第六十一話 家出と夜空と軽トラック

文字数 2,818文字

 真綿で首をしめるような、鬱々とした日々が続いた。たまった暗い感情は不発弾となり、残り続けていた。

 10歳の誕生日に、それは爆発することになる。

 きっかけは些細なことだった。

 お父さんが誕生日パーティーの中で出てきた、たわいもない言葉が気に障った。

「お母さんも、あの世で喜んでいると思う」
「そうだね。お母さんも笑ってるよ」

 その言葉を聞いた瞬間、仏壇に隠されていたビデオレターを思い出してしまった。その中には10歳の楓に宛てたものがあったのだ。当然のようにビデオレターの話は出ていない。

 ふと違和感を覚えた。線香の匂いがしない。以前は毎日のように線香をあげていたのに、今は月命日や盆正月などでしかあげていない。

 線香の匂いが無いせいか、ケーキの匂いが一層際立って感じた。

 ケーキの甘い匂いが鼻の中にまとわりついて、不快だった。目に見えない蜘蛛の巣を払いのけるように手を振りかぶる。

「そんなわけないじゃん」

 最初は小さな声だった。

 何を言っているのか聞こえなかったのか、二人は楓の顔を訝し気に見た。その表情が、ナイーブな少女の琴線に触れた。

「そんなわけないじゃん!」

 楓はヒステリックに叫んだ。

(お父さんもお姉ちゃんもずるい。母の――理咲さんのことを直接知っているから、言えるんだ。わたしは何も知らないのに)

 楓にとっては、写真の中だけで微笑む母よりも、小さいころに会った祖母の方が現実だった。

「わたしが殺したんだよ」
「何を言っているんだ?」

 おとうさんは目を見開いて、楓の顔を見ていた。本当に何のことを言っているか分かっていないのだろう。その顔がさらに神経を逆撫でする。

「お母さんだよ。わたしが殺したんじゃん」
「そんなことはない」

 おとうさんは優しく包み込むような声音で言ったのだが、楓の心には響かない。

「今日はお母さんの命日だよ」
「今日は楓の誕生日だ」
「わたしを悪い子だよ」
「楓は優しい子だ」

 問答を続ける程、胸の内から感情がせり上がっていく。

(なんで、この人たちは分かってくれないんだ)

「なんでそんなことを言うんだ」
「だって——」

 まだ幼い楓にとって、今の自分の感情をうまく言葉にできなかった。

(わたしが殺してないと思いたいわけじゃない。今が幸せだと認めたいわけじゃない)

 ただ、それはつらかったね、って言ってほしかった。優しくされるんじゃなくて、甘えさせて欲しかった。笑顔になりたいんじゃなくて、腕の中で泣かせてほしかった。

 そんなささやかな願いが、この優しい家族ではすごく難しい。

「楓、そんな顔をしないで」

 おとうさんの悲痛にまみれた表情を見た瞬間、弾けた。

「もういい!」

 気が付いた時には走りだしていた。

 もう家には居場所が無いように思えて、飛び出すしかなかった。

 後ろから叫び声が聞こえた。それでも振り切るように、走り続けた。

 どれくらい走り続けただろうか。疲れて立ち度また時には、知らない場所に来ていた。

 周囲には建物はなくて、田んぼが広がっていた。立っている場所は広めの農道だった。冷静になると、徐々に恐怖心が湧いてくる。

 知らない場所、誰もいない。周囲に光さえもなく、手には何も持っていない。

(わたし、家出したんだ)

 ようやく実感した。自分が何をしてしまったのか。

 少しでも光を求めるように、星空を見上げる。そこには星々が浮かんでいた。灯りがないせいか、普段よりもくっきりと見える。

(死んだ人はお星様になるんだっけ)

 それが本当だったら、母はあの大きな星だろうな、と指を差す。

「理咲さん、母、お母さん?」

 遺影の中の人物に対して家族とは思えず、どの呼び方もしっくりこない。強いていうなら他人行儀な"理咲さん"が一番呼びやすいだろうか。

 当たり前のように"お母さん"と呼べる家族の二人を思い出して、寂しい気分になった。

(わたしって、理咲さんのお腹の中から生まれてきたんだよね)

 何となく自分のお腹を擦る。そして想像した。自分のお腹が大きくなって、赤ちゃんが生まれて、自分と瓜二つの子供が成長していく姿を、だ。

(不気味だよね)

 まだ10歳の楓にとって、妊娠や出産というのは未知すぎた。妊娠したら子供出来て大変なことになる、ぐらいの漠然としたイメージだけで、フワフワした恐怖を抱いていた。

 ワオーン、と犬の遠吠えが聞こえた。

(お姉ちゃんとお父さんは何をしてるのかな)

 人肌恋しさのあまりに抱いた電柱は予想外に冷たく、楓はすぐに離れた。

(わたしの分まで、ごちそうもケーキも食べてるかな)

 テーブルに並んでいたオムライスやから揚げを思い出し、お腹がぐーと鳴った。

(帰りたくないなぁ)

 今は家族に会いたくなかった。謝られるのが分かり切っていたから。そして次の言葉を想像した。「生きてくれているだけでいい」なんて言いそうだ、と楓は苦笑いした。

(それもそれで切ないし、ちょっと怖い)

 そう思ってしまう自分が嫌で、生きているのすら面倒に思えてくる。

「もういっそこのまま……」

 楓は冬の海に入るような慎重な動きで、農免道路の真ん中に寝転んだ。

 夜のアスファルトはヒンヤリとしていて、固くて、すごく痛い。しかし目一杯に広がる星空の美しさが和らげてくれる。

「ねえ、聞いてよ。理咲さん」

 星に語りかけても、答えは返ってこない。

(お星さまの声が聞こえればいいのに……)

 そう考えた矢先だった。

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、とと轟音が鳴り響きはじめた。

 軽トラックの走行音だ。

 ライトの光が近づいてくるのが見える。暗いせいで楓に気づいていないのか、減速する様子はない。

 楓はうごけなかった。『うごかなかった』ではなく『うごけなかった』。

 無機質な音を立てながら、高速で動く鉄の塊が近づいてくる。

 目が開きっぱなしで、心臓の鼓動で鼓膜が破れそうだった。唇は乾ききっていて、ひび割れている。全身から血の気が引いていき、体の感覚が遠くなっていく。息を止め、非現実的な光景を凝視しつづけることしかできなかった。

 一瞬、三途の川が見えた。隣には母の姿があり、荒っぽく突き飛ばされた。

 軽トラックは何事もなかったように通り過ぎていく。

 楓は全く動けなくなっていた。

 奇跡と言うべきだろう。軽トラックは、楓の真上を通り過ぎていったのだ。小さな少女の体はタイヤの間に納まり、衝突されることも轢かれることも無かった。

 引いていた血の気が戻ってくる。

 全身に走った緊張が抜けていき、その代わりに痺れが残る。

 止まっていた呼吸がゆっくりと再開される。

「はは、ははは」

 自分が生きていると実感した途端、心が崩れ落ちた。

 大粒の涙が溢れて止まらなくなった。

 わたしは生きている。

 生きているんだ。

 でも何もかもが怖くて仕方がない。

 お父さん。聞いてよ。

 お姉ちゃん。抱きしめてよ。

 理咲さん……母? ごめんなさい。悪い子でごめんなさい。
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登場人物紹介

鈴木陸


レアチーズケーキ狂いの中学2年生

基本的にアホだが、お人よし

暗闇が嫌い

心配症の小心者だが、案外ノリはいい

変なところで真面目

変人①

青木楓


『人助け』狂いの中学2年生

チョメチョメを持っており、モノの声が聞こえる

カラスの兄がいる

案外理性的だが、追いつめられると奇行に走る

本人曰く「母は自分が殺した」

変人②

日向音流


日向ぼっこ狂い、で日向ぼっこで死のうとする少女

耳がいい。

発育がいい方。

忘れっぽい

怖いもの知らずで好奇心旺盛だがマイペース

変人③


青木君乃


青木楓の姉

『Brugge喫茶』のマスター

顔も体もいい

尻が大きく、常に腰に巻いたYシャツで隠している

陸の恋心を利用している、ちょっぴり悪女

清水なつとは元恋人関係

清水なつ


『Brugge喫茶』の店員

筋トレバカ

案外道楽者

青木君乃の元恋人

脳まで筋肉に支配されていると思いきや、結構考えている

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