涙のメロンクリームソーダ

文字数 9,583文字

サワムラは、窓の外を見ていた。

午後一時半から、人と会う約束をしていた。
相手は、四十代男性。ごく普通の会社員で、ごく普通の家庭を持ち、ごく普通に暮らしている。


サワムラは、フリーのウェブライターだった。

若年層向けのオカルト記事を書いては、広告収入で日銭を稼いでいる。
最近だと、誹謗中傷を受けている有名人のネタに乗っかって、わざと炎上するような記事を書くような事もしていた。

悲しいかな、書きたい記事を書くより、人心をかき乱す記事を書く方が儲かるのだ。

人を純粋に楽しませたいという、若き日に抱いていた思いは、とうの昔に失われていた。
それでも長く続けていることもあり、根の深いファンが増え、どうにか食えている……それが現状だ。

結婚なんて、とんでもない。

故に、これから会う、ごく普通の幸せを享受している男を忌々しく思いもするのだ。
きっかけは、メールによる取材の申し入れだった。
こちらから持ち掛けたのではない、向こうから取材して欲しいと申し入れてきたのだ。

なくもない話だった。

主力をオカルト記事にしているので、そういった自身の不思議な体験を、他人に広めたいと思っている読者層もいるのだ。

もちろん有償で。

最初は、断るつもりだった。
一般人の、飛び込みでのネタがモノになったことがないからだ。
オチが甘く、虚言の延長線のような話が、ほとんどである。
それらの話に取材費を払うぐらいなら、自らがでっち上げた話を書いていた方が、幾分かマシだった。

しかし、今回の取材を申し入れてきた男は、執拗であった。
とにかく聞いて欲しい。
取材費など、いらないから聞いて欲しい。
時間も取らせないから、聞いて欲しいと実に熱心に言うのだ。

そこまで言われては……と、取材する事にしたのだが、早速後悔をしていた。


現れた男は赤ら顔で、にこやかに、こちらに駆け寄ってきた。
良く言えば、人の良さそうな、悪く言えば、胡散臭い。
残暑がまだ続いているとはいえ、今日は、さほど暑くはない。
それなのに、その男性のワイシャツの襟首は、汗でぐっしょり濡れていた。

体から湯気が立ち上っているかのような、暑苦しさだ。
体形も、ふくよかで丸い。

「申し訳ない。待たせましたか」と、汗をぬぐいながら男は言う。

「いえ、今着いたばかりです……」と、ついつい怪訝な視線を送ってしまう。

「ご挨拶が遅れました。名刺は……どこだったかな」と、年季の入ったバッグをがさごそ、と、かき回している。

調べはついていた。
こちらとしても、無警戒に会うわけにもいかない。
以前、質の悪いマルチまがいの営業に、押しかけられそうになったことがあるからだ。

人と会う前には、一通りの素性を調べることにしていた。

男の名は、武藤武。
並びを逆にしても、字が同じなのが印象的だ。
某有名コンビニチェーンの、エリアマネージャーをしているとの調べがついている。

とりあえず、素性だけなら危険性はない……はずだ。

端のよれた名刺を差し出してきた。

「メールでもお伝えしましたが、わたくし、こういったものです」
実に、にこやかな笑顔で、そう挨拶した。

あいにくサワムラは、名刺など作っていない。

名刺を受け取り、「サワムラです。今日は、よろしくお願いします」と、それに答えた。


ここは繁華街から外れた、懐かしさを感じさせる喫茶店。

武藤の希望だった。
サワムラは、コーヒーを頼み、武藤はメロンクリームソーダを頼んだ。
このような歴史を刻んだ喫茶店のコーヒーは、まず外れることがない。
しかし、メロンクリームソーダとは。
年の頃はそう変わらないように見えるが、なんとも子供のようなチョイスだ。
それは贅肉が増え続けるわけである。

「ここのメロンクリームソーダは、有名なんですよ」と、嬉しそうに武藤は言う。

「はあ」と、あいまいに返事をした。

なるほど、有名と聞くと少し興味がそそられる。
しかし、メニューで見る限り量が多い。
時間的に昼食を済ませたであろう腹に、よく入るものだ。

武藤は、しばらくバッグをがさごそと弄っていたが、こちらに向き直った。

「では、あまりお時間がないとの事でしたので、早速お話してもよいですかな」

「はい、では、お願いします」とは言ったものの、あまり乗り気ではなかった。

こんな小太りで、ぱっとしないオジサンから、面白い話が聞けるとは到底思えなかったからだ。

「私は、時を戻すことができるんです」
武藤は、わざとらしく顔を引き締め、そう言った。
相変わらず、顔は汗で、ぎらついている。

だめだ……。
想像していたより、だめだ。
暑さで頭をやられた、中年男の与太話を聞かされる。
そう覚悟した。

「どの程度戻せるんですか」
サワムラは、その心情を顔に出さぬよう努めながら、武藤に聞く。

「まあ、まあ、順を追って話しましょう。最初は、そう些細なものでした。錯覚か?夢か?そう思ったものです。幼いころの話です。そう、七つか、八つの頃でした。私は毎年、夏、祖父母の家に泊まりに行っておりました。田舎ゆえになにもなく、退屈をしていました。娯楽と言えばテレビぐらいです」

長くなりそうな話だ。
コーヒーが運ばれてきたので、ミルクを入れ、かき混ぜた。
こういった店でのコーヒーは、ブラックでいただくのがセオリーだが、最近、胃の調子が芳しくない。
いい香りだ。
コーヒーを楽しみつつ、適当に話は流しておこう。

「それで夜の話です。昔は毎年、夏の盆前には決まって、戦争物のアニメの映画をやっていたんですよ。お恥ずかしながら、私はその映画が苦手でしてね。特に亡くなった母親が蛆に食われるシーンなぞ、とても見てはいられませんでした」

「それなら、憶えがありますね。そういえば、最近だと見ない気がします」

「そうでしょう、時代ですかね。……それで、私は件の蛆に食われるシーンが見たくなかったので、家の外に飛び出したんですよ。そう、夜中にです。そうしたら、そんな私を心配してか、祖母が続いて家から出てきたんです。暗かった……、田舎だから街灯も、あまりない道だったんです。すると、私を追いかけてきた祖母は、家の脇の深い側溝に落ちてしまったんですよ。昼間だったら、絶対に落ちることはなかったでしょう。落ち方が悪かったのか、祖母は動きませんでした。おそらく……死んでいたんだと思います」
武藤は言った。

「おそらく?妙な言い方をしますね」

「おそらく、としか言いようがないのですよ。何せ、事の顛末が変わってしまったのですから。私は、祖父を呼びに家の中に戻りました。すると、おかしなことが起こっていたのです」

「何が起こっていたんです」
少し、興味が湧いた。

「私は確かに、嫌なシーンに切り替わる直前に、家を出たはずなのですが、映画が巻き戻っていたんです。冒頭から少し経ったあたりのシーンです。何が起こったのか、理解ができませんでした。そして、もう一つ不思議なことが起こっていました。先ほど側溝に転落したはずの祖母が、座って繕い物をしていたんです。私は家から出ることなく、我慢して嫌なシーンを見ました。そうしたら祖母も側溝に落ちることもなく、平穏な余生を送ることができたんです」

「それは……まあ、不思議ですね」

勘違いだろう。
子供の頃の記憶というのは、実にあいまいだ。
夢をそのまま、記録として記憶していることもある。

「勘違い……そうお思いですよね。私も実際、そう思っていたんですよ」

武藤は、にやにやと笑っている。
心の内を当てられて、冷やりとした。

「次に時を戻したのは、高校生の時です。今度は、十数分なんてレベルじゃありません。三日も時を戻したのです」

武藤の元に、メロンクリームソーダが来た。
口に運ぶこともせず、ひたすら上に載っているアイスを切り崩している。
メロンクリームソーダといえば、生クリームに白いバニラアイスが乗っているのが定番だと思っていたのだが、乗っているアイスも鮮やかなメロン色をしていた。

武藤の表情が忌々し気だ。
食べたいとは感じさせない表情をしている。
何故頼んだのだろう。

「三日……となると、それは、勘違いや、思い違いではありませんね」

不味そうに、メロンクリームソーダをかき回す武藤に話を合わせた。

「事の始まりはそう……、高校から、家に帰る途中で起きたのです。きゃーと耳をつんざくような悲鳴が聞こえました。声の大きさからして、近くであるのはわかったのですが、どこから聞こえたのか、わかりませんでした。日が落ちかけていて、薄暗かったのです。そんな時、四辻の角から、男が走り抜けていったのです。私が六時の方向にいるとして、三時から九時の方向に走っていきました。男が飛び出してきた方向を見ると、なんと血まみれの女性が横たわっておりました。微かに息をしておりましたが、もう助からないのは明白でした。体中をめった刺しにされていたんです」
そう話し終えると、やっとメロンクリームソーダを一口、口に入れた。

「それから、どうなったんです」

「その女性に、見覚えがあったんです。あろうことか、その女性は、私の幼馴染で片思いをしている女生徒でした。息も絶え絶えの彼女を抱きしめながら、私は後悔しました。たった今、刺されたのです。私がもう少し早く通りかかっていたのなら、この悲劇は回避できたかもしれない……。その時ですよ、先ほどの祖母の件を思い出したんです。ああ……またあの時みたいに時間が戻ってくれたなら……」
武藤は、芝居がかった物言いをした。

「で、戻ったんですね」
サワムラは、事も無げに言った。

そりゃそうだ、戻らなければお話にならないのだから。
どこかのアニメだか、ドラマで見たような話だなと考えていた。

「ええ、戻ったんです。彼女の亡骸に、しばらく顔を埋めておりました。どれほど時間が経ったでしょうか、警察に連絡をしなければと、顔を上げたんです。そうしたら、そこは四辻の道でもなければ、夕暮れでもありませんでした。自室にいて、机に突っ伏していたんです」

「それが、事件の起きた三日前だったと、そういう話ですね」

「ええ、ええ。お話が早くて助かります。あとは、彼女に行動を変えてもらうだけです。簡単かと思いました。しかし、そう、うまくいかなかったのです。道を変えるよう促すと、違う道で殺され、私が同行して守ろうとすると、私も暴行を受け、半死半生になってしまうのです。無論、彼女は殺されてしまいます。大人に助けを求めたこともありましたが、なんと、そうすると、助けを求めた大人に、彼女は殺されてしまうのです。結末に無理やり軸を合わせるように、有りえない展開で彼女は殺されるんです。まさに手詰まりです」

「へえ、でも、あなたが今ここにいるということは、彼女を救えたのですよね。それとも、諦めたのですか?」

ますます、どこかで見たような話になってきた。
物語を自己に投影して、自分の人生だと思い込む人がいると聞いたことがある。
武藤も、その類なのだろうか。

「まぁ、そう結末を焦らずとも。……七回、彼女は殺されました。そして、八回目の時戻りで、ふと、気が付いたことがあったんです。彼女の死因です。殺害方法は、絞殺、刺殺、撲殺と様々なのですが、いずれも他者によるものです。ならば……と妙案を思いつきました」

「何を思いついたんですか」

「シンプルなアイデアです。他者によって引き起こされるなら、誰にも会わなければいい。幸いなことに、事件が起きる日時は、ほぼ同じです。その期間を誰にも会わず、やりすごせれば、回避できるのではないかと考えました」

「安易すぎませんか、それに、彼女にはどう説明したんです」

「非日常に憧れる多感な年頃です。意外に、すんなり信じてくれましたよ。ついでに、長年躊躇っていた告白もしましてね、その事件の起こる日は、学校から出ることなく、次の日まで誰にも会わず籠城することにしたんです。それは、それは、甘い夜でしたよ。お恥ずかしながら、それが今の妻です」

照れたように、だいぶ薄くなった頭頂部をぺちっ、と叩いた。

「はぁ……。その、誰にも会わないという選択肢で回避できたというのですか」

回りくどい惚気話を聞かされただけだった。

「ええ……回避はできました。一応……」と言った武藤の顔は、曇っている。

何か、良くない後日談があるのだろう。

「完全には、回避ができなかった?」

「その通りなのです。件の彼女は、次の日も無事でした。しかし、その代わりとでもいうように、別の二十代女性が刺殺体で発見されたのです。そう……最初に彼女を殺害されているのを見つけた、あの四辻の道です」

「一人助けると、誰かが代わりになるという話ですか」

「そうです。ですから、実は……最初に話した祖母の代わりに亡くなった人もいるのです。近所に住む男性でした。酔っ払い、側溝に頭から落ちたらしく、翌朝亡くなっているのが発見されました」

なかなか、面白い話になってきたのではないか。
過去に遡って、因果を曲げることができる男。

「少し、後悔をしているのですよ。所以も知らないとはいえ、妻の代わりになった女性は見殺しにしたのですから」
武藤は、しょげたそぶりで、そう言った。

「それは仕方ないんじゃないですか。結局、その話通りだとすると、女性を助けたところで、別の誰かが刺殺されるのでは」

「まぁ、そうなのですけどね……」

本来なら、その女性は死ぬはずでは、なかった。
きっと、そのことを悔いているのだろう。
見知らぬ誰かに、死を擦り付けたのだ。
自らは幸福を得たというのに……。

サワムラは、そういった人間臭い話が好きだった。
ハッピーエンドの影には割を食ったものがいる、そんな話が不思議とウケもいい。

「話は以上ですかね」

サワムラは、そろそろ切り上げようとしていた。
予想していたよりは、面白い話だった。
しかし、もう潮時だ。
こちらとしても暇ではないのだ。
一分、一秒を銭に変えなければ、食っていけない身の上だ。

「いいえ、むしろここからが本題なのですよ。ここまでは導入です。スムーズに話を進める為のね」
武藤は、にやりと笑った。

「話を聞きたいのは、やまやまなのですが、これから予定があるんです」

流石に、もう付き合えない。
取材費を払うつもりはないが、メロンクリームソーダ代ぐらいは、こちらで持とうと、クレジットカードを取り出した。

「ねえ、サワムラさん。何故、私がこの話をしたか、おわかりになりませんか」

「何故って……ブログのネタを提供してくださったのでしょう」

それを聞いて、武藤は朗らかな笑みを浮かべた。

「いいえ、私はあなたのブログなんて、見たことも聞いたこともないですよ。ただ、あなたと連絡が取れる手段が、あのブログに記載してあった、メールアドレスのみだっただけです」

「はあ。でしたら何故、話したんです」

「私ね、さっきの話で一つ、嘘を申しておりました。何かおわかりになりますか?」

質問には答えず、さらに質問をしてきた。

正直どうでもよかった。
嘘があるというのなら、全てだろう。
人間が時を遡れるはずがない。

「さあ、わかりませんね」
サワムラはそう言い、さっさと立ち去ろうとした。

「時を戻せると言った点ですよ」

「それはそうでしょうね。時を戻せるのだとしたら、あなたは今頃、大金持ちだ。しがないコンビニのマネージャーなんて、やっているはずもない」

「違うなあ……違うんですよ。時を遡ったのは本当ですよ。ただ、それが自発的には出来ないという話なんです」

「どういう意味です」

「勝手に時が戻るんです。障害となっている問題を、解決するまで戻り続けるんです。妻を救った時もね、実は三回戻ったあたりで、諦めていたんですよ。だめだ、救えない、これ以上付き合えない、と」

「は?」
サワムラは、素っ頓狂な声で返事をした。

「最初は、願いが叶ったのだと思っていたんです。でも、違った。もう嫌だと思っていても、強制的に戻るんです。彼女が死んだ時点で、戻ってしまうんです。つまり、時を戻さない為には、彼女を救うしかなかった」

「それを何故、わざわざ言うのです。先ほどまでの話なら、あなたが今の奥さんを、時を遡って救った美談だったのに」

「おわかりになりませんか。特に所以のないあなたと、私が、ここで向き合っている理由が」
はー、と武藤はため息をついた。

まさか……サワムラの背中に、冷や汗が流れた。
今までの話の流れを汲むと、つまり、この男は……。

「まさか、僕が死ぬのですか」

「ええ、そのまさかです。そしてあろうことか、あなたの死によって、私の時は遡ってしまうのです。あなたと、こうして向き合うのも、もう何百を超えたか……」

サワムラは驚愕した。
きっと噓をついているのだ。
慌てふためく様を見て笑う気なのだろう。

そんな考えとは真逆に、武藤の表情は神妙で沈んだものだった。
武藤の素性を調べた限り、本当に接点がないのだ。
年の頃は近いが、過ごした町、学校、なにもかもが一致していない。
過去に恨みを買うようなこともしていない。

慌てるサワムラを横目に、武藤が話し始めた。
「最初はそう。工事現場の近くですよ。ほら、そこの駅への通路が改装中で、迂回路に建設中のビルがあるでしょう。そのビルの下で、通りかかるあなたを見たんです。とても風が強い。施工も甘かったのでしょう、足場がガラガラ、と崩れましてね、あなたの頭上に降り注いだ。……串刺しですよ。足場の鉄柱に貫かれて、それは、それは、むごい有様でした」

「何を馬鹿なことを言うのです。脅しているのですか?そんな稚拙な話、信じるわけがないでしょう」
サワムラは、声を荒げ、まくしたてるように言った。

そんな言いようにも怯むことなく、武藤は再びため息をついた。

「そうでしょうとも。あなたは疑り深い人間だ。その事を忠告しても、一回目の時戻りで同じ場所で死んだのですから。全く忠告を、聞き入れてはもらえなかったのでしょうね」

やれやれと、まだ飲み切ってはいないメロンクリームソーダをかき混ぜている。
元の澄んだグリーンは失われ、濁っていた。

「では、今日は、お望み通り別の道で帰りますよ。それでいいのでしょう」

「そう簡単な話ではないんですよ。もうあなたと会うのは何百と言ったでしょう。二百三十五回目までは数えていたのですがね。もうやめました」

武藤の目に、涙がにじんでいる。

「サワムラさん……あなたは、どうやっても死んでしまうのです。因果もへったくれもないんです。何をしても死んでしまうんです。お願いだ。死なないでくれ。来週には、年の離れた三人目の子供が生まれるんです。その子に会いたい……会いたいのに、あなたは死んでしまい、時間が一週間巻き戻る」

「一週間?そんなに猶予があるのに、僕は死んでしまうんですか」

なんだか、混乱してきた。
こんな馬鹿げた話を信じる道理はないのに、武藤が演技をしているとは思えないのだ。

「きちんと段階を踏み、あなたの信用を得た時もありました。私の忠告を聞き入れ、すぐさまタクシーに乗り、家に帰ってくれたんです。しかし……タクシーが何の脈絡もなく大破したんです。どっかーん、とね。まるで特撮ですよ。運転手が、余計に死んだだけに終わりました」

「そんな……」

「それならば、と、私が何も障害がない道を選び、とにかく安全な、ひらけた場所に誘導しようとした時もありました。もう少しで運動公園の広場に着くと思った矢先に、あなたは、目を凝らさないと見えないような小石に、蹴躓いて転んで、頭を打って死んだのです」

武藤の目から、涙があふれだした。

サワムラも、なんだか自分が、とても情けないように思えてきて、涙をにじませる。

「極めつけは、これですよ。犯罪者になる覚悟で、あなたを監禁したこともありました。一歩も動けないように拘束し、垂れ流される糞尿も気にせず、次の日になるのを待ったんです。そしたら……」

「そしたら?その状況だと、流石に死にようがないでしょう?」

「いいえ、窓から入り込んだミツバチに刺され、アナフィラキシーショックで死にました」

「そんな……」
サワムラは、泣いた。

何て、自分は弱い人間なのだろう。
小石の次は、ミツバチ……、武藤の絶望する理由がわかろうというものだ。
この男は、こんなしょうもない理由で死ぬ自分を救おうとしてくれているのか。

いや、救わないと武藤自身もこの時間に閉じ込められ続けるのだ。
救う以外に道がない。

「もう一度、監禁作戦でいきませんか。窓も何もない、外的要因が一切ない空間に僕を閉じ込めてください。そうすれば、流石に死にませんよ」
サワムラは、提案する。

「いえ、それも何度も試しています。エコノミー症候群を発症してあなたは死にます。死んでしまうのです」
武藤は、恨めし気にそう言った。

「ならば、いっそ病院送りにしてもらえたら……」

「それも試したこともあります。ですが、病院が火事になり被害が広がっただけでした。その元を根絶しようとしても、それ以外の所で、結局、あなたは死んでしまうんです。最初から、チェックメイトのチェス盤なんですよ。あなたの状況は」
肩を落としてそう言った。

「なにか、なにか、ないんですか……助かる方法が」

サワムラは、必死だった。
充実していた人生だったわけではないが、こんなところでは死にたくない。

しばらく、武藤は口を閉ざしていた。


「何故、あなたなんです……」
武藤が、ぽつりと呟いた。

「今の妻になってくれた彼女は、助けがいがありました。元々知った仲です。祖母だってそうだ。可愛がってくれた大事な祖母だ。その死に巻き込まれる理由があるんですよ。しかし、あなたは、なんだ。今までの人生に関わったこともない、きっとこれからもないでしょう。正直、あなたが死のうがどうしようが、私はどうだっていいんです。なのに何故……」

そんなことを、言われても。
意図的に巻き込んでいるわけではないのに、あんまりな言いようではないか。

「僕だってその……死んでしまうわけですし」

「あなたは、いいですよ。死ねばそれで、おしまいですもの。私は、また繰り返すんです。何度も、何度も、何度も、何度も。……どうでもいい、あなたの死を見せつけられ続ける。あなたと私に、何の因果があるというのです。あなたが、後の世に貢献する偉大な人だというのなら、まだ話はわかるのです。しかし、あなたのブログを少しだけ拝見させていただきましたが、チープで、とても世の役に立つとは思えない」

その言葉には、明らかに怒りが含まれていた。
もう幾度となく、この問答も繰り返してきたのであろう。

サワムラは、何も言い返すことができなかった。
世の役に立つ仕事しているかと問われれば、そうではない。
自分一人が消えたとて、世間という池に、さざ波を立てることすら叶わないだろう。

「ねえ、サワムラさん。あなたは私がメロンクリームソーダを注文するのを見て、そんなもの飲むから太るんだろうって思いましたよね。……いいんです。あなたの人となりは、十分すぎるほど知っているんです。私だって、こんな甘いもの、飲みたくはないんですよ。世の中で一番嫌いなものは、甘いものです。それなのに何故、注文したか、おわかりになりますか」

言いたいことを言ったら、気が済んだのだろう。
落ち着いた様子で、そう聞いてきた。

「いえ、僕には……。そういえば、あまり美味しそうには飲んでいませんでしたよね」

「もうね、試行錯誤できるものが、その日、飲み食いする物を変えるぐらいしかないんですよ。何が、トリガーになって抜け出せるかわからないですからね。前回はクリームココアを飲みましたよ。いやあ、あれも甘かったなぁ……」

そう言った武藤の目には、また涙が浮かんでいた。

それを聞いたサワムラも、自然と涙があふれ出ていた。


永遠の輪廻から抜け出せない男と、小石にすら殺される男は、濁ったメロンクリームソーダを見ながら、ただ、ただ、涙を流すのだった。
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