくまいと思い直した。
 洗濯乾燥機本体に記載されている型番を確認し、インターネットの検索サイトで型番を入力すると、メーカーのサイトに取扱説明書のPDFファイルが見つかった。井村はそれをダウンロードし、エラー表示の内容を調べると、給排水に何らかのトラブルが発生しているためであることがわかった。
 試しに、排水口に取り付けられているホースを外してみた。排水口は特に何も異常がなかった。ホースの中を覗くと、L字カーブの先に何かが詰まっているのが見えた。キッチンから菜箸を取り出し、その異物をつまんで引っ張り出した。井村の靴下だった。片方だけ見当たらないと気にしていた通勤用の紺色の靴下。
 こんなのが詰まっていたら、エラーが起こって当然だ。井村はため息をひとつつき、ホースを元に戻し、スタートボタンを押した。すると、洗濯乾燥機は何事もなかったかのように作動し、乾燥は無事に終わった。
 それからというもの、井村の一人暮らしが始まった。これまで自分は家のことについてどれだけ無頓着だったかを思い知らされた。食事ひとつ作るにしても、器具や調味料の在処を探すのに一苦労だった。そしてその苦労の割に、食べても大して美味しくない。昔ヒットした失恋ソングにそんな歌詞があったことを井村は思い出した。
 だが俺は、コーヒーの場所くらいはわかっている。というか、そもそも失恋したわけではないし、ましてや新たな恋をする気なぞ、とっくになくしている。直美が戻ってくるまでの辛抱だ。歌の失恋野郎と一緒にされてたまるか。井村は缶ビールをあおった。
 そうこうしているうちに、ゴールデンウィークが近づいてきた。この日も井村は深夜まで業務に追われていた。県立東部体育館から送られてきた契約の稟議書に不備が幾つもあり、何度も何度も体育館の担当者と連絡を取り合っていたため、疲れ切ってしまった。
 明日から連休で、協会の事務局は休みだが、所管の体育施設は、連休は大会などの予定が入っており開館しているため、体育施設に勤務している職員はシフトを組んで出勤している。体育施設の職員との連絡や溜まった仕事を片付けるために、連休中も少し出勤しなければいけないだろう。加えて、直美の実家にも手伝いに行かなければならない。
 そんなことを思いつつ、井村は仕事を終えて協会事務局を後にし、向かいの総合運動場の駐車場に停めてあるマークXに乗り込んだ。スーツのポケットにしまっていたスマートフォンをふと見ると、着信が残っていた。画面に表示されていた名前は、糸日谷宗祐。今でもたまに会って飲んでいる旅行会社時代の同期だ。深夜だが、着信記録の時刻はついさっきだったため、まだ起きているだろうと思い、井村は電話をかけてみた。
「寝てたか?」
 ワンコールで、糸日谷の声が聞こえた。
「仕事だ」
「えっ、仕事って、お前、就職先決まったのか?」
「ああ。今月から」
「そうだったのか。じゃあ、邪魔しちゃったか」
「いや。もう終わって、これから帰るところだ。久しぶりだな」
「おう」
「何か用か?」
「いや、実は俺、四月の異動でU県に越してきたんだ」
「本当に?」
 井村は思わず声が大きくなった。糸日谷は入社してからずっと、東京近郊の職場を転々としていたからだ。
「なんだってまたU県なんだよ。東京に家買ったんだろう?」
「単身赴任で来たんだよ。俺も、会社のリストラの煽りを受けちゃって」
 糸日谷の話では、希望退職制度などで人員が削減された結果、特に地方の営業所が回らなくなっているらしく、今回の人事異動で首都圏から大勢、地方に転勤したとのことだった。
「もう、滅茶苦茶だな」井村は呆れて言った。
「社内はだいぶ混乱してるよ。お前、辞めて正解だったよ」
「正解だったのかどうか、俺にはわからん」
 糸日谷は井村の返答には構わず、話を続けた。「というわけでさ、せっかくだからU県民同士、久々に飲みに行かないかと思ってさ」
「ああ、いいよ。知り合いがいないから、寂しいんだろう?」
「そうなんだよ」糸日谷はやや大げさな口調で答えた。
「いつがいいんだ?」
「明日とかどうだ? 連休だろう?」
「おい、急だなあ」井村は思わずシートの背もたれに仰け反った。「まあ、明日の夜だったらあいてるから、構わないけど」
「さすが。ありがたいねえ。持つべきものは同期だよな」
「場所はどうする?」
「俺がそっちに行くよ。うちの近所には大した店もないし。それに、個人的にちょっと行ってみたい店があってな」
 
 糸日谷の電話から二十四時間も経っていない連休初日の夕方、井村と糸日谷はU駅前で落ち合った後、駅前のアーケードをくぐった。糸日谷は歩きながらスマートフォンを取り出し、井村に見せた。
「この店、知ってるか?」
「なんだ、『かどや』か。ここなら知ってるぜ」
「そっか。やっぱし、地元じゃ有名なんだな」
「まあ、結構テレビとかでも紹介されているからね。何回か行ったことがあるけど、あそこなら、舌の肥えているお前にもお勧めできるよ」
「他の店が良かったか?」
「いや、俺も久々に行きたいと思ってたから、行こう」
 糸日谷は昔からグルメ通で、独身時代は日々、テレビや雑誌で取り上げられた飲食店をあちこち巡っていた。彼が宴会の幹事の時は、ハズレの会場はほとんどなかったと井村は記憶している。結婚してからは店巡りもできなくなっていたが、今回の単身赴任を機に、U県内の店をあちこち探索するようになったと、糸日谷は話した。
「そう言えば、前より少し太ったんじゃないか?」
 井村は糸日谷の身体全体を眺めつつ、言った。
「それはお互い様だろう。この歳になれば、舌以外も自然と肥えてくるさ」
「まあな。食事を制限したところで知れてるし、やっぱり運動しなきゃ痩せないなとは思っていても、なかなか実行できないよ」
「同じく、だ」
 二人は苦笑いした。
 そんな話をしているうちに、二人はアーケードから外れ、脇の路地を入った少し先にある、昭和時代のレトロな日本家屋の建物に辿り着いた。ここがおでんで有名な居酒屋「かどや」である。
「おでん」と書かれた赤提灯の脇にある入口をくぐると、広い店内は大勢の客で賑わっていた。中央にはカウンター席が設けられていて、カウンターに沿って、四角い業務用のおでん鍋が端から端までびっちりと並んでおり、様々なおでん種からもくもくと湯気が立っていた。
「うわあ、これは壮観だなあ」
 糸日谷が目を丸くした。
「だろ? これほどのおでん屋なんて、そうそうないぜ」
 二人は店員の案内で、カウンター席に並んで座り、生ビールとおでん以外のおつまみを注文した。すぐに生ビールが運ばれてきて、二人は乾杯した。
 おでんの注文に限っては、テーブルに置かれた専用の注文用紙に記入するシステムとなっていた。かどやのおでんは、関西風の出汁を使った「白」と、醬油や牛すじを煮込んで黒くなった出汁を使った「黒」の二種類があり、注文用紙も分かれていた。二人は白と黒それぞれの注文用紙に、食べたいおでん種の数量を思うがままに記入すると、通りがかった店員に手渡した。
 カウンターにいる若い男性店員が、慣れた手つきで大きめの深皿に次々とおでん種を盛り付けていき、最後に出汁をかけ、カウンター越しに二人の目の前に置いた。
「頼みすぎたか?」
「腹減ってるし、これくらいいけるだろ」
「連休明け、ますます太りそうだな」
「おでんは出汁でカロリーが溶けるから、太らないんだよ」
「馬鹿じゃねえの?」
 井村は苦笑しつつ、糸日谷に続いておでんをつついた。さっぱりとした白の出汁もほっとする美味さだが、濃厚な味わいの黒もビールのお供には合っている。昔、静岡へ行った時に食べたおでんが、こんな味だったと記憶している。
「見ろよ、こんなもんまで入ってるぜ」
 糸日谷が目の前のおでん鍋を指差して言った。白の鍋にはロールキャベツやハンバーグ、たこ焼きまでもが串に刺さっていた。一方、黒の鍋は静岡地方では定番の黒はんぺんや牛すじ、じゃがいもなども真っ黒になっていて、一見、何の具なのかわからないくらいだ。
 おでん以外のつまみも続々と運ばれてきた。枝豆、刺身、唐揚げ、だし巻き玉子……。ひとつひとつの量は少なく安価なため、ついついいろいろ頼んでしまう。
 二人はしばらく、お互いの近況を報告しあった。何年も会っていないと、話題が尽きることはない。あっという間に時間が過ぎていった。
「そうか、県の外郭団体か……」
 糸日谷がビールを片手に、しみじみと呟いたので、井村は思わず吹き出してしまった。
「どうしたんだよ、外郭団体が何か悪いってか?」
「いや、俺らの歳で新しい道を選ぶって、凄いなって思ってさ」
「凄くなんかないよ」井村は右手を左右に振って答えた。「今時、中年の転職なんて珍しくも何ともないだろ。中高年専用の転職サイトだってあるくらいなんだから。それに俺の場合は、自分から進んでというよりは、成り行きでそうせざるを得なかったんだから」
「そういうもんかね。俺には無理だな。子供もまだまだカネがかかるし」
「子供がいると、そう簡単にも辞められないよな。でも、お前だって、勤務地ががらっと変わった点では、新しい道を進んでるんじゃないのか?」
「変わったのは勤務地だけさ。やることはこれまでと何ら変わらないし」
「じゃあ、職場は慣れたのか? どうだ、雰囲気は」
「まあ、悪くはないよ」
 糸日谷はまんざらでもない顔で答えた。
「それなら、いいよな」
 井村はため息をひとつついて、ビールを飲み干すと、店員にお代わりを頼んだ。
「どうしたんだよ。仕事、結構大変なのか?」
 糸日谷が井村の方を向いて訊ねた。
「まあな。決算期で忙しいうえに、わからないことだらけだから、なかなか仕事が進まなくてね」
「新しい職場だし、最初のうちは仕方がないんじゃないか? 仕事をさせてもらえているうちが花だぜ」
「そうなんだけどさ。まあ、決算が過ぎれば、少し落ち着くとは聞いてるけど」
「そうだろう? はじめのうちは辛抱だよ。俺らが入社した時だって、そうだったじゃんか」
「あの時は、何にも考えていなかったっていうか、世間知らず、怖いもの知らずだったから、若さと勢いで駆け抜けて来たけど、今はとてもとても……」
「井村がそんな弱気なこと言うなんて、珍しいな。奥さんはどうしてるんだ?」
 井村は、直美が実家に帰っていることを端的に話した。
「何だ、お前も単身じゃないか。それじゃあ今日、お前んちに泊ってくかな」
「勘弁してくれ、明日は直美の実家に行かないといけないんだ。職場にも寄らないといけないし」
「冗談だよ」糸日谷は笑いながら言った。「俺だって明日から東京の家に帰るんだ。でも、昔みたいに、また家でのんびり飲みたいよな」
「そうだな」
 井村はおでんの卵を箸でつついて食べた。糸日谷が井村の顔を覗きこんで言った。
「道理で顔色が悪いわけだ。駅で会った時から少し気になってたんだ」
「顔色、悪いか?」井村は思わず自分の顔を撫でてしまった。
「ああ。公私ともに大変だもんな。この連休中に、少し気分転換したらいいんじゃないか? そうしないと、五月病になっちゃうぜ」
「お前とこうして過ごすだけで、十分、気分転換になってるよ」
「そうじゃないんだ」
 糸日谷は真面目な顔で言った。「誰かと一緒に過ごすのもいいけど、これからは、一人の時間も大切にした方がいい。今のうちにおひとりさまで楽しめるようになっておかないと、この先の人生が辛くなるぜ」
「どうしちゃったんだ? お前の口からそんなことを聞くなんて、思ってもいなかったよ」
 井村が笑いながら糸日谷の顔を見つめると、糸日谷は顔を背けた。
「まあ、俺もいろいろあったんだよ」
「いろいろ、ね」井村はカウンターに目を向けた。「これだけ歳を重ねりゃ、そりゃあ、いろいろあるわな」
「ともかく、一人で何か気晴らしした方がいいぞ。ちょっとだけでもだいぶ変わるからさ。おっ、そうだ。おでん、何か追加しようぜ」
 糸日谷はテーブルの注文用紙を手に取った。
「お前、まだ食べるのかよ」
 井村は苦笑した。
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