第8話

文字数 4,702文字

 一人になるとみるみるうちに緊張の糸がほどけて、いつの間にか、あの砂嵐も私の前から消え去っていたことに気付いた。無駄に自分が削られてしまったように感じた。なぜ愛に会ってしまったのか、そればかりを悔いた。昼食代を彼女より少し多めに払ったことさえも後悔していた。愛が遠慮もなく飲んだビール代がかさみ、通常のランチの値段を軽々と超えて請求された金額に、私は目を剥いたけれど、カバンからのんびりと財布を取り出す愛に、自分は働いているし、独り身だからと余計な気遣いをし、気が付くと愛のビール代は、ほぼ私が支払いをしていた。愛は一食分のランチ代を支払っただけだった。
 彼女のことを反吐が出るほど軽蔑していながら、今まで何故、関わりを絶たずにいたのか。それは単に「所詮他人の人生」だったからだ。苦労するのも悲しむのも彼女一人で、私はそれを嘲り、薄笑いを浮かべて冷眼に視ていればそれでよかったのだ。でも今、彼女には子供がいる。まだ何も知らない無垢な子供が。自分は生まれてきて良かったのか、生きていてもいい世界なのか、これから何年もかけて一つ一つの疑問をクリアして、自分の存在を認められ、強く生きていくことが出来る可能性を持った子供が。今後愛の迂闊で粗放な言動で犠牲を払うのは愛自身ではなく、その子供なのだ。今までのように冷ややかな傍観者で居ながら、友達として付き合うことなど不可能だ。彼女が誤った道へ踏み入ることを平気で黙視することなど私に出来はしない。その度、あの子供の顔が目の前でちらつき、過去の私とだぶらせ、砂嵐は追い風に乗って舞い戻ってくるだろう。かと言って、彼女の家庭や荒れ果てた心の砂漠にまで、踏み込んで関わることなど御免だったし、出来るはずもなかった。だからこそ決別したかった。所詮私に出来ることなどありはせず、関与できない、救えないという虚しいジレンマを抱えたくはなかった。精神科へ通院している愛を精神患者なのだから仕方がない、とはどうしても割り切ることは出来なかった。彼女を、私が許し、受け入れることなど到底出来はしないのだった。
 家が見えたところで涙がでるほどの喜びを感じた。玄関の扉を開けると、そこは安心感と自由で暖かく包まれていて、瞬間的に身に着けているもの全てはがされたような途方もない開放感を感じた。唯一無二の私の居場所。私だけの城だった。
 夢を見ていた。真っ青な澄んだ海を悠々と泳いでいると、突然手足の自由が利かなくなり、何事かと見ると、海中を漂う海藻類たちがいつの間にか私の全身に何重にも巻き付いていて、私は慌ててそれを必死に体から離そうとするのだけれど、もがけばもがくほど絡まりつき、肉体がちぎれるかと思うほどに身体に食い込んでいくのだった。皮膚にまとわりつくぬるぬるとした気持ち悪さと、肉に食い込んでいく強烈な痛みと、このまま手足は絡めとられ胴体は無残にもぎ取られていく恐怖を感じながら、泳いでいるのかおぼれているのか分からないけれど、無闇矢鱈に手や足をばたつかせながら、とにかく陸を目指した。手足胴体全てにきつく巻き付き、私の身体と同化した海藻たちを引きずりながら、薄らいでいく意識を奮い立たせて、やっとの思いで陸に上がると、それまでどうしても何をしても離れなかったそれらは、まるで生きているかのように意思を持って、私を締め付ける力を弱め、するすると体から次々に離れ、もしくは、命の抜けた操り人形のように、ぶちぶちと音をたててちぎれて、ぼとぼと砂浜へ落ちていった。皆一様に水分を帯びて、てかてかと光るそれらは、黒い蛇たちの亡骸のようにも見えた。私は、砂の上で動かなくなった黒い蛇たちの塊を無心で見つめていた。そうしてやっと解放されたと安堵した瞬間、それまで身に着けていた覚えがないのに、いつの間にか私は衣服を身にまとっていて、尚且つその見覚えのない服は海水を存分に吸いこんでいて、とてつもなく重く体にのしかかり、重力に抗おうとする私を地面へと押し返そうとするのだった。助かったと思うことが出来るはずだったのに、結局身動きが取れず私は途方に暮れるのだった。
 ゆっくりと目を開けると、うっすらと照らされた灰色がかった天井が見えた。不透明な黒に近い灰色の世界だった。テレビの音が微かに聞こえる。半分以上眠っている頭でベッドから起き上がると、テレビだけが異様な光線を放っていて、思わず目をしかめた。床に投げ捨ててある携帯を拾って見ると十二時を少し過ぎたところだった。家に帰ってからの記憶が全くないのは、一か月前に愛と会った時同様に、やはり帰宅してからすぐに寝入ってしまったからだろう。昼間に愛と会っていたことが嘘のように、私の中であの出来事はもうずっと昔の風化しかけた事件のように感じられた。そしてそれと全く同様に、数時間後にはいつも通り慌ただしく家を飛び出して電車に乗り込み、人の往来が激しい職場で埃っぽい机に向かい、眼前の物を右から左へ処理している、という事実も絵空事のような気がしていた。
 お風呂にも入っていないし、明日は月曜でゴミの日だから早起きもしなければならない。ゴミ箱に入りきらなくなって、市指定の大きな半透明のゴミ袋に直接ゴミを無頓着にいれており、シンクの脇に置かれたそれは床にへばりつくようにして佇み私を睨んでいる。
 重い腰をあげてそのゴミ袋に近づく。ふと、私の出したゴミ袋から持ち去られたお菓子の空き袋のことを思いだした。あれを食べた男はどんな気持ちだっただろう。どんな気持ちで人のゴミを漁り食べているのだろう。羞恥心や自尊心などとうに捨て、悲惨な自分の姿を顧みることなどないのだろうか。それが社会からあぶれた結果なのだろうか。けれどどこかで、支払う代償はその程度だ、とも思えた。彼らは代わりに私たちが絶対に知り得ない、制限のない自由を手に入れたのだから。
 テレビの光だけが不気味に私を照らし出していた。それを左頬に感じながら、ほの暗い室内を死人のようにどろどろと足音もなく進み、おもむろに冷蔵庫の前に立った。私の胸ほどの高さしかない小さくて白い無機質な塊は、静かに息をしていた。扉に手をかけてそっと開いたはずだったけれど、寝ているところを無理やり起こされたみたいに不機嫌そうにミシミシと音をたてた。同時に、冷蔵庫内の光が突然目の前に広がり、私は目を細めた。そのサイズに似合わないブーンという低音の呻き声が、がらんどうの部屋に響く。ほとんど中身が入っていない冷蔵庫の中を見渡して、ハムやらチーズと、あと、昨日スーパーで買って食べきれなかった特売のコロッケが二つ残っていたのでそれも一緒に取り出した。ひんやりとした冷気をまとったビニールのパッケージを握ると途端に寒気立ち、肩をぶるっと震わせた。ハムとチーズも賞味期限の日付を確認することもせずにゴミ袋の中に放り投げ、コロッケもプラスティック容器ごと捨てた。ゴミ袋の口をわざと緩く結び、私はそれを高価な品物を扱うように丁寧に持ち上げて、ゆっくりと足を前に出した。踏み出した足の裏に触れたフローリングの床が、氷のように凍てつき冷たかった。もう何年もこの部屋に住んでいるのに、その箇所だけはただの一度も私は触れたことが無かったのだろうか、そんなことを考えながら、私は部屋の外へ出たのだった。
 一体どこへ向かおうとしているのだろう。私は何をしようとしているのだろう。そんなことがぼんやりと、ただぐるぐると頭の中を回り続けていた。常に「私」を制止しようとする「私」はいつの間にか身体から離れて、頭よりも数十センチ上空にふわふわと浮かんで、何か必死に「私」に訴えかけてくるけれど、体と分離してしまっているせいか、何も聞こえなかった。男がゴミを荒らしにくる時間である深夜一時が迫っていたから、もしかすると鉢合わせるかもしれないという考えが頭をかすめたが、それでも恐怖や不安は不思議と感じなかった。恐ろしいまでに私は落ち着いていた。
 ゴミ出しのルールを守るよう張り紙が掲示されても、夜にゴミを出す人は後を絶たないようだった。やはりゴミ捨て場にはすでに数個のごみ袋が捨てられており、私は不自然にならない程度に、それらと少し離して家の窓から見える場所に、手にしていたごみ袋を置いた。手からごみ袋が離れる瞬間、袋の一番上に乗せられたハムのピンク色のパッケージと目と目があったような気がした。そしてその一瞬、禁忌を犯す緊張感が私を包んだ。あと少し。あと少しすればこれらはあの男の手に渡るのだ。そして、他の残飯と一緒に男の寝床まで連れていかれ、着いたらおそらくすぐに男の胃袋へ入るだろうと思われた。それを想像しただけで、私は身震いするほどの愉悦を感じていた。
 テレビの光だけが青白く部屋の片隅を照らし出していた。夜の波はみるみるうちに押し寄せて、部屋中の全ての物たちは浸水し浮遊している中で、私だけは窓の外に目を向けて、さっきから寸分違わないその様子を伺っていた。男がゴミ捨て場に姿を現すのを今か今かと待ち侘びながら。立膝をしていたから、床についた膝が痺れて何度かもぞもぞと態勢を変えながら、しかし目線だけは窓の外に向けたまま。男がその日にここへ現れるという確証は無かったはずなのに、来ないという可能性を考えることはなかった。目をつむると、一度だけ見たことのある顔も表情も分からない真っ黒な男の影が、幾度も瞼の裏側に現れた。
 深夜一時をすぎた頃、窓から向かって左側の住宅街のほうから薬局に向かって歩いてくる人影が見えた。薬局の白々しい照明はとうに落ちているから暗闇の中、目を凝らしてもよく見えない。瞬きもしないまま、私の視線はその黒い塊だけを追いかけた。のそのそと長いコートを引きずるように歩くあの特徴的な影は、間違いなくあの男だった。カーテンの隙間から男を認識した時、複雑な何かが混ぜあわせになって、私はふいに泣きたくなった。黒い塊がゴミ捨て場に近づくにつれて、小さな電灯に照らし出されていき徐々にその姿が浮き彫りになった。男はゴミの前に立つと、きょろきょろと周りを見るように何度か頭を振って、そして、ゴミ袋に手をかけた。私はゴミを物色する彼の姿に懐かしさと愛おしさを感じた。この部屋の窓から見えるように、願いを込めてゴミ袋を置いてきたはずだったけれど、暗すぎることと、少し距離があるせいで男がどのゴミ袋を漁っているかは確認できず、私のゴミ袋はもう見たのかな、とやきもきしながら、しかし何も出来ずにただ息を潜めて、男のやはり顔も表情も分からないその姿を見つめていた。
 男は五分もしないうちにその場を後にした。男は前回のようにまた道路を這うように、歩くような走るような不格好な身振りで来た道をそのまま辿り、去って行った。男がいなくなったのを認めてから私はすぐに表へ出た。心臓がドキドキして呼吸もままならないほどに心が躍り、歩いていた足は自然と、私を急かすように走りだしていた。ゴミ捨て場に着くと、いつも通りゴミは荒らされていて道路に乱雑に広がってはいたが、前回よりゴミ袋の全体数が少なかったせいか、それとも男がゴミ捨て場に掲示された張り紙を見て配慮したからか、それとも私が見慣れたせいか、最初見た時ほどひどく荒らされているという印象を受けなかった。逸る気持ちを真っ黒なコンクリートの地面へ押さえつけるようにして、周りを見回して誰もいないことを確認してから、一つ息を吐いて、手前にあるゴミ袋に手をかけた。その手が震えていた。
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