第1話

文字数 14,931文字

「この度は、当社の正社員採用にご応募いただき、誠にありがとうございます。頂いた書類を拝見し、厳正なる審査をいたしました結果、残念ながら、今回の選考におかれましては不採用となりましたので、その旨お知らせいたします。ご希望に沿うことができず、申し訳ございません。井村様の今後のより一層のご活躍をお祈り申し上げます……」
 朝、自宅のダイニングテーブルで、井村亮一は郵便受けに入っていた封筒を開け、一枚の味も素っ気もない通知文を、声に出して読み上げると、ため息をついた。
 郵便受けにはもう一通封筒が入っており、井村はそちらも開封し、中の通知文を黙読した。内容は同じだったが、こちらはさっきよりも素っ気なく、「申し訳ございません」だの「お祈り申し上げます」といった文言はなく、「結果は下記のとおりです。不採用」と、淡々と記されているのみだった。心にもない言葉を並べたてられているものよりも、こっちの方がかえって好感が持てる。
 こんな紙切れ一枚を送るにしても、社員の誰かが時間を割いて作業をしているのだろう。それも自分にだけでなく大勢の応募者に、今頃同じ内容のものが届いていると思うと、井村は暗い気持ちになった。
 やはり、五十代の転職というのは相当厳しい。井村が、前の勤務先である大手旅行会社を退職し転職活動を始めてから、半年近く経とうとしている。これまで何十社と応募書類を送ってきたが、戻って来たのはそのままゴミ箱行きになる文書ばかりだった。自分が選んだ道は果たしてこっちで良かったのだろうか。蓄えはまだあるとはいえ、こうも就職活動が長引くと、さすがに焦りと不安で胸が苦しくなる。
 テーブルの上のスマートフォンを手に取り、メールを確認した。登録している転職情報サイトからの新規求人案内が数件送られてきていた。画面をスクロールしてみるものの、どの求人も井村にとっては今一つ魅力を感じなかった。サイトに登録した直後から、条件を段々と緩くしてきたが、それでも井村の希望に叶う求人は少なかった。そろそろハードルのストッパーを一気に引き抜いて、ストンと下げなければいけないのか。井村はストッパーに手を伸ばそうとしたものの、やはり躊躇ってしまった。自分の中のどこかに、まだ希望が残っていた。大手企業に長年勤めていたという貧弱なプライドで作られた希望が。
 すっかり冷めてしまったホットコーヒーを飲み干すと、井村は立ち上がり、不採用通知をゴミ箱へ放り捨てた。「お祈り申し上げます」の通知文がゴミ箱から外れ、床に落ちてしまった。舌打ちをしつつ拾い上げて、ゴミ箱に力強く押し込んだ。
 窓から差し込んでいる陽の光を浴びた。この歳になると顔のシミも目立ってきて、日焼けも憚られるが、少しだけでも浴びた方が、幾らか気分が楽になる。セロトニンという物質のせいなのだろう。遠くで、電車の走る音が聞こえた。
 井村は、部屋着から外出用の服に着替えると、カバンを持って玄関を出た。大して荷物は入っていないのだが、平日の昼間に中年男が手ぶらで出歩くのは、暇人に見られてしまいそうで何だか気が引けた。
 九階建てのマンションのエレベータで地下まで下り、居住者用の駐車場に向かう。すっかり今のクルマには窮屈となってしまった、二段構造の機械式パーキングの隙間に入り込み、愛車のトヨタ・マークXのドアを柵にぶつけないよう慎重に開けた。
 運転席に座り、エンジンスイッチを押すと、気怠そうにスターターが回り、エンジンがかかった。暖気のため、回転数は高めでやかましい。暖気中でも以前はもっと静かだった気がする。まあ十年近くも乗っていれば、それも仕方のないことだろう。井村はシートベルトを締め、マークXを外へ出した。
 午前中はまだ幹線道路も空いていて、スムーズに流れている。すぐに暖気も完了し、アイドリングも静かになった。なんとなくクラシック音楽を聴きたい気分になり、井村はラジオをつけ、NHKを選択した。弦楽器の心地よい音色が、経年劣化でくたびれた車内をホームシアターに変えてくれた。以前ボーナスが出た時に、勢いでスピーカーを音質の良いものに交換したのだった。
 テンポの速い曲のため、自然とアクセルペダルを踏む量が増す。吹け上がりは買った当時と変わらず、Ⅴ6エンジンらしい機敏さはまだ健在だ。あっという間に制限速度までスピードが上がってしまい、慌ててアクセルを緩める。
 このマークXは、かつて井村が旅行会社からU県庁に出向していた時代に購入したものだ。当時、U県で国民スポーツ大会が開催されることに伴い、出場選手や監督、関係者の宿泊先の手配や調整を、井村ら社員が出向という形で一時的にU県の職員となってその役割を担っていた。大会が終了して仕事も落ち着き、超過勤務手当も入ってまとまった資金も確保できたため、井村は自分へのご褒美として新車を購入しようと決意した。
 井村は、クルマはそれなりに荷物が積められ、移動ができれば十分と思っていた。だからそれまではマツダ・デミオに乗っていた。家族は妻の直美と二人だけなので、後部座席を倒せばかなりの積載量を確保できた。また、大人四人までなら快適に移動できたし、小回りも利いて扱いやすかった。値段も手頃で、維持費があまりかからないのもありがたかった。
 だが、人生の折り返し地点に差し掛かり、一度でいいから高級車に乗ってみたいと思うようになってきた。後輪駆動、六気筒エンジン、本革シート、木目の内装、多段AT……。こうしたいわゆる高級車のアイコンが盛り込まれたクルマで、少しばかり優雅に、のんびりとドライブを楽しめたら……。でも、クラウンは自分には不相応に思えるし、レクサスは如何せん高すぎる。悩んだ挙句、井村は近所のトヨタのディーラーの自動ドアを開けた。
 応対してくれた営業の担当者――現在は店長になっている――が、同世代ということもあってか、親身になって相談に応じてくれ、頑張って勉強もしてくれたため、井村はその三日後にマークXの注文書に印鑑を押していた。
 納車直後は、それまでのデミオとのギャップに驚かされた。至れり尽くせりの快適装備の数々、速度域を問わず安定した走り、スイッチひとつ操作するだけでも感じられる質感の高さ……。車体の大きさに慣れてしまえば、後は全くと言っていいほど不満はなかった。強いて言えば、燃費くらいだったが、通勤――職場へは路線バスで通っていた――に使うわけではないため、それも大した問題ではなかった。ハイブリッドではないのだから、Ⅴ6・2500ccのエンジンで、市街地走行でリッター八キロ前後なら、普通なのだろう。
 ただ、十年も乗っていると、さすがに飽きてきた。最近の小型車は立派になって、安全装備や快適装備も充実しているようなので、またデミオに戻ってもいいかなとも思うようになってきた。それか、店長から送られてきたハガキに載っていたヤリスでもいいか。
 しかし今、クルマを買い替える余裕は自分にはない。今は早いところ就職先を決めなければ……。
 井村はU駅前の信号機を左折し、県庁通りに入った。正面にひときわ背の高い建物が見える。U県庁の本庁舎だ。かつての出向時代は、井村もここの十一階に毎日通っていた。
 二十年ほど前に竣工された三十階建ての建物は、最上階に展望台が設けられており、当時観光資源に乏しかった地元では、市内全貌を見渡せる名所として、県外から訪れる人もいるほど人気だった。だが今では、地元の人さえもあまり来なくなり、週末でも閑古鳥が鳴いている。
 県庁の地下駐車場にクルマを滑り込ませ、エレベータに近い車室を見つけて停めると、二階に向かった。エレベータを降りると、一階からの吹き抜けで開放感のある中央ロビーに出た。
 カバンから一枚のハガキを取り出した。運転免許証の更新通知だ。U県ではゴールド免許での更新なら、県庁でも受け付けてくれる。
 更新の受付は吹き抜け脇のエスカレータを上った二階の隅にあった。列ができており、年配の人たちや若い主婦と思われる人たちが並んで待っていた。皆、手持ち無沙汰でスマートフォンをいじっている。井村は列の最後尾に並んだ。
 県警のOBと思われる高齢の係員たちが、のんびりとした手つきで受付業務を行っていた。井村は横柄な係員に言われるがまま写真を撮られ、簡単な講習を受け、一時間後には新しい免許証を手にしていた。
 時計の針は既に正午を過ぎており、中央ロビーは昼休みに入った県庁職員たちで賑わっていた。
「井村さん?」
 横から声がかかり、井村が咄嗟に声のした方を向くと、そこには、体格がありスーツがはちきれんばかりの男性が立っていた。
「あっ、高山課長」
 井村は慌てて、ご無沙汰してますと、最敬礼して挨拶した。高山はU県の職員で、井村の出向時代の上司だった。
「いやあ、久しぶりだねえ。元気?」
「ええ、まあ……」井村は言葉を濁した。
 高山が続けて訊ねた。「今日は休み?」
「は、はい。免許の更新で」
「そうか、土日勤務があるから、平日は休めるわけか」
 高山は当然ながら井村が旅行会社を辞めたことを知らないため、井村の嘘にも気付かず、ひとりで納得している。
 井村が会社を辞めたことを話そうかどうか迷っていると、高山が言った。
「ちょうどこれから、昼飯を食いにいくところだったんだ。よかったらどう?」
 特にこの後、予定は入っていなかったので、井村は「ええ、ぜひ」と応じた。
「どこがいい?」
「課長のお好きなところで」
「そうか。うーん、どこにしようか……」
 高山は右手で顎を触りながら少し考えた後に、「じゃあ、あっちへ行くか」と、正面玄関を指差しながら、歩き始めた。ロビーの脇のエスカレータを下り、二人は一階の正面玄関を出た。
「課長は今、どちらにいらっしゃるんですか?」
 県庁通りの信号機で立ち止まると、井村は高山に今の勤務部署を訊ねた。
「俺は相変わらず、スポーツの部署でくすぶってるよ」
 高山は苦笑いしながら答えると、首から提げていたネームプレートを井村の目の高さまで掲げて見せた。
「あっ……失礼しました。昇進なさっていたんですね」
 井村は慌てて頭を下げた。高山の職員ネームプレートには『スポーツ文化振興部 スポーツ推進担当部長』と書かれていた。
「いやいや、もう名ばかり部長で」
「そんなことないでしょう」
「そんなことあるんだよ。たまたまポストが空いていたから、その穴埋め要員だよ。俺、もうスポーツはお腹いっぱいなんだけどなあ」
「そうなんですか?」
「ほら、俺、スポーツやらないからさ。同じ部でも文化系の方をやらせてくれって、前から言ってるんだけど、なかなか希望が通らなくて。まいっちゃうよ」
 高山は見た目の体型から、ラグビーや柔道などのスポーツを嗜んでいる印象を抱きがちだが、実際は、スポーツは見るのが専門で、バンド活動をしたり、絵を描いて展覧会に出展したりするなど、文化系の趣味が多い。井村が県庁にいた時も、スポーツの部署にいるにもかかわらず、スポーツにはあまり興味がないとはっきり公言していた。
 県庁通りの信号機が青に替わり、二人は向かいにあるアーケードが設置された商店街に入った。商店街の両側には、様々なジャンルの居酒屋や飲食店がランチメニューの看板を出しており、中にはスーツ姿のサラリーマンの行列ができている店もあった。
「ここの通りも、チェーン店が多くなってきたなあ」
「確かに。昔は個人経営の店の方が多かったですよね」
「チェーン店はチェーン店で、悪くはないんだけど、何だか街の個性がだんだん薄まってきているようで、ちょっと寂しいよな」
「そうですね」
「だから俺はなるべく、個人経営の店を選ぶようにしてるんだ。応援も兼ねて」
 そこで高山は白――年季が入ってくすんでしまっているが――を基調とした外観の定食屋の入口に足を向けた。入口の前には三人の客が並んでいて、席が空くのを待っている。
「なるほど、それでここですか」
 井村も高山の後に続いた。
「時間は大丈夫?」
 列の最後尾についてから、高山が訊ねた。
「私は大丈夫です。部長こそ、大丈夫ですか?」
「ああ、打ち合わせが少し長引いたから、一時を過ぎても問題ないよ」
「時間がずれたから、そんなに待たずに済みそうですね」
「うむ。もっと混んでいるかと思ってたよ」
 ここの定食屋は値段の割にボリュームがあるため、働き盛りのサラリーマンにとってはありがたい存在で、井村も県庁職員時代にはよく通っていた。昼休みは長い行列ができることもあるため、正午のチャイムが鳴ったら一目散に店へ向かう職員もいるくらいだ。
 二人が入口に掲示されているメニューを見ながら、何を食べようか考えていると、男性店員が現れて、前の三人と一緒に中へ通された。店内は以前とほとんど変わっていなかった。
男性店員が案内した二人掛けのテーブル席に腰を下ろすや否や、高山は「決まった?」と確認してきた。井村は軽く頷きながら、そばを通りかかった女性店員を呼び止めた。
「唐揚げ定食」「レバニラ定食」
 高山と井村が口々に注文した。高山は店員の去り際に「ご飯、大盛ね」と声をかけた。
「相変わらず食欲旺盛ですね」
 井村が苦笑いしながら言った。ここのご飯は、並盛でも他の一般的な定食屋の大盛ご飯より量が多いのだ。
「そうなんだよ」高山はそこで水を二口飲んだ。「歳取ると、食が細くなるじゃんか。俺の友達も皆そうだし。だけど、俺は全然変わらないんだよ」
「代謝がいいからじゃないですか。羨ましいですよ」
「そう言う井村さんだって、普通にレバニラ定食頼んだじゃん」
「いや……今朝、朝飯食べてこなかったし、ここのレバニラなら、いくらでも食べられますから」
「朝飯は食べた方がいいですよ。うん」高山は何故かそこで敬語になった。「仕事の取り掛かりが、食べるのと食べないとじゃ、やっぱり違いますよ。……って、今日井村さん、仕事休みだったか」
 高山が頭を掻きながら、へへへと照れ笑いした。
 井村は頃合いとみて、高山の目を見ながら言った。
「部長、実は私、仕事、辞めたんです」
「へっ?」高山が目を丸くした。「旅行会社、辞めたの?」
「はい」
 井村は頷きながら返事した。
「いつ?」
「今年の三月に」
 井村は東京都内の大学を卒業後、大手旅行会社に就職した。入社してしばらくは、本社を含め、東京や近隣県の支店や営業所を転々としていたが、三十代に入ってからは、ずっとU県内の事業所で勤務していた。当時、ぎすぎすした人間関係に嫌気が差していた井村は、少し都会から離れた場所に身を置きたいと思い、縁もゆかりもないU県の駅前の営業所に異動した。すると、U県ののどかで緩やかな空気が心地よく感じ、すっかり気に入ってしまった。気候も穏やかだし、温泉やグルメも手軽に楽しめるし、その気になれば、東京や実家のある川崎へも日帰りで行けてしまう。親が元気でいるうちは、ずっとU県で暮らしていたいと思うようになり、さらには、結婚相談所で知り合った地元出身の直美と結婚したこともあって、いつしかU県が第二の故郷と思えるくらいになっていた。
 四十一になった年に、当時の上司からU県への出向の打診があった。業務内容は、三年後にU県で開催予定の国民スポーツ大会に向けて、選手や関係者の宿泊場所の調整を行うというものだった。何人かに声をかけたものの、皆から子育てや介護を理由に断られてしまい困っていると、上司から泣きつかれてしまった。子供もいないし、親も元気だし、滅多に出来ない仕事だからと、直美も背中を押してくれたため、井村は打診の翌日に、上司に行きますと返事した。
 三年間のU県庁への出向期間を終えた後も、井村は引き続き、U県内の営業所で働いていた。四十九歳からは県庁からクルマで一時間かかる地方都市の小さな営業所に勤務していた。その営業所長から希望退職制度の申し込みを勧誘されたのは、二年目の夏だった。
「部長もご存じかもしれませんが、うちの会社、業績が悪化していて、不採算店舗の閉店などのリストラを急速に進めていたんです」
「ああ、そういえば、ニュースでやってたよなあ。あの時、井村さん、大丈夫かなって思ってたけど、そうかあ、肩たたかれたのか……」
 高山は遠い目をしながら言った。「井村さんみたいな優秀な人でも、そういう目に遭うってことは、よっぽど厳しい状況なんだろうな」
「いやいや、自分は別に優秀ではないですよ。歳もとってきて、会社にとってはコスパが悪かったんだと思います」
「そんなことはないって」
「はい、お待ちどうさまです」
 さっきの女性店員が、注文した定食を運んできた。二人は会話を中断し、食べ始めた。
井村のレバニラ定食は相当な量があり、ニンニクだれの香りが食欲をかきたてられる。久しぶりにこの店のレバニラ定食を食べ、井村は県庁時代のことを思い出した。
 県庁では、庁内や、大会主催の日本スポーツ協会、受け入れ先のホテルや旅館、大会競技会場、競技団体と様々な調整をしながら準備を進め、大会開催年度になると、業務は連日深夜にまで及んでいた。体調を崩したりもして大変ではあったものの、県庁職員とのチームワークは良好だったため、何とか乗り切り、大会は成功裏に終わった。その時の達成感、充実感は今でも鮮明に記憶に残っている。
 高山の注文した唐揚げ定食はこの店の名物で、鶏肉自体も大きいうえに、衣も分厚いため、今にも皿からこぼれ落ちそうなくらいのボリュームだ。高山は休む間もなく、次々と唐揚げをたいらげていった。そして、大盛りご飯もあっという間に空になってしまった。
「さすがですね、部長。今の私だったら、残しちゃうかもしれない」
「そうか? 俺はこれでもまだ足りないくらいだよ」
「本当ですか?」
 井村は、爪楊枝でシーハーシーハーしている高山の顔と、空っぽになった皿を交互に見つめた。恐ろしい食欲だ。かつても相当な量を食べていたが、今後もこの量を続けていると、いつか病気になってしまうのではと、少し心配になった。何かスポーツをした方がいいのではと思うのだが、井村が助言したところで、きっといろいろ理由をつけてやりたがらないだろう。身体が悪くなってからようやく、運動の必要性に気付くのかもしれない。
「それじゃあ、何。今はどうしてるの? 新しい仕事は?」
 高山が爪楊枝を空の皿に放って、井村に訊ねた。
「今、探してます。ハロワに行ったり、求人サイトに登録したり。まさか、この歳になって就職活動をすることになるとは思ってもいませんでした」
「そうかあ。となると、退職してから半年近く、ずっと就活を?」
「ええ」
「うわあ、大変だなあ」
 高山はそこでグラスの水を飲み干すと、テーブルに置かれたピッチャーから水を注いだ。続いて井村のグラスにも注いでくれたため、井村は「すみません」と礼を言った。
「井村さんの歳じゃ、引退にはまだ早すぎるしな」
「ええ。家のローンもまだ残ってますし」
「そうだよなあ」
 高山はそこで腕組みをして少し考え込むと、顔を上げた。「井村さん」
「何でしょう」
「井村さんだったら、県庁でもやっていけると思うんだけど、県庁職員の採用となると、年齢で引っかかっちゃうんだ」
「そうですよね。この歳だと、どこもそうですよね」
「だけどだ」高山は身を乗り出して、少し小声になって言った。「うちの外郭団体の契約職員だったら、年齢要件はないから、可能性はある」
「外郭団体……ですか」
「ああ。ちょうど今、うちの部署の外郭団体でスポーツ事業を手掛けている財団があるんだけど、そこが契約職員の募集を来月始めるようだ。庁内掲示板に案内が載っていたよ」
「本当ですか? 年齢要件はないんですか?」
「うん。若い人が採用されやすい傾向にはなってるけど、年配の人もこれまで何人か採用されているはずだから、希望はある。何年か勤めると、固有職員――いわゆるプロパーの選考にも応募できる」
「それはいいですね。スポーツ事業というと、大会とかのイベントとかをやるんですか?」
「そうだね。後は県立のスポーツ施設の管理運営とかね。接客業だったから、得意だろう?」
 高山がそこでにやりと笑ったため、井村も苦笑いして応じた。
「どう、申し込んでみたら? 来月、財団の専用ページに申込の詳細が載るそうだよ」
「そうですね。いい話を聞きました。以前の県庁での経験が役に立つかもしれませんし、ちょっと検討してみます」
「何だったら、俺が財団の人事に言っておこうか? あそこの事務局長とはよく連絡を取り合ってるから」
「いや……そこまでお願いするのは申し訳ないです。自分の力で職に就かないと」
 井村は裏口から入る形での就職は避けたいと心に決めていた。そういうのに頼ってしまうと、その時は良いかもしれないが、いずれ立ち行かなくなってしまう気がして怖かったからだ。正々堂々と勝負し、胸を張って表口から入りたい。
「そうか。でも、もし何かあったら、いつでも相談してくれて構わないから。他の団体でも職員を募集しているみたいだし、使えるものは使っといたほうがいいと思うよ。本当、遠慮せずに」
「ありがとうございます。部長にそうおっしゃっていただけるだけで、本当に嬉しいです」
 井村は、高山が差し出した名刺を丁重に受け取った。
 
 翌月、井村は自宅で、高山から紹介されたU県スポーツ振興協会のホームページを開いた。トップページには、県立のスポーツ施設の写真がずらりと並んでいる。総合運動場、陸上競技場、水泳場、体育館、野球場、武道館……写真が掲載されている施設は、協会が指定管理者として管理運営を行っているそうだ。そう言えば、これらの施設の幾つかは県庁時代に仕事で行ったことがあるな……。そう思いながら、井村は一番上に大きめに表示されている総合運動場の写真をクリックした。すると、施設の紹介や協会が主催するスポーツイベントの案内が載っていた。ここは県立スポーツ施設の中でも最大規模で、協会の事務局もこの総合運動場のすぐそばのビルに入っているそうだ。
「職員採用」と書かれたバナーがあったので、井村はバナーにカーソルを合わせ、クリックした。そこには高山が言ったとおり、契約職員の募集案内が載っていた。募集要項のPDFファイルを開き、内容を確認してみた。契約は翌年の四月から一年間。ただし、年度ごとに最大四回まで更新ができるそうだ。そして、固有職員への登用制度ありとも書かれていた。勤務地は事務局か県内のスポーツ施設のいずれか。給料は勤務経験等に応じて支給。各種福利厚生制度あり。
 応募にあたっては、申込書と一緒に履歴書と論文を提出する。これらの書類をもとに一次選考が行われ、これをクリアすると、二次選考として面接を行い、採用者が決まるという流れになっていた。論文は、協会で取り組んでみたいことを八百字以内で書くというものだった。
 確かに高山が言ったとおり、スポーツ施設だったら、旅行会社での接客の経験を活かすことができそうだ。高山をはじめ知り合いの県庁職員との調整業務もあるだろうし、それに様々なスポーツ大会を直に見ることができ、もしかしたらトップクラスの有名選手にも会えるかもしれない。悪くはないじゃないか。
 井村は早速、書類の作成に取り掛かった。申込書には必要事項を記入し、履歴書はこれまで作ったものをベースに作成した。論文は原稿用紙二枚分だが、これが意外と難しい。だらだらと書くとあっという間に字数オーバーになってしまう。言いたいことを簡潔にまとめなければいけないが、独りよがりだったり的外れだったりしてはいけない。ここだけは高山の力を借りようと思い、井村は高山がくれた名刺に書かれたメールアドレス宛に論文のファイルを送り、添削してもらった。合わせて高山本人に電話し、くれぐれも協会には内密にと釘を刺すと、高山は苦笑いしながらも「わかってるよ」と応じた。三往復ほどメールをやり取りし、どうにか論文をまとめることができた。
 書類が整ったので、井村は期限に余裕を持って、協会にメールで書類を提出した。その日のうちに協会の採用担当者から返信があり、一次選考の結果は合否を問わず十一月末までに知らせるとのことだった。まだ一ヶ月以上もある。それまで座して待つわけにもいかず、井村は引き続き就職活動を続けた。二社ほど書類選考を通過したものの、そこから先へ進むことは叶わなかった。年内には就職先を決めると心に決めていたものの、この分ではそれも難しいのではと焦りを感じるようになった。蟻地獄にはまっていく虫けらは、きっとこんな気分なのだろうなと、井村は思ったりもした。
 気の休まらない日々が続き、とうとう十一月の末日になった。井村はそわそわしながら、朝から何度も郵便受けを確認しに行った。そんな井村の姿を妻の直美は不審そうに見つめつつ、アルバイト先のファストフード店へ行ってしまった。
 論文の添削をしてもらったのは、後にも先にも協会だけだった。高山のおかげで、渾身とまでは言えないものの、かなりの力作が書けたのではないかと自負していた。
 昼過ぎ、井村は七度目の郵便受けの確認に向かった。電話やクレジットカードの請求書の封筒に紛れて、見慣れない白色の封筒が入っていた。封筒には、ロゴマークとともにゴシック体で「U県スポーツ振興協会」と書かれていた。
 ついに来た。井村は鼓動の高鳴りを感じつつも、焦るなと自分に言い聞かせながら、郵便物を手にいつもよりもゆっくりと歩き、自宅に戻った。
 ダイニングテーブルの上に郵便物を置き、改めて協会の封筒を手に取った。何だか軽く感じる。この重さだと不採用通知ではないかと井村は直感した。もうこの手の通知は幾度となく受け取って来たから、今となっては封筒を手に取るだけで大体の想像がつく。
 井村はハサミを使って封を破った。
「あれ……?」
 封筒を覗き込み、思わず声を上げた。てっきり、ぺらいちの不採用通知が入っているだけかと思っていたが、中には複数枚の紙が入っていることが確認できた。
 井村は、はやる気持ちを抑えつつ、中の紙を取り出した。
 紙は二枚だった。一枚目は一次選考合格の通知文だった。
 井村は大きく息を吐いた。よかった。まだ終わりじゃなかった。首の皮が一枚繋がったような心境だった。
 二枚目は、二次選考の面接試験の案内だった。記載の日時に、協会事務局の会議室に来るようにとのことだった。面接日は半月後の十二月の中旬だ。
 面接当日の朝、井村はスーツを着て、自宅を出発した。協会事務局の向かいにある県立総合運動場の駐車場は二四時間営業で、当日は利用しても良いと案内に書かれていたため、井村はマークXで、U市北部にある総合運動場に向かった。市街地外れの農園地帯にあるこの運動場は、国民スポーツ大会の開催に合わせて竣工されたもので、広大な敷地内には陸上競技場、体育館、野球場、屋外球技場、テニスコートがあり、さらにその脇には公園も併設されていて、スポーツをしない家族連れも楽しめるため、週末は多くの人で賑わう。特に花見の季節は、地元ローカル局が毎年必ずと言っていいほど、公園に中継を繋いでレポートするくらい、大勢の花見客でごった返す。
 この日は平日で、総合運動場へ向かう道路やその周辺も閑散としていた。冬休みに入れば、総合運動場で大会や部活動が行われるため、大きな荷物を積んで自転車に乗った学生が多く行きかい、運転に気を遣わなければいけないが、冬休みは翌週からのため、自転車もほとんど通っていない。
 出発から四十分ほど走らせると、のどかな田園風景の中に突如、すり鉢のような建物が見えてきた。国民スポーツ大会の開閉会式会場にもなった陸上競技場だ。
 井村は総合運動場の第一駐車場に入った。広大な敷地の駐車場はクルマもまばらだった。道路側――駐車場の向かいに協会事務所がある――の車室を選び、マークXを停めた。クルマを降りると、鳥のさえずりが聞こえた。遠くに見えるテニスコートで、高齢者たちが時折声を上げつつ、テニスを楽しんでいる様子が見えた。ゆくゆくは俺も、あんな風にテニスに興じるのもいいかもしれない。学生時代にテニスをやっていた井村は、ふとそんなことを思った。
 面接の時間までまだ余裕があるため、井村は陸上競技所内にあるカフェで時間調整をすることにした。一番安いブラックコーヒーを購入し、窓際のカウンター席に腰を下ろした。店内も静かで、散歩中と思われる高齢の男性客一人と女性客二人がテーブル席に座っているだけだった。男性客は文庫本を微動だにせず読んでいる。女性客二人は世間話に花を咲かせていた。
 平日の午前中にスーツ姿で一服している自分は場違いなのではと、井村は少し恥ずかしくなったものの、実際用事があって来ているんだから問題はないと思い直した。
 今日の面接に向けて作った、想定問答が書かれている紙を取り出し、改めて内容を確認した。想定問答は文章ではなく、要点が箇条書きで書かれているのみだった。骨子さえ覚えておけばいい。想定問答の答えを一言一句覚えるなんてナンセンスだし、丸暗記した文章をそのまま話したところで、面接官には伝わらないだろう。無論、だからといって合格するかどうかは別問題で、実際に井村は面接をクリアできずに今日に至っているわけだが……。
 しかし、もし自分が面接官の立場だったら、頭の中の記憶を呼び起こすことに必死で、自分の顔すらまともに見ようともしない人の話を、積極的に聞きたいとは思わない。それだったら、わざわざ面接をしなくとも、書類選考で事足りるではないか。
 まだ時間はあるが、早めに会場入りしておこう。もしかしたら、時間が巻き気味で進んでいるかもしれない。そうだとしたら、予定よりも早く面接を終えられる。
 井村は残ったコーヒーを一気に飲み干し、カフェを後にした。
 玄関手前の事務室の前を通りかかると、スーツを着た銀縁眼鏡をかけている男性と総合運動場のスタッフ用と思われるジャンパーを着た若い女性が、何やら話していた。男性の方は何やら不機嫌そうな態度で、女性の方は終始しおらしくしていた。
「じゃあ、今日の何時までだったら、できるんですか」
「なるべく早くやるようにしますんで。すみません、こちらも他の業務で手一杯で」
「手一杯なのはこちらも同じです。今日中に書類が整わなかったら、明日の支払には間に合いませんからね。それでも構わないんだったら、別に急ぎませんが」
「……わかりました。何とかやります」
 女性が言い終わらないうちに、男性は踵を返し、スーツのポケットに手を突っ込み、速足で玄関を出て行ってしまった。女性は泣きそうな顔でため息をひとつつくと、書類が留められている決裁板を胸元に抱えながら、事務室の中へ入っていった。
 可哀想に。急ぎの仕事の催促か何かだろうか。事情は知らないが、もう少し言い方を改めれば、お互い嫌な思いをせずに済むかもしれないのに。面接を前に、井村は気が暗くなった。
 陸上競技場を出て、マークXの前を素通りし、通りの押しボタン式信号機を渡って、運動場向かいの四階建てのオフィスビルに向かった。一階は駐車スペースになっており、業務用のバンやワンボックスが並んでいた。脇の入口を入り、エレベータでU県スポーツ振興協会の入っている二階へ向かった。
 事務室の入口にある内線電話で採用担当者を呼び出した。女性の職員が現れ、三階の打合せ室へ案内された。三階にも事務室があり、職員が十名ほど机のパソコンとにらめっこしていた。パーティションで区画された、テーブルと四脚の椅子しかない簡素な打合せ室で、井村は座って待った。時折、事務室の電話のコール音や、外の通りからのトラックの走行音が聞こえてくる。
 五分ほど経ち、今度は男性の職員が入ってきて、向かいの会議室へ入るよう案内された。ここの会議室が面接会場とのことだ。
 井村はドアをノックした。中から「どうぞ」と女性の声がしたため、静かにドアを開け、会議室へ入った。
 正面のテーブルの中央に年配の女性が座っており、その両脇に井村とほぼ同年代と思われる男性が座っていた。おそらくさっきの声は中央の女性だったのだろう。
 女性職員に促され、井村は手前に置かれた椅子に座った。
「お名前をお願いします」左側の男性が言った。
「井村亮一です」
 男性は手元の書類を確認し、「よろしくお願いします」と一礼した。
 今度は右側の男性が訊ねた。「今日は、何でこちらに来られましたか?」
「えっ、あっ、この面接のために……」
 井村が戸惑いながら答えると、男性は笑って「いやいや、どの交通手段でいらしたのかという質問です。すみませんね」
「あっ、こ、交通手段でしたか。失礼しました」井村は顔が熱くなった。「クルマでまいりました」
「そうですか。ご自宅からここまでだと、三十分くらいでしたかね。今日は平日ですし」
 男性は書類をちらと見て言った。おそらく井村が送った履歴書に書かれた住所を確認したのだろう。
「まあ、そんなところですね」井村は話を合わせた。
 そこからしばらくは、両脇の男性職員たちとアイスブレイクと思われる雑談が続いた。
 やがて、女性職員が口を開いた。
「さて、井村さんからご提出いただいた書類を拝見いたしました。ここだけの話、論文はとてもよく書けていました。凄いと思って履歴書を見たら、以前、県庁に出向なさっていたんですね」
「ええ、国民スポーツ大会の業務の関係で」
「それじゃ、高山さんとかご存じ?」
「はい」
「そうだったのね。高山さんとはよくご一緒するものですから」
「そうなんですね」
 もしかしたら、この女性が、以前高山が言っていた事務局長なのかもしれないと、井村は思った。
 女性は書類を見て続けた。
「……それで、今年、長年お勤めになった旅行会社をお辞めになったと。今、大変そうですよね、あの会社。かなり経営が悪化しているようで。希望退職か何かで?」
「いや……」
 井村は咄嗟に否定してしまった。しまったと思ったが、引くに引けず、続けた。
「もともと、経営悪化以前から、あの会社は辞めるつもりでおりました。会社に不満があったというわけではないのですが、歳も歳ですので、これまでの経験を活かして、何か新しいことにチャレンジしたいという思いが湧いてきまして」
「それで、うちに応募なさったと」
「ええ。こちらなら、県庁での経験も活かせるかと思いましたもので」
「素晴らしいですね。このお歳で新しいことにチャレンジなさるって、勇気がおありですね。なかなかできることじゃないですよ。私なんかもう、新しいことなんてとてもとても……」
 女性の発言には嫌味が感じられず、本心で言っているように井村には感じられたため、内心ほっとした。
「ご存じのように、うちの協会は県のスポーツ施設の管理運営や、県のスポーツ振興施策に係る事業を展開しております。ただ、もちろんそれ以外に、そうした事業を進めるに当たって、人事や経理などの管理業務も行っておりまして。井村さんはいかがかしら、管理業務の経験はおありで?」
「管理業務、ですか……。経験はほとんどないですね。営業所での接客の業務を長くやっておりましたもので、できれば、スポーツ施設の業務に携わることができればと思っています」
 このままだと、採用されたら管理部門に配属されてしまうかもしれないと思い、井村はアピールを試みた。
「なるほどね。スポーツ施設での勤務を希望なさっていると。わかりました」
 女性に続き、左側の男性が訊ねた。
「勤務地はここ以外にも幾つかありますが、ここはダメとか、希望はありますか?」
「特にありません。県内でしたら、どこでも大丈夫です」
 場所によっては、今の自宅からはクルマでも通勤に時間がかかるかもしれない。だが、そうなったら、職場近くの安いアパートでも借りて単身赴任すればいいと、井村は思っていた。
 その後は、主に前職に関する質問が続き、面接は予定の時間に終了した。
「結果通知は一月中にお送りいたします。本日はお疲れさまでした」
 先ほど案内してくれた男性職員からそう告げられ、井村は協会を後にした。
 年が明けて、一月の中旬に、結果通知が書留で送られてきた。井村は晴れて四月から協会職員として働くことが決まった。リビングにいる直美にすぐ知らせると、ほっとした笑みを浮かべ、「おめでとう。良かったわね」と言ってくれた。
「君にも苦労をかけて済まなかった。ありがとう」
「ううん。どんな仕事をするのかしらね。配属先はどこなの?」
「まだ決まっていない。来月、採用者向け説明会があって、そこで改めて面接をした上で、決まるそうだ」
 こうして、新年度初日の朝、井村は協会事務局の玄関をくぐった。
 手に持っている辞令通知書に書かれた配属先は、事務局の経理担当だった。
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