素敵な隣人

文字数 11,232文字

アキラは歓喜した。

その一報は、まさに僥倖だった。
親戚の遺産を一部、相続することになったのだ。
人の死から湧いた金である。
手放しには喜べないのだが、アキラは少し不道徳なところがあった。

何せ、本当に存在すら知らなかった叔父の相続先になったのだ。
存在を知らなかったので、感傷も何もない。
父方の叔父だが、父方の祖父母はすでに他界していた。
結婚もしていない、兄弟も父のみだ。
アキラは、てっきり父は一人っ子だと思っていた。
話に上がったことがないのだ。

本来なら相続先は父のみのはずなのだが、アキラが一部の不動産の相続先に指定されていた。

あまり規模は大きくはないが、駅が近く、比較的閑静な好立地賃貸マンションを相続することになったのだ。
管理費などはかかるだろうが、家賃も大きい。
一生食うに困らない、不労所得を手にすることになった。

アキラの父は平凡で、家庭も普通だった。
まさか、そんな不動産持ちの資産家の叔父がいるなんて思ってもいなかった。

しかし自分より多くの資産を相続したであろう父は、何故か苦い顔をしていた。
わけを聞こうとしたが、どうせ仲が悪かったとか、そういう理由だろう。
隠されていたぐらいだ、祖父母に勘当されていたのかもしれない。
アキラは、気にしないことにした。

マンションのオーナーをしていれば、一生食うに困らない。
それまで勤めていた、やりがいのない仕事を辞め、悠々自適生活を始めたのだった。
管理者を別で雇うか委託すれば、本当にアキラは手放しで生活できたのだが、アキラは金にがめつかった。
自分でやろうと決めた。


入居者のデータを見ていたが、一室だけ空きが続いている部屋がある。
なんだか嫌な予感がする。
巷でよく聞く事故物件だろうか。

がさがさと、叔父が残したであろう書類を漁る。
空いている部屋は302号室。
その部屋に関する書類を見つけたが、特出して何かが記載されているわけでもなかった。
たまたま空きが続いている?
アキラはどうにも気になったので、近隣の入居者にオーナー交代の挨拶がてら、聞き込みに行こうと決めたのだった。


明くる日。
301号室の入居者は不在だったので、303号室の入居者を訪ねた。

確か登録された情報によると、六十代の夫婦だったはずだ。
インターホンを押すと、感じのいい婦人が出てきた。

「朝早くに失礼いたします。少しお話よろしいでしょうか」
営業職をやっていたので、訪問する心得は多少ある。

「ええ、かまいませんよ」と、ニコニコと婦人は答える。

「このたび、マンションのオーナーであった叔父が亡くなり、私が新たにオーナーとなりましたので、ご挨拶に伺いました」と、洒落た店名の洋菓子の包みを渡す。

「まあ、まあ、わざわざどうも。前のオーナーさん亡くなったの。でも私、入居するとき以外にお会いしたことなくてねぇ」と、少し困り顔で婦人は答えた。

やはり、叔父は少し変わった人だったのか。
いや、そもそもマンションのオーナーは、そんなに顔を合わせる存在じゃないのかもしれない。
管理者を別で雇っていたのなら、尚のことだ。

「少々、お聞きしたいことがあります。302号室が長いこと空き部屋になっているのですが、何か事情を知りませんか」
できるだけ感情を乗せずに聞いてみた。

大事なお客さんだ。あまり、不安にさせたくはない。
婦人は、少し考えるようなそぶりを見せてこう言った。

「夜逃げだと、聞いているけどねぇ。ある日突然いなくなって、家具とかそのままだったって聞いたわよ。そうそう、その前にいた人も、夜逃げ。若かったからねぇ、お金なくなっちゃったのかもね」
婦人は、ニコニコと笑顔で答えた。

「別に、部屋で首吊って死んじゃったとか、そういうわけじゃないから安心しなさいな」
婦人は続けてそう言った。

「そうなのですか。ありがとうございます。ちなみに301号室の方は、何時ごろお戻りになるかご存じないですか。挨拶したいのですが、あいにく不在で」

「さー。あまり挨拶もしたことがないから。寡黙な人でねぇ……でも、すっごい美人さん」
婦人は、含みのある笑顔でそう答えた。

「はあ、そうなのですね。それでは、これからもよろしくお願いします」
アキラはそういい、部屋を後にした。

二人連続で夜逃げしたのは気にはなるが、事故物件というわけではなさそうなので、少し安堵した。

この分だと301号室の入居者を訪ねる必要は、ないのかもしれない。
しかし、折角買った菓子がもったいない。
甘いものが苦手なので、自分で食べるのも躊躇われる。
それに……301号室の入居者は美人らしい。
アキラには301号室を訪ねる、別の理由ができていた。


勤め人なら、午後七時以降なら在宅の可能性が高い。
勤め人なのか?
そういえば301号室の入居者に関する情報が、妙に少なかったような?
もう一度見てみよう。
アキラは管理室に戻るのだった。

また、がさがさと書類を漁る。
どうも叔父か、叔父が雇った管理人は、書類整理が苦手だったようだ。
ファイルに閉じられてもいなければ、ラベル付けもされていない書類ばかりだ。
順番も何もなく、乱雑に重ねられている。
そのうち整理しなければな、と、目当ての書類を見つけた。

やはりそうだ。
301号室の入居者に関する書類は、空欄が多い。
勤め先の情報もなければ、保証人の欄も空欄だ。
緊急連絡先もない。
電話番号は携帯番号のみ……なのは、このご時世珍しくもないか。
なぜ、このような人物に、叔父は部屋を貸していたのだろう。
しかし、家賃が滞ったという記録もない。
まぁ……金払いが、いいならいいのか。
そう思うことにした。


午後七時。
アキラは、そわそわしていた。

美人という情報が効いているのか、やはりアキラも結婚適齢期な男なわけで、そういった言葉には敏感なのだ。
インターホンを押すのに、少し躊躇ってしまった。
部屋の電気が付いていないようだが、やはり不在なのだろうか。

押してしばらく待つと、かちゃり、と鍵をひねる音が聞こえた。
なんだ、いるじゃないか。
アキラは、身を構えた。

おそる、おそる、扉が開き、線の細い女性が出てきた。
美しい。
濡れたような艶やかな黒い髪と、吸い込まれるような黒い瞳。
化粧が派手ではないにも拘らず、目鼻の通った顔立ち。
幸薄げな面持ちが、さらにその美しさを際立たせている。

まるで……そう、人形のようだ。

「夜分に恐れ入ります。この度、オーナーである叔父が亡くなりまして、私が代わりを務めることになりました。それでご挨拶に」
そういって、菓子の包みを差し出す。

「……ありがとうございます。亡くなったのですね、和彦さん」
か細い声で、黒髪の女は答えた。

和彦……とは叔父のことだ。
下の名前で呼ぶということは、親密だったのだろうか。

「叔父のことをご存じでしたか」

「ええ、生前はお世話に」

必要最低限のことしか話さない、そんな印象だ。

「ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか。302号室のことなのですが、ずっと空き部屋ですよね。事情を知っていたら、教えていただきたいのですが」

そう言うと、黒髪の女性は表情を一切変えずに「いいえ、知りません。ああ……そうですね、和彦さんが亡くなってしまったから、ずっと空き部屋のままだったんですね」と答えた。

質問の意図から外れた回答が返ってきたが、なるほど、叔父に次の入居者を探す余裕がなかったということだろうか。
急な病気で亡くなったと聞いている。
病気のせいで、入居者探しどころではなかったのかもしれない。

「ありがとうございます」そう、礼を言い、アキラは立ち去ろうとした。

そうすると黒髪の女性が「ねえ、待って」と呼び止める。

「和彦さんから、何も聞いていないのかしら」続けてそう言う。

アキラの方に身を寄せ、美しい黒い瞳で見つめてくる。
美しい……少し、くらくらした。

「何のことでしょう」アキラは返した。
「そう、何も聞いていないのね……」
黒髪の女性は悲し気に、そう言うと、扉を閉めた。

一体何のことだろう。アキラは首を傾げた。


明くる日の朝。
アキラはやることもないので、叔父が残した書類の整理をしていた。
ラベル付けをして、色分けしたファイルに閉じていく。
几帳面な性分なのだ。

マンションに備えられた管理部屋は、手狭ではあるが住居としても申し分のない設備を備えていた。
いっそのこと、ここに住むのも悪くはないかもしれない。
今は、実家からマンションへ通っている。
金は浮くが、体裁がよろしくない。

ファイルを無機質で、飾り気のない棚に納めていく。
そうやって仕分けしていった書類の中から、一通の封筒が出てきた。
中に何か入っているようだが、封は切られていない。
宛名もなければ、差出人も書いてはいない。

叔父には申し訳ないが、封を切らせてもらうことにした。
重要な書類だったら困るからだ。
入っていたのは、数枚の紙。

書き出しには『甥のアキラへ』と書いてあった。
なんと、自分宛ではないか。
その手紙には、簡易的にではあるが、このマンションに関しての引継ぎ要項が記されていた。
事務的なことが、つらつらと書いてある。
そして最後のページの見出しに『ここからが重要』と書いてあった。

『302号室に関して、302号室の入居者には、ある条件を付けて募集すること。①若く健康的な男性②身寄りがないこと※職も定まっていないほうが好ましい③上記を満たすなら格安でもいいから貸し出すこと④どうしても入居者が決まらない場合は、アキラが302号室に住むこと』

……なんだこれは、どう考えても怪しいじゃないか。

身寄りがない人間を探すなんて、いかがわしい理由以外思いつかない。
叔父は、いわゆる反社との繋がりのある人なのだろうか。
しかもなんだ。
見つからない場合は、自分が住むように促されている。

最後にこう記されていた。
『お前なら、理由がわかると信じている。あれは素晴らしい芸術品なのだ』
芸術品?302号室に、絵画でも飾られているのだろうか。
一度、302号室を見たほうがいいのかもしれない。


アキラは、302号室へ向かった。
室内に入ったもの、変わったものは何一つなかった。
夜逃げして家財道具はそのままと聞いたが、片付けられているようだ。
清掃や補修もされている、綺麗なものだ。
件の芸術品とやらも見当たらない、叔父は何のことを言っているのだろう。

アキラはベランダに出る扉を開けて、新鮮な空気を入れた。
人が住んでいない部屋というのは、どうにも空気が澱む気がするのだ。

それに……微かにだが、生臭いような気がした。
魚屋の、いや、それよりもっと濃い、潮の匂いが微かにする。

クローゼットや収納の中で、何か腐ってやしないか隅々まで調べてみたが、特に変わったものはない。

気のせいかと、扉を閉めて部屋を出る準備をしていた時、妙な音が聞こえた。
ぺた、ぺた、くちゃり、ぬちゃり、水滴の垂れる音か?聞きようによってはなんだか艶めかしい音だ。
しかもそれが、301号室の方から聞こえてくるのだ。
一体何をしているのだろう、アキラは興味津々だった。

壁にぴたりと耳をつけてみる。
ぺちゃ、ぺちゃ、という音に交じって、なんだか苦しそうな吐息も聞こえてくる。
やはり、これは、そういうことなのだろうか。
お盛んじゃないか。
ただ、苦しそうな声がやけに野太いのが気にはなるが。

そうなってくると、302号室に若い男を入居させろ、という叔父の遺言の意味も変わってくるというものだ。
叔父と301号室の女は、いい仲だったのではないだろうか。
名前で呼び合う仲。
301号室の女に関する情報が極端に少ないのも、叔父が自分の女を住まわせていたからなのかもしれない。

いや、冷静になれ、身寄りがない男である必要がないじゃないか。
くるくると、考えが巡る。
いくら考えても、わからないものはわからない。
管理人室に戻る事にした。


他に302号室に関する書類がないかと、まとめた書類を見直していたら、父からメッセージが来た。
話したいことがあるから、家に戻れとの内容だった。
どのみち夕方には戻るつもりだったが、父が呼び出すのも珍しいので、早めに家に帰ることにした。

管理人室から外に出ると、エレベーターの前に301号室の女が立っていた。
こちらに気付き、ぺこりと頭を下げている。

あらためて見ても美しい。
お辞儀を返すと、おかしなことに気が付いた。
302号室から帰ってきて、そんなに時間は経っていない。
先ほど302号室で聞いた音は、あの女のものではないのだろうか。

今、帰ってきたという様子だが、ただ下に降りてきただけなのか?
情報の通りだと、入居人数は1名だったはずだ。
友人という線もあるが。
とにもかくにも、父の元へ帰ることにした。

「変わりはないか」と父が聞いてきた。

おそらく相続したマンションのことを聞いているのだろう。

「特に変わりはないな。良物件だよ、自分が住みたいぐらいだ。父さんこそ、ウハウハだろう」

「まあもらえるものは、もらったが。不動産に関してはほとんど捨て値で手放したよ」

「は。なんでだい、もったいない」

「お前に、話しておきたいことがある」
父が姿勢を正してそう言った。
まれに見る神妙な面持ちだ。

「どうしたんだ。少し怖いよ」

「和彦についてだが、お前も薄々とは気づいていただろう。ほとんど絶縁状態だったんだ。うちでは、いないものとなっていた」

「そのことか、そのうち聞こうと思っていたよ。どういう理由で絶縁していたんだい」

「あまり良い噂のない宗教に、のめり込んでいたんだ。勝手に家の金も持ち出してね。その宗教団体に寄付していたんだ。それで勘当されたんだよ」

思っていたよりヘヴィな内容だった。

「それだけじゃない」父は続けた。

「お前のお祖父さんとお祖母さんも、その宗教団体に殺された可能性がある。知らないうちに相続先が和彦になっていたんだ。おかしいだろう」

「そんな話、初めて聞いたよ。じゃあ相続した財産も、結局盗られた分が返ってきただけなのかい」

いや、それだとおかしいな。
そんなにその宗教に傾倒していたのなら、相続先はその宗教団体にしているはずだ。

父は、力なく笑った。

「俺に相続されたものは、ほとんど資産価値なんてなかったよ。逆に処分費を取られたものもある。だから、おかしいと思ったんだ。お前に相続されたマンションは、資産価値がある。どういう意図があるんだろうってな。変な勧誘とか来なかったか?」

アキラは少し怖くなった。
あのマンションは、その宗教団体の拠点になっていたりしないんだろうか。
入居者の情報を見た限りだと、特に違和感は覚えなかった。

「今のところ、大丈夫だよ」

不審な夜逃げ……、不安な要素はあったが、父に不要な心配はさせたくなかったので、顔には出さないように答えた。

「そうか、それならいいんだ」
父との会話は、それで終わった。

叔父の、人となりなど、他にも聞いてみたい事はあったが、これ以上聞くと、あらぬ想像で頭がいっぱいになりそうでやめた。

謎の条件を付けられた302号室。
怪しげな301号室の女。
叔父が傾倒していた、よくない噂の絶えない宗教団体。
だめだ、考えることが多すぎる。

アキラは寝てしまうことにした。


昼。
生活リズムが狂い始めていた。
定刻に出勤する仕事というのは、生活リズムを調律するのにも役立っているのだと知る。
自分のような自制心のない人間は、誰かに雇われていたほうがいいのかもしれない。
それに、なんだか頭が重かった。嗅いだ
あの、302号室で嗅いだ生臭い匂いが、ずっと鼻に残っている気がする。

マンションへ庶務を済ませるために向かおうと思ったが、叔父が傾倒していたという宗教団体のことが気になっていた。

名前だけは聞いたことがある。
全国的に展開している、大きくも、小さくもない団体だ。
過度な勧誘をしているわけでもなく、教義も、世界的に有名な宗教を元にしたのであろう内容だ。

ただ、海に関するものが多い、信仰しているのは海の神なのだろうか。

その宗教団体の名称は『青深会』という。

鮮やかな青で、水面をモチーフにしたであろう波模様のデザインに、黒文字の明朝体で青深会と書いてあるロゴ。
ウェブサイトもあり、全体的に青い。
内容も、良くも悪くもありきたりだ。
全国に五つの拠点があるらしい。

ふーん。
アキラの感想は、それだけだった。
検索のサジェストも、ありきたりなもので、不穏な事件を示唆するものが出てくることもなかった。

ただ、青深会特有の単語だろうか、『白波様』というワードが気になった。

リンクをクリックする。
女性がずらっと並んでいるページに飛んだ。
なんだ、いわゆるミスコンのようなものが開催されているらしい。
一番美しい人が、白波様になるわけだ。
選ばれたら広告塔になるのだろう。
……さすがに美人しかいない。

おや?最終選考のページに見知った顔がある。
301号室の女だ。
少しツンとした顔で、化粧もモデルのような目鼻立ちを強調した濃いものだが、間違いない。

ああ……やはりあのマンションは、青深会に関りがあるのか。
叔父が、あの女を囲ったのだろうか。
まさか、他の入居者もそうなのか。
いや、しかし、尚のこと、相続された理由がわからない。
青深会に、寄付すればよかったのではないか。

301号室の女に、詳しい話を聞いてみようか。
藪蛇になるかもしれない。
進むと戻る事ができない境界線が、あの女にあるような気がしてならない。
何も知らないオーナーのふりをして、経営し続けていた方が無難だろうか。

しかし……301号室の女が叔父に囲われて暮らしていたのなら、今は頼りになる者がいないのではないか。
一昨日の夕刻、『何も聞いていないのかしら』と縋るように身を寄せてきた、女のことが忘れられずにいた。

危機感と、下心の挟間で、アキラの心は揺れていた。


夕刻、午後七時過ぎ。

アキラは301号室の前にいた。
インターホンを押す指が、迷子になっていた。
どうにも決心がつかない。
立ち入ったことを聞いて、青深会に拉致されたらどうしよう、など悪い想像ばかり浮かぶ。
ドアの前で棒立ちになっていると、エレベーターの扉が開いた。

なんと、301号室の女が降りてきた。

「あら、何か御用ですか」と女は言う。

「いえ、大した用事ではないのですが……」と、結局何をするのか、決めかねていたアキラは二の句を継げずにいた。

「302号室のことでしたら、一度お泊りになってみたらいかがです。私、一つ思い当たることがあるんです。きっと幽霊が出ましたのよ。302号室の方、とても顔色が悪かったんです。理由をお聞きしたら、夜、寒気がして眠れないとおっしゃっていましたわ」と、二の腕をさすりながら女は言った。

「はあ、幽霊ですか……」
アキラは、煮え切らない返事をする。

そうなると、結局事故物件ということになってしまうからだ。

「お隣が幽霊部屋だと、私も怖いです。お調べになって?」と、アキラの服の、袖の端を少しつまんで引っ張りながら、潤んだ瞳で見つめてくる。

また、くらくらした。

「そうですね、調べてみて、何かあったらお祓いでもしますか」

「ええ、是非、そうなさってくださいな」と、女は上品な笑みを浮かべ、部屋の中に入っていった。

突然現れた幽霊の話題のせいで、聞きたいことが飛んでしまった。
幽霊という漠然な情報をもらっても、アキラにはピンとこなかった。
その線もあるかと、このマンションの事故や事件について調べてみたのだが、特に目につくものはなかった。
せいぜいマンション正面で、交通事故が起きたぐらいである。
死者もいなければ、マンションの入居者でもない。

うーん。アキラは唸った。

正直な話、信じていないのだ。
その類の話は。
不審死や自殺者が出たから、その部屋に住みたくはないというのは、心理的に気持ちの良いものではないからわかるのだが、それで幽霊が?と考えると、アキラは首をひねるしかない。

とりあえず、泊まってみるか?
管理人室に、布団一式が置いてある。
入居者の夜逃げが続いているのも事実ではあるし、部屋に問題があるのならば解決しておきたい。

アキラは泊まることにした。


布団一式とスマホと食料、とりあえず、これだけあれば大丈夫だ。
水以外は止まっているが、風呂とトイレは管理人室にある。
302号室の間取りは、リビング、ダイニングキッチンと洋間が二部屋、広めの風呂とトイレ。
子供が一人なら、ファミリーでも十分な広さだ。

アキラは玄関側の洋間で、一泊することにした。

電気は通っていないので、真っ暗の室内でスマホをいじっていた。

特に異変はない。
この前来た時のような、不可解な音もしていない。

日々巡回している動画を見終わると、睡魔に襲われた。
起きていた方がいいのだろうが、ホラー的なエンタメで盛り上がれる方ではないのだ。
きっと何も起きやしない。
アキラは睡魔に抗う気もなかった。


深夜。
ぴちゃり、ぴちゃり、水音がする。
アキラは、その音で目を覚ました。
蛇口をきちんと締めなかったのだろうか。
いや、この部屋の水は使用していない。

水音以外にも、物音が聞こえている。
きしきし、と床の軋む音。
ぎっ、と扉を開くような音。
なんてことのない生活音のようにも聞こえるが、
問題はそれがあきらかに、この302号室内から聞こえてくることだった。

アキラは、身を起こす。
しまった、武器の類をもってきていない。
侵入者が何者であれ、対抗する手段は欲しい。

心臓の鼓動が、ごとごと、と煩い。
もはや、幽霊の類だとは思っていなかった。
恐れているのは、件の宗教団体だ。

音が近づいてきた。

そしてアキラがいる部屋の開き戸が、薄く、ゆっくり、開く。
窓から入る光が反射して、じっと瞳がこちらを伺っているのが確認できた。

「誰だ」
アキラは、強めに言い放つ。

くすくす、くすくす。
笑い声が聞こえる。

「あら、起きていらしたのね」

その声が聞こえると同時に、扉が開いた。
301号室の女だった。

「どうやって入ってきたんだ」アキラは身構える。

「そう警戒しないでください。私、この部屋の鍵を持っておりますの」

「だからって、勝手に入っていいわけないでしょう」

アキラは、女の背後に誰もいないことを確認する。
恐れていたのは、集団による拉致だった。
叔父の後釜に据えられてしまうかと、警戒していたのだ。

「和彦さんから、本当に何も聞いていないのね」
女は寂しそうに呟く。

するすると歩み寄り、アキラの前に座った。

「私、男の人がいないと眠れませんの。だから、和彦さんに良い人を紹介していただいていたんです」
艶っぽく、女は言った。

まるで人形のような、皴一つない顔が眼前に来た。
アキラは動けずにいた。
これはつまり、そういうことなのだろう。
誘っているのだ、女の閨に。
されるがままだった。
美しい、魅了されていた。
動けない、頭が混乱している。

アキラの顔を愛おしそうに撫でている。
そっと唇を重ねた後に、女は呟いた。

「だめね」

「だめ?」アキラは悲鳴に近い、情けない声を上げた。

「あなたは、和彦さんの後を託されたのでしょう?それなら、素質があるのよ」

女は、すくっと立ち上がった。

「来てください。見てほしいものがあるの」
そう言って、玄関のほうに歩いて行った。
一体、どこへ……?
時刻は、午前一時を過ぎていた。


女に案内されたのは、301号室だった。
まだ状況がつかめてはいないが、アキラは徐々に冷静さを取り戻していた。
302号室と間取りは変わらないようだが、あの生臭い匂いが濃くなった。

「あなたは、叔父と同じく青深会の人なんですよね」

「そうね、でも私と和彦さんは脱会したわ」

「なぜです」

「あの人たちには、私の価値がわからないからよ。処分されるところだったわ」

「私?」

「ほとんどの資産を持っていかれたけど、このマンションは隠し通すことができたみたいね」

「ちょっと待ってください。何のことを言っているのか……」
さらに質問を重ねるアキラを遮り、女は廊下の奥の扉を開ける。

濃い潮の匂いが鼻についた。

一瞬それが何なのか、理解することができなかった。

他の部屋と間取りが同じなら、廊下の奥はリビングとダイニングキッチンのはずなのだが、部屋いっぱいに、白いぶよぶよとした物体があった。

脈動している。
ぶよぶよしたソレから、人の手と足のようなものが突き出していた。
不気味……不気味ではあるのだが、アキラは、ソレをなぜか美しいと感じていた。
皮膚の中に流れる体液が、きらめく星のように脈動しながら、全身に流れているが見える。

突き出した手足は、人のもののようだ。
まるで石膏のように白く、血の気は失せていた。
しかし、それ自体にも意思があるように、さわさわ、と蠢いている。

「これは?」

「白波様よ」
女が答えた……ように思ったのだが、声は、目の前の白い物体から聞こえてくる。

先ほどまで横にいた女は、まるで電池が切れたように崩れ落ちていた。

「その体はただの釣り餌よ。だから気にしないで」

釣り餌、疑似餌……。
そうか、薄暗いから全体が見え難かったが、この白い生物は『アンコウ』だ。
瞳はヒスイのように美しく、ヒレもオーロラのように波打っているが確かにアンコウだ。

そうすると、この突き出している手足は……。
アキラは、嫌なことを想像していた。
アンコウの生殖方法は、オスがメスに融合するのだ。
メスより体格が小さいオスが、メスに取りつき、生殖器を残してメスと融合する。
この手足は……融合している途中の『オス』だ。

話がつながってきた。
302号室の入居者の成れの果てが、コレなのだ。
夜逃げしたのではない、このアンコウと交尾したのだ。
疑似餌のあの美しい女に誘われて、誘われた先がこのアンコウだ。

「私は、白波様のお慈悲でこの体を手に入れたの、素敵でしょう」
その言葉に反応するように、表皮が煌めく。

恍惚とした表情で、アキラはその様を見つめていた。
こんなに美しいものが、この世にあったなんて。

「たくさん子供を産むわ。この街を埋め尽くすぐらい、たくさん。だからね、あなたにはそのお手伝いをしてほしいの」

「手伝い?」

「男の人を連れてきて頂戴。若く健康な男を。もうすぐなのよ、もうすぐ私の願いが叶うわ。世界が、白波様で溢れる」

世界が、白波様で溢れる。
この白く美しい生物で、埋め尽くされるというのか。
アキラは、その光景を見たくてたまらなくなっていた。

「和彦さんも、白波様で溢れる世界を見たがっていたのよ。でも死んでしまったのね、残念だわ」
そう言うと、寂しげに薄く煌めいた。

「待っていてください。私がそれを引き継ぎましょう。必ずあなたの願いを叶えましょう。あなたを……世界に解き放ちましょう」
アキラは、敬うように言った。

「嬉しいわ」
強く煌めいた。

それに呼応するように、白波様と一つになりつつある男たちも、さわさわと動いた。
白波様と一つになれないのは残念だが、アキラは自分の務めを果たそうと決めた。


某日。

アキラの元に、一人の男が訪ねてきた。
入居希望者のようだが、部屋について聞きたいことがあるらしい。

「すみません。家賃が相場よりかなり安いですよね。何かあった部屋なんですか?オレ、そういうホラーな感じなのだめなんです」
ナンパな雰囲気の男は、そう質問する。

「いえいえ、なにもありませんよ。いい部屋です。ここだけの話。地域活性化のために市から助成金を受けられるんですよ」

「助成金?」

「働き盛りの人に住んでもらおうという、市の制度です。若い働き手に部屋を貸すと、私が助成金を受けられるんです」

「ああ、そうなんですね」
男の顔が明るくなった。

「でも、ここだけの秘密にしてください。三十歳以上の方ですと、相場通りのお値段になってしまいますから」
アキラは、お得意の営業スマイルを浮かべながら言った。

「オレ、まだ二十二歳なんで全然大丈夫ですね」

「ええ、だから気にせずに入居いただけると、こちらとしても助かります」

「はい。そうします」
男は元気に返事をした。

「それに……お隣さんも、とても素敵な方なんですよ」

アキラは、薄く笑みを浮かべてそう言った。
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