第12話

文字数 3,565文字

      その二十二  (12)

 あさ美お姉さんから、
「ぜったい気に入ると思うな、お姉さんは」
 と連祷されて寝付けないほどになっていたぼくは、翌日のすみれクンのお母さまへの指導のときでもほとんどノーパンそっちのけで夕方六時に会う女性に想いをめぐらせていたのだけれど、指定されたキャスケットをかぶって十五分くらいまえより〈がぶりえるバーガー〉でピーチオーレを指示されたとおりチューチューやっていると、やはり気が高ぶっていたのか、ピーチオーレをあっという間に飲み干してしまって、
「期間限定だけど、マロンシェイクっていうのも、あるんだぁ」
 と誘惑に駆られつつも、いちおうまたピーチオーレのMを買ってテーブル席にもどると、あさ美お姉さんに、
「その子、大きめのパーカーを着てくることになってるから。髪はね〝ボブ〟なんだけど、たまきくん、ボブわかる?」
「はい。なんかあれですよね」
「その子もピーチオーレ飲んでるから。目印三点ね。大きめのパーカー、ボブの髪、ピーチオーレ」
 ときいていたのでずっとお目目を灯台の明かりのようにして捜しているまさにそのパーカーでボブでお飲み物を手にしている愛しのピーチオーレの子がぼくに気づいたのだろう、軽く会釈をしたのちにこちらの席にちかづいてきた。
「相席しても、よろしいですか?」
「どうぞどうぞ」
 菊池さんとおっしゃるその女の子は体型は華奢すぎたが色はかなり白く、しかもぼくが長年渇望している小柄な――それこそ〝超〟をつけてもいいくらいの小柄な子だったので、ぼくはあさ美お姉さんの予言通りすぐさま菊池さんのことをミキちゃん(キャンディー隊)よりも四十前後の松尾嘉代よりもぽっちゃりバージョン時のレネー・ゼルウィガーよりも小野お通を演じたときの竹下景子よりも好きになってしまったのだけれど、お姉さんは、ハマグリうんぬんのぼくの要望を菊池さんに具体的に説明してしまっているらしく、のっけから、
「わたし『とろける』っていう意味がどうにもよくわからないんです。わたしで大丈夫ですか?」
 などとつまり、そういう技術みたいなものは身につけていないというようなことを遠回しに訴えてきて、だからぼくは、それはあさ美お姉さんの勘違いで、自分はそんなハマグリなんてダイレクトに求めてなどおりませんよ、きょうの昼間だってうわの空だったんですからうんぬんと昨夜午前二時ちかくまで勉強したのりピー語を織り交ぜることもすっかりわすれて誠実さみたいなものをしゃかりきになってアピールしていたのだが、菊池さんはなんでもハマグリ関連(?)を集めていたことからあさ美お姉さんより着目されたらしく、一通りの弁明を終えて、またぞろピーチオーレを飲んでいたぼくに、
「知ってますか? はまぐりっち」
 とリュックに付いていた小さめのぬいぐるみを見せつつきいてきた。
 ぼくは「はまぐりっち」というかわいい感じのキャラクターのことは知らなかったけれど、それを生み出した造形作家のアンリ・ベールのことはたしょう知っていた。
「すごーい! アンリ・ベールを知ってる人に、わたしはじめて会いました」
「上役がね、アンリ・ベールにちょっと興味をもってたんですよ。最近は話題にしませんけどね」
 ぼくがいった「上役」というのは内府のことで、内府は一時期、このアンリ・ベール氏をフランスから招いてマコンドーレがらみのなにかをやっていただこうと画策していたのだけれど、その後トビッキリファミリーの勢いに圧されることとなるわれわれは、じっさいはみんな呑気にしていたのだが、しかし内府だけはかなり危機感を抱いていて――そんなこともあったからなのだろうか、内府はトビッキリの大躍進を前後してアンリ・ベール氏のことは話題に出さなくなったのである。
「そういえば、エウロパの天然水、最近話題になりませんね」
「水道水を冷やして飲めばじゅうぶんうまいもん。市民もそれに気づいたんじゃないかな」
「確かに――以前勤めていた病院にあったウォーターサーバー、どこの部署も管轄外とかいってフィルターを交換しなかったんです。でもぜんぜん苦情来ませんでした」
「でしょでしょ、うんうん」
「ウォーターサーバーが故障したあとは大きいポリタンクにマジックで『天然水』って書いて待合室に置いてたんですね。それでも味がどうのこうのっていう苦情はなかったんじゃないかなぁ」
「ふむふむ――ん? 菊池さん、病院に勤めてたんですか?」
「はい。看護師だったんです」
「ぼくは病院で守衛やってたことあるんですよ」
 菊池さんが勤めていた病院は菊池さんがおっしゃるには「めちゃくちゃブラック」な体質で、入職するさいも法人の系列の工房が制作したヒポクラテスの人形を半ば強制的に購入させられたらしいが(そのヒポクラテス人形もリュックに入っていた)、慢性的に人手不足でもあったその病院で日勤夜勤をくり返す生活を送っていた菊池さんはそれでも食事は提供されるし洗濯も病院サイドでやってくれるので、なんとか折り合いをつけて勤務しつづけていたみたいなのだけれど、職員用の冷蔵庫に持参したものを冷やしておくさいには各自マジックで名前を書く決まりだったから「3Aの菊池」と――その病院には四人も菊池姓の職員がいたので――書いて紅茶やいちご牛乳を保存しておくと、古株の意地の悪い先輩看護師が「3Aの菊池」の横や下に「145」と書き足して、その意味をまわりにこそこそ話していて、
「わたし身長一四五センチなんです。院内で健康診断するから、みんなにわかっちゃうんですよね」
 ということは、おそらくその先輩看護師は小柄な菊池さんを揶揄するために先のような書き足しをおこなったのだろうが、わたくし船倉たまきにいわせれば小柄というのは、たいへんな長所、強力な武器、天から授かる最大のギフトなのである。
「船倉さんにとっては女性は小さいほうがいいんですか?」
「そうです! たとえばですね、一五〇センチくらいの子もまあ小柄ですよね。でも菊池さんは一五〇の人よりももっと小柄なわけでしょ。そうすると一五〇の人と話すときは、こうやって見上げることになるじゃん。ぼくはねぇ、小柄な人を見上げている超小柄な女子が大好きなんです。
 むちむちが好きなんていうのはねぇ、体裁上っていうか、まあ文学的メタファーみたいなものでね、じっさいはたいして好きでもないんですよ。とにかく小柄! 小柄な女性こそ、ぼくが真に崇拝するものなんです!」
 しかし菊池さんが病院を辞めたのは先の「145」の嫌がらせだけが理由ではなかった。
 菊池さんはあるものにお金を使いすぎて借り入れがかさみ、いわゆる「借金取り」みたいな人たちが病院にまでたずねてくることになってしまっていたようなのである。
「アンリ・ベールの作品にそんなに使っちゃったんだ――あれって高額なんですか?」
「はい。高いものだと一千五百万円くらいするのもありました」
「それも買ったんですか?」
「はい」
 人付き合いが苦手な菊池さんは病院の寮ではなく賃貸アパートに住んでいたようなのだが、そのアパートも退去しなければならなくなり、しぶしぶアンリ・ベール作品を売却することにした。ところが菊池さんがもっていたアンリ・ベール作品はすべて贋作で、一千五百万円のそれも逆に処分料みたいなものがかかってしまう査定しかしてもらえなかったのだが(けっきょく菊池さんは一つも売却しなかった)、ごみの収集の日に連続夜勤のときによく飲んでいたリポビタン(小児用)のビンを出しに行くと、そこには〝第三代骨董大臣〟がたたずんでいて、
「第三代骨董大臣?」
「はい。本人がそういっただけで、見た目はハンテンを着た田舎のおじさんでしたけど」
 出されているビンを真剣な面持ちでチェックしていた第三代骨董大臣は唐突に菊池さんが所有しているアンリ・ベール作品を売ってほしいといってきた。
 骨董大臣は菊池さんの借り入れ額も知っていて、ベール作品を全部譲ってくれたらその借り入れ額とおなじだけ一括で払うと持ちかけてきたようなのだけれど、切羽詰まっていた菊池さんはもちろんその話を受けたが、それでも骨董大臣と交渉してなんとかいまリュックに付けているはまぐりっちの小さいぬいぐるみだけは自分のものとして残しておけることになって、
「よかったです」
 と菊池さんはピーチオーレをかわいく飲みつつはまぐりっちを撫で撫でしていたが、そのあとも、こんなにかわいく微笑んでばかりもいられなくて、というのも菊池さんはなるほどたしかに借金取りから追われることはなくなったわけだけれども仕事を辞めて失業保険もいよいよ切れていたので、文字通り、ほんとうの、正真正銘の、無一文生活を送らなければならなくなってしまったのである。
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