第7話

文字数 5,772文字

 同時に、人の悪意やら嫉妬心やらはとてつもない力を人に与えるのだなと、浅ましい人間の本性に目を見張った。繰り返し目に焼き付けてきた集大成を今見た気がした。そうして、私はより深く彼女を嘲り、皮膚の下で、彼女に対して冷笑を向けながら、心底うんざりしていた。一人一人の情報を詳細に記憶している彼女に言葉を失い、そして途方もなく呆れた。愛自身も、今踏みつけにしている昔の仲間と、似たような経験をしてきたはずだし、同じ穴の貉だったから、あの事件までは結団していたのではないかと思ったが、そんなことは全く億尾にも出さず、ただ淡々とその場をやり過ごすことだけに徹した。思っていることを悟られないように、嵐が過ぎ去るのをひたすらに待った。そうしていると、愛も愛の後ろに見える歩行者も、周りの客も、忙しそうに右往左往と動く店員も、全て同じようにぼやけて見えて、最後には私の見える世界は全て砂嵐になった。私はそれをぼんやりと見続ける。今もこうして、稀に、この世界が私を包み込む。もはや習慣的となっているため、どうしたらいいのか分かる。ただ待てばいいのだ。数年前まで来る日も来る日も、この景色の中で私がそうしてきたように、今もそうすればいいだけだった。
 大学を卒業して一人暮らしを始めるまで、私は毎日この砂嵐の中で生きていた。砂嵐の隙間からは、いつも表情のない母の顔が断片的に見えていた。母は私を三十で産んで、私が一歳になる前に私の父である人と離婚した。その後、私が五歳の時に再婚し、再婚相手の家があるこの田舎に越してきた。母、再婚相手、私の三人暮らしが始まるとすぐに母のお腹は大きくなり、年の離れた種違いの妹が出来た。私は、新しい父にも、この山に囲まれた田舎町にも、いつもへらへらしている妹にも、その中に平然といる実の母にすら、どうしても馴染めなかった。自然と私は家族の中で浮いた存在になっていった。私が二階の自室にいると、一階のリビングから三人の談笑している声がよく聞こえた。笑い声の中には、なぜかいつも私は居なかった。義父とは長い間同じ家にいたはずなのに、ほとんど口をきいたことがない。妹とも用事以外で言葉を交わしたことはないし、母とすら会話らしい会話をした記憶もない。私は毎日毎日、二階の自室に籠って息を潜めていた。母は私によく言っていた。

 「あんたがいなければ、私はこんな男と再婚しなかった。あんたを一人で育てられなかったから、私は仕方なく再婚したんだよ。だから、あんたは一人で生きていけるようにちゃんとした仕事につきなさい。人間はみんな一人で死んでいくんだから」

 母の口癖だったように思う。母と父が頻繁に喧嘩している印象はなかったが、きっとうまくいっていなかったのだろう。衝突や我慢はあったのだろうが、私は何も知らなかったし、知りたくもなかった。

 「あんたを見てると前の父さんを思い出すよ。忌々しい。あんたはあの人にそっくりなんだよ」

 と私の顔を見れば、母はそう罵った。そして最後には必ず、

 「産まなければよかった」

 とため息交じりに吐き捨てるように言った。最初言われた時は驚き戸惑ったかもしれなかったが、やがて母に声をかけられると、砂嵐が私を守るように現れるようになった。風と舞う砂の音に交じって、遠くの方から母が何か喚き立てているようだったが、もうその時には、私には何もかも耳に届かずに、ただザーザーという無機質な濁音だけが耳に響くだけだった。
 いつも疑問だった。そんなにこの男との結婚生活を続けたくないのなら、また別れればいいのに。そもそも結婚したくなかったのなら、結婚しなければよかったのにと。今なら分かる。人一人を育てるためにかかるお金のこと、労力、気力、体力、母は無理だと悟って、結婚という選択肢を選んだのだ。せめて金銭面での不安を払拭したいがために。ただ、愛を見ていると思うことがある。母はそれだけで結婚したのではないのかもしれない、と。一人で生きる寂しさに耐えられなかったのかもしれない。結果として、自己主張が強く他人を受け入れられない母には、結婚生活自体が不向きであったかもしれないが。
 愛は結婚に一度失敗してもなお、日々突き刺さる孤独に堪え切れずにまた結婚して、そしてまた過ちを繰り返した。それでも寂しくて仕方がないのだろうと思った。人と交わることに懲りることはないのだろう。愛と母の姿が重なって、砂嵐が一層分厚く濃く、私の周りに吹き荒れる。この砂嵐が私の周囲にだけ起きる現象だということを知ったのはつい最近のことだった。
 もうどれくらい時間が経過していたのか分からない。愛の、

 「そろそろ帰ろうかな」

 という言葉に反応して、砂嵐の音量は弱くなり、じわじわと私は目を覚ました。意識だけが体から遠のいていたようで、体に戻ってみるとしっくりこないような懐かしいような、複雑な違和感を覚えた。何か言葉を返さなくてはならないと分かっているのに、それらは緩慢な動作で主人の下へ帰ってくるので、中々全てを捕らえることが出来ずに、しばらくの間惚けていた。砂嵐はさっきよりも随分小さく縮まったけれど、まだすぐそこで渦を巻いている。身体が痺れているのは分かるのに、動かすことが出来ず力が入らない。歯医者の麻酔注射後、何時間も顎周辺の感覚が失われている状態に似ていた。机の上には二人分のビールジョッキと、お冷のグラスだけが残されており、いつの間にかお皿やらフォークやらは下げられていた。何杯目かの愛のジョッキは空で、私の方にはまだ一杯目のそれが半分以上残っていた。長い間放置していたために、泡が消え、ただの黄色い液体と化したビールが光を反射し、机上で唯一異様に輝いていた。それを見つめている間に、いつの間にかあの砂嵐は姿を消していた。あのまま縮んでナメクジみたいに溶けて消えてしまったのか、それとも、遥か彼方へ舞い上がってしまったのか、無音無色になっただけでまだすぐ傍にいるのか、分からなかった。

 「…そうだね」

 とようやく声を絞りだすと、痰が絡んだような乾いた声が出て、私は一つ咳払いをした。周りを見渡すと、満席だった店内にほとんど客はおらず、外に並ぶ客も見当たらない。時計を見たくて、店内の壁一面に目を配ったけれど、抽象的な絵画がいくつか額縁に入れて飾られているだけで、時計らしきものは見つからなかった。
 愛は水を一口だけ飲むと、その分厚い唇にそれをより一層際立たせるグロスを、鏡も見ずにぐりぐりと塗りたくった。

 「遅いとまたばあばがうるさいんだよね。うざいけど頼りっぱなしだから何も言えないよ」

 何が入っているのか、やたらと大きな化粧ポーチにグロスを詰め込みながら、愛はそう言った。彼女の脳裏にはもう、家族の姿が過っているのだと思い、はっとした。あれほどまでに他人への罵詈雑言を絶えず垂れ流していたのに、今は子供や家族のことを想っている。自分にとっての「お母さん」ではなく、子供にとっての「ばあば」として、そう呼ぶ愛は、脆く儚く不完全であるかもしれないけれど、「母親」になったのだと思った。
 女とは厄介な生き物だ。つくづくそう思う。母を「母」として認め慕っていた記憶が幼少期で途切れているためか、母親というものを知らずに、いつの間にか私は大人になっていた。だから、母親になるということは「女」の上に「母親」という未知の生命体が上書きされるものだと、勝手に解釈していた。けれど、それは間違っていたようだ。「女」に単に「母親」という役割が加わるだけで、少女であることも女であることも、消えないし捨てられはしないようだった。
 母は男に媚びて生きてはいたが、泣いたり叫んだりといった激しい感情の起伏は無かったように思う。いつでも淡々として、冷然とした態度でいた。母から面と向かって見つめられて怒られたことも、話をされたこともなかった。どこか独り言を言っている風情で、いつもここではない遠くを見つめていた。そして、間違いなくそこに私はいない。母のことだから、私だけでなく誰一人としてそこにはいなかったかもしれない。彼女はそういう人だった。
 外に出ると思った以上に太陽が高く、一瞬目の前が真っ白になった。愛がこの街に来て、まだ三時間も経っていなかった。なんだか無性に申し訳ない気持ちになって、

 「どっかさ、買い物とか行かない?せっかくだしさ」

 と一刻も早くこの場を去りたい気持ちとは裏腹に、私は無理やり笑顔を作り、どうかこの誘いを断ってほしいと祈りながら、愛に聞いていた。彼女は最初意外そうに目を見開いて私を見つめていたが、すぐに表情を緩ませて、

 「じゃあちょっとだけ見てこうかな。買い物とかずっと行ってないなー。お金も無いからいいんだけどね。あー早くいい人と結婚したいなー」

 と流れるように自然とそう呟いた。途端に、さっき消えてしまったばかりだったはずの砂嵐が、どこからともなく現れてあっという間に私の視界の全てを覆い塞いだ。私の顔に被せられた笑顔の仮面にヒビが入り脆くも崩れ落ち、口はだらしなく半開きの状態のまま身体だけ固くした。この期に及んでまだ結婚にすがろうとする愛が信じられなかった。二回も失敗して、その上父親のいない子供まで作って、自立しているはずの大人が同居の母親に甘えて、恥ずかしくないのだろうか。もはや目の前にいるのは古い友人ではなく、男に寄生することでしか生きられない男狂いの淫らな女だった。彼女を本当の意味で失ったのはその時だったと思う。愛を水商売の女に目を呉れるときのように蔑視しながら、一方で自分が何もかも分かりきっていると言わんばかりに説教をするだけの役に立たない大人になったようで、決まり悪い思いをしていた。
 どうして逃げ道は結婚しかないのだろう。失態を演じたのは一回限りではないのに、なぜごくありふれた一般的な家庭を築くことができると信じられるのだろう。精神は崩壊しかけているこの状況でまで、結婚して幸せになりたいとなぜ願うのだろう。ただひたすらにすべきことは無闇に幸せを求めることでなく、もちろん孤独を紛らわせることでもなく、日々の生活に耐えるということ、それに尽きるはずなのに。
 愛が結婚に失敗したのも、今、朝から晩まで働いて辛い思いをしているのも、当然だが香織のせいではない。さらには高校時代、愛がグループ内で無視されたのも香織のせいではない。方法としては度が過ぎていたかもしれないが、ある意味愛はあの社会のルールを無視したのだ。ルールを無視すれば裁かれる。言うまでもないことだ。その上、無益な復讐心を口にして、他人を混乱させる愛のことは私の理解の範疇を超えていた。「話したいことがある」と言ったあのメールの「話したいこと」がこれなのだとしたら、私の貴重な自由時間を返してほしい。ただ不快な気分にさせられただけの、この時間を返してほしい。愛への憐れみは消えて、怒りだけがこみ上げてくる。華奢な体、なびく長い髪、二重の大きな目、ころころと変わる表情、全てが男と体を重ねるための産物に見えた。右隣を歩く愛に対しての拒否反応なのか、体の右半分にだけ鳥肌がたった。彼女を視界にいれることすら苦痛になる。それでも、全てを胸に納めて、彼女のショッピングに付き合った。愛と言葉を交わしたくなくて、お店に入っても愛とは違う棚の前に立ったり、マネキンを見上げたりして、時間がとろとろと過ぎるのを、土を齧る思いをしながら、じっと耐え凌いだ。
 愛は結局熱心に見ていた洋服たちを購入することはなく、地元でも買えるであろう何の変哲もない三〇〇円の靴下だけを買ってショッピングを充分堪能できたようだった。
 人通りが絶えることのない、駅へと続く長い地下道を二人で歩いていると、愛が、

 「裕子今日やけに無口だね。なんかあった」

 と聞いてくるのが滑稽だった。

 「そうかな。そんなことないよ」

 愛には何も期待しないし、求めない、望まないし、慣れ合わないという確固とした決意を億尾にも見せずに、悪人が見せる嘘だらけの慈悲に包まれた、わざとらしい笑みを湛えながら、穏やかに私はそう言った。

 「今日さ私が言ったことさ、もしも本当に、現実にやったとしたら、私って警察に捕まるのかな」

 「それは…どうかな」

 「そうすると、仕事辞めないと、だよね」

 「だろうね」

 「そっか…母親がバツ二で前科者じゃさすがに可愛そうだよね」

 とおどけて言う愛に、私は何も返事をしなかった。笑顔の覆面を被ることすら出来なかった。雑踏の中、私は、今日二度目の聞こえないふりをした。今回は、故意の沈黙だという私の意図が、はっきりと愛に伝わるよう、憮然とした態度でいた。こちらを伺うような、弱々しい視線を向ける愛の気配を感じる。自然と歩く速さが早くなっている私に、愛は少し遅れてついてきていた。彼女が今、どんな顔をしているのか、想像するのは容易かった。けれど、私は、彼女を憐れんだり、同情することは出来なかった。振り返ることも、歩く速度を緩めることもせず、ただ真っ直ぐに前だけを見つめて、駅まで歩いたはずだったけれど、一体何を見て、何を見ていないのか、自分でもよく分かっていなかった。
 駅の改札口に着くと、それでも、これが最後だから、と念じて微笑みながら愛を見送ることができた。愛は何か言いたげだったけれど、私は愛からこれ以上何も聞きたくなかったので、彼女が何も言わないように、彼女の口を開かせないために、

 「今日はありがとね。来てくれて嬉しかったよ。また会おうね。電車もうすぐ来るみたいだよ。じゃあまたね」

 と畳みかけるように言い、相手に有無を言わせない、爽やかな笑顔で手を振った。愛の体が改札口に吸い込まれたのを確認すると、私はすかさず踵を返してその場を後にした。こちらを振り向いた愛の視線を背中に感じた気がしたけれど、私がそれを気に掛ける必要性はもはや無かった。愛と私を結ぶ糸は改札機のドアが閉まると同時に、ぷつりと切れた。全ては終わったことだった。
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