鏡よ、鏡

文字数 11,328文字

サクマは、焦燥していた。

世間から忘れ去られていくことに、そして、自らの余命が、いくばくも無いことに。
思えば、始まりが良くなかった。
思い付きで作家になろうと書いた小説が、いつの間にか評価され、賞を取り、名が売れたのだ。

初めに書いた小説が特に思い入れもなく、筆が進むまま書いた作品であった為、こんなものかと鼻を高くしたのがいけなかった。
最初のうちこそ、売れた名につられるように小説が売れたのだが、それから徐々に尻つぼみになっていった。
底の浅さが知れたのだろう。

一発屋。
まぐれで賞を取った。
ゴーストライターがいたのだ。
などと、悪評を評される方が増えた。

そして……今では一発屋と囁く者すら、いなくなってしまった。

人間というものは、一度でも賞賛の的になると、それに執着するものだ。
どうにか、あの栄光の日を取り戻そうと、あの手、この手、と手を尽くしたが、サクマの名誉が挽回することはなかった。
幸い、最初に売れた小説の印税で、細々と暮らせてはいけるのだが、きっと。そういう事ではないのだ。

生きるということは、そういう事ではない。
人々に賞賛され、ある種の高みに至った者にしか理解できない高揚感。
求めているのは、それであった。
しかし、ありふれた啓蒙本に書かれているような事はやりつくした。
成功者の後付けの叡智を授かって、それで成功するなら易いものだ。

それに、サクマには時間が残されていなかった。
腹の痛みで病院にかけこんだところ、もう取り除けない段階の癌が見つかったのだ。

現状の、みじめったらしい状態での死は『死んでも』嫌だった。

そんなサクマが、超自然的な、あるいは信仰的な、有りえぬ、見えぬ、存在に傾倒していくのは自然な事だったのかもしれない。


サクマは、贔屓にしているアンティークショップを訪れていた。
店主がいつものように、ニタニタと笑顔を浮かべている。
でっぷりと肥え、ある指全てに、ごたごた、とした指輪をはめていた。
生地の滑らかな衣服を、ゆったりと身に着け、風貌だけで例えるなら、悪趣味な異国の占い師のようだ。

アンティークショップといえば、アンティークショップなのだが、陳列されている商品に偏りが見られる。
悪魔崇拝に用いるような、儀式道具のようなもの。
奇妙な形状の装身具、装丁が茶褐色に汚れ切った古書など、『いかにも』な商品ばかりだ。

異国を感じるスパイシーな香りのお香が、焚き込められている。
人によっては、店の入り口をくぐるのさえ躊躇うだろう。

サクマは一つ一つ、手に取り物色していく。

「商品が、代わり映えしないな」
サクマは、店主の方に向き直り尋ねた。

「そりゃあんた、一昨日に来たばかりじゃないか。ここは入れ替わりの激しいアンテナショップじゃないんだよ」
男か女か判断できない声色で、店主は答える。

「何か変わったものは、入荷していないのか」

「変わった物ねぇ……ちょいと待っていてくれ。まだ店に並べていないものが裏にあったはずだ。最近年のせいか、ちっとも作業が進みゃしない」
店主はそう言うと、奥に引っ込んでいった。

見たままの年齢だとするなら、そう年を取っているようには見えない。
腰が重いのは、その体形のせいではないか。
サクマは、イライラを募らせながら待った。
もう時間がないのだ、一分、いや一秒すら惜しい。

五分ほど後に店主が、装飾が煌びやかな板状の何かを抱えてきた。
くるり、と向きを変えるとそれは『鏡』であった。

現代の鏡のように反射の強いモノではない、金属を磨いただけの簡素なつくりの鏡だ。
しかし、それが一層アンティーク感を醸し出している。

「この鏡は?」
サクマは、今の時代ではお目にかかれない、古風な細工の鏡に目を奪われていた。

「さあ……どこぞの王朝の女王様が使っていた鏡だとか。遺品整理で押し付けられた品でね。まだ裏は取っちゃいないよ。本物か偽物かわかりゃしない」
店主は、鏡が重かったのか息を荒げながら言った。

「でも持ってきたからには、何か逸話がある品なのだろう?」

「そうだね。これを最初に所持していた女王は大層美しく、世界にあるもの全ての中で、一番美しいとされていた。国民全員に崇め奉られ、栄華を極めたってぇ話だよ。その女王が門外不出にし、身を隠す、その時まで秘匿にしていたのがこの鏡だって話だ。なぁ……何か、ありそうだろう?」
店主は、にやりと笑みを浮かべながら言った。

「へえ、いかにも怪しい話だな」

「そうだろう、私もそう思うよ。しかし、コレの前の持ち主もね、大層名の売れた政治屋だよ。守秘義務があるからね、名前までは教えてやれないが」
店主は、意味深な表情を浮かべる。

「そうなのか。でも先ほど遺品整理だと言っていたな?前の持ち主は死んだのか?」

「そりゃ年だったもの。遺産をひ孫の代まで綺麗に分配しても、財産が有り余っていたから、海外に学校を三か所も建てたって噂だよ」
店主は扇を取り出し、ひらひらと仰いでいる。

「それにね。まだ面白い話がある」店主は続ける。

「なんだ」サクマは、期待を隠せずにいた。

「その政治屋は、元々、しがない町工場の工場長だったって話さね。潰れかけの取引相手先の掛けの回収でその鏡を手にしてから、あれよ、あれよ、と偉くなっていったってぇ話だ。凄いだろう」

「そいつは凄いな。しかし、潰れかけの取引相手先は、その鏡を持っていたのに潰れかけだったのか」

「アンタ、変なとこで鋭いね。潰れかけの取引相手先は、持て余していたってだけの話さ。表にも出さず、倉庫の肥やしにしていたんだ」

「そうなのか?まだ実態がつかめないが、持ち主に富や栄光をもたらす鏡、といったところか」サクマは不審げに尋ねる。

「さあ、私にも詳しい事情は分からないよ。何せ運び込まれたばかりでね。前の持ち主の遺族はこういった怪しげな古物はお気に召さなかったらしい。ほとんど捨て値で置いていったよ」

「ならば、どうやってこの鏡について知ったんだ」

「アンタ、本当に鋭いね。持ち込まれた古物の中に、前の持ち主の日記が紛れていたのさ。ほら、これさ」
店主はそう言うと、使い込まれた牛革の手帳を取り出した。

「この中に詳細が……?」

ぺらぺら、とめくろうとした。
すると、その手を店主が制す。

「おっと、こいつは売り物だよ。買ってもいないのに読むんじゃないよ」

「何故だ、故人の日記だろう?」

「世に出回っている本だって、書き手が亡くなっているものばかりじゃないか。日記だろうが、なんだろうが、商品は商品だよ」

「がめついな、いくらだ。その鏡と合わせていくらになる?」
流石に捨て値で引き取ったものを、そこまで高値で売らないだろうと、高をくくっていた。

「こいつが本物だった場合、大層な価値があることになる。最低でも五百万だね」
店主は、いつものニタニタ、とした笑顔を浮かべている。

「なっ、捨て値で引き取ったんじゃないのか」
サクマは、焦りを隠さずに言い放った。

「安く買って、高く売るのが商売の基本だろう。要らないんなら、いいんだよ、他に売るからさ。競合させないだけ、ありがたいと思って欲しいね。この手の『いわくつき』を欲しがるコレクターは山ほどいる」
すました顔でそう言うのだ。

流石に五百万は……とサクマは苦悩した。
しかし、余命いくばくもないのだ。
幸か不幸か、金を残す家族もいない。貯めこんでいる必要もない……。
それに、鏡を買って栄華の極みに至れるのなら、五百万なんてすぐに取り戻せるだろう。

「買おう」
サクマは言った。

「毎度あり」
店主は、満面の笑みでそう返した。


二日後。

丁寧に梱包された、件の鏡がサクマの家に届いた。

まだか、まだか、と待ちわびていたので、乱暴に梱包をはぎ取ると現れた鏡を壁に立てかけた。植物と思しきものをモチーフとした、荘厳で古めかしいフレームに、擦れて鏡としては役割を果たせそうにない、金属の板がはまっている。

サクマは、うっとりと見つめた。
そして、あちらこちらを観察する。
日記によると、この鏡のどこかに宝石のようなものが、埋め込まれているはずなのだ。

サクマは、日記だけ先に受け取り、読み込んでいた。
前の持ち主は、まめな性格だったらしく、その鏡についての使用方法や歴史を、丁寧に綴っていた。
鏡に埋め込まれている宝石に触れると、その鏡と対話することができると綴られている。

まるで、いつの日か聞いた御伽噺のようじゃないか。
鏡がしゃべるとでもいうのか。
以前のサクマなら、そう一笑していただろう。

「これか」と、誰に聞こえるわけでもなく呟いた。

くすんだ山吹色のフレームに馴染むように、小指ほどの大きさの黄色い石が埋め込まれていた。

その石をそっと撫で、そしてこう言った。

「鏡よ、起きよ」

サクマがそう言うと、鏡がパァァっと光り輝くでもなく、そっと鏡面に赤黒い文字が浮かび上がった。

『ご用命を』
なるほど。と、浮き出た文字にそっと触れた。

てっきり鏡が喋り返すものだと思っていたので、急に気恥ずかしさが込みあげてきた。
願いは決めていた。
大ベストセラーとなる作品を、生み出してもらうのだ。
この名を人々の頭に、歴史に、刻み付けるのだ。あの栄光の日々を今一度、この手に。

「俺は、この名を後世に残したい。決して忘れられぬように。その為に後の世に残るような作品を書きあげたいのだ。だから鏡よ!いい案を授けてくれ」

鏡は、しばらく何も答えなかった。

「どうした鏡よ。そうか漠然と言っても無理なのだな。そうだな、ジャンルはホラーサスペンスにしよう。俺が最初に書いた小説と同じジャンルだ。これならばどうだ」

しばらく経った後に、鏡に文字が浮かび上がった。

『あなたには、どうしようもなく許せない男がいた。亡き妻の命を奪った男だ。直接的に命を奪われたわけではないので、法では裁けない。妻を失ったその日から、あなたの復讐の火はメラメラと燃え盛った』

サクマは何が浮かび上がっているのか、理解できなかった。

『あなたは復讐すべき男に取り入るため長い年月をかけた。全くの他人を装い、二人きりでクルージングするまでの間柄になるまで、十年の月日を費やした』

「そうか、鏡よ。話筋を書いてくれているのだな。その話を書けば大ベストセラーが生み出せるのか」

サクマは鏡面が文字で埋まったので、携帯のカメラで文字を撮影した。
すると、今まであった文字が消え、新たに文字が浮かび上がってくる。

『復讐すべき男は、杖がなければ歩けないほど、足が悪かった。だからあなたは、船が沈むように細工をし、自分はゴムボートで脱出する計画を立てた。そうすれば事故に見せかけることもできる、そして直接的には手を下す必要もない。あなたはただ船を壊すだけだ』

「サスペンスはしているがホラー感がないな」サクマは言った。

『計画は順調だった。誰の目も届かない沖まで来ることができた。辺りはもう薄暗い、海は深淵だった。そんな時、その深淵から突如として顔が浮かび上がってきた。亡き妻のものだ。苦悶で顔が歪んでいた。まるで、復讐すべき男を直接絞め殺せと言っているようだった』

「いいじゃないか、ホラーになってきたぞ」

『あなたは悩む、このまま船に細工をして去っても、復讐すべき男は満足に泳げず死ぬだろう。しかし、妻の亡霊がそれを許さない。あなたに襲い掛かってきそうな形相だ』

「そうだな、いい感じの話筋だが、なんだか地味だ。物語に華がない」
サクマは、率直な感想を述べた。

鏡はしばらく沈黙した後、こう綴りだした。

『ならば舞台を豪華客船にすればよい。そして、あなたは爆弾を仕掛ける。復讐のためにその他の多くを犠牲にするのだ。そのような状況に置かれながらも、あなたは男に直接手を下すことを躊躇う。乗客は次々と妻の亡霊に憑りつかれ、あなたを追い込んでいく。妻の亡霊と爆発までの時間に追い込まれながら、あなたは、男に直接復讐するかの判断を迫られるのだ』

「おお、結構いいじゃないか。その話筋で小説を書けば、俺はこの世界に名を残すことができるのか」

すると鏡の鏡面に『それはあなたの書く結末次第』と浮かび上がった。

完全に、助力をしてくれるわけでもないのか。
サクマは、少々ガッカリした。

世に残る小説を書く以前に、残り僅かな余命をどうにかするべきかと考えたが、地味な人生を生きながらえたとて、その人生に意味はないと考えていた。

刹那に彩るのだ、自らの人生を。
一夜限りに咲き誇る、火の花のように。


その日の夜。

サクマは、眠りについていた。
久々に筆の乗った執筆ができた為に、心地よい眠りになっていた。
深い、深い、眠りに落ちる。

気が付くとサクマは、赤い絨毯の敷かれた廊下にいた。
僅かに振動を感じる。
ここはどこか。
夢の中にしては、妙にリアルだった。

「やあ」と話しかけてくる男が、前方から歩み寄ってきた。
右手に杖を持ち、右足を引きずっている。

「どうしたんだ、眠れないのかい。連日、船の上だとね。特に君は繊細だ。どれ、よく眠れる薬を用立ててあげようか」
優しげな笑みで、そう言った。

この男は……そうだ。
復讐相手の男だ。
妻を騙し、自殺に追いやった、憎き復讐相手だ。

「その心配は無用だよ。流石に、少々船上生活に飽きてきていてね。散歩がてら、うろついているだけだ」

「そんなに大きな荷物を持ってかい?」
不思議そうに、男は尋ねる。

そうだ、このバッグには爆弾が入っている。
五か所に設置すれば、たちまち、この船を沈めてくれることだろう。
念入りに計画を練ってある。
このような大人数が乗船している客船を選んだのも、犯人像や、目的を曇らせ、捜査を混乱させるためだ。

乗客名簿にも、サクマの名前は載っていない。
近くに小島がある航路に差し掛かった時に、計画を実行するのだ。
まず、ゴムボートで小島まで行く。
そして小島に、逃げ果せるための道具は揃えてあるのだ。
完璧な計画だ。

この船は、一人の生存者も出さぬよう沈む。
そう、この男諸共だ。
目の前のたった一人に復讐するために、五百人に及ぶ乗客や船員を道ずれにするのだ。
そう……狂気の復讐鬼。

「ああ、部屋とは反対方向の、若者向けのスパ施設に行こうと思っていてね。年甲斐もなく、恥ずかしいだろう?人の少ないこの時間を狙っていたんだ。これは着替えや洗面用具だよ、備え付けのものは使いたくないんだ」そう答えた。

「君、そんなに老いていないだろう。恥ずかしいことなんてないさ。そうか、君は繊細だったね。備え付けのものが使えないのは不便だろう」

「しょうがないさ。こればかりは性分だ。じゃあ、もういくよ。あなたこそ、その足じゃ不便だろう。部屋に戻って休んだらいい。介添えが必要な時は呼んでくれ」
サクマはそう告げると、歩き出す。

背中に「おやすみ」という声が届いた。

ああ、眠るがいい。海の底で、永遠に。

爆弾は、順調に設置できた。
船も順調に、航路を進んでいる。
あとは……予定通りの時間で、爆弾が起爆すれば計画は完了だ。


洒落たラウンジで、酒を飲んでいた。
深夜に近いせいか、他の客は身なりのいい老夫婦ぐらいだ。
きっとあの世への土産話に、この船旅を楽しんでいるのだろう。
長年連れ添ったのが見て取れる、幸せそうな夫婦だ。

少々、心が痛んだ。
妻の復讐のために、あの老夫婦も道連れにしなければならない。
他にも、たくさんの幸せそうな乗客の様子を見てきた。
誰も彼もこの船が沈むなんて、夢にも思っていないだろう。
しかし……もう後戻りはできないのだ。
すでにこの物語の堰はきられた。

予定の時刻まで、あと二時間だ。

まず、サクマが先にゴムボートで脱出する。
十分に距離を確保できた頃に、時間を合わせておいた爆弾が、一斉に爆発するのだ。
それを、遠くから眺めていればいい。
男が爆発に巻き込まれて死ぬにせよ、海に投げ出されて溺れて死ぬにせよ、その顛末までは見たくはない。

妻が自殺したあの日から、脳裏に妻の苦悶の表情が刻み込まれていた。
それに復讐した男までが、加わるのに耐えられないからだ。

呆けた表情で、サクマは海を見ていた。黒く、澱んでいる。

暗い藍色の絵の具で、塗られた油絵のような波。
その時、漆黒の海の中で、白く発光する、ぬらぬらとしたモノが蠢いた。
馬鹿な。この距離だ、見えるとしてもイルカぐらい大きい生物だろう。

まさか人か?と注視したところ、そのぬらぬらしたモノが、船の壁面に飛び移った。
しかし、すぐ死角に入り見えなくなってしまう。見間違いかと、目頭を押さえる。

サクマは、薄ら寒いものを感じていた。
背中に、凍った針金でも突っ込まれたかのような気分だ。
今すぐにでも逃げ出したかったが、動けずにいた。

ガラス越しに、血の気を一切感じさせない白い手が、ぺたり、と貼りつくのが見えた。

もう一方の手もぺたり、と貼りついた。

思わずその場で、尻もちをついたサクマに、白いモノがガラスをすり抜けて接近してくる。

体の芯まで凍るような恐怖が、覆いかぶさってきた。

……目の前には、この世のすべてを憎むかのような、苦悶の表情を浮かべた妻の顔があった。

「お前の為に復讐をするんだ。なぜそんな憎々しげな顔で睨みつけてくるんだ」サクマは声をふり絞って、目の前のソレに言い放った。

『……足りない。もっとあの男を苦しめて。……死に辿りつくその時まで、苦痛を……与え続けてほしい。私を辱めた……あの男に、死より辛い報復を……』
喉から絞り出したような声で、亡霊の妻は告げた。

苦しい、息ができない。
締め上げられているかのようだ。
振りほどこうにも、亡霊の妻には感触がなかった。
こちらからは触れられないのに、亡霊の妻からは息ができないぐらい締め付けられている。

「爆発で死んでも痛いし苦しいだろう?溺れて死んでもそうだ。どちらも楽には死ねない。そして、死後は徐々に魚に食われていくのだ。これ以上ないくらいの屈辱じゃないか」

『……足りない。……足りない』
そう、呟き続けている。

サクマは目を瞑り、恨みは晴らすから消えてくれと念じた。
こんな状況だと、祈ることぐらいしかできないのだ。
しばらく後、すっ、と急に体が楽になった。
両手足が動くことを確認すると、立ち上がる。全身が汗で濡れていた。

時計を見る。
残り時間があまりない。部屋に戻り、証拠になる痕跡を消さなければいけない。
サクマは急いだ。


爆発四十分前。

髪の毛一つ残さないよう、部屋をくまなく掃除していた。
どうせ海に沈むのだ、ここまでしなくてもいいだろう、と思いつつも念には念を入れる。

ふいに、部屋の扉が開いた。

「やあ、こんな夜中に何故掃除をしているんだい」
男だ。暢気そうな口調でそう言った。

まずい、このタイミングで来られると困るのだ。すぐにでも、ここを離れなければならない。

「神経質だって言っただろう、もう寝るところなんだ。出て行ってくれないか」
サクマは、ぶっきらぼうに答えた。

「苛立っているね。それに風呂に行ったのに、ずいぶんと汗をかいているじゃないか、どうしたんだい」

「スパに行った後、ジムに寄ったんだ。どうでもいいだろう、そんなこと」

「普通、順序が逆じゃないかい」
はっはっは、と笑いながら言う。

「だから、どうでもいいだろう」
イライラを、そのまま男にぶつける。

男は笑顔を引っ込めて、真剣な表情をした。

「なあ。私はね、君が成そうとしていることを知っているんだよ。君、亡くなったハナエさんの旦那だろう」

サクマは驚きのあまり、開けた口が塞がらなかった。

「最初に会った時から、わかっていたよ。でも言い出せずにいた。ハナエさんと不倫していたのは事実だからね」
男は気落ちしたそぶりで、そう言った。

「何故、知っていて……」
サクマは、今、この時に、語りだした男の意図が理解できずにいた。

「君は私に復讐しようとしているのだろう。ならば、私はそれを受け入れようと思う。しかし、信じてほしい。私はハナエさんに君の元へ戻るよう説得したのだ。そうしたらハナエさんは大層悲しんで、自ら命を絶ってしまった。どういった過程にせよ、ハナエさんが自殺した理由は私にあるのだけど、君たちの幸福を壊す気なんてなかったんだ」

……なんてことだ。復讐されることを知っていて、交友関係を続けていたというのか。
しかも、今の話を聞く限り、自分への妻の愛は完全に冷めていたということになる。
この狂気に染まった妻への愛は、無意味だったのか。

サクマは、急激にこの男への復讐心が冷めていくのを感じていた。

「もう遅い」
サクマは、ぼそりと呟いた。

「さあ、ナイフでも、なんでも、私の胸に突き立てておくれ。もう生きるのがつらいんだ。ハナエさんが亡くなった日から、毎夜のように夢に出てきて私を絞め殺そうとする。もう、それに耐えられないんだ」

「いまさらそんなことを知ったところで、遅い。この船に爆弾を仕掛けた。もうすぐこの船は沈む。妻の怨念とともに、あんたは海に沈んでくれ」
無気力なサクマは、無感情にそう言った。

「ああ……なんてことを……。たった一人、私に復讐するために、この船ごと沈めるなんて、恐ろしいことを……」
男は、頭を抱えながら泣き崩れた。

サクマはやり場のない感情を抱えたまま、部屋を後にする。
あの男の運命は決した。あとは逃げなければ。

甲板へ急いだ。

夜中であるのに、やけに人がいる。
マスクとサングラスを装着しているとはいえ、万が一生存者が出たときに不味いことになる。
目立たないようにすり抜けようとしたが、全員がこちらを向いている。
各々、ぶつぶつと何やら呟いているようだ。

「アンタだけ逃げるの……」

「ワタシはこんなに苦しんでいるのに……」

「足りない……足りない……」

「もっと、苦しめ……」

人々が歩み寄ってきた。
歩み寄る人々を、よくよく見ると、全員、妻の顔へと変容していた。

ぎゃっ、と思わずサクマは叫ぶ、逃げなければ……。

甲板までたどり着いたが、死角から誰かが覆いかぶさってきた。

船員だ。
屈強な体つきをしている。
そのまま船員は、首を締め上げてきた。

苦しい……。
顔が……妻のものに変わっていく。
藻掻いたが、力の差は歴然だった。

意識が遠のいていく……。

死の瞬間は、案外恐怖が消えるものなのだな、とサクマは暢気に考えていた。


日差しが眩しい。
サクマは周りを見る。自室のベッドのようだ。
夢か……。
それにしても、臨場感のある夢だった。
昨日、鏡が提案した物語通りの夢を見た。
そうか、これも鏡のチカラなのだ。

空気さえ変わって感じた臨場感。
潮の香さえした。
死の淵の感情、殺意が消失した、あのやるせなさ。

素晴らしい、物語がまるでフィクションであるかのように綴れる。
興奮が冷めないうちに書いてしまわねば、と朝食も忘れ机に向かった。


数週間後。

ついに作品が書きあがった。
筆が早いのが、サクマの強みであった。
それでも、余命のことを考えると、悠長に本になるのを待っている時間はない。

今は、ネットでも作品を発表できる時代だ。
ペンネームは変えずに、適当に選んだ小説投稿サイトに作品をアップロードした。

さあ、どんな賞賛を受けるのだろう。
鏡よ、鏡、答えておくれ。

余命いくばくもないのに、気力は日に、日に、満ちていく。
サクマは、心地よい眠りに落ちるのであった。


明くる日。
驚くべきことが起きていた。
世間は、その話題で持ちきりであった。
残念ながら、サクマの小説について、ではない。

『豪華客船爆破事件』についてだ。

サクマは、ニュースを食い入るように見ていた。
あの日、夢で見た客船そのままだった。
犯人もわからず、被害は甚大、生存者は今のところ、見つかってはいない。
前代未聞の大事件だ。

被害者の名前が読み上げられていく……。
なんてことだ、昨日、アップロードした小説で設定した登場人物がいる。
偶然の一致にしてはおかしい。
復讐すべき男の名前は、『綾小路佐助』にしたのだ。
このような珍しい名前が、偶然一致するとも思えない。

サクマは鏡の元へ行き、こう言った。

「鏡よ、鏡。私の小説通りの事件が起きた。これはお前の力なのか」

……鏡は、何も答えなかった。
無機質な鏡面は、一片の光も宿さず、くすんだままだ。


ネットに上げた小説を確認する。
早速コメントが付いている。
事件と小説の内容が酷似していたために、質問のコメントが付いたのだ。
アップロードした日時は、事件より前である。
普通ではありえない。

予言か?犯人か?そのようなコメントで溢れていた。
そして、かつて名の売れた小説家であることが知られてしまった。
一躍有名人に返り咲く。
警察からも無論、任意の取り調べを受けた。

しかし、どうあがいても犯行は無理なのだ。
事件が起きた日、船は地球の反対側にいたのだから。

協力者の線も疑われたが、交友関係が乏しく、家宅捜査で何も出なかった為に解放された。
それに、協力者や犯人であったとしても、わざわざ小説に書き記す理由がないのだ。

そうなると、いよいよ予言した奇跡の小説家という肩書だけが残り、その話題性で本が売れに売れた。
サクマは、かつての栄光が取り戻せたことにより、悦に入っていた。

鏡よ、鏡。ありがとう。
お前のおかげで高みに至れた。
そう呟きながら、鏡を磨き上げた。


数週間後。

人の興味とは、常に移りゆくものである。
昔に比べ、その速度も倍ほどになったかのように思う。
何せ、話題は次から次に供給されるからだ。

サクマの予言の小説も風化していった。
残り一か月も待たないうちに、命のリミットも来るだろう。
薬で、痛みを押さえている状態だ。
食事もまともに取れない状態になっていた。

死への恐怖よりも、徐々に風化していく栄光の方が耐えがたかった。

「鏡よ。このままでは栄光が薄れてしまう。こんなものでは足りない。鏡よ、永遠にこの世に名を刻みたいのだ。チカラを貸してくれ」

いつの日からか、鏡は沈黙したままだった。

ダメかと、立ち去ろうとしたときに、『それはあなたの書く結末次第』という文字が浮かび上がってきた。

いつか見た文章が、再び浮かび上がってきた。
そうか、そういう事だったのか……。
鏡は小説の内容を、願いとして受け取っていたのだ。

ならば、やることは一つだった。

サクマは机に向かう。


某日。

二人の男子高校生が話をしていた。

「なんか、面白いことないかな」
背の高い、男子高校生がそう呟く。

「だな、今のミームも微妙になってきたしな。そう言えば、何か月か前に船の事故あったじゃん」
背が低めの男子高校生が、やる気なさげに言った。

「ああ、あれか。結局、犯人わかってないんだよな。やっぱ誰だかって小説家が犯人なんじゃね」

「だよな。詳細なことまで一致していたとかおかしいよな。その小説家が書いた本の内容が知らないうちに変わってるっていう噂があるぜ」

「怪談かよ」
ひゃっひゃ、と背の高い男子高校生があざける様に笑う。

「本屋に見にいく?」

「うんや、興味ないな。本読むとかだるいし。俺の家でゲームしようぜ」

「そうだな、本屋行くなら逆だし」
はははっ、と背の低い男子高校生は走り出した。


暗い海の船上。

サクマは、両手を広げて風を受けていた。
暗い海の様に反して、表情は晴れやかだった。
しかし、その瞳は狂気に染まっていた。

白い手が様々な方向から伸び、サクマに絡みついていく。
その様は見ようによっては美しく、幻想的であった。

「さあ、これから死にゆく怨嗟の魂たちよ。共に行こうではないか」

次々に、白い手がサクマを覆い、ついに見えなくなった。
ふらふらと歩み、そのまま海へ、羽ばたくように身を投げた。
白い手たちも追従するかのように、海へ伸びていく。

船が激しく揺れた。
爆発しているのだ。
ゴゴゥ、と唸り、瓦解していく。

突如として、沈みゆく船の傍らから、巨大な山が盛り上がってきた。
それは何にも例えがたい、巨獣。

口元には触手が蠢いている。
鋭い爪、立派な体躯。
足元からも触手が生えていた。

周りには、鳥のような白い怨嗟の魂が纏わりついている。

触手で船を絡み取ると、巨獣は吠えた。
空気を振動させる、大きな咆哮だった。
呼応するかのように、海が波立つ。

ひとしきり吠え終わると、近くの陸地を目指し、ゆっくりと動き出した。

鏡よ。鏡。ありがとう。
これで、世界に恐怖をばらまく存在になれた。
未来永劫、私という存在は刻まれ、語り継がれていくだろう。

世界が、終焉するその日まで。
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