第3話 ぼくがまだまだ若い

文字数 3,519文字


 ぼくがまだまだ若い、昭和だったころなんだけど、本屋さんの店先に「目がつぶれるほど、本が読みたい」と書いたポスターが貼ってあった。確か角川書店の文庫本の販促キャンペーンで使っていたコピーだったと思う。ひどい近眼で乱視だったぼくは、このフレーズがものすごく身近なものに感じていたけど、それならそれで本望だなんて思っていたんだ。
 なにしろ、バイトでお金を稼いでは、映画と読書の日々を過ごしていたからさ。
 モノの見え方が右目と左目ですいぶん違うと気づいたのは、東京の小さい人形芝居の劇団にいたころだった。
 少し開けていたガラスドアの近くに寝転んで文庫本を読んでいたとき、涼しい風と一緒にカーテンがふわっと顔にかかって邪魔をした。左目が覆われたときに、活字が読みにくかったんだ。 
 その頃から緑内障だったんだと思う。
 病院には行かなかった。健康保険証を持っていなかったし、お金もなかったからさ。未来なんかに支配されてたまるかと意気がっていたしね。
 でも、好きな女の人と一緒に暮らすようになって赤ん坊が産まれてくるとなると、ぼくだけの未来だけじゃないしそれなりのお金が必要になってくるし、定職に就いて病院へも通うようになった。それでも映画と読書の時間は確保したよ。細々とだけどさ。
 転職は4度したな。意味のわからないことを言う上司とケンカをしたり、会社が倒産したりしたけど、なんとか2人の息子を育てることが出来た。
 60歳の定年が待ち遠しかった。大阪に文学学校があることを知って、小説を書きたいと思っていたんだ。
 というのは、ぼくが58歳のときに、敬愛する人形芝居の座長が他界してしまった。その座長のことを書き残したいと考えていた。ぼくの頭の中にある記憶を、言葉と文字で伝わるように表現したい。座長との物語を書いてみたい。そう強く願ったんだ。
 退職金の全てを授業料に使うことを妻に頼んだ。退職金といっても50歳で再就職した小さな会社が、月額5000円の掛金で加入していた中小企業退職金共済なので、60数万円だった。
妻もその金額を知っていたから、あまり文句は言わなかった。

 滋賀から週に1回、大阪の谷町6丁目にある文学学校へ通い始めた。
金曜日の午後から始まる女性チューターのクラスを選んだ。このときは、分厚いレンズのメガネをかければ運転免許を更新できるだけの視力はあった。
 20代から70代の17名が、地元の大阪は勿論のこと、京都・奈良・兵庫・滋賀から動機は異なっても、それぞれ「書きたい」という志を持って集まって来ていた。
最初の600字の課題で、女性チューターが「これは自己紹介です。これで大体その人となりが判りますよ。うふふふっ」と謎の微笑みを浮かべたのが頭に残っている。

 文学学校は4月から始まる春期と、10月からの秋期に分かれていて、自分の作品は半年に2作品を提出するんだけど、クラスメートの作品合評が毎週ある。プリントアウトしたいろんなジャンルの小説作品を、2、3作受け取って翌週に合評するんだ。
 作品を書いた本人の眼の前で批評することは恐ろしい。自分をその人やクラスメートに曝(さら)け出すことになるからだ。
 自分の作品を眼の前で批評されることは、はるかに恐ろしい。その作品が駄目なことを一番よく知っているからだ。
 傷口に塩。そんな生易しいものでは無い。傷口を大きく広げて解剖される。
すると、その傷の原因が浮き上がってくる。書かないで隠していた恥部が白日の下に晒される。
そこから応急処置ではなく、根本的な治療がスタートする。その傷が治癒しなくても、個性になればしめたもの。
 丁寧に読んでくれる人たちがいる。

 合評の最後にチューターが、ホワイトボードに書いた物語の流れと登場人物の関係図を指して、「分かる? 分かるよね」
 ぼくが、がむしゃらに書いた小説を「そうか、こういうことを書きたかったのか」と気付く。
「この表現では、駄目だと思ってください」けっこうな毒舌の後、明るい声で「ごめんね、書ける人だから言うのよ」とフォローが入る。でも、そこからまた始まる。
「じゃあ、次の作品書けるよね」とニッコリ。
 その言葉を脅しと受け取るか、励ましと受け取るか、それはぼく次第なんだよな。   
 通い慣れると、早朝に家を出て午後から始まる文学学校へ行く前に京都や大阪の名所旧跡に寄り道をして、小旅行を楽しんだりした。京都水族館、京都鉄道博物館、伏見稲荷大社、東寺、大阪城、中之島公園、天神橋筋商店街、空堀商店街などへは何回も行っている。
 合評後は薄暗い喫茶店の閉鎖空間で、文学ともだちと口角泡を飛ばして議論するという、なかなかに刺激的で充実した一日を満喫していた。

 4年経ったころは緑内障が進んで散歩に連れ出した犬が、視界の欠落している左下側にすっぽり入ると姿がまったく見えなくなってしまうなんてことが起こった。
 そんなときは、わざと目を動かさないで手綱を引っ張られる感触で犬の動きを想像しながら歩いたよ。そして、ぼくは物語を考える。異次元へ行ってしまった犬と繋がっているのはこの手綱だけだ。繋がっているはずの犬が別の生き物、例えば子供の頃に飼っていた大きな猫になったり、妻の実家の群馬で育てていた牛とかになったりする。
 しかし、四つ角などで立ち止まった拍子に犬がひょっこり姿を現すと、いつもの見慣れた顔なんだ。小説にはならない。
 
 65歳の頃には白内障も出てきてさ。本はメガネの前に近づけると読むことはできたけど、景色が薄ぼんやりとしか見えなくなって、街を歩いていると、よくつまずいたり脚を立て看板にぶつけたりした。
 運転免許証の更新もあって白内障の手術が必要になった際に、ずっと眼圧を点眼で抑えていた 緑内障も一緒にすることにしたんだ。
 2017年の4月のことだった。
 薄暗かった視界に色彩は戻ったけど、手術の前夜まで読書をしていたのに、手術後はページを埋めている活字が読めなくなってしまった。単行本の表紙に大きく書いてあるタイトルはなんとなくわかるけど、背表紙になると読めない。
 主治医にそのことを告げると「様子をみましょう」ということで、ずるずると21日間も入院を続けることになった。
 本の活字が読めない状態で退院して、すぐにメガネストアに行った。今までのメガネはまったく使えないし、レンズを調節すると本が読めるかもしれないっと思ってさ。
 病院よりも最新式の装置で時間をかけて視力テストをしてくれたけど、ぼくが望むような視力にはならない。取り敢えず、近距離用と遠距離用のメガネを購入したよ。いままで牛乳ビンの底みたいだった分厚いレンズが、薄くて軽くなったのが嬉しかったな。
 まだぼくが望んでいる小説を書くことができないでいたから、文学学校は続けたいと思っていた。偶然に出逢ったクラスメートが、いつしか必然だったと思うようになっていたしさ。
 しかし、本が読めなくなって文章も書けないから、辞めるしかないかなと諦めていたんだ。ところが、東京で働いている息子が、パソコン環境を整えてくれてさ。24インチのモニターを用意して、画面も黒バックに白字に設定してさ。拡大機能をフルに使えば、時間はかかるけど文章を書くことができるようになった。よく使うコマンドを、ディスプレーのメニューから選択しないでもすむように、ショートカットキーを押すだけの簡単な作業で出来るようにもしてくれた。
 文学学校で、毎週受け取る作品は妻に朗読してもらう。それをICレコーダーに録音して、何度も聴き直して批評を書いた。まあこういう状況だと、親子や夫婦の間での立場がどんどん弱くなるのは仕方がないな。
 親しいクラスメートには、メールに添付してもらうようにした。テキストデータで受け取ると、読み上げソフトで聴くことが出来て、妻に朗読を頼む回数が減るので助かったよ。なにしろパソコンは文句を言わないからさ。
 だから、文学学校は入院中を休んだだけで通学を続けることができた。
通い慣れていたはずの大阪駅から地下鉄の東梅田駅までの地下街は、人の流れも多くてよく道に迷った。記憶というものが案外と頼りないものだと実感したな。
 出かけることが好きなのに、朝から晩までパソコンの前に座って一歩も外に出ない日が多くなった。飼っていた犬が死んでしまったこともあって、家の周りの散歩もしなくなった。
 人影はわかるんだけど、顔の判別が出来ない。知り合いから声をかけてもらうと、それなりの挨拶は出来るけど、笑顔を向けられたり軽く頭を下げたりされても挨拶を返せない。相手に失礼だし無視したと思われるのも嫌だしさ。

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