暮れゆく森で

文字数 11,431文字

クレナは、孤独だった。

生まれ落ちたときから、親はなく、兄弟もなく、周りに誰もいなかった。
体はとても小さく、弱弱しい体を引きずりながら、乳の代わりになる食べ物を探し、どうにか生き延びていた。

クレナは、小さい野兎だ。
毛並みは黒く、目の色も黒い。
夜になると、闇に溶け込んでしまう。
クレナ自体が、夜のようであった。
他の兎たちは、まるでクレナがいないかのように無視をする。

兎だけではない、鳥も、狸も、キツネも、リスも、クレナを無視する。
なんと本来なら、兎を捕食する大きな動物でさえも、クレナを無視するのだ。
黒すぎて見えないのだろうか。
そう思うこともあった。

しかし、黒い動物は他にもいる。
カラスだって真っ黒だ。
しかし、彼らにはつがいがいる。
一緒に空を舞う、つがいがいるのだ。

クレナは、ほろほろ、と泣いていた。
寂しい。寂しい。

一人だけでもいい、寄り添うものがあってくれたのなら、どんなに幸せだろうか。
そう思いながら、集めた木の実を口に運ぶのだった。


数日後。

今日は『ヨアさま』に会いにいける日だ。
唯一孤独ではなくなる日。
ヨアさまは、この森の守り神のような存在だ。
白く大きな美しい鳥の姿をしている。

森の動物たちは、定期的にヨアさまにお呼ばれする。
そして、悩みを聞いてもらうのだ。

いそいそと、ヨアさまのもとへ、クレナは出かけた。
荘厳な大樹の上に、ヨアさまはいらっしゃる。

クレナが到着すると、ヨアさまは、大きな翼でクレナを包み込んだ。

「おお、クレナよ。相変わらず、お前は小さくて愛らしい」

温かい。
ヨアさまの羽根の中はとても温かいのだ。
このぬくもりが、ずっとあってくれたなら。

でも、ヨアさまは、みんなのヨアさまなのだ。
ヨアさまは、この森のすべての動物たちに優しい。
クレナだけが、特別というわけではない。

クレナは特別なぬくもりが欲しかった。

「変わりはないかい、クレナ。おまえは相変わらずやせっぽちだ。ちゃんとご飯は食べているのかい」
ヨアさまは、優しく問いかけた。

「変わりはないですよ。ぼくはどうしようもなく、一人のままです。ごはんは食べられていますよ。でも最近、木の実が減ってきた気がします」

「もうすぐ冷たい季節が来るからね。クレナは、はじめての冷たい季節だろう?」

「冷たい季節?これ以上冷たくなるというのですか?ぼくは今でも、冷たく寂しいのに、これ以上冷たくなったら死んでしまいます」

クレナはヨアさまの羽根の中で、ほろほろ、と泣いた。

「おお、おお、クレナよ泣かないでおくれ。私まで悲しくなってしまう」

「ぼくは一人が嫌なのです。なぜ、ぼくは一人なのですか。子供のうちは親に甘えたいし、大きくなっても仲間と一緒に行動したい」
訴えるように、ヨアさまに言う。

「おまえは孤独で寂しいだろうが、役割があるのだよ。おまえだけではない、生きるもの全てに役割があるんだ」

「他のみんなは仲間と共に愉快に、生きているではありませんか」

「一人の者だっているよ。それに嫌われている者だっている」
遠い目をしながら、ヨアさまは言った。

「ぼくはその『嫌われる』ことだってできやしない。無視をされているのです。空気のような存在なのです」

「おまえはまだ小さい、もう少し大きくなるまで待っていておくれ。そうすれば私が言っている意味が分かるから」

そう言い、ヨアさまが、さらにぎゅっ、と翼で抱きしめた。
温かい……でも、この温かさもすぐに終わってしまう。

次の動物が、ヨアさまに会いに来るので、帰らなければいけないのだ。
クレナの順番は、もうすぐ終わってしまう。

「それでは、ヨアさまごきげんよう」そう挨拶し、クレナはヨアさまの元を去った。


また、一人の生活に戻る。
冷たい季節が来るなら、木の実を集めておいた方がいいだろう。
捕食される心配がないので、弱く小さな動物が立ち入れない場所でも、クレナは入っていくことができた。

暗く、不気味な森の奥。
暗い森と呼ばれている場所だ。
昼間に入っても、薄暗く、気味が悪い場所だった。

手つかずの木の実をたくさん集めて、木の葉に包んだ。
赤、黄色、オレンジ、美味しそうな木の実ばかりだ。
仲間がいれば、これを分かち合えるのに。

クレナは、ほうっ、とため息をついた。

包んだ木の実を小脇に抱えて家に帰っている途中、やせ衰えた老いたリスに出会った。
老いていて、木を登ることができないようだ。
木のうろの中で震えている。
冷たい季節がくるというのに、食べるものが何もない様子だ。

かわいそうに。

クレナは集めた木の実を、その老いたリスの傍らに置く。
なに、また取りに行けばいいのだ。

老いたリスは、こちらに気付くことなく、まるで木の実が突然湧いたかのような反応をしていた。
喜びながら、頬袋に木の実を詰め込んでいる。

そんなリスの姿に、ほっとし、クレナはまた暗く不気味な森に戻るのだった。
先ほど木の実を集めた場所は、取りつくしたので、さらに、さらに、森の奥へ行く。

ケーーー、と鋭い鳥の声が聞こえた。

あれは、リスや兎なら難なく持ち上げ、自らの巣に連れ去ってしまう怖い鳥の声だ。
しかしクレナには、そんな心配はご無用だった。

何せ、無視される。

気にせず、クレナは木の実を探した。
ずいぶんと奥まで来てしまった。
迷わず家まで、帰ることができるだろうか。
クレナは、少し心配になった。
それにここは、禁域とされている。

大きな蛇が出るといわれているのだ。
熊をも丸のみにしてしまうという、大きな、大きな、蛇だ。
石のような鱗を持ち、睨みつけられると、石になるという噂もある。

しかし、そんな蛇にすら、きっと無視をされてしまうのだろう。
クレナは、警戒していなかった。

問題は帰り道だ。
今まで来た道は、それはもう蛇のようにくねくね、と入り組んでいるのだ。

しばらく進むと、やけにつるつるとした岩肌があった。
滑り落ちそうで危ないが、ここを登っていくと、木の実が鈴なりに生っている場所に行ける。

クレナは登ることにした。
幸い傾斜が緩い。ぴょん、ぴょん、と軽快に登っていく。
もう少しで木の実に届くというときに、地面が揺れた。
まるで、大地が割れたような揺れだ。

クレナは、衝撃で転がり落ちた。


気が付くと、生暖かい洞窟にいた。
目の前に、鋭い尖った岩が連なっているのが見える。
危なかった。あれに突き刺さっていたなら、命はなかっただろう。

地面が、ぬるぬるしている。
生暖かい風が、ぶわっと吹いてきた。
それに……なんだか生臭い。
嫌なところに来てしまった。
クレナは、ぶるぶる、と身震いをした。

きょろきょろ、と周囲を見回していると、ふいに声がした。

「さっさと出てくれんかね。そこは、あたしの口の中だ。このままじゃあんたを呑み込んでしまうよ」
洞窟中に響く声だった。

洞窟ではない、ここは何者かの口の中だったのだ。
クレナは慌てて、外に出る。

「わあ」と驚いた声を上げる。

振り向くと目の前に、巨大な蛇がいたのだ。

「よかったよ。顎が外れてしまうところだった」
蛇は、のんびりとした口調でそういった。

グレーの鱗で、所々に苔が生えている。
まるで岩のようだ。
……そうか、さっき登っていたのは、この蛇の体だったのだ。

それよりも……クレナは、とても気になっていることがあった。

「やあ、蛇さん。ぼくのことを無視しないのかい」

そうなのだ、この蛇は話しかけてくれている。

「無視?おかしなことを言う子だね。あんたは、そこにいるじゃないか。気が付いてよかったよ。じゃなきゃあんたは今頃、腹の中でどろどろさ」
蛇は、舌をちょろちょろと出しながら言った。

「そういう事じゃないんだ。ぼくは何故か知らないけれど、森中の動物から無視をされているんだ。そりゃあもう、完璧にいないものにされているんだ」
クレナは、叫ぶように言った。

「ふぅん」蛇はつまらなそうに答えた。

「ヨアさま以外に話しかけてくれたのは、蛇さんが初めてだよ」

「ヨア!あの気取った平和ボケした鳥かい。あたしゃ、アイツのことが嫌いなんだ」
蛇は、大きな声を上げた。

クレナは驚いた。
声が大きかったのもそうだが、ヨアさまを悪く言う動物を、今まで見たことがなかったからだ。

「何故、ヨアさまをそんなに嫌うんだい」

「あたしを、こんな暗くて、じめじめした場所に、追い立てているからだよ。自分のお気に入りだけ、いいところに住まわせて、嫌いなやつは森の奥へ押し込める。そんなやつだよ」

「そんなはずはないはずだよ。ヨアさまは、みんなに優しい偉大な鳥だ」

「あたしの尻尾を見てごらん」

そう言って蛇は、視線を尻尾の方に向ける。
クレナもそちらを見た。
尻尾に杭が打ち込まれて、取れないように茨でぐるぐる巻きにされている。

「ヨアにやられたのさ。あたしをここに縛り付けるためにだよ。よくよく見てごらん、痛々しいだろう」

大きな杭が打ち込まれ、茨も鱗に突き刺さっている。
とても痛そうだ。

「ヨアさまが、こんなことを?」

信じられなかった。
綺麗な翼で、みんなを抱きしめるヨアさましか見たことがないからだ。

「ヨアはね、自分の綺麗な楽園を守るために、小汚い地味な獣は見えないところに押しやるのさ。楽園を守るためなら、どんなものだって犠牲にする。優しい顔で近づいて、優しく抱擁するふりをしながら、犠牲になる者を決めているんだ」

「犠牲……?」

「そうさ。平和で美しい森を維持するのは大変だ。白く綺麗なものを生み出すと、黒く汚いものが生まれる。道理だろう?だから、汚くて見たくないものを押し付ける犠牲が必要なのさ」
蛇は顔を近づけてそう言った。

黒い……犠牲。
なんだか、クレナのことを言われているような気がした。

「犠牲になっている動物はどうなるの」

「みじめったらしく死ぬよ。あらゆる膿を押し付けられて、誰にも看取られることもなく、一人で孤独に死ぬのさ」

一人で……孤独に……。

「それは、ぼくのことかもしれない」

「おやまあ、それは残念なことだね」
心底かわいそうにという声色で、蛇はそう言う。

「ぼくは、ずっと一人だったんだ。生まれてきてこれまで。きっとこれからだってそうさ。ヨアさまに相談しても、大きくなるまで耐えろっていうんだ」

「そりゃあ、あんた。大きくなるころには膿だらけで死んでしまうよ」
蛇はクレナを囲むように、するする、と這いよった。

「なあ、あんた。ヨアの元にいるのはおやめよ。犠牲になってしまうよ。このままずっと孤独で使いつぶされてしまうよ。なあ、あんた。あたしの元へこないか。ヨアへの信仰を捨てて、あたしを信じるんだ」

「蛇さんを?」

「そうさ。あたしなら、あんたを、ふわふわで茶色い毛並みの兎にできるよ。仲間だってできるさ」

「本当に?」
クレナは、期待で胸を膨らませた。

普通の兎になれたなら、と何度夢を見たことだろう。

「容易いことさ。こんなところに押し込められてはいるが、かつてはあたしもあの森の長だったのさ。あんたを普通の兎にするなんて、ちょちょいのちょいさ」

「是非、普通の兎にしてください。このままだとぼく、寂しさで心臓が潰れてしまいそうだったんだ」
クレナは小さな手を、ちょこんと合わせた。

「まあ、まあ、かわいそうなことだよ。ヨアのやつは、こんなに小さくてかわいい兎を犠牲にしようとしていたんだ。まったく、ひどいやつだよ」

ヨアさまの事は、本当に好きだったので、少し複雑な気分になった。
しかし、蛇の言うことが真実ならば、優しいふりをして犠牲を強いられていたことになる。
なにより、一人は嫌だった。
もう寂しい夜を越すのは嫌なのだ。
温かなぬくもりが欲しい。

「こっちへおいで、魔法をかけるから。そうして覚えておいで、ヨアの名前は忘れるんだ。これからはあたしの名前を呼ぶんだよ。あたしの名前は『シンエ』だ」

「わかりました、シンエさま。シンエさまを信じます。ですからお願いです。ぼくを普通の兎にしてください」

「わかった。わかった。もっと近くまでおいで。姿が変わるまで、目を開けてはいけないよ。魔法が、うまくかからないからね」

「わかりました」

クレナは、シンエさまの前にちょこんと座り、目を閉じた。

頭にぴちゃ、ぴちゃ、と液体が垂れてきている。
熱い、頭が焼けそうだ。
それでもクレナは我慢をした。

もう……一人はいやだっだ。

クレナは、目を覚ました。
いつの間にか眠っていたらしい。
暗い森の入口まで戻ってきている。
シンエさまは、いなくなっていた。

前足を見る。
ふわふわの茶色い毛に変わっていた。
やった、本当に普通の兎になったんだ。
クレナは思わず小躍りしていた。

そこに、間の抜けた顔の狸がやってきた。

「おや、見慣れない兎だね。その暗い森には入ってはいけないよ。美味しいものはたくさんあるけど、兎を丸のみにする動物がたくさんいるからね」

クレナの顔が、ぱあっと明るくなった。

「狸さん、ぼくのことが見えているんだね」
嬉しそうに言った。

「おかしなことを言う兎だなぁ。見えない兎なんているもんか」
はっはっはっと笑いながら、狸は去っていった。

きちんと会話ができることが、これほどまでに嬉しいことだとは。

気が付くと、日が落ちてきていた。
夜のとばりが降りてくるのが、ずいぶんと早い。
クレナは、家に急いだ。


明くる日。

兎の仲間を探して歩いていた。
普通の兎になったのだ、きっと迎え入れてくれるはず。
クレナは、ワクワクしていた。

三匹の兎が、愉快そうに跳ね回っているのが見えた。
おそるおそる近づいて、声をかける。

「やあ、いい陽気だね」

クレナは、元気よく声をかけた。
自分たちの遊びに興じていた三匹の兎が、こちらを見る。

「見かけない兎だね、どこから来たんだい」

「やあ、いい毛並みだね。ふわふわで温かそうだ」

「まだ子兎じゃないか。親とはぐれたのかい」

三匹の兎が一斉に返事をする。

クレナは戸惑いつつも、きちんと返答があったことに喜びを隠せない。

「親は生まれたときにはいなくてね、ずっと巣穴周辺にいたんだ。いい毛並みだろう、ぼくも大層気に入っている」

「ははあ、親とはぐれたのかい。そいつは災難だね。私たちも巣立ちしたばかりでね、不安だから三匹で一緒にいたんだ。よかったら君もここに加わるかい?」
一番、利発そうな兎が、そう言った。

「そうしなよ。もうすぐ冷たい季節が来る。巣穴の中で身を寄せ合っていた方が、暖かく過ごせるよ」
一番、痩せっぽちの兎がそう言った。

「ああ、そうしなよ。みんなで食べる木の実は一際おいしいんだ」
一番、ぽちゃっとした兎がそう言った。

「いいのかい?ぼくなんかが加わっても」
クレナは言う。

「かまわないさ。しかし、そうすると木の実の蓄えが足りなくなってくるね。みんなで取りに行こうか」
利発そうな兎が提案する。

「それなら心配ご無用だよ。ぼくの巣穴に行けば木の実がたくさんある。少しずつ貯めていたんだ。君たちの巣穴に持ってくるよ」

クレナの巣穴には、たくさんの木の実があった。
一人で孤独だったために、散策することで気を紛らわせていたのだ。
散策ついでに木の実を集め、巣穴に持ち帰る日々を送っていたのだ。

「そいつは準備がいいね。どれ、みんなで運ぶのを手伝おうか」

みんなで、クレナの巣穴に向かうことにした。

「わあ、美味しそうな木の実がいっぱいだぁ」
ぽっちゃりした兎が、うっとりしている。

「しかし、この辺では見ない木の実ばかりだね。どこで集めたんだい?」
痩せっぽちの兎が聞く。

「暗い森の方かな。穴場が多いんだ」
クレナは答える。

「危ないじゃないか、暗い森は禁域のはずだよ。獰猛な狐や鳥や熊や犬がいるんだ。それに大層大きな、石の鱗の蛇もいる。ヨアさまにも立ち入るなと言われていただろう」
利発そうな兎が、たしなめるように言った。

ヨアさまの名前を聞いて、チクリと胸が痛んだ。
もう、ヨアさまの名前を口にしてはいけないのだ。
それが、石の大蛇シンエとの約束だった。

「そうだったね。迂闊だったよ。つい、美味しそうな木の実に誘われてしまったんだ」

「無事でよかったぁ」と、ぽっちゃりとした兎がのんびり言う。

四匹で木の実を運ぶ。
これだけ人数がいると、運ぶのもあっという間だ。
しかし、体感では昼前には終わらせたつもりだったのだが、日が傾こうとしていた。

「日が落ちるのが、早すぎやしないかい」
誰かが言った。

「冷たい季節が近づくと、夜が長くなるってママがいっていたよ。だからきっとこれが普通なんだ」痩せっぽちの兎が言った。

他の三匹は「ふぅん」と納得した。
何せ、全員冷たい季節を知らない。
クレナは、まだ子兎であるし、他の三匹も巣立ちしたばかりだったからだ。

しかし、大人たちは気が付いていた。
これが、とても異常な事態であることに……。


「やあ、満腹だよ」

「おい、おい、冷たい季節を越す蓄えまで食べないでおくれよ」

わいわい、と食事をした。
クレナには、初めての経験だった。
みんなで食事をすると、食べなれた木の実ですら美味しく感じる。

ぺちゃくちゃ、とおしゃべりをしているうちに寝る時間になった。

「おやすみ」と言い合い、眠りにつく。
冷たい季節が近いらしく冷え込んでいるが、身を寄せ合っているのでへっちゃらだ。


深夜。
なんだか外が騒がしい。
足音がバタバタバタバタ、聞こえてくる。

それに……悲鳴らしき声。

クレナは身を起こした。
たまに、暗い森の方から怖い動物が来て、大騒ぎになることがある。
それかもしれない。

「起きてよ」
他の三匹に声をかける。

「どうしたんだい」と、眠そうな目で起き上がる。

ぽっちゃりな兎だけは、まだ起きられずにいた。

「なんだか外が騒がしいよ。怖い動物が出たのかもしれない。ぼく、様子を見てくるよ」
そう言って、クレナは巣穴から飛び出した。

一見、普通の夜だった。
しかし、いつもにも増して、暗いような気がする。

月がない。
隠れているのかな、と空を見回したが、おかしい。
星も見当たらないのだ。
雲はなく澄んだ空なのに、炭を流し込んだかのように真っ黒なのだ。

足音が近づいてきた。
クレナは身構える。

いつか会った狸が、どたどた、と、不格好に走ってくる。

「おい、兎君逃げるんだ。暗い森から黒い群れがやってきたんだ」

「黒い群れ?」

「そうさ、普通なら来ることのないやつらさ。最近、夜が来るのが尋常じゃなく早くなっただろう?そのせいで、やつらが活性化したんだ。やつらは、この森の動物を次々に呑み込んでいるんだ」

そういった狸の背後から、黒く目と口だけぎらつかせた、大きい黒い塊のようなモノが現れる。
そのモノは、一口に狸を呑み込んでしまった。

「ひええ」とクレナは腰を抜かす。
こんな動物を見たことがなかったからだ。

狸を呑み込んだモノの一部が、ぼこっと盛り上がる。
そうしたらなんと、ぼこっと盛り上がった部分から、黒い塊が生まれて蠢きだした。
その形はどことなく、呑み込まれた狸を彷彿とさせる。
目を、ぎょろぎょろと動かしていた。

見つかるとまずい……。
黒い兎であったなら、闇に紛れて逃げることができたのだが、あいにく今は普通の兎だ。

クレナは、じりじりと後退した。

するとそこへ、大きな鹿が走ってきた。
黒いモノ二匹は、そちらに気を取られている。
今のうちに、と巣穴の方へ走った。
他の三匹に、危険を知らせなければならないからだ。

戻ると三匹は、巣穴の外にいた。
尋常ではない様子を察したのだろう。

「みんな巣穴に隠れていよう。暗い森の方から、黒い化け物が来ているんだ」
クレナは言った。

「なんだって、それは大変だ。でも巣穴にいても、きっと、ほじくりだされてしまう。やつらは鼻が効くらしい」
利発そうな兎が言った。

「そうだ、ヨアさまの元へ逃げようよ。今は緊急事態だ、きっとお呼ばれしていなくても、守ってくれるはずだよ」
痩せっぽちの兎が続けて言う。

「そうだね」と、クレナは頷いたものの、ヨアさまへの信仰をやめたクレナを果たして助けてくれるのだろうか。
まだ寝ぼけている、ぽっちゃりした兎の手を引き、ヨアさまの元へ向かうことにした。

道中、黒いモノを何匹も見た。
幸い、兎は小さいので、様々なものに紛れることができる。

他の動物たちも、ヨアさまの元へ向かっているらしい。
一心不乱に走り続けている。
しかし、一匹、また一匹と呑み込まれ、黒いモノの数が増えていく。
自分たちの十倍はあろうかという、大きな動物も呑まれていた。

ひらけた場所に出たときに、ついに黒いモノに捕捉されてしまった。
奴らはとても素早い、風のように走る。
とてもではないが、小さな兎では逃げ切れない。

痩せっぽちの兎が、喰らいつかれた。

後ろ足でばたばた、と黒いモノを追い払おうとしているが、がぶがぶと呑み込まれ見えなくなってしまった。
そして、ぼこっ、と黒いモノが増える。

とっさに、小さな穴に逃げ込んだ利発そうな兎も、穴から引きずり出されて呑み込まれた。
また、黒いモノが増える。

クレナが手を引いていた、ぽっちゃりとした兎も喰らいつかれてしまった。
必死に振りほどこうとしたが、ずぶずぶ、と吞まれていく。
もうだめだ、助けることができない。

クレナは泣きながら逃げた。
逃げて、逃げて、方向がわからなくなったときに、硬い岩壁にぶつかってしまった。
軽く目を回していると、なんと、岩壁から声がした。

「おや、あたしの可愛いクレナ、急いでどこに行くんだい」
シンエさまだった。

「シンエさま、シンエさま、お助けください。黒い化け物が次々と動物たちを呑み込んでいくんです」必死に訴えた。

「そうかい、そうかい、それは大変だねぇ。でも心配することはないよ。他の動物たちはあたしの元へ帰ってきているだけなのさ」
シンエさまは、小さな子供に、いい聞かせるように言う。

「帰ってきている……?」

「そうさ、あんたみたいにね。元々この森は全てあたしのものだった。暗く冷たい森さ。それをヨアが奪っていったんだ。あたしの子供らを皆、哀れだといったんだ。傷つけ憎しみあう。それが哀れだといったんだ」

「みんなが傷つけあう?それは哀れではないですか」

「何を言っているんだい、欲しいものは強いものがうばい、弱いものは生きていけないのが自然なのさ。それをヨアは暗い部分だけを取り除いて、不自然な楽園にした。あたしを封じ込めてね」憎々し気に、シンエさまは言い放った。

「あんたが、あたしの元へ来てくれて助かったよ。あんたは、常闇を封じ込める動物の一匹だったのさ。こちらに来てくれて、あたしの封が弱まった。さあ、静かにしておいで、もうすぐこの森があたしのものになる」

「そんな、ぼくを騙したのですか」

「何も騙しちゃいないだろう?あんたは、望みの姿を手に入れたんだ」

「でも、そのせいで、この森がこんなになってしまったのですよね」震えながら言った。

「ええい、小うるさいね。洞窟にとじこめてやる」
シンエさまがしゅる、しゅる、と、こちらに近づいてくる。
クレナは、何故か身動きが取れなかった。

もうだめだ、締め上げられてしまう……。

そのとき、黒く小さな塊が次々とシンエさまに、飛び掛かった。

「やあ、クレナ」と、黒い小さな塊が話しかけてくる。
それは黒い兎だった。
かつてのクレナのような姿の兎だった。

「この森が常闇に飲まれたせいで、僕たちの姿が見えるようになったみたいだ」

「君たちは?」

「説明している時間がないよ。他の仲間が、ヨアさまの元へ案内してくれる。彼らについていくんだ」

道の先の方に、黒い兎たちがいる。
無我夢中で、彼らの元に走りこんだ。

「さあ、急ぐよ。時間がないんだ」と、一匹の黒い兎が言う。

「君たちはいったい何者なんだい。ぼくも君たちみたいな姿をしていたんだ」
クレナは、ついて行きながら聞いた。

「僕たちかい?僕たちは常闇の番人さ。君も常闇の番人だったんだけどね。君はシンエの毒を受けたせいで、番人の力を失ったんだ」

黒い大きなモノが、追いかけてくる。
黒い兎の一匹が、くるりと振り向き、その黒い大きなモノの元へ飛び込んでいった。

「ああ!彼はどうなってしまうんだい」
クレナは聞く。

「あの子はユーグだ。とても強いから心配することはないよ」

「でも、大きな鹿も呑まれたんだ。敵うはずがない」

「大丈夫だよ。僕たちはあの黒いシンエの使いを倒す術を持っているんだ。もちろん、君もね」

「ぼくが?」
クレナは驚いた。

「君は、生まれてそんなに経っていないのだろう。僕たちは、ずっと君を見守っていたんだけどね。君は、気付いていないみたいだったよ」

また一匹、シンエの使いを止めるために飛び掛かっていく。

「そんな。だとしたら、ぼくは一人ではなかったのかい」

「そうさ。でも不幸なことにね、君は、他の仲間を感じる術を持たないようだった。だから、僕たちも止められなかったのさ。シンエの元へ行く君を」

「ああ、ぼくは、なんてことをしてしまったんだ」
クレナは、しでかしたことの重要さに気が付いて号泣した。

「君は悪くないよ。寂しかったんだろう?それを、僕たちはどうすることもできなかったんだ。僕だって一人は嫌だ、一人は寂しい」

周りを見ると、今、返事をした黒い兎だけになっていた。

「さあ、ヨアさまの元へ着いたよ。きっとヨアさまは赦してくださる。正直に今までのことを話すんだ」
そう言うと、最後の黒い兎も身をひるがえし、シンエの使いに飛び掛かっていった。

クレナは、ヨアさまのもとへ急いだ。


「おいで、クレナ」
ヨアさまは、いつもの口調でクレナを呼んだ。

「ぼくは、とんでもないことをしてしまったようです。森のみんながシンエの使いに呑み込まれてしまいました」

「そのようだね。でもまだ間に合うよ。ひどい姿になっているようだ、毒を落としてあげよう。さあ、私の翼の中へお入り」
そう言うと、翼を広げた。

クレナは自分の姿を見る。

なんと、先ほどまで茶色でふわふわした毛並みだったのに、粘液にまみれ、岩みたいなごつごつした体になっていた。

「わあ」
あまりのことに、大きな声で叫んだ。

「心配することはないよ。さあ、お入り」

クレナは、ヨアさまの翼に包まれた。
温かい。この温もりを手放そうとしていたなんて。
涙があふれて止まらなかった。

ヨアさまは、ふわっと翼を開いた。

クレナは、元の黒い兎に戻っていた。
礼を言おうとヨアさまを見上げると、なんと、片方の翼が溶けて爛れていた。
輝く美しい白い翼が、見るも無残だった。

「ああ……なんてこと。ヨアさまの翼が、ヨアさまの翼が」

「心配することはないよ。時間はかかるだろうが、私の翼は元に戻る」
なんでもないことのように、ヨアさまは言った。

「これから、この森はどうなってしまうのでしょう」

「番人たちが頑張ってくれているからね。きっと元に戻るさ」

「ぼくも番人だったんですよね。なぜ教えてくれなかったんです」
クレナは聞いた。

「クレナはまだ幼く未熟だからね。勇んで危ないことをするかもしれないから、成長するのを待っていたんだ。しかし、そんなに孤独を感じていたなんて、すまない、私の配慮が足りなかったよ」
ヨアさまは、申し訳なさそうに言った。

「ぼくには、どうやら仲間が見えていないようです」

「そのようだね。しかしどうしたものか、その目は、私にも治せないかもしれない」

「大丈夫です。ヨアさま。見守ってくれている者たちが、いたことを知りました。たとえ姿が見えなくとも、ぼくは頑張れます」

「クレナは偉いな。さあ、森へお戻り。クレナの姿が戻ったから、他の番人たちがシンエを追い返しているはずだ。押し込むまでには時間がかかるだろうが、きっと元の森に戻る。くれぐれもクレナは無理をしてはいけないよ。まだ幼く弱い、成長するのを待つんだ」

「わかりましたヨアさま。どうかお達者で」
そう言うと、クレナは森に駆けていった。


一か月後。

クレナは、少し成長していた。
黒い兎に戻ったので、また一人になっていた。

森の広場で利発そうな兎と、痩せっぽちの兎と、ぽっちゃりした兎が跳ね回っているのを見ている。
しかし、その表情に憂いはない。

本格的に、冷たい季節がやってくる。
食べ物がなくなり、冷たい風が命を奪おうとしてくる。
クレナは、老いた動物たちの元へ、そっと木の実を届けていた。
今、できるのはこれぐらいだ。

巣穴に戻って、一人で木の実を食べる。
しかし、もう寂しくはない。
孤独ではないことを知ったからだ。

寒いと、身を寄せてくれる見えない存在がいる。
温かい。
そう、本当は、ずっと温かかったのだ。
それに、気が付いていないだけだった。

黒い毛並みも、黒い目も、今は誇らしかった。
ふんわりとした存在に包まれながら、クレナは、眠りにつくのだった。
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