第2話

文字数 6,694文字

  二九年間、女をしているが、私は一度も痴漢にあったことがない。電車はもちろん、電車以外でも。高校の通学、大学の通学、社会人になってからは一人暮らしの部屋からの通勤と、JRや私鉄に十年以上ほぼ毎日のようにお世話になっているが一度も身体を触られたりしたことは無い。入学、卒業、就職等の環境の変化でその都度異なる友人がいたけれど、その度に数名の女子が痴漢にあった経験があった。高校の同級生は電車のドアの近くに立っていたら、さりげなくお尻を触られたと言っていた。大学の先輩は電車に乗る度に痴漢にあうと、伏し目がちに話していた。
  自分は決して不細工ではなかったと思う。美人ではないが、服装や髪形にはそれなりに気を付けていたし、何より私には当時彼氏がいた。高校生の時に二人、大学生の時に一人。三人とも取り立てて不細工な男ではなかったから、私も普通程度の容姿だったと思う。なのに私は痴漢にあったことがなかった。
  痴漢にあいたいわけではない。そんな気色悪い体験はしたくない。ただ、痴漢にあったことがない、という事実がただ漠然と胸の辺りを寒々とさせる。冷たい風が一瞬私の全てを巻き込んで、そして去っていく。誰も私になど興味がなく見向きもしない。誰も気を向けず、私に何が起きても関係ない、私が生きていても死んでいてもどっちでもいい。そして、何事もなかったかのように私のいない世界が始まる。そしてそれは当たり前のことなのだ。そう告げられているような気がした。その瞬間、何の前触れもなく唐突に、足の親指の先から前方全ての地面が無くなって、ただの黒い空間に変貌した。今私が握っている電車の手すりのみがはっきりと見え、物体として存在するのがわかる。寄るべきもののない私は力いっぱい手すりに力を加える。汗が滲むのが分かる。姿は見えないけれど、確かに聞こえていた周りの雑音すらも聞こえなくなり、ただの黒い空間に私だけが浮いている。べたっとした空気だけが体にまとわりつく。ふと目線を下に向けると自分の体がない。電車の手すりもそれを掴んでいた手もない。ただ自分の意識だけが黒い空間に浮遊している。幽霊にでもなったのか。幽霊になっても自分には帰りたいところもなければ未練が残る場所もない。だとしたら、どうしたらいいのだろう。どこに行けばいいのだろう。どこに行けばこの鬱陶しい、残された意識も消え去ってくれるのだろう。無くなることが出来ないのなら、なんでもいいから入れ物が欲しい。檻でもいいから入りたい。いらなくなった空き箱でもいい。そして、誰か、これがあなたの入れ物ですよ、と教えてほしい。タンタンと叩くでもいい、さするでもいい、殴るでもいいから教えてほしい。「これだよ」と。
  私と体が完全に分離して、私が戻ってこられなくなる前に、突然の大きな物音で、私は我に返った。凄まじい轟音とともに、急に視界に恐ろしく早い何かが映った。驚いて何事かと思うと、それは反対車線の電車とすれ違っているだけだと気付いた。唖然としていると、ガラス越しのその塊はあっという間に、私が今走ってきた方向に何の迷いもなく行ってしまった。
 ふと、愛のことを思い出した。「彼女は当然のように痴漢にあったことがあるのだろうな」とぼんやりと思った。すると視線を感じて、顔を上げるとガラスのドアに映った目と、目があった。そこには、短髪で眼鏡の小太りな女が一人、映っていた。自分はこんなに醜かっただろうか。毎日見ているはずの姿が、なぜだか初めて目にしたかのように驚き動揺していた。何を見ているのか、何も見えていないのか、何も見ようとしていないのか、見る術がないのか、そうしてまた私はうつろで平和な世界へと戻っていった。
  帰宅してすぐに、テレビの電源をつけると、どっと疲れが押し寄せてきた。着替えもせず、化粧も落とさず、夕飯も食べずにベッドに倒れ込んだ。明日は仕事だから少し休憩してからお風呂に入ろうと思い、テレビを見ていたつもりだったが、はっと目を覚ますと、テレビには最近よく見る芸人と見たことのないアイドルらしき女性が映っていた。四角い箱の中でひらひらと舞うミニスカートと、そこから伸びる細くて白い彫刻のような足に目がクラクラした。テレビの上に置いてある目覚まし時計を見ると十二時を回っていた。「しまった、寝すぎた」と落胆すると同時に、咄嗟に今からお風呂に入ってまたベッドに戻り、朝まで何時間眠れるかを数えた。うまくいけば5、6時間は睡眠を確保することが出来ると考えるとほっとして、はぁ、と大きな溜息をついた。昼から何も食べていないからなんとなく小腹がすいて、常備してあるカップラーメンを食べることにした。愛の家ではお菓子やお茶が小さなテーブルの上に並べられていたような気がするが、それらを食べるような雰囲気ではなかった。一緒に食べようと持参したケーキも食べ損ねた。愛は話に夢中で、私の持って行ったケーキの存在など忘れ去っていただろう。お湯を沸かしながら、何の気なしに台所の狭い天井を見ていると、拳の大きさほどの黒味がかった茶色いシミを見つけた。「あんなシミ、ここに入居するときにあったかな」と考えるが、天井など見た記憶すらないので、あったかどうか定かでない。私がつけたかどうか考えるが、料理らしい料理もしないので身に覚えもない。電気ケトルの赤いボタンがカチッという音とともに消えた。同時に正体不明な天井のシミからカップラーメンへと意識は移り、それからもうしばらくはシミのことを考えることはなかった。
  就職を機に家を出て、実家から電車で二十分ほどのところにアパートを借りた。それがもう七年前の話だ。就職してからは一度も実家に帰っていないし、地元の友達とはクラスが変わったり、学校が変わったりする度に、疎遠になっていったから誰一人として会うことはなかったため、今日は七年ぶりにあの駅に降りたった。小さい頃から見慣れていた駅を、久しぶりに見ると良い意味でも悪い意味でもなく、ただ懐かしかった。前よりも全てが灰色に薄汚れているような気がしたが、不自然に一部分だけ改装され、そこだけが真っ新な状態よりも、なんとなくほっとした。ただ均等に汚れていく駅を見て経てきた年月を思った。数年ぶりに故郷に帰ったが、特別それを家族に連絡することはなく、街を散策したり、よく行っていたスーパーやコンビニ、古めかしい文房具屋へ行って昔を懐かしむこともなく、愛の家のみ訪れ、そして何事もなかったかのように静かに街を後にした。それは数年前この地を離れた時と全く同じと言っていいほどの、足音一つない静かで穏やかな最後だった。犯罪者であれば華麗な逃亡であったと思う。ただ、愛の家への道中、自然と目に入る全てのものが一つ一つの記憶の引き出しの鍵になっているようで、主の意思に反して、その引き出しは開かれて多少なりとも惑わされはしたのだった。
  駅の近くにある小綺麗な歯医者も、私が小学生の頃に舗装された駅前の一本道も、それに沿って等間隔で並ぶ田舎町に不釣り合いな近未来的なデザインの街灯も、相変わらずそこにあった。愛の家の近くにある時計台も形も大きさも何も変わらずに存在していた。その手前にある弁当屋も当時の古臭いデザインの看板もそのままに全体の色だけがこれもまた灰色に染まって、だが確実にそこにあった。不変が美学として徹底されているように、その街だけが時間が止まってしまったようで、一種の感動すら覚えた。でもそれは昔見ていたアニメを再放送でまた目にすることと同じで、「よく見ていたな」と事実として認識することはあっても、それを愛おしく感じたり心が惹かれたり、勿論それによって泣きたくなることなど無いのだった。それは育った環境よりも、今カップラーメンを食べているこの場所の方が心の底から落ち着き、私の本来の居場所だと思っているからだろう。この一人暮らしの部屋が私に染まり居心地が良いとか、一人暮らしが気楽でいいとゆう話ではなく、自我が芽生えてからずっと、非常に不快な違和感と、部品が足りないのかどこかが緩んでいるのか、常にグラグラしている椅子に座っているような居心地の悪さをあの街で感じてきた私にとっては、今居るこの場所はあの街での生活よりも不自然さを感じないという程度にすぎなかったけれど。
 テレビを見ながら、美味しくもない、やけに味の濃いカップラーメンを食べ終えて、のそのそとシャワーを浴びた。風呂は沸かすのが面倒なのでいつもシャワーだけだった。ユニットバスなので浴槽に入ると、必ず便器がすぐ傍に佇んでいる。ビニールカーテンで仕切ったとしてもどうしても便器の存在が気になる。汚いものの隣で綺麗になろうとしている状態に不自然さを感じて、いてもたってもいられなくなる。面倒なうえに、精神的にちっとも休まらないのであれば、風呂につかる意味も見いだせなかった。今の時期はまだいいが、もう少しすると湯船に入らないと寒くて布団に入っても眠れない季節がくる。そう考えるだけで冬が憂鬱だった。
  髪を乾かしながら、明日は月曜日か、と小さく息を吐いた。するとみるみるうちに気持ちが塞いでいくのだった。どんな人もどんな非日常な一日を送っていても、必ず訪れる現実に茫然とし、抗うことはできず、溜息をつくことしか許されない。
  月曜日ということは、ゴミの日だ、と頭の中にぱっと唐突に瞬間的に浮かんだ。ぼんやりしていた頭の中が鮮明になっていく。いつも月曜の朝にゴミを出そうとするが時間がなくて諦めてしまい、次の木曜日のゴミの日にまとめて出すことになるが、いくら一人暮らしといえども一週間もゴミを出さないと結構な量になり、大きなゴミ袋と月曜日から木曜日までの三日、狭い部屋で一緒にいなければならないのはさすがに気が滅入った。その分早起きをすればいいのだが、それが出来た試しはないから、前日の夜にゴミは出すことにしている。ルール違反だと分かってはいるけれど、このアパートも然り、周辺に建つアパートも一人暮らし向けの賃貸が多く、当然、周辺のゴミ捨て場にゴミを捨てる人の多くは独り者なので、私と同じように夜にゴミを出す人は珍しくない。それに対して、どこかで憤怒している人がいるかもしれないけれど、多数の暗黙の了解でうるさく注意されることはない。時計を見るともう深夜1時半近いが、今から行ってしまえと思い立ち、部屋中のゴミ箱のゴミを一つの大きな袋にまとめ、口を強く結んでむんずと力任せにそれを掴んでパジャマのまま外へ出た。昼間はまだ温かい日が多いが、さすがに十月の半ばとなると夜は少し冷えるなと身を縮ませながら足早にアパートの階段を降りた。私が子供時代の今頃はもうとっくに冬日が続き白い息を吐いて遊んでいたような気がするが、それも昔の記憶だから今と比較しやすくするために大げさに塗り替えられているのかもしれないと、もっともらしいことを思った。
  アパートの正面には比較的交通量の多い道路があり、アパートの裏には車一台が通れるくらいの狭い道が通っていた。その道に沿ってJRの線路が、すぐに潜り抜けられそうな鉄柵に囲まれて永遠と続いている。アパートの、向かって左横には二十台以上は優に収容できるだろう駐車場を挟んで、これもまた必要以上に規模の大きな薬局があり、私はスーパーでの買い物以外はここで全て済ませている。私の部屋は左端の角部屋なので、深夜0時まで営業している薬局の大袈裟なまでの電飾の光が閉店して消えるまで、出窓から否応なしに差し込む。でも、それを苦に思ったことは一度も無かった。部屋にいる時はずっとテレビはつけっぱなしで、夜寝る時ですら、照明は消してもテレビの電源を消すことはなかったのだから。
  お店を照らしだす照明も、「薬」という大きな看板の電飾も消えた薬局は、暗闇に無言で佇むただの大きな黒い塊と化している。ゴミ捨て場はこの薬局の裏にあり、線路側の狭い道に少しはみ出して置く形をとっている。アパート正面の道路と違い、線路側の道路には街灯が少なく、唯一、ゴミ捨て場の上に気休め程度の小さな電灯があるだけだった。その小さな明かりを目指して大きなゴミ袋を片手に歩いた。暗く静かで冷たい空間に、ガサガサと無機質な音が鳴り響く。と、次の瞬間、「ガサ」と私の持っているゴミ袋からではない、ビニール製の袋がこすれる音が私の進行方向の少し先の方から聞こえてきた。ピタッと足を止め、あと二十メートル程先にあるゴミ捨て場を凝視すると、またガサガサガサ、と物音と共に今度は人影がうっすらと見えた。

「誰かいる」
「こんな時間に私以外にもゴミを出す人がいるのか」

と思い、じっとその場で固まって様子を見ていると、その人影はどうやらゴミを捨てているわけではなさそうだ。ガサガサガサと大きな音をたてながら、遠慮なくゴミの結び口をほどいては中のものを漁っているのだった。向こうの人物はこちらには気付いていないようで、ただ黙々とゴミを掴んでは目の前に持っていき、コートらしき上着のポケットにいれる、もしくはその場になんの躊躇もなく捨てるということを交互の手で繰り返している。

「こちらには本当に気付いていないよな」

という疑念が静かに私の体を吹き抜け、足元からじとっとしたねばっこい何かがまとわりつき、全身を硬直させる。あれの頭上には薄暗いが電灯があり、私のいる方には全く明かりはなく暗闇に近いため私の姿はおそらく見えないだろう。しかし、今数十メートル先に間違いなく変質者がいる。あれを確認するまでは私もなんの気もなしに、ゴミ袋がこすれて出るガサガサという音をさせながら、ここまで歩いて来ている。相手も自分が立てているゴミを漁る音ではない別の音を聞いているはずだ。そう思うと、いてもたってもいられず、一歩、また一歩と後ずさりし、次の瞬間、私は全速力で家に向かって走り出した。手に持ったゴミ袋は可能な限り体と離し、ぶつかって音を出さないように、私の出来る限り精一杯の方法で、慎重に、でも早く、絡みつきそうになる足を気力で前にだし、数十メートル先の自分の部屋の窓を祈るような気持ちで見つめながら。手に持つゴミ袋は私の気持ちを汲んで静かにしてくれるはずもなく、家について玄関の床に置くまで騒ぎ続けた。それでも振り返って相手を確認する勇気は無かった。ただがむしゃらに走り、部屋のドアを思いっきり力いっぱい開け、中に入り急いで鍵をかけた。大した距離を走ったわけでもないのに心臓は体から飛び出そうなくらいに暴れ、呼吸すらうまく出来なかった。落ち着こうと玄関に立ったまま、靴も脱がずに深呼吸を何度か繰り返した。すうううううはあああああ。そうして私は上がった息を整えながら、靴を脱いで部屋へ入りカーテンが閉まっている薬局側にある唯一の出窓に近づき、カーテンの隙間からゴミ捨て場の方に焦点をあわせた。するともう人影は見えず、ほの暗いいつもの電灯とその下に散乱したゴミたちが小さく見えただけだった。ホームレスか何なのか、それとも特定の人のストーカーだろうか。好きな人のゴミを漁る人間の話を、以前何かの短編集で読んだことを思い出した。その小説の中のゴミを漁る犯人は女だったけれど。変質者は中年の男に見えたが確かではない。ゴミ捨て場まで少し距離があったし、電柱が邪魔をしてゴミ荒らしの顔まではよく見えなかった。その上、気も動転していたから、もしかすると女だったのかもしれない。中年男というのは所詮私のイメージから捏造されたもののような気もした。
  肩で息をしながら、少し落ち着くまで、十二畳の1Kの部屋のどこにも視点を合わせず、瞬きもしないで、気持ち悪いほどドキドキしている心臓の音に耳を傾けていた。多少の冷静さを取り戻してから、もう一度カーテン越しにゴミ捨て場を見たが、さっき見た景色と一ミリも違わなかった。ゴミを捨てそびれたことを思い出したが、また今から再びあの場所へ向かうことは到底不可能に思えた。
 変質者かホームレスか知らないけれど、私のやるべきことは今何もないのだからと、平静を装ってすぐにベッドへ入ったけれど、興奮してなかなか寝付けずに私は無駄に寝返りを打ち続けた。何時に寝たのか定かでないが、最後に時計を見たときは夜中の三時すぎだった。
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