第1話

文字数 4,821文字

  目の前で彼女はTシャツを首の下辺りまでたくしあげ、彼女の膝の上に座っているその小さな生き物は、「あ、あ」と彼女を急かすような声をあげ、彼女の下着を剥がそうとする。その小さな手を彼女はさりげなくかわし下着を外すと、彼女の豊かな胸が現れた。いきなり眼前に現れたそれに私は多少動揺しながらも、私の目は彼女の胸に釘付けになった。色素が薄すぎて、青い血管がその白くて半透明な肌から、不自然すぎるほどはっきりと見えた。大きくて全ての物をはじき返しそうなピンと張った皮に、それでいて少しの衝撃で傷つきそうな繊細な桃が頭に過った。彼女の胸の半分ほどの大きさのつやつやとして陶器のように滑らかな小さな手が、彼女の胸を鷲掴みにして口を先端の赤茶色い個所にあてがい、夢中でかぶりつく。彼女の乳首を小さな口で力強く吸う様子を、私はただじっと見ていた。自分の胸を凝視している友人には気にも留めない様子で、彼女は再び話し始めた。

 「で、裕子はどうなのよ。あたしばっかり話してるけどさ。そっちはなんか変わったことあった?」

 それほど興味もなさそうに、彼女は私に聞いた。

 「んー特に何もないな。相変わらずだよ」

 「ふうん。彼氏とかいないの」

 そのあとに続く、いないと思うけど、というセリフが喉の奥にでかかっていることが手に取るようにわかる。そう思うなら毎度毎度聞いてほしくないが、彼女にとって、彼氏がいるかいないかという質問は挨拶代わりなのだ。

 「相変わらずいないんだよ。ほんと何もなくてつまんないよ」

 と言った後でなんとなく「しまった」と思った私は、話題を変えようと彼女から視線を落とし、まだ彼女の胸に張り付いている赤ちゃんを見て、

 「大きいよね。もうすぐ一歳だもんね。おっぱいとかっていつごろまであげるの」

 と急いで話題を変えた。

 「んーみんなどうなんだろうね。うちももう今みたいにぐずった時と、夜寝る時だけなんだけどね。吸わなくなるまで吸わせてればいいやと思ってるよ。おっぱいないと面倒くさいし」
 と彼女は黙々と乳首を吸う我が子に視線をやる。

 「そっか、大変だねえ」

 と大げさに頷くが、本当は何が大変なのか分からないし、「おっぱいがないと面倒くさい」というのもよく分からなかった。おっぱいをあげるほうが面倒くさいように思えるのは、子供がいない私だからだろう。
  愛は最近、シングルマザーになったばかりだ。その経緯をたった今、私は聞いた。愛と同じ工場で働いていた元亭主は、派遣社員で給料も少なく生活は常に逼迫しており、仕事では大人しくただ黙々と部品を組み立てるその姿に、誠実さすら感じていた愛だったが、いざ結婚してみると外での静かさの反動なのか、家での態度は横柄で傲慢で常に愛を支配しようとし、暴力も日常茶飯事だったそうだ。結果、できちゃった婚で授かった子供が、一歳にもならないうちに離婚という運びになった。私にとって愛の話す内容は、朝食を食べながら目覚めていない頭で見るニュースと同じだった。遠くの国で起きている戦争と同じで実感など当然なく、ただドラマやワイドショーのように皆ワンパターンで、何かの使いまわしを繰り返しているだけなのだなとぼんやりと思った。
  二年近く前、愛から結婚すると連絡が来た時に、どうせすぐ別れるだろうと思っていた私は、愛から「離婚した」と連絡が来た時には特に驚きもしなかった。
  そもそも愛から妊娠、結婚を聞かされた時から、二度と彼女に会うつもりはなかった。彼女はすでに一度、離婚歴がある。子供は出来なかったようだが、その時も一年か二年かで家を飛び出してきてそのまま離婚した。それからそう経たないうちに男ができて、別れて、またすぐに同じ職場の派遣の男と付き合いだして、またすぐに別れるだろうと思っていたら、「できちゃったから結婚する」と彼女から連絡が来た。私は幻滅した。小学校からずっと一緒だった彼女は、頭のいい方の女だと思っていた。愛にとって勉強は嫌いでしかなかったが、まずまずのレベルの進学校だった高校で、必要最低限のことをそつなくこなしていて、むしろ貪るように勉強して良い点を取っている私よりも、飄々として平均点をとる彼女のほうが、器用でスマートで賢いように思えた。なにより許せなかったのは、「できちゃったから今回は結婚しないと」とさらりと言ったことだった。私が知る限り、彼女は一度子供を中絶している。だから「今回は」ということだったのだろうが、なぜそんなふうに簡単に言えてしまうのか私には理解できなかった。子供を堕ろすことや、産むこと、結婚すること、家族になること、それら全てを軽視しているような言い草に、私は言いようのない怒りと鳥肌がたつほどの嫌悪を催した。私の中の学生時代の彼女のイメージは粉々になり、ただただひたすらに失望した。今思えば、愛の数々の男関係を知っていながら、それまでなぜ彼女を友人として高く評価していたのか不思議だった。幻滅や失望で彼女を見限ることがそれまで無かったのは、よほど学生時代のイメージが強く残っていて、彼女に憧れに似た感情を抱いていたからだろう。好きだった友人はこんなにも浅はかで頭の悪い、セックス狂いの女だったと残念に思い、もう連絡をとるのはやめようと思っていた。その後一年以上連絡をとっていなかったが、ある日突然彼女からメールがきた。最初は無視しようとも思ったが、彼女が妻として母として、しっかりと地に足をつけて生活しているのか興味もあり、私は返信をした。元気か、子供は何ヶ月になったのか等のよくある世間話のやりとりを何度かした後、彼女からの返信の文中に遠慮がちに、

 「今シングルマザーなんだけどね」

 とあった。その瞬間、

 「やっぱり」

 と思わず口をついて出ていた。その「やっぱり」という言葉だけが、一人暮らしのガランとした部屋に嫌に響いた。一人で暮らす部屋に、私の言葉に反応してくれる人などいるはずもない。愛の離婚に驚きすら無かったものの、その後なぜか私は茫然として何もない黄ばみがかった白い壁を長い時間見ていた。手に持った携帯は見る見るうちに重さが増し、それを握っていた手が痺れてきて、ついには指先から床にコトンという音を立てて静かに落ちた。その小さな音すらもこの部屋ではよく響く。静まり返った部屋で、夜が明けるまでに耳にした音は、はるか彼方から響いてくる踏切の警報器の音と夜中も通る貨物列車の走る音だけだった。
  愛と会おうと思ったのは、単純なことだった。彼女がかわいそうに思えたからだ。どん底な結婚生活のせいで、心を病んで子供と一緒に精神科へ通院中なこと、今はコールセンターで働いていて、相手に電話をして商品を売るという営業のような仕事をしていること等の話は、私の彼女への失望心よりも同情心を上回らせる力があった。
  言葉通り何もない、平坦な日常を過ごしている私と、圧倒的に話題に事欠かない彼女、当然のように彼女の話が終わりなく続き、最初こそ冗談を交えて「本当私男見る目ないわ~」と明るく振舞っていたが、すぐに肩を落とし落ち込んだ様子で子育ての話、仕事の話、時折元亭主の話を忌々しげにした。全てに共通しているのは、生活の大変さと不満、そして愚痴だった。子供が可愛いとか母親らしい言葉は、彼女の口からついに聞くことは無かった。とっくに彼女から離れて、おもちゃで遊び始めた子供をよそに、彼女はすごい剣幕と勢いで唾を飛ばしながら、不平不満、嫉妬、恨み、怒り、ありとあらゆる負の感情を私にぶつけた。私がどんな反応をしようが御構い無しで、彼女は喋り続けた。私はその間ずっと、眉をひそめ、時折顔をしかめたりしながら、「そっかー」「大変だね」と繰り返した。子供は何やらおもちゃのボタンを押したり、床に落ちている新聞やらチラシをくしゃくしゃにしたり、ぬいぐるみを振り回したり、忙しそうに遊んでいて、私はずっとそれを見ながら彼女の話に相槌をうった。愛は私と彼女の間の床にずっと目を落としていて、ちらりとも子供を見なかった。
 彼女の話を私は苦虫を噛み潰したような顔で聞いていた。実際に彼女の口から吐き出されるありとあらゆる感情によって、私の口の奥から本当に苦々しい液体が湧いて出てきて、舌ベラが痺れるような感覚があった。彼女の話が三巡目にさしかかるところで、私はいそいそと彼女の家を後にした。
 外に出るともう日は暮れかかっていて、朱色が全ての世界を支配していた。帰り際の愛の顔を私は思い出していた。「そろそろ行こうかな」と言った私に、彼女は露骨に寂しいとゆう目線を向けた。水分を多く含んで今にも溢れそうな目と、小さくてか細い声で「えっ」と言い、すがるような顔で立ちあがりかけている私を見つめた。それで、一体何人の男をたらしこんできたのだろう。一時の寂しさを埋めるために何人の男と寝たのだろう。単純で愚かな男を手玉にとったつもりでも、結局損をしているのは愛自身だ。そんなつもりもなくただ単に淋しさを埋めるために、無邪気にそれを繰り返してきたのだとしたら、それもまた愚かなのは愛だ。私はそこで今日初めての鳥肌が全身に広がるのを感じた。彼女の行動に虫唾が走ることは多々あったが、今日二時間ばかり彼女と過ごした中ではその時が初めてだった。
 私は彼女から視線をはずし、早口に「今日仕事の人たちと飲み会あってさ」と言い訳をした。愛と会う時間を夕方近くの時間にしておいて良かったとその時思った。彼女から逃げていく男たちは皆こんな気持ちになりながら去るのだろうな、と訳の分からない心情になりながら、落ち込む彼女をよそに逃げ帰るように彼女の家を後にした。ふと、最後に一度、子供を抱っこさせてもらえばよかったな、と思った。
 腕時計をちらりと見るともう一七時を過ぎていた。「帰宅ラッシュの時間だから混んでいるかな」と憂鬱な気持ちで、まだ電車の来ていないホームの階段をゆっくりと下りた。小さいホームには若いカップルが一組と中年の男性と白髪の老女が一人居るだけだった。なんの気もなしに、ホームの先端まで行き、遠遐まで続く線路の先を見た。どこまで続いていくのかと思って、目を細めて見たが、どんなに目を凝らしても不思議なことに線路はすぐそこで終わっているようにしか見えなかった。
 電車のアナウンスがホームに響く。電車は私が見ている方向の反対から、私の背中に向けてふいに飛び込んできた。電車に乗り込むと確かにイスは所々にしか空いていなかったが、いつもの電車の車内と比べるとむしろ空いているほうだった。そこで「今日は日曜日だったな」と気づいた。今日は昼前まで寝て、のんびりと支度して昼過ぎに友人宅へ行くという休日を過ごしていたのに、愛の家から駅に向かう足取りで、自然と仕事帰りのような気がしていた自分に苦笑した。なんとなく拍子抜けして、空いている席には座らず、いつも通りドアのすぐ前に立ち、扉横にある縦長の手すりに手をかける。私は毎度この手すりを持つ度に、私の前は誰がこの手すりのこの部分を持っていたのだろうと考える習慣があった。潔癖で人の触った後が気になって仕方がないという訳ではないし、ただ無性にそればかりが気になって仕方がないというよりは、誰が触っていたのかが問題ではなく、それを考えること自体を好んでいる節があった。
 大して歩いていないのに、ジンジンする足の裏を感じながら、ぼんやりと扉のガラス越しに流れていく景色を見ていた。線路は私の期待をあっさりと裏切り、途切れることなく続いていた。さっきまで遠離に微かに見えていたはずの線路は、次の瞬間には今まさに通りすぎていて、列車は着々と目的地に向かって進んだ。
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