第5話

文字数 7,314文字

 愛と会ってから数週間が経過していた。日付の感覚はとうに失われていて、毎日仕事で何月何日と目にしているはずなのだが、意味を持たない記号のように、それは私の頭の中に留まることはなく、脳内を一瞬浮遊してすぐに消滅していく。愛といつ会ったのかもよく覚えていなかったが、愛の家からの帰り道に見た残光が、まだ鮮明に頭の中にこびりついていた。あれは夕暮れ時だったはずだけれど、日の力は衰えを知らず、昼間の蒸された空気をそのままに留めておけるほどの光力を発していた。今は太陽の勢力が弱まり辺りが暗くなり始めたことに気が付いたと思ったら、その次の瞬間にはもう既に宵の口で、そもそも陽光など存在していなかったかのような世界の変貌ぶりに、私はいつもはっとするのだった。
 愛のことはもうすっかり忘れていた。数週間前に言葉を交わしたはずなのに、もう何年も会っていないような気がしていた。だから、夜十一時頃に、明かりを消しベッドに横になろうとすると、仕事から帰宅した時にベッドに放り投げたままだった携帯の表示板が、ピカピカと光っていることに気付き、それが愛からだと知ると多少驚きを感じた。一方的に突き放して別れたような気がしていたから、もうあれっきりかと勝手に思っていた私は、何事だろうと怪訝に思った。メールを開くと、

 「話したいことがあるから、今週末に会いたい」

 とだけ送られてきていた。「元気?」とか「久し振り」とか「忙しい?」とか本題に入る前に交わされる一般的な挨拶はなく、唐突で直接的な文面だった。「なんだろう」という疑問よりも、「怖いな」「めんどくさいな」という、柔らかな拒絶的感情が勝っていた。メールの受信画面をじっと見つめながら、愛と関わったことを今更ながら後悔していた。地元の唯一と言っていいほどの友人である愛には申し訳ないけれど、会うことは丁重に断り、今度こそもう二度と会わないようにしようと決心して返信しようとすると、メールを受信する短めのバイブ音がして、携帯電話が手の中で震えた。

 「今度は私がそちらに行くから一緒にご飯でも食べよう」

 と、暗闇の中でその文字たちだけが異様に明るく光っていた。たった今私に断られることが分かって、それをさせないよう譲歩したような文章に、ますます恐ろしくなり、監視でもされているのかと部屋の隅を見てみたけれど、彼女は私の住処を知る由もないのだからと気付き、くだらなさで覆われた目線を携帯に戻した。断っては何かまずいことが起きるようなそんな脅迫めいた迫力がそのメールにはあった。特に予定もないし、あちらに行かずに済むのなら電車に乗る手間はないのだし、と気持ちを前向きに無理やり切り替えることにした。どこかで、彼女と会っていいことなどあるわけがない、と冷静な声が聞こえたが彼女に引きずられて落ちるのも、今の生活とさして変わらないような気がして、それ以上考えるのをやめた。
 携帯の日付表示を見て、明日が木曜日なことを改めて思いだした。十一月もあと数日で終わる。

 「明日は早く起きないと」

 と一人で呟いた。あのことがあってから、私はルールに従って、ゴミを朝に出すようにしていた。朝にゴミを出しに行くと、やはり荒らされていることもあれば、手つかずのままで綺麗な状態の時もあった。それは半々くらいの確率だったけれど、最近では、ゴミが所有者から手放されたときのそのままに整然と並んでいることの方が、増えてきた気がしていた。ゴミ荒らしはこの場所に見切りをつけつつあるのかもしれなかった。付近に飲食店があるわけでもないし、特別富裕層が集まっている住宅地でもない。むしろ中心市街地に比べれば、大した収穫はないだろうと思われた。リスクと結果を天秤にかけたらどちらが勝るかは明白だった。私は清潔なまま無言で寄り添っているゴミ袋たちを見る度に、気持ちが沈んた。荒らされたゴミ捨て場を見ると、何もせずにそこに自分のゴミ袋を置くことに良心が咎められるものの、心の奥底では安心しているのだった。あの男はまだ生きていて、私の付近に存在している。そう思えるからだった。ゴミ捨て場の張り紙は最初に掲示されたものに加えて、過激な内容のものも貼り掲げられるようになっていた。

「ゴミを持ち帰るのは犯罪です」とか、「見かけた場合は警察に通報します」とか、そんな文章が並ぶようになっていた。それらに、あの男はいくらか尻込みしたかもしれない。どこかで自分は監視されていると怯えながら、それでもゴミ袋を開けて漁っても、わずかばかりの残り物や、屑程度の食糧しか得られない。腹は全く満たされないだろう。他のゴミ集積所も回っているだろうか。衰弱してはいないだろうか。そんな風に男の心配ばかりしていた。
 そうしていると、男のことを気にかける自分とは別の自分が現れて、その場所から無理やり私を引きずりおろすのが常だった。適切ではないと思われる自分の姿は誰の目にも触れないように包み隠し、暴れないようにその上からまた大きく重たい石を乗せる作業を行った。その度に、胸の下から腹部全体にかけて鈍い痛みが走り、一人呻いていた。
 だから、ゴミ荒らしの男をあれから見かけることは一度もなかった。眠れない日は仕方がないから、昔処方された睡眠薬を口に含み、唾液で溶けていくのを感じながら、目を瞑った。昔、何度か処方されたのを飲まずに取っておいたままだったから、まだ大量に残っていた。私はその白い小さな薬が嫌いだった。生きていく苦味や孤独の叫び声を打ち消すために、思考を強制的に途切れさせる効能を好まなかった。それらは次の日も、そのまた次の日も死ぬまで永久に消えることはないのに。不毛だった。
 けれど、今は違った。間違っても、また窓からあの男を熟視することなどないように、男が現れるかもしれない日は特別早めの時間に薬を飲んだ。あの時からずっと、危険な領域に踏み込んでいる、と私の中の警報器が鳴り響いていた。だからそれに逆らわずに、ホームレスのことは努めて考えないようにしていた。そうしていつの間にか普段通りの平凡で冴えない陳腐な私の人生に戻ればいいと思っていた。
 それでも数週間が過ぎているにも関わらず、頭の中にちょっとした隙間ができると、大体決まってホームレスの男の姿を思い出しているのだった。帰宅時に駅の近くの公園のベンチで似た風貌の男を見つけては、心臓は飛び跳ねて、人目を憚ることなく立ち止まり対象を凝視した。咄嗟に記憶の中の男と照合しても、一致することはなかった。おそらく男と同じか、そこに接している階層の人間であったかもしれないけれど、彼ではなかった。私はそれを懲りずに幾度となく繰り返した。向こう側の人間は毎回同一人物であったのか定かではないけれど、自身を食い入るように見つめる私に気付いているのかいないのか判然とせず、皆一様にただ無表情に遠くを眺めているだけだった。その度に、私は、誰にも見えない空気中を漂う幽霊にでもなったような気分になった。
 日曜日、愛とはJRの駅で待ち合わせをした。二人の地元である街からは電車で二十分程度だが、山と海しかない田舎町とは違って政令指定都市であるだけあって大きな駅と立派な駅ビルがあり、駅前もデパートが立ち並び活気があった。休日ということもあり、駅と駅前全体が人で溢れていた。改札口の外に立ち、階段を下りてくる彼女を見つけて改めて「細いな」と思った。昔から彼女を知っているが、会うたびに痩せていくような気がする。上はモッズコートに下は濃いインディゴのジーンズにムートンブーツを履いていた。スキニージーンズであるにも関わらず、彼女が細すぎるせいで足の肉付きは見えず、むしろゆとりさえあり、そのせいで皺ばかりが出来てそれが余計に彼女の華奢な体を強調していた。小柄で痩身で小動物みたいな彼女が、大き目のコートともこもこのムートンブーツを履いていると、着ぐるみを着せられているようで可笑しかった。髪は黒く染められているが毛先だけは色が落ちてしまって金に近い茶色で真っ直ぐ下に伸びていて、それが彼女の胸の辺りまである。平均的な私の身長よりも五センチ以上背の低い彼女には、その長すぎる髪がちぐはぐに思えた。でも、可愛いいのだろうなと思う。小さくて細くてロングヘアーで、でも胸は程よく大きいとなれば、男性は無意識に目で追ってしまうだろうと思う。男が好きな要素を全て凝縮しているような女、それが愛だった。私は二重顎な上に水泳選手のような怒り肩だったので、昔から実際よりも太って見られがちだった。人生で「痩せた」と言われたのは就職してすぐの頃だけだったし、髪の毛はくせ毛だから伸ばしたことなどほとんどない。身長も靴のサイズも全て平均サイズで、洋服はずっとMサイズだったが最近は買い物に行くことも少なくなったから、今のこの体型ではそれも怪しかった。
 改札を颯爽と通り抜けて、手を振りながら私の元へ走って来た彼女は想像していたよりも遥かに元気そうだった。

 「待った?電車めっちゃ混んでたわー。なんか久々に一人で電車とか乗って興奮したし」

 と上気した頬を笑顔で弾ませながら愛は言った。

 「お疲れー」

 私も笑顔で彼女と向き合う。私は、「久々に一人で」という言葉で、愛が母親だったことを思い出していた。一度会いに行っているはずなのに、子供の存在がすっぽりと頭から抜け落ちていた。こっちに来ると愛が言った時に、子供は大丈夫か社交辞令でも確認しなかった自分が、とても非常識な人間のような気がして申し訳なくなった。確か母親と同居しているはずだから、今日は母親に預けてきたのか聞こうと思ったけれど、どうしても肝心の子供の名前が出てこない。もごもごしている私を構いもせずに愛は早々と歩き始めた。

 「どっかお店入ろー。お腹減っちゃった」

 と彼女は平らなお腹をさすりながら、大袈裟に困ったような顔をしてそう言った。私も彼女に後れを取らないよう、急いで愛を追いかけた。

 「そだね。ピザとかどう?割と美味しいよ」

 「ピザ!いいねーいいねー!行こう!行こう!」

 愛はまるで女子高生みたいに黄色い声をあげて、「行こう!行こう!」の部分では、三流タレントがやるみたいに、片手を空に突き上げたポーズをおどけてして見せた。彼女の突然の動きに、私は驚きを押し殺して、笑顔で応えた。不必要なまでに上機嫌な愛を見ていると、それと反比例するように私の不安は大きくなっていった。陽気な様子の愛が、前に会った時とはあまりに対照的すぎて戸惑い、道に迷ったような心許ない気持ちが膨れ上がっていった。同時に、テレビから垂れ流されている情報の中で、つい最近耳にしたニュースを思い出していた。

 “二十一歳の女が外出したまま、二十日間家に帰らず、3歳の子供を放置して餓死させた疑い”
 “幼児二人を四十日間放置して餓死させた母親に懲役三十年”

 まさかそんなことまではあり得ないだろうと、ちらりと隣を歩く友人を盗み見る。しかし、その楽観視は全く根拠も何も無く、ただ、それらの報道が、どこか遠い国で起きている戦争やテロと同様に、実感や身に起こる危機感など当然皆無で、むしろ、それらが「実在している」という思考を放棄していたための、呑気で出鱈目な妄想だった。そうして、悪いことばかりが頭を巡り、一つでも不安を払拭したい思いと、彼女の薄気味悪い爽やかな表情の出所を突き止めたくて、私は愛に問いかけた。

 「えっと・・・お母さんが今日は見てくれてるの?」

 と、考えても思い出せない子供の名前は触れずに聞いた。

 「そだよー。開放感半端ない!」

 満面の笑みで答える彼女に、なんとか私も笑顔を返した。一先ず、子供のことは安心と言えるのだろうが、この晴れやかさに内心びくびくしている。本当に子供から一時離れることが出来た開放感からのみくる朗らかさなのか、それとも別に何か大きな爆弾を隠し持っているのではないか。私には見当も付かなかった。

 「今日裕子が会ってくれてよかったよ。本当」

 どこか違う方向を見ながら、突然張り付けたような笑みを浮かべて、独り言のように、愛はそう言った。私は、なんと返答したらいいのか分からなくて、喧噪に紛れて聞こえないふりをした。愛から連絡が来たときから続くざわざわとした不透明な何かは、今はっきりと胸中で大きな波を打った。
 お店に到着すると、混雑する時間帯前だったようで、待つこと無く、すんなりと入ることが出来た。私たちが入店したすぐ直後から、客は絶えず来店し、外にある入店待用の長椅子はあっと言う間に人で埋まった。溢れた客たちは座ることも出来ずに、恨めしそうに店内をチラチラ見ながら手持無沙汰にブラブラしてみたり、店の壁にもたれかかりながら、俯いて携帯を操作したりしていた。愛は窓際の席に案内されるとすぐにビールを注文した。アルバイトの若い女の子がほんのわずかだけ驚いたような顔をして、すぐに、

 「ビールお一つでよろしいですか」

 と聞き返してきたので、愛は何も言わず面倒くさそうに目線だけを私に向けてきた。私は慌てて、

 「一つでいいです」

 と答えた。店員が注文用紙にペンを走らせている時には、愛はすでにメニューを開いていて、自分が他人からどう見られているのか全く関心がない様子だった。
 ビールはすぐに運ばれてきた。窓の外に見えるからりとした晴天にそぐわないその黄金の飲み物を目の前にして、愛ははしゃぎながら、

 「お先にー」

 と間延びした口調で言いながら、一連の流れ作業みたいに、ビールに口をつけると心底美味しそうに唸り、すぐにタバコに火をつけた。

 「最高!生き返るわー!」

 と喜色満面に幸せそうな彼女を見ると、「昼間から飲んで」とか「まだタバコやめてないの」とか、からかう言葉を言う気が失せて代わりに何を話したらいいのか分からなくて、ただ黙って店の外に並ぶ人達や通行人を見つめた。私たちは料理を注文してそれが机に運ばれてくるまで、ほとんど言葉を交わさなかった。愛はビールをあおりタバコをとめどなくふかし続けていたし、私は人の流れに忙しく目を泳がせていた。

 「混んできたね」

 「うん」

 その程度の会話をポツリポツリとお互いの目も見ず、ほぼ一人ごとのように口にしただけだった。
 愛はやけに押し黙っているように見えた。さっきまでの浮き立った表情は消えて、代わりに重苦しい空気がみるみると彼女を包んだ。分厚く真っ黒な雲が現れて、今か今かと雨が降り出すのを待っているようだった。愛は私から「どうしたの?」と聞かれるのを待っているのかもしれなかった。でも私は声をかけることが出来なかった。それよりも何を言われるのだろう、今度は何が彼女の口から飛び出すのだろうと、私はそれだけを警戒してその緊張感で息がつまりそうだった。
 注文したピザが運ばれてきて、それぞれの目の前にお皿が置かれた。私はこの陰気な空気を吹き飛ばそうと、

 「おいしそう!」

 と声高に必要以上に弾けてそう言ったけれど、愛はタバコを吸いながら少しだけ微笑んだだけだった。諦めて私がピザを口にしようとした時、彼女は急に前のめりになり思い切ったように口を開いた。

 「あのさ、…香織、覚えてるよね?」

 「え?」

 私は驚きのあまり間抜けな声が思わず口から洩れて、そしてしばらくの間視線を天井に巡らせて考えた。天井は外光に照らされて、黄色のような、壁紙と同じ白色のような不思議な色をしていた。
 愛からその名前を聞くとは思わなかった。探していたものがあるはずのないところから見つかったような違和感を覚えながら、

 「…香織ってあの香織?」

 とようやく口にすると、愛は瞬きもせずに私から目を離さないままゆっくりと頷いた。

 「香織がどうしたの?」

 と、私は恐る恐る尋ねた。なぜ彼女の口から香織の名前がでるのか、理解できず混乱したままだった。愛は一つ息を吐いて、それから周囲に漂う切迫した空気を呑み尽くすように、口も鼻も広げて息を吸い込んでから、勢い込んで話し始めた。

 「結婚するんだってさ、田舎のボンボンと。式は二月十四日だよ、バレンタインだよ。ふざけてるよね。しかもアルコラッジェだよ。イラつかない?でさ、考えたんだ。あいつの結婚式に乱入して、全部めちゃくちゃにしてやったらって。そしたらさ、もんのすごいすっきりすると思うんだよね。ばれないようにさ。こっそりやってあいつの過去とか全部ばらすの。私たちの知ってるネタ全部!…裕子さ、一緒にやってよ。てか一緒にやってください。お願い!裕子には迷惑かかんないようにするから!ちょっと手伝ってほしいだけだからさ」

 「ちょ、ちょ、ちょっとまって!突然何!?なんでいきなり香織なの。なんで香織が結婚すること知ってるの?」

 不意を衝かれてすっかり面喰ってしまい、自分でも聞いたことのないような甲高い声音で思わず叫んでいた。訳が分からなかった。必死に整理しようとするけれど、
「アルコラッジェって地元で一番高いって有名な結婚式場だよな」などと他愛の無いことが頭に浮かぶ。

 「こないだ、たまたまユッキーに会ったの。で、ユッキーから聞いた。香織が結婚するんだって。どこでいつやるかも教えてくれたよ。富岡君たちと一緒に二次会の幹事やってるんだってさ。」

 愛は苦々しげにそう口にした。呆気にとられたままの私は、その言葉の意味を必死になって考えた。そうして、結びつき得なかった愛と香織が少しずつにじり寄り、ついには同列に並んで、私を問いかけるような目で見つめる。雨水が地下に浸透していくように、愛の言葉たちは、私の体内に浸み込み、たった今成り行きを見守っていたかのような速度で私は事態を把握した。そうしてその途端に脱力した。
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