第9話

文字数 2,434文字

 緩く縛られていた口は、ほどかれていてそのままだったから、すぐに開くことができた。中を覗くと、ゴミ袋の一番上にあったはずのハム、チーズ、コロッケ、まだ食べられるものは綺麗に無くなっていた。持ち去られていることは分かっていたはずなのに、それを実見すると、私は耐え難い興奮を覚えた。ヘチマたわしみたいにスカスカでカチカチの心の中に生暖かいドロッとした液体が流れ込んできて一つ一つの穴に浸透して、柔らかくほぐされるようだった。私は奇妙な充足感と達成感を感じていた。この感じたことのない刺激とほくほくと満たされた温かい感覚は、私を瞬く間に虜にした。私はこうなることをずっと望んでいたのだった。
 それから、私にとって日付が変わった月曜日の真夜中は特別な日になった。ルールに従って朝に出していたゴミは、月曜のゴミの日に限っては日曜の夜に出すことした。そうして、夜半過ぎまでだらだらとし、男が来る頃に出窓にへばりつき、彼の姿を確認し、彼が去った後にゴミ捨て場へ赴き、ゴミ袋に忍ばせた食糧がちゃんと男に持ち去られているか確かめる。それが日課となった。ゴミ収集日は月曜と木曜とあったが、それは必ず月曜に執り行われた。それは単にこちらが月曜にしか食糧をいれなかっただけなのだけれど、男はいつからかそれを察知したようで、月曜の深夜にだけ姿を現すようになり、木曜のゴミの日はゴミが荒らされることすらなくなっていった。月曜日だけの秘密のやり取り、という響きが男との親密さをたまらなく感じ、私は勝手に高揚していた。食糧を与える際の縛りを設けたのはこちら側であるはずなのに。
 しかしどこかで、他の曜日は別のゴミ捨て場もしくはゴミ捨て場ではない場所で、私とは違う方法かもしれないけれど、何らかの施しを受けているのだろうと想像すると、安心する反面、他の曜日のどこの誰とも分からない、存在するのかすら定かではない、男を援助する人々に対して嫉妬している自分がいるのだった。そんな馬鹿げたことをムキになって考えていた。
 日曜日の夜にスーパーへ行き、半額になっている惣菜をたくさん買い込んだ。男が普段の生活では絶対に食べられないような、例えばステーキ弁当を買ってみたり、和食、洋食偏ることのないよう意識して選んだ。そしてそれらには自分では手を付けずに、蓋を開けることもなくゴミ袋へそのまま直行した。男がそれを見てどんな顔をするか、何を思うか考えただけで私はこの上なく満ち足りた。それは週に一度のデートのようなものだった。恋人が何を食べたいか、何が喜ぶか想像してそれを購入したり、待ち合わせ場所でドキドキしながら恋人を待つことであったり、それらの幸せが私にとっては相手がホームレスの男であるということだけだった。ただ本物の恋人同士と異なる点は、互いの素性も名前も顔すら知らず、直接触れ合うこともないというところだけだった。
 月曜は自然と寝不足になったけれど、そんなことはどうとでもなかった。それよりも男が食糧を持ち帰ったことを確認するまでが殊更重要で、それをしなければ私は安心して眠ること等出来るはずがなかった。何もない退屈な私の唯一の生きていく喜びが、そこに確かに存在していた。
 男は毎回、必ず全ての食糧を持ち帰った。私はそんな男のために、かさばったり、持ちにくかったりしないよう、手提げ袋を入れるという配慮も忘れなかった。それだけではない。彼が私のゴミ袋をすぐに発見できるように、目立つものを意識的にゴミ袋に入れるように心がけた。それは例えば、派手なショッピングバックであったり、百円均一でわざわざ購入した赤やピンクの画用紙だったりした。私は毎回、食糧を入れて、大切なものを守るようにその上にそれらをかぶせるように乗せた。そうして、私のゴミ袋を最初に開ければ、十分すぎるほどの食糧にありつけるはずだから、無駄に他の袋を漁る必要もなく、その手間を省くことで男が人に見つかるリスクが減るかもしれないと考えたのだった。しかし、努力の甲斐は虚しく、男は毎度、他のゴミ袋にも多少なりとも手を付けているようだった。ホームレスの性なのか何なのか知らないけれど、それを見る度に、私は浮気性の彼を持つ彼女の気持ちになった。彼の隣を歩いているのに、すれ違う他の女の観察は怠らない移り気な彼氏のように思えた。それでも、明らかに食糧の無さそうなもの、中身全体が少量のものは、袋の口は開けられずそのままの形をとどめていることもあったけれど。
 これは何なのか。突き詰めて考えることはしなかった。少なくともホームレスを救う為のボランティアではないだろう。なぜなら、私が週に一回ゴミ袋に入れる食糧の量は到底一週間分には及ばないからだった。男がどのようにしてそれを食べているのかは知らないけれど、どれだけ少な目に見積もっても、七日間それだけでしのぐことは不可能に思われた。そもそも冷蔵庫もないのだから、いくら寒くなってきたとはいえ、スーパーの惣菜が何日も腐らずに保存出来るとは思えなかった。男のことを考えれば、日持ちする缶詰やらを入れることが懸命なように思えたけれど、それはしなかった。ごくたまに手で開けられる缶詰を入れることもあったけれど、すごく味気ない感じがして、好まなかった。業務的というか、言うなればそれは男への思いが無機質なものであるように感じさせるのを危惧したからかもしれなかった。結局のところ、私にとって、この行為があくまで、その時だけの逢瀬だったからに違いなかった。
 男は私のことは何も知らない。私も何も知らない。そんなことは些細なことで、私の手にあったものが男の手に渡ること、男が喜ぶこと、男の腹を満たすこと、男が生きながらえること、それらが私の全てだった。男はきっと正体の知らない私のこの情け深い行為に、涙を流して感謝しているに違いないと、一点の曇りもなく、そしてどうしようもなく哀れなほどに、そう思えた。
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