第6話

文字数 6,909文字

 愛と香織と私は高校の二、三年生の時、同じクラスだった。ユッキーも富岡君も同様に、私達と二年間、同じ教室で過ごした男子たちだ。そしてユッキーは私の初めての彼氏でもあった。軽率なあいつならば、愛に香織のことを話しそうだと思った。昔からそうだった。十代の男子によくありがちな、悪戯心で他人に故意に意地悪をするかと思えば、片方で本当に周囲の空気が読めなくて、周知の事実である禁句を口にしては、その場の雰囲気をめちゃくちゃにして、知らず知らずのうちに人を不快にさせるやつだった。彼といつも一緒にいた富岡君や他の男子たちは場面によってそれを面白がったり、時として肝を冷やしたりもしていた。今回もおそらく他意などなく、同級生だった愛に久し振りに偶然会って、さほど仲もよくなかったからよく知らない愛と何を話せばいいか言葉につまり、香織の結婚式を思いだしたから、その話をしようとしたところ愛は何も知らず、彼女に聞かれるまま答えたのがこの結果だろう。本人はむしろ好意で教えてあげようと思ったかもしれない。そういうところが昔から耐え難く、疎ましかった。

 「ユッキー、今フリーだってよ」

 と愛はにやにやしながら言い、歪曲した視線を私に投げかけてくる。私は露骨に眉を細めて愛を睨み、大げさに息を吐いた。同時に胃の内容物が全てこみ上がってくるようだった。

 「ねぇ愛、私実はその結婚式に招待されてるのよ。なんでか分からないよ、私だって。もう何年も連絡取り合ってないのにさ。相手がそれだけお金持ちならきっと豪勢な結婚式でしょうから、人数合わせに呼ばれたんだと思うよ。でも私は行く気は無いよ。だって高校卒業してからほとんど会ってないし、そもそも香織と特別仲が良かったわけでもないのに、行くのおかしいでしょ、馬鹿馬鹿しい。愛もさそんな冗談やめて、ね、早く食べようよ。追加でビール注文しようか」

 手に持ったピザはとっくに冷めていて、それを力任せに口に押し込んだ。味はほとんど感じずに、生地はパサパサしていて、不用意だった乾いた喉に詰まった。愛はしばらく深刻に思い詰めたような表情になって、そして突然花が咲いたように笑って、何かひらめいたように言い放った。

 「裕子さ、結婚式に出席してよ!そのほうが都合いいよ、きっと。うん。先に裕子が潜入して、指示くれたほうがうまくいきそう!まず裕子が先に式場に来客として潜り込むの。で、まず最初に受付がどんな感じか電話で教えてほしいんだよ。他の客に混ざって私が這入り込めそうか知りたいからさ。次に喫煙所を探してもらって待合室からその喫煙所の中の様子が見えるかどうかを確認して、それをまた連絡してよ。喫煙所が肝心の第一の舞台だから、待合室から見えるとなると他の奴らに邪魔されないように工夫しないとならないんだけど…。とにかくその連絡を貰ったら私も後に続くから。無事潜入に成功したら私はすぐ喫煙所に行くね。必ず新郎の友達とかいるはずだから、そいつらに声かけるの。で、仲良くなってさりげなく香織の過去を暴露するんだよ。絶対その内の誰か一人はさ、酔った勢いとかで新郎に口を滑らすと思うんだよね。これは準備運動だよ。本番はこれから。結婚式なんだから生い立ちとか二人の出会いとか、くだらないビデオが流れる時間があるはずでしょ。それにさ、これも追加してほしいって、さも新婦の友人みたいなふりしてビデオを給仕に渡すんだよ。司会とかその辺にいる人に渡すのは新郎新婦と近くて危険かもしれないから、なるべく目立たず人目につかないようにうまくやるからさ。もしかすると内容チェックされて結婚式では流されないかもしれないけど、まあそのビデオの内容が来客の誰かの目に触れればいいや。あとは勝手に広まっていきそうだし。裕子は最初の電話だけしてくれればいいからさ。今言った通りあとは私がやるし。もちろん例のビデオも私が作るから大丈夫だよ。裕子は当日以外何もしなくていいから。とりあえず今のところ考えてるのはそれだけなんだけど、式までにまだ時間あるから、他に面白いこと思いついたらそれも加えるかもしれないけどね」

 大真面目な顔をして突飛なことを次から次へと並べ立てる愛に私は驚愕し、不気味な生物に向けるような視線を遠慮なしに彼女に浴びせながら話を聞いていたけれど、しびれを切らして彼女の話に割り込んだ。潜入とか指示とか舞台とか暴露とか準備運動とか危険とか、彼女は一体何の話をしているのだろう。

 「ねぇ、ねぇ、ちょ、ちょっと愛!ちょっと落ち着こう。ね。本気じゃないでしょ。急にそんなこと言い出してどうしたの。酔ってるの?まだ一杯しか飲んでないのに。愛らしくないなー。子供できてお酒弱くなったんじゃない?まぁいいや。とにかく飲もう。私も飲もうかなー」

 とにかくこの話題を終えたくて、私は必死に半ば捨て鉢になり言葉を続けた。笑おうと努めてはいたが、どうしても頬の筋肉が強張ってしまって笑えず、口角だけがあがった奇妙なピエロのようだった。そんな私を直視して、愛は真剣な面持ちで、

 「裕子、私本気だよ」

 と呻くように答えた。彼女の大きくて切れ長の瞳に正面から見据えられて、私は完全に委縮してしまった。私は獲物を刈る鷹に射すくめられた鼠だった。愛は頭がおかしくなってしまったのだろうか。そしたら私は何をすべきなのだろう。何を言えば正解なのだろう。どうしたらここから逃げられるのだろう。愛の濁った目を見ているのは辛くて、下を向き自らの腹に吹き付けるように大きく息を吐きだした。息を吐いたその奥で心臓が震えているのが分かった。

 「ねぇ愛、私はそんなスパイごっこみたいなことしないよ。結婚式にも参列しない。香織は愛にも私にも全く関係ないじゃない。愛、一体どうしちゃったの」

 と私は出来るだけ静かな口調で、優しく諭すように愛に語り掛けた。泣きじゃくる子供をなだめるように。
 鬼の仮面でも被っていたのか、むすっとした顔のまま微動だにしなかった愛の顔がくしゃくしゃに崩れて、みるみるうちに顔は赤くなり目に涙が溢れる。

 「私本気だから。止めても無駄だから。裕子が協力してくれないなら私一人でもやるから。あいつのせいなんだよ、私が今こうなのは。裕子だってわかるでしょ。あいつのせいで・・・」

 震える涙声で所々途切れ途切れになりながら、愛は私に訴えた。目の際に留まっていた涙は、ついに目からこぼれて、それからとめどなく流れ始めた。私は、即座に「またか」そう思った。愛が泣いている姿を、私は一度も見たことが無かったはずだったのに、既視感を抱きながら、彼女の瞳からはらはらと落涙する様子を、何も出来ないまま眺めていた。以前、窓口で対応した女性を私は思い出していた。涙ぐみながら話をしていたあの女性の目に溜まった液体は、どこへ行ったのだろう。それが頬を伝うところを見守ってあげる人は現れただろうか。
 愛が、男からちやほやされることを生きがいにしている、そう私が気付いたのは高校三年生の冬休み明けだった。もしかすると、愛と同じグループにいた香織たちは、もっと前から勘付いていたのかもしれない。私たちは高校二年生から同じクラスになった。と言っても私は、基本的には、彼女たちとは別のグループの一員で、愛と香織とあと四人の女子で、一つのグループが形成されていた。休み時間には私も愛のグループの輪に混ざり、ふざけ合うことが多かったため、ユッキーや富岡君にはよく「裕子は一体どこのグループなの」と聞かれることもあった。私にとってはそんなことは取るに足らないことだったし、なぜ他人の、しかも異性である彼らが、そんな些細なことを気にかけるのか可笑しかった。幸いなことに、他のグループの子と連れ立ってトイレに行っても、私の属していたグループの子たちは全く気にしておらず、特に何も咎められることは無かった。気にしていなかったのか、のんびりしていたからか、はたまた大人だったのか、それとも私をグループの一員ではなく、たまにやってくる野良猫みたいなものと認識していたのか、今となっては分からない。どれにも当てはまらない気がするし、全てに当てはまる気もした。私自身も、どこかのグループの一員であると強く意識したことはない。どこに属しているとか、誰と付き合うとか私にとっては、全て重要ではない問題だった。毎日顔を合わせたり、一緒に笑いあったり、悩みを相談したり、されたり、そんなことは所詮数年で終わるのだから。学校というものは、組織というものは、人というものは、そういうものだと、私は当時からはっきりと覚知していた。
 愛のグループはどちらかというと、華やかな集団だった。皆スタイルもよく、それなりに美人だったと思う。その中でいつも主導権を握っていたのは香織だった。お店の予約やらの細かい手配の役回りはいつも彼女で、無駄が無く迅速に行われていた。私は参加したことはないが、そのグループで行く旅行の手続き等も香織が買って出ているようだった。典型的なしっかり者タイプで、人が面倒くさがることをてきぱきとこなす、いわゆる長女気質な女だった。
 高校三年生の冬休み明けに、いつもの通り愛のグループに私も加わり、くだらないことを話していた時だった。私は愛の目の違和感に気付いて、深く考えることなしに思ったことをそのまま口にした。

 「愛、なんか今日目がいつもと違わない?」

 と私が言い終えた次の瞬間、急に愛が笑いながら、私の方へ飛びついてきたから、私達はじゃれ合う形になり、話はそのままうやむやに終わった。あとで、そのグループのうちの一人の子が私に近づいてきて耳元で囁いた。

 「愛、目やったんだよ」

 「やったってなにを」

 「整形だよ、整形。ひくよね。男に好かれたいだけでそこまでするかね」

 私は単純に驚いた。まさか整形したとは思わなかったし、そもそもそんな発想すら田舎の高校生だった私には無かった。愛も同種であったはずだけれど、いつからか異なる道を歩んでいたらしかった。愛は確かに一重瞼だったような気はするが、目にコンプレックスがあるなどと、彼女の口から聞いたことは皆無だった。だから、愛の行動に疑問ばかりが残った。けれど、それもまた私の知る由のない彼女の一面なのだろう、そう思い結論づけた。そんな私をよそにグループ内では勝手に着々と話が進行し、その日から愛はグループの皆から無視されるようになった。整形という行為に誰よりも強い嫌悪感を抱いたのが、香織だったようだ。私の言葉を掻き消すために愛が私に抱き付こうとした時も、香織だけが不機嫌な顔を隠そうともせずに不動明王のような顔で仁王立ちしていた。いつも正しいことをしようとし、三回ある学期のうち必ず一回以上は学級委員長をするような香織が、愛の不良行為を許せるはずがなかった。

「整形なんて信じられない。親にもらった顔なのに。しかもそれを私たちに黙ってるなんて見損なったよね」と、きっとそう言い合っては集団を一致団結させたのだろう。愛を排除しようと率先して動いたのは、間違いなく香織だった。高校三年間の最後の一学期、愛はいつも一人だった。昼のお弁当だけはいつも一緒に食べてくれる子を探し出して、真面目で控えめな子たちに紛れて、身を潜めて食べていた。 
 私は香織から「愛と話してはいけない」というお達しを受けていなかったので、愛と会話することは出来たはずだが、なぜか愛の方から私を避けた。当然無視されると思ったからだろうか。私の方も愛との接触を熱望することはなかった。
 愛の生活はそれから見る見るうちに荒んでいったようだ。地元では有名な、ナンパ待ちの名所である大型ショッピングセンターの駐車場に、深夜に入り浸っているという噂が横行して、余計に香織は愛を毛嫌いした。それはさすがにないだろうと思っていたが、これまでの愛の言動を考慮すると、あながちウソではないのだろうと思う。私は香織のように怒りを露わにしたりはしなかったが、愛を初めて軽蔑したのはその時だったかもしれない。整形したということよりも男への欲深さが気色悪かった。私は愛のことを何も知らなかった。
 愛とはずっと疎遠だったが、それから数年後に地元の駅で偶然再会したのをきっかけに、一緒に飲みに行ったりするようになった。高校の時のことなどなかったかのように、自然に会話することが出来た。愛は仲が良かった友人たちと、最後まで和解することなく卒業したから、高校時代は彼女にとって苦い思い出で締め括られてしまっただろうと思い、思い出話は努めて避けて対話していた。だから彼女の口から、まさか香織の名前が出てくるとは、思いもよらなかった。その上なぜ今更、復讐するなどと的外れなことを言い出すのか。香織を恨む気持ちはわかるが、今の愛の現状は紛れもなく彼女自身がまねいた結果だろう。そう思わずにはいられなかった。そもそも復讐などという非現実的なことを言い出すこと自体が、彼女らしくないように思えた。発言がめちゃくちゃなのは生活に疲弊してやけくそになっているからだろう。ともかく、こんな大衆の中で泣かれるのは困る。落ち着かせて、なだめて、ピザを食べて、と思い描いているうちに、厄介な仕事に全てが煩わしくなった。愛に聞こえないように一つ溜息をついて、前のめりになっている体をゆっくりと後ろに倒して背もたれに体重をかける。体中の穴という穴から、ことごとく空気が漏れて全身の力が抜けていくのを感じた。そういえば、愛との約束までずっと気持ちが張りつめていたせいか体がやけに重たい。向かいに座る愛はまだ嗚咽を漏らしながら泣いている。隣の席に座っている若い男女は、露骨に好奇の目をこちらに向けてくる。最初は見慣れない彼女の涙を興味深く観察していたものの、今はその姿に飽き飽きしている自分がいて、冷めた目つきで彼女を眺めていた。
 しばらくして落ち着いてきたのか、愛が消え入りそうな小声で、

 「ごめん」

 とだけ言った。私はだらけた姿勢をたて直して、すっかり意気阻喪している体に鞭を打ち、本当は声など掛けたくも無かったけれど、それではあんまりだから、

 「大丈夫?」

 とだけ聞いた。

 「大丈夫。ありがとう。おかしいよね、私。ひいたでしょ」

 「そんなことないよ。愛、きっと疲れているんだよ。色々あったもんね。今日はとにかく、飲んで食べよ!私も付き合うし」

 そう言って、私は彼女にとって、良き理解者の友人であるように装った。香織の話題にはもう触れたくなかったので、無闇に明るく振る舞った。ビールは得意ではないけれど、サワーやカクテルのメニューを取り出し選ぶことも面倒だし、その間に愛がまた泣き出したら、と思うと気が気でなかったため、速やかにビールを二杯注文した。
 ビールの入ったジョッキが運ばれてくると、二人で大げさにそれを高く掲げて乾杯をした。かちん、とガラスの触れ合う音が店内に響いた。愛はそれを一気に半分くらいまで飲み干し、私は少しだけ口に含んで、運ばれてきた時とほぼ同じ状態のそれを静かにテーブルに置いた。彼女の細い首に液体が流れ込むと、喉元が大きく上下して、それはまるで機械か何かの部品の製造過程を見ているように規則的で、私はしばらく見とれていた。久し振りに愛と目が合うと、二人して意味もなく笑い合った。今泣いた烏がもう笑っていた。愛の目は赤く潤んで、表情は憂いを帯びていながらも、綻びた顔は美しかった。矛盾だらけの完璧で無垢な存在だった。
 それからは、彼女は終始、香織たちの悪評を言い続けた。

「香織さ、理系クラスの岡村君と中学から付き合ってたんだけど、新垣さんって分かる?あの小さくてさ、田舎臭い顔の。分かんないか。その子に岡村君盗られちゃって。ずっと新垣さんのこと目の敵にしてたんだよ。岡村君に何度も告白しちゃったりしてさ。あんな子に盗られちゃそりゃ悔しいよね。香織きついから、岡村君、新垣さんみたいなほのぼの系にやられちゃったんだよ、きっと。」
「ゆりこってさ、胸大きいとか言われてたけど、あれただのデブだよね」
「明日香ってさ、短大の時付き合ってた男の子供が出来てさ、でも保育士になりたいからって堕ろしたじゃん。で、いざ保育士になったら、すぐにその男と結婚して、子供出来て仕事辞めてるんだよ。信じられなくない。子供堕ろしといて、その男と一緒になるとか信じられないわ。てか、中絶して保育士とかないよね」
などと、息つぐ暇もなく愛は口を動かし続けた。ピザもしっかりと食べて、ビールもたらふく飲んで、タバコもふかし続けた。私はそれに「うん、うん」と頷いて、たまに「そうなんだ」と大げさに驚いたりした。彼女の絶間なく動く口元を見ていたら、それだけで胸やけを起こし、気分が優れず、私はビールにもピザにも手を付けることが出来なかった。
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