第9話

文字数 3,024文字


      その十九  (9)

 それから五日間ほど〈たうえ温泉旅館〉に滞在したが、けっきょく雪子ちゃんは帰還せず、だからぼくたちは小春おばちゃんに、
「お世話になりました。雪子さんが遠征からもどられましたら、よろしくお伝えください」
 と連絡先と心付けをわたしてチェックアウトすることとあいなったのだが、K市にもどってその晩は途中の駅で買ったおにぎりとかお菓子なんかで軽く一杯やって就寝し、翌朝は案の定ものすごく走りたくなって、
「何日ぶりかな」
 とすぐKの森総合公園におもむくと、マラソンの大会で知り合ってそののち同人誌をもらったりなどして交流するようになる赤木さんが公園のランニングコースをいつものピッチ走法で走っていて、赤木さんは小説の同人誌で「蔵間鉄山(くらまてつざん)」というペンネームで執筆活動をされているので、ぼくは、
「蔵間大先生!」
 と今朝はふざけて呼んでみたのだけれど、それにわらいながら手を振ってこたえてくれた大先生はまたぞろこちらの走るスピードに合わせつつ近況等を話しだしていて、それによると、なんでもぼくと同姓同名の登場人物が主人公の中編小説は、続編だか連作だかというかたちで、さらに何作か創作されたらしい。
「もう製本されてあるから、今度一冊あげるね」
 うんぬんといっさい息を切らさず話していた大先生は、ぼくが○○村の温泉旅館に泊まったり〈カロリー軒〉でラーメンを食べたことなどを伝えると、
「じつをいうとね、ぼく〈カロリー軒〉には行ったことないんだ。知り合いがたまたまそこで味噌バターコーンの細麺と半チャーと餃子二人前とマーボー豆腐を食べてお土産用の冷凍生餃子も買ったらコインランドリーが乾燥も仮眠もふくめて無料になったっていってたから、そのとき書いていた作品にそのまま店名とかを使ったの。冷凍生餃子は妻に焼いてもらって食べたけどね。船倉さんに言うのわすれてた。ごめんね」
 とこちらの顔をのぞきこんでいたけれど、やがて蔵間先生はもう一周ほど公園のコースをぼくとおなじペースで走ると、
「じゃあ、ぼくはそろそろ帰ります。またね」
 とコースから外れてきっと自宅に向けてちょっとスピードを上げて去っていって――それはそうと、蔵間鉄山自身があれほどおいしいといっているのであれば、せめて店内でラーメンの単品ではなく、ラーメンと餃子のセットのほうを食べてみてもよかったかもしれない。
 いつもより長く走ってけっこう満足したぼくは、アパートにもどって入浴したのちにずっと免除してもらっていたメロコトン屋敷での例の〝消極的奉仕〟にぼちぼち加わることにしたのだが、とりあえず山城さんにメールを送ってみると、山城さんは、
「きょうはゼツリンフィーバーマンの仕事だから屋敷には行けないんですよ」
 というようなメールを返してきて、川上さんにも確認を取ると、川上さんも今日は断捨りん子のサポートの日なので屋敷での作業には助っ人として参加してはいなかった。
 それで一人だけなら休憩なども好きなときに好きなだけ取れるから逆にいいなとも思いつつ電車とバスを乗り継いでメロコトン屋敷におもむくと、見覚えのある自転車が玄関先に停まっていて、チャイムをそれでもいちおう押すと、
「コーチ、チャオ♪」
 と二階の窓からすみれクンが案の定顔を出してきたのだけれど、
「お母さんと○○村に行ってたんですよね?」
 と台所の小さなキッチンテーブルに紅茶を出してくれたすみれクンは、ここしばらく家で寝ていないみたいだからお母さまより旅行の話もきいていないようで、
「ん! じゃあここに泊まり込みでずっと葡萄の書きミス探してたの?」
 と逆にコーチのほうが不思議に思って紅茶を飲みつつたずねてみると、どうやらすみれクンは、
「昨日までずっとサナトリウムに行ってたんです。で、いったん家には荷物とか置きに帰ったんですけど、この屋敷で宿直するはずだった山城さんがテレビの打ち合わせで夜中まで屋敷にもどれないから、代わりをたのまれて――」
 という事情で昨夜はこの屋敷に泊まることになったらしい。
「荷物置きに行ったときは、お母さんまだ家に帰ってきてなかったんだ」
「入れ替わりだったみたいですね。どうでした?」
「うん。いちおう田上雪子さんがいることはわかったよ」
 すみれクンは、
「わあ、よかったですねぇ」
 とパチパチ手をたたいていても、じっさいはこの雪子ちゃんがらみの段取りの真の意味をいまいちわかっていないようで、まあこれは管轄がちがうのだから当然といえば当然なのだけれど、こちらもすみれクンの管轄だったわけでもないのだろうが、元教え子クンはメロコトン博士が美智枝さんにせがんでいた例のマッサージ師の役を美智枝さんにどうも任命されたみたいで、
「おれとお母さんが旅館で温泉に浸かってるとき、あそこのサナトリウムで博士にマッサージやってたんだ。娘が貧乏クジ引いちゃったんだな、あはははは、じゃあ今度〈高まつ〉に連れてってあげるよ」
 と労をねぎらうと、
「ありがとうございます。でもわたし、メロコトン博士から報酬もいただいたし、あとマッサージ自体もすごく勉強になったんで、とても良かったと思ってるんです。貧乏クジの反対のクジを引いた気持ちですよ」
 と自分が〝非恥ずかしがりやさん〟の女の子としてさらに成長していることを元コーチにアピールしていた。
 わたくし船倉大コーチに指導されていたころ、すみれクンはよく四つん這いやアクロバティックなポーズを取らされていたのだが、パンティーの上納等を経て、非恥ずかしがりやさんの認定書を授与されたあとも(このとき預かっていたパンティーもすべて返還した)、とくに四つん這いなどは、たまにちょっと恥ずかしくなるときがあったみたいで、だから今回のマッサージ師の役のさいには、そのあたりを重点的に強化(?)していこうと、自分に課題をあたえてすみれクンは作業に臨んだ(らしい)。
 それで連日四つん這いや四つん這いよりもっと恥ずかしい、コーチのぼくをもってしても見ていて相当恥ずかしかった名付けようもないポーズ等を織り交ぜつつマッサージをこなしたすみれクンは、最終日に、
「こんなすばらしいマッサージは生まれてはじめてだ。お嬢さん、感謝します」
 とメロコトン博士にお礼をいわれて、
「特別にこれを、お嬢さんにあげよう」
 と茶封筒を手渡されたようなのだが、
「これなんです」
 と元コーチにみせてきたその茶封筒のなかには、ブルーブラックのインクでぐちゃぐちゃっと記されたよく意味のわからない論文(?)めいた用紙一枚と松尾嘉代の生写真が一枚、それから松坂慶子がバニーガールの格好をしているブロマイドが二枚入っていて、
「一銭も入ってないじゃん。ふざけてんなぁ、メロコトンの野郎」
 とぼくが博士や美智枝さんにたいして暴言をはきつづけていると、すみれクンは、
「でも、メロコトン博士は生写真とブロマイドはものすごく高い値で売れるっていってましたよ」
「いくらぐらいで売れるっていってた?」
「生写真一枚だけでも小さなお城が買えるっていってました」
「チッ、バカにしやがって。じゃあこっちの論文は、百億の値打ちがあるとかなんだとかいってたのかな。あの爺様の能書きも市長に負けず劣らずだからなぁ」
「いいえ。そっちのテキストは売買するところに行く手順だから非売品ですよ」
 とメロコトン博士を擁護しつつ、またそれらをていねいに茶封筒に収めた。
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