Shadow Tasks

文字数 9,518文字

ミサキは疲弊していた。

今の時代の若手の育成方針だかなんだか知らないが、入社して三年ほどしか経っていないにも関わらず、プロジェクトリーダーに抜擢されたのだ。

本来ならチームを引っ張るはずの四、五十代のベテランたちは、アイデアを出す気もなく、指導するでもなく、こちらが何を言ってもこくり、こくりと、赤べこ人形のように頷くだけ。
雲行きが怪しくなってきてはじめて、こちらを責め立てるのだ。

若者になんて任せるからこうなるのだ、俺は何も言っていない。
リーダーが決めたのだから、すべての責任はリーダーにある、と騒ぎ出す。

要は何も責任を取りたくないのだ、育成して若手がやめたら評価が下がる。
それならば若手をリーダーにして、勝手にやらせればいいのだ。
それで失敗して、凹んで辞めても自己責任。
そうしたら今度は、最近の若者は根性がない、甘やかされて育ったから当然の結果と、偉そうに吠え立てる。


そんなこんなで、今日も帰宅したのは午後十時である。
コンビニ弁当を食べて、お風呂に入ったら、もう寝るしかない。
すずめの涙ほどの余暇でやれることといえば、スマホでぽちぽちと面白そうなものを探したり、癒されそうな画像を探したり……。
ソーシャルネットワーキングサービスの巡回である。

興味のない広告を、まめに消しながら、今日も眠りに落ちるまでの時間、束の間の非日常に浸るのだ。
人差し指で、スワイプしながら新しい情報がないか目で追う。
昨日と代わり映えのしない、ネットミームがまだ流行っている。
まぁこんなものかと、さっさと寝てしまおうかと思った時に、ふと、ある広告が目に留まった。

『スキマ時間を共有しませんか』

最近よく見かける、スキマ時間を有効利用するバイト募集だろうか。

『あなたの溜まったタスクを、知らない誰かが達成してくれます』

まさか、そんな都合のいい話があるのか。
きっと、利用料金が高いに違いない。
ちょっとしたフードデリバリーでも、そこそこ、お金がかかる。
しかし、ミサキは気になったのでリンクを辿ることにした。
よくある導入画面らしく『ログイン』と『会員登録がまだの方はこちら』との表記が目に飛び込んでくる。

とりあえず、どんな仕組みなのか説明のページを見ることにした。
黒くて間抜けそうなキャラクターが出てきた。
体形はずんぐりとしていて、目がくりくりで、鼻はない。
親しみやすいデザインになっている。
いわゆる『ゆるきゃら』というやつだ。
これがマスコットキャラクターなのだろう。

『日々のタスクが溜まっていませんか?入力ページに達成してほしいタスクを入力すると、代わりに他の会員が達成してくれます!そしてあなたもスキマ時間に他の会員のタスクを達成してあげてほしいのです。互いの余った時間を有効活用しませんか?』

そんな触れ込みだった。
そのあとは、システムについての説明がある。
自分が達成してほしいタスクを入力すると、それが一覧表に乗り、誰かがジョインする。
そして入力したことを達成してくれる。そんな流れだ。

一見、効率のいいシステムのように見えるが、これは人の善意に左右されそうだな。
頼むだけ頼んで、自分は手伝わないという選択肢も取れそうだからだ。
説明を見る限り、依頼をこなさなかったときのペナルティが見当たらない。
だが、面白そうだ。
ミサキは会員登録することにした。
アプリの名称は『Shadow Tasks』っだった。
陰ながら応援するという意味だろうか。

試しに『タスクを達成してあげる』のボタンをタップしてみた。
『ペットの散歩』『買い物の手伝い』『荷物を届けてほしい』
ありがちな内容が並んでいる。
ジョインしないと、詳細を見ることはできないようだ。
説明に、一人で達成できるものに限ると書いてあった。
一つのタスクに、一人がジョインするシステムのようだ。

買い物など、購入費や移動費が前もってわかっているものは、先に払うのだろうか。
しかし、その他、細かい諸経費や費やす時間は『善意』ということになる。
こんなの成り立つわけがない……。
タスクを達成したことによる、目立った報酬も見当たらない。
こんなの誰がやるのだろう……。

そう思っていたのだが、先ほどのタスク一覧の依頼が次々とグレーアウトしていく。
つまりは誰かがジョインし、成立したことになる。
暇な人もいるものだなと、ミサキはこの時深くは考えなかった。


明くる日の夜。

今日もミサキは、疲弊していた。
幸いなことに、明日は休みが取れる。
しかし、何もやる気が起きなかった。
買ってきた弁当を、もそもそ、と食べる。

部屋の中が蒸している。
エアコンを入れようと思ったのだが、スイッチが入らない。
リモコンの電池が切れている。
直接ボタンを押せないこともないのだが、踏み台が必要だ。
そんなものはない、どうしよう。
ミサキは苦悩した。

さすがにエアコンなしは辛い。
かといって、エアコンに手が届きそうもない。
疲れているし、足はむくんでぱんぱんだったが、コンビニまでひとっ走りするか……。

そう思った時に、スマホに目が留まる。
そうだ、昨日入れたアプリを使ってみよう。
ミサキは、アプリを起動する。
『タスクを依頼する』のボタンをタップすると、項目分けされたボタンが出てきた。

……なるほど、ある程度頼めることは、項目分けされているのだ。
難解なことは、頼めないようになっている。
『買い物を頼む』の項をタップした。
次に詳細を打ち込む、入力欄が出てきた。
ミサキは『単四電池』と入力する。
すると確認画面が出てきたので『OK』を押した。

くるくる、と処理中のようなアイコンが出て、『受理されました』という文言とともに、例のマスコットキャラが、万歳しているかのような絵が出てきた。

これで終わり?

後は待っていれば、誰かが電池代を受け取りに来るのだろうか。
何が起こるか予想がつかないミサキは、そわそわした。

十数分ほど経っただろうか、部屋付きの郵便受けが、がさがさ、と音を立てた。
ビニール状の何かが、押し込まれる音。

まさか、と、ミサキは確認しにいく。
郵便受けに、近所のコンビニの袋に入った、単四電池が入っていた。

あれ、お金はどうするのだろうと、困り果てていたところに、スマホの通知音が鳴った。
『タスクが達成されました』とのメッセージが出ている。
慌てて確認してみると、達成内容とレシートの画像が添付されていた。
その下に、入金方法が様々記載されている。
なるほど、金銭のやり取りも運営会社側でやってくれるのか。

ミサキは感心した。

このあたりは請け負う方をやってみると、詳細がわかるのかもしれない。
人との接触も最低限なのだろう、コミュニケーションツールではなく、淡々と互助するアプリなのだ。
これは便利かもしれない。
ミサキはそう思った。


とある日曜日の昼過ぎ。
使い方がわかってから、ミサキは、より多くのものをアプリに頼むようになっていた。
何せ、ちょっとした買い物も迅速に終わらせてくれるのだ。
本当に実費だけで、余計な金額を取られることもない。

買い物だけではない。
そんなに複雑なものでないのなら、書類を作成してほしいと入力すると、望みの形式で作ってくれる。
手紙を出してきてほしいと頼んで、袋にいれて吊るしておくと出してきてくれる。

お金を払う必要もない。
完全に善意で回っているシステムなのだ。
しかし、ミサキ自身、請け負う方はやったことがなかった。

面倒なのだ。

別に、ペナルティもなにもない。
頼みっぱなしでも注意が表示されるとか、そういうことも一切ない。

暇人様様だな、と、ミサキは冷えた部屋で優雅にホットティを飲む。
普段とても忙しいのだ。
そうやって社会を回してあげている。
忙しい自分が、暇を持て余している人たちにタスクを押し付けても、罰は当たらないだろう。

多少の罪悪感はあるものの、この生活をやめる気はない。


ふと、鏡を見た。
最近、首のあたりがひどく痛むことがあるのだ。
ちょうど耳の下のあたりに、痣のようなものができている。
痣というよりは、炭を擦り付けたような跡なのだが、これがなかなか消えてくれない。
幸い小さいので放っておいたのだが、一向に痣が消える気配がないのが気になっていた。

それに、ぼうっとする事が増えた。
パソコンを立ち上げたものの、するべきことが何だったのか、しばらく考えないと出てこない。

きっと疲れているのだ。

いくら他人がタスクをこなしてくれるとはいえ、仕事は自分でやらなければいけない。
プロジェクトメンバーの怠慢さが目に余ってきていて、ストレスが溜まる一方だ。
いっそ、仕事もこの『Shadow Tasks』がやってくれたらよいのに。
ミサキはため息をついた。

今日の夕飯も買ってきてもらおうと、アプリを立ち上げる。
ぽちぽち、と必要項目を入力し終わった。
ミサキはふと、どんな人がタスクをこなしてくれているのだろうと、気になり始めた。
いつも気が付くと玄関前に置かれているので、実際に仕事をこなしてくれている人を見たことがないのだ。

興味がある。
物音がしたら、お礼を言うために外に出て、話しかけてみようと決めた。

どんな人だろうか。
定年を過ぎたご老人が、暇を持て余してやってくれている?
それとも、育児の終わった主婦だったりするのだろうか。

ミサキは、ワクワクした。

がさっ、玄関前で音がした。ミサキは急いで外に出た。
あれ……、誰もいない。
ここはアパートの三階なので、どんなに素早くとも階段を下りていく音がするはずなのだが、それもしない。
それならばと、アパートの階段入り口から公道に続く道を、上から見下ろした。
待てども、待てども、人は通らない。
もう去ってしまったのだろうか。
あまりにも早すぎやしないか。
部屋の中に戻ろうとしたミサキだったが、ふと視線を感じた。

階段の方からだった。
日が落ちてきたので、夕日が差し込んでいる。
階段を少し降りたところから、人がこちらをじっと見ている。

しかし、やけに黒い。

逆光で陰になっているとはいえ、暗すぎるのだ。
目だけが妙にぎらついている。

ミサキは怖くなってしまったので、会釈をして部屋の中に入った。
なんだったのだろう。

やはりタスクをこなす側も、依頼人が気になるのだろうか。
それにしても不気味な人だった。
声ぐらいかけてくれてもいいのに、じっとこちらを見つめるばかり。
逆光だったので、年齢はおろか性別すら判別することができなかった。


アプリを立ち上げ、入金作業をしようとしたときに、画面がいつもと違う事に気が付いた。
お祝いのような、エフェクトが画面に表示され『ランクアップしました』との文字が表示されたのだ。

頼む一方なのに、ランクアップしてしまい、流石に罪悪感を覚えた。
少しぐらい、タスクをこなす側をやったほうがいいのだろうか。

ランクアップ報酬が、表示されている。
頼める項目と、範囲が増えるらしい。
これは助かる。
今のところ、本当にちょっとしたことしか頼めないのだ。
買い物にしても、頼める距離は制限されている。
ランクアップ後だと、移動費さえ払えば国内は無制限になっている。

それに、なんだこれは……。

『報復』という項目がある。

試しに押した。好奇心には抗えない。

報復したい人の、ステータスを入力する欄が現れた。

まさか、そんな、言葉そのままの意味なのだろうか。

一番下の項目に『度合』という五段階から選べる項目があったのだが、それは今のランクでは選べないようだ。

試しに、普段何もしないくせに、隙あらば嫌味を言い、ありもしない悪口を吹聴して回る『斎藤』という、四十過ぎのプロジェクトメンバーのステータスを知っている範囲で入力した。

OKボタンを押したら受理されてしまった。
一体、どうなるというのだろう。
ミサキの心にあるのは、期待というより、困惑だった。


翌朝。

いつものように出社して、課長の元へ挨拶に行ったら、驚くことを報告された。
件の斎藤さんが階段から落ちてケガを負い、本日出社できないというのだ。

ケガは軽い。
二、三日後には出社するらしいが、まさか、これが、報復の結果なのか。
どのような状況だったのかと課長に聞くと、歩道橋の階段を踏み外したとのことだった。

踏み外した?それならば自損じゃないか。
ミサキは、少しほっとした。
席に戻り、朝の報告会の準備をしようとスマホを見たら、通知が来ていた。

『タスクが達成されました』

急いで内容を確認した。

『あなたがご依頼の斎藤さんへの報復は、午前七時四十八分に達成されました』という文章とともに、画像が添付されていた。
事故直後と思しき写真だ。
歩道橋の階段の下で、斎藤さんがうずくまって足を押さえている。

まさか、そんな?怖くなって、ミサキは慌ててスマホをしまった。

周囲を見る。

責め立てる目がないか不安だったからだ。

ミサキがやったわけではないが、依頼したのはミサキだ。
言い知れぬ背徳感が湧き上がる。
だが、誰もこちらを見ていなかった。


夜。
何とも言えない気持ちで、今日を終えようとしている。

あれ以来アプリを立ち上げてはいない。
誰かに責められたわけでもない。
斎藤さんは元から人望もなかったので、話題にすら上がらなかったのだが、人の目が気になる一日を送る羽目になってしまった。

ノンアルコール飲料を飲みながら、普段ならあまり見ることのないテレビを、ぼーっと見ていた。
罪悪感はあるが、胸のすく思いもあった。

本当に、斎藤さんは鬱陶しかったのだ。
人の粗を探すのが大好きな人なので、好意的に思っている人はいないだろう。
現に、心配する声一つ上がらなかったのだ。

いい気味。

のど元過ぎたせいか、今度は妙に高揚してきた。
誰にも気づかれる事なく、日頃のうっ憤を解消できたのだ。

ただの足を踏み外しただけの、自損事故として処理されている。
あのアプリは、そういった事にも配慮してくれるのだろうか。
例え斎藤さんが背中を押されて転落したのだとしても、その時刻にミサキは別の駅にいる。

疑われることがない。
因果のない、どこかの誰かが報復してくれる。
素晴らしいじゃない。
倫理のタガが外れ始めていた。

そろそろ寝ようかしらとベッドに向かおうとしたときに、ふと腕が痛んだ。

ミサキは驚愕した。

二の腕に、こぶしほどの大きさの痣がある。
またしても、炭のように黒い痣だ。

いつの間に、ぶつけたのだろう。
見た目が悪いが痣程度で病院に行くのも憚られたので、湿布を貼って眠ることにした。
いつもなら、明日朝一にやる仕事を頭の中で反芻しながら眠るのだが、なかなか思い出せずにいた。

記憶が、とろんと溶けたような感覚を覚える。

まあいいや、本当に眠い。
その夜、黒い沼に飲まれていく夢を見た。


ミサキは、アプリの虜だった。
やってくれることの枠が広がったおかげで、複雑な書類作成など、仕事の一部も押し付けられる。
家から一歩も出ないで、買い物や所用も済ませられる。
嫌な人がいたら、ひそかに報復したらいいのだ。
他人のタスクを請け負わない事への、罪悪感もなくなっていた。

そして、次のランクアップを心待ちにしていた。

その一方で、奇妙なことが周りで起き始めていた。
黒くて影みたいなモノを、時々見るようになったのだ。
目の端に、すっ、と現れては消えていく。
そして黒い痣が増えた。
目立たない部分ばかりだけれど、そろそろ病院に行かなければいけない。
病んでいるのだろうか『Shadow Tasks』のおかげで、時間に余裕もできてきたというのに。

がさっ。
玄関前で音がする。
並ばなければ買えない、数量限定のスイーツを頼んでいたのだ。
このアプリは、並ぶところからやってくれるので実に便利だ。

達成画面を見ていると、……ついに来た。
ランクアップの知らせだ。
ぱくぱく、と、スイーツを口に運びながら、ランクアップ特典を見た。

ついに、配達や買い物を頼める範囲が無制限になった。
行先が、海外であっても可能だということだ。
無論、渡航費などは、こちら持ちになるが。
そして、報復をする度合の設定ができるようになった。
最高設定だと、どうなってしまうのだろう。

ミサキはワクワクしていた。

また、斎藤さんを入力してみよう。
復帰しても相変わらず、嫌味で嫌な奴なのだ。
最高設定で入力を終わらせた。

すると、いつもとは違う黒い画面に飛んだ。
黒、しかない、他にボタンも何もない。

そこに赤い『本当によろしいですか※この操作は取り消せません』という文字が浮かび上がってきた。
続けて『OK』と『戻る』のボタンが浮かびあがる。

随分と脅かすじゃない。
ミサキは驚いたものの、流石に死んだりはしないだろうと『OK』のボタンを押した。
何の躊躇いもなかった。

しばらく処理画面が出た後、いつものにぎやかなページに飛んで受理したとの文章が表示された。

ミサキは、ほっとした。

そして、受けるタスクの一覧の出るページに飛んだ。
自分の依頼が、表示されたか確かめるためだ。


……報復の依頼で埋め尽くされていた。
しかも、最高設定ばかりだ。

始めたころは、買い物や配達の依頼ばかりだったというのに。

ほら、みんな、嫌な人に報復したいのよ。

ミサキは、ほくそ笑んだ。

そして自分の依頼がグレーアウトしたのを確かめると、アプリを閉じた。
もう罪悪感など、かけらもなくなっていた。

……頭が、ずきりと痛んだ。
ふいに、ミサキは鏡を見る。

ぎょっとした。

右目を中心に、広範囲に痣が広がっていたのだ。

これはまずい。
流石に、病院に行かなければならない。
保険証を探しながら、病院も『Shadow Tasks』が代わりに行ってくれれば良いのに、そう考えていた。
既にミサキは、アプリなしでは物事が考えられなくなっていた。


病院へ着いたものの、困ったことが起きていた。
受付の人に何度言っても、痣のことが伝わらないのだ。

「見当たりませんよ、影がそう見えただけじゃないですか」などと言うのだ。

トイレに駆け込んで、鏡をもう一度見て見たが、痣は変わらずそこにある。
もう一度説明したが、結局気のせいということで帰らされた。

これは一体どういうことだろう。

次の日出社して、仲の良い同僚にも尋ねてみたのだが「何もないよ、ちょっと顔が赤いかもしれない。熱ある?」という返答だった。

ミサキにしか見えない痣なのか。
精神的に病んでいて、ありもしない痣が見えているとでもいうのか。

トイレで、体のあちこちをチェックしてみる。
普段あまり見ることのない、背中にも痣が広がっているのが確認できた。
特に右足がひどい、ほぼ真っ黒だ。
ショックを受けたものの、他の人に見えないんじゃ、どうしようもない。
治療してもらうこともできない。

件の斎藤さんは休んでいた。
流行り病に罹患した可能性があるとのことだ。
最高設定でもこの程度?
病など、人為的に引き起こせるものなのだろうか。
ミサキは、少しがっかりした。

会社からの帰り道、ついに黒いモノがはっきり見えるようになってしまった。
今までは見ようとしても、すぐに視界から外れていたのだが、人型の影なようなものが忙しなく歩き回っている。

これは完全に病んでいる。
ミサキはそう思った。

こんなに、はっきり幻覚が見えるものなのだな、と初めての経験に感動すら覚えていた。

何かを抱えている、影の人型がいる。
電車に乗り込んでいる、影の人型がいる。

行き交う人は、それに注目していない。
きっと見えていないのだ。
もしやあれが、幽霊というものなのだろうか。

ミサキは、ぼーっとそんなことを考えていた。
上手く考えが、まとまらないのだ。
深く考えようとすると、頭の中でくしゃくしゃと紙を丸められているかのように、思考が止まってしまう。

そうこうしている間にも、ミサキの黒い痣は、どんどん広がっていくのだった。

家に着いた頃には、顔が真っ黒になっていた。
ミサキは、力なく笑う。
もう、どうでもよくなってきていたのだ。
どうせ他人には見えやしない。

スマホを取り出して『Shadow Tasks』を検索した。
最高設定の人が、報復でどうなるのか知りたかったのだ。
流行り病で済むとは、思えなかったからだ。

『Shadow Tasks』について語り合う掲示板を見つけた。
上から順に、目で追っていく。

『何でもやってくれる神ツール』

『どういう仕組みなんだこれ、他人のタスクを、こなすやつなんているわけないのに回ってる』

『このアプリ使いすぎて、うちのばーちゃんがおかしくなった件』

『頼みすぎた嫁が消えた』

『最高設定で報復を頼むと相手は死ぬ』

下に行くにつれて、不穏な文言が増えてきた。
そして、そんな書き込みの中に一つ、目を引く書き込みがあった。

『頼み事のレベルで深度が進む。頼みすぎたやつはどんどん黒くなっていく。近所に買い物とかなら深度は低いし、少ししか黒くならない。最高設定で報復を選んで達成されると一発アウト、真っ黒になってこの世から消える。この世から消えそうな俺が言うんだから間違いない。現に、会社の上司に報復を頼んだ友達は消えた。街中に黒い奴が増えてきただろう?あいつらは俺らの先輩だぜ。報復頼んだ奴らはご愁傷様』

ミサキは目を丸くした。

この黒くなる現象は、精神的に病んで見ている幻覚ではなかったのか。
この世から消える?そんなばかな。

アプリを立ち上げる、あの依頼を取り消さなければ。
どうやれば取り消せるのだ。

ミサキは、血眼だった。

画面上にある、ありとあらゆるリンクを辿る。
まだ達成の通知が来ていないから、間に合うはずだ。

正直、斎藤さんの死などどうでもよかった。

消えたくない。

今や街中にあふれている、あの黒い影の仲間入りなど、まっぴらごめんだ。
リンクをどんどん辿っていく。
どこにもない。
依頼の取り消し方法なんて、どこにも載っていないのだ。

それならば。
アプリ自体を消してみたらどうだろう。
ホーム画面から『Shadow Tasks』のアプリを削除した。

消えた……と、思ったらまたアプリが浮かび上がってきて、ダウンロード中の表示になる。

要らない!と、電源を落としてスマホを放り投げた。

電源を落としたはずのスマホから、ピロン、と音が聞こえた。
ミサキは恐る恐る、スマホを手にした。

『タスクが達成されました』との通知。

アプリをタップする。
依頼達成の詳細が書かれていた。

『あなたがご依頼の斎藤さんへの報復は、午後八時三十七分に達成されました』

添付された画像を見ると、パジャマ姿の斎藤さんがバスタブに沈められていた。

何の感傷も浮かんではこなかった。
それ以外のことで、頭がいっぱいだったからだ。
その画面をしばらく見つめていると、画面が切り替わった。

『今回のご依頼で、上限に達しました。これから、あなたに清算してもらいます。Shadowスタッフとして、ご依頼欄のタスクにジョインして下さい。あなたのご依頼の価値の、おおよそ百倍の価値のタスクを達成すると、Shadowスタッフとしての役目が終わります。そんなに依頼があるのか心配でしょう。しかし、心配ご無用です。人の欲など尽きることはありませんから』

その文章の下でマスコットキャラが、ひっひっひっ、と笑っていた。

ミサキは、自分の姿を鏡で見る。

そこには、何も映っていなかった。


某日。

ミサトは奔走していた。
社会の影になっていた。
上から下まで真っ黒だ。
誰に注目されるでもなく、淡々と依頼をこなしていく。
とにかく難解そうな依頼をこなせば、すぐに解放されるのではないかと、淡い期待を抱いていた。

周りの影は日に日に増えていく。ライバルであり同業者だ。
善意を貪った、哀れな影たちだ。

ミサトは、それでも悲観はしていなかった。
この役目を終えたら、また頼む側に回る事ができると信じていた。

今度は上手くやろう。

たった今、ジョインした依頼を見る。
配達の依頼だ。

行先は……アリゾナ州だ。
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