第4話 一番困ったことは

文字数 5,563文字


 一番困ったことは、やっぱり本が読めないことだった。眼がつぶれても本望だと思って本を読んでいたのに、情けないよな。
 パソコンで青空文庫の朗読をよく利用したけど、版権の切れた小説ばかりだし、図書館に置いてある大活字本を借りてはみたけど読みにくい。だから、地元や県の図書館から朗読CDを借りては聴きまくった。
『源氏物語』『平家物語』などの今まで手にしなかった本や古い名作小説に出逢うことはできたんだけど、ものすごく物足りない。
 そんなときに京都に住んでいる文学ともだちが、「私の古くからの友人に中学の時に病気で失明した人がいて、京都のライトハウスに行けば便利な機器を色々と紹介してもらえるみたいよ」と教えてくれたんだ。
 早速、パソコンで『ライトハウス』を検索した。
【 社会福祉法人 日本ライトハウスは、目の見えない方・見えにくい方のた
めの総合福祉施設です 】
 そのサイトで、視覚障害者用に点訳・録音した書籍を集めたサピエ図書館があることを知ったんだ。
 サイトの紹介によると、
【 全国視覚障害者情報提供施設協会が運営するインターネットによる視覚障害者情報総合ネットワークです。自宅にいながら、全国約220の加盟施設・団体が登録した50万件に及ぶ点字・録音図書目録の検索をはじめ、点字データ、デイジーデータなどのダウンロードもできる他、さまざまな情報が得られます。利用は無料です。利用は登録制です。お住まいの地域の加盟館で登録し、ID・パスワードを取得してください 】
『サピエ図書館、次のサイトより引用。
http://www.lighthouse.or.jp/iccb/library/index_library/sapie/』

 ここなら小説の録音図書も数多くありそうだ。
 宝島を発見した気分になった。
 サピエ会員施設や団体に登録していないと資格がないようなので、彦根にある滋賀県立視覚障害者センターへ登録しに行くことにした。
 でも、そのとき「ぼくは視覚障害者かぁ」と内心で深いため息をついたことを覚えている。それまで意識していなかった感情が、心の奥底からぷわっと浮上してきたんだ。運転免許証を返納しないといけなくなったときよりもため息の回数が多かった。これって差別なんだろうな。
ぼくは人の好き嫌いは激しいほうだけど、差別はしたくないと思っていた。頭だけで考えていることなんか、信用できないってことを実感したよ。
 その後、ネットで調べると彦根まで行かなくても県立図書館で会員登録が出来ることが分かったので、妻にお願いをして連れて行ってもらった。
 図書館の2階にある受付で若い職員に、サピエ図書館を利用したい旨を伝え、渡された書類を妻に書いてもらった。
 書類を受け取った若い職員が「手帳を見せてください」と言った。
 ぼくはちょっと戸惑ったけど、障害者手帳のことだと分かった。
「障害者手帳は持っていません」
「えっ!」
 若い職員の動きが一瞬止まって、急にそわそわし始めた。
「少し、お待ちください」
 席を立ってどこかへ行ってしまうと、ぼくと妻は置き去り状態になった。
 ようやくやってきた中年の職員が、席に座ると質問を始めた。
「目はどのような状態ですか?」
 いかにも訊き辛そうな声だったので、気の毒に感じたよ。
 おそらく、マニュアルに確認しろと書いてあるんだろうな。

 ぼくは緑内障と白内障の手術をしてから見えにくくなったことを説明してから、「書類は妻に代筆してもらう」「大活字本の文字が読めない」「50インチのテレビでは字幕が読めないので、100インチが欲しい」「スーパーの低い階段を踏み外して転倒したことがある」と言った。
 隣の妻がみじろぐのを感じた。内緒にしていたことをつい喋ってしまったんだ。買い物へは一緒に行ったけど、トイレから戻るときに油断してさ。
 それから話しにくくなったな。でも、サピエ会員になりたくて、「壁のコンセントにプラグを差し込むのに苦労する」とか、妻にも言っていないことを喋った。
 メモをとりながら聞き終わった職員が、ぼくに顔を向けた。
「今日は担当者が休んでいますので、後日連絡します」
 げっ? じゃあ、あんたは何なんだよ! こっちは恥を晒(さら)したんだゾ! 口には出さなかったけど、なんだか腹立たしい思いが残った。
 一週間ぐらい経ってから、図書館からメールが届いた。
【 先日ご記入いただいた利用申込書に従って、当方で個人会員の登録手続きをさせていただきます。登録手続きが完了しましたら、サピエ事務局より、個人会員のIDやパスワードなどを通知する文書が郵送されてきます 】
 ここでも「げっ?」て感じだ。
 完了じゃなくて、ようやく登録手続きをさせていただきます。かよ!
 まあ、こっちは利用させていただくんだから、待つしかない。

 それから一ヶ月ぐらい経って、サピエ図書館を利用できるようになった。
 いやぁ、本当に宝島にたどり着いた気分だったな。
 音声データは、文学、哲学、心理や家庭、手芸、料理、育児なんかもあって、あらゆるジャンルが揃っていた。小さな図書館よりも充実している感じだ。

 文学だけでも推理小説、時代・歴史小説、恋愛小説、SF、ハードボイルド、ポルノ、芥川賞、直木賞、短歌集、俳句集、川柳、詩集に分類してあって、目録を見切れないほどなんだ。
取り敢えず、好きな作家の目録を作ることにした。
 一番好きなのはイギリスの小説家、アラン・シリトーなんだ。
 2010年に死去したけど82歳まで生きていたんだから、ぼくもあやかりたいよ。
 映画『長距離ランナーの孤独』でシリトーを知った。20代の初めの頃だ。モノクロの乾いた 映像世界に、一瞬のうちに引き込まれた。
 本を探した。『長距離走者の孤独 丸谷才一・河野一郎訳』新潮文庫初版、1973年。カバーデザインは池田満寿夫。180円。
 主人公17歳のスミスは、盗みをした罪で感化院に入れられるんだけど、そこの代表選手に選ばれて、全英長距離クロスカントリー競技を走ることになる。小説は一人称の「おれ」が、早朝の練習や大会で走りながら考えるさまざまなことを手記風につづられている。
 社会にどのように適応して、生きていこうかと思い悩んでいた時期だったので、スミスの自分を貫く姿勢に共感し、彼が走る足音、鼓動のリズムが心地よくぼくの身体にしみ込んだ。
「この孤独感こそ世の中で唯一の誠実さ」という言葉に力を得た。
 主人公は欺瞞や不条理に溢れた現実に「ノー」と言う。他人のルールでゲームはしないのだ。
「人生でモノを言うにはずるさだ。そのずるさも抜け目なく使わなきゃ駄目だ」
 感化院の所長たちが押しつける栄光を、「おれ」だけができるやり方で「ノー」を突きつける。しなやかに、そして効果的に。
 主人公は「ノー」と言うことにより自分が厳しい立場に追い込まれることを十分に承知している。しかし、それも出所するまでの六ヶ月だけなので耐え切れると考えている。なかなかに、したたかなのだ。

 歳を重ねると、多少イヤなことも表情ひとつ変えずにやってしまえる。嫌いな相手にもニッコリ笑えるし、怒りを感じても抑えることをいつの間にか身につけてしまっていた。  
 一概に悪いことだとは思っていないけど、時おりそんな自分に飽き飽きして、損・得や論理的に考えた結果ではなく、ちょっとした勢いで「ノー」と言ってしまったりした。
 4回の転職もその為かもしれないけど、後悔はしていないし、けっこう楽しくやってきた。
 この小説が、ぼくをリセットしてくれたからだ。表紙もページも黄ばんで赤く引いた線だけが目立つ文庫本を手にするだけで、それまでの自分を越えることが出来た。
 短期的に見ると「ノー」と言う行為は愚かにみえるかもしれない。だが20年、30年と経つと、そのことがぼくにとって心の支えになっていた。
 69歳になったぼくの息切れは激しいけど、この小説は今でも伴走者として足音を響かせてくれている。

 検索すると3冊あった。『長距離走者の孤独』がダブっているので2作品しか無い。
『集英社ギャラリー世界の文学5 イギリスⅣ分冊1
 長距離走者の孤独/他』30時間33分 函館視障図
『長距離走者の孤独 丸谷才一・河野一郎訳』7時間8分 日点図
『土曜の夜と日曜の朝 永川玲二訳』11時間15分 日点図
 驚いたのは、録音時間だった。『集英社ギャラリー世界の文学5 イギリスⅣ』は分冊1だけで30時間33分も必要なのだ。
『集英社ギャラリー世界の文学4 イギリスⅢ』は、分冊1から分冊4まで登録してあって、一冊を丸ごと聴こうとすると70時間ぐらいかかることになる。
 本を読んでいた時は、文庫本1冊で3~4時間ぐらいの感覚だったけど、流し読みしていたんだな。
 そういえば、合評作品の400字詰めの原稿で50枚を聴くだけでも1時間程度かかっていた。
 そこで気付いたんだけど、この録音データを作るのにかかる時間って、この数倍は必要なんだなってことだ。
 どうしても読みたい本は、妻に朗読してもらって録音しているんだけど、こっちは本番1回の時間。しかも、読み間違いや、詰まったり、咳をしたり、雑音もそのまま録音している。
 サピエ図書館の録音データは、そこはきっちりとクリアしているみたいだ。
 ひょっとすると、アマチュアバンドがCDを作るために録音スタジオを借りているように、ボランティアで朗読するグループも同じようなことをしているのかもしれない。
そう考えると、なんだかじわっと熱いものが込み上げてきた。
 大げさなんだけど、日本にはまだまだ善意で支えられている場所があるんだなって。これって、眼が悪くなって見えたものかも。
 続いて好きなアメリカのSF作家、フィリップ・K.ディックが5冊。
『アジャストメント ディック短篇傑作選』11時間47分 群馬点図
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』9時間17分 日点図
『高い城の男』12時間28分 秋田点図
『マイノリティ・リポート』9時間26分 日点図
『未来医師(創元SF文庫)』8時間24分 日点図
 1982年に54歳で急死、脳梗塞だったみたいだ。
 死んでからも根強い人気がある作家だからこの冊数は多いとはいえない。
 1987年に終刊したサンリオSF文庫のディック作品を全て持っているのがひそかな自慢だ。

 日本の作家は山川方夫と佐藤泰志。
 山川方夫との出逢ったのは、テレビドラマだった。1975年だったと思うけど、NHKで放映された『落下傘の青春』を高円寺のアパートで観て、なんだかハマってしまった。その原作が山川方夫の短編『軍国歌謡集』だった。
 夜にアパートの外を、少女が大きな声で軍歌を歌いながら通り過ぎる。その声を聴いている二人の若い男が、あれこれと想像しているうちに、少女の顔を見ていないのに好きになってしまうという物語だ。
 窓を開けたくないという男と、開けてしまうもう一人の男。
 たまたま高円寺の古本屋で冬樹社の『山川方夫全集』全5巻を見かけて、これはもう運命だと思ったな。なけなしの金をはたいて買い、アパートの部屋にこもって読みふけった。ぼくにとっては大切な作家だ。
『三田文学』の編集長をしていた山川は1965年、34歳の若さで交通事故に遭って亡くなっている。
 その山川方夫は3冊。あまり知られていない作家だから仕方ないかな。
『親しい友人たち』6時間37分 日点図
『春の華客 旅恋い 山川方夫名作選』10時間51分 群馬点図
『目的をもたない意志エッセイ集』6時間28分 北海点図

 佐藤泰志を知ったのは、ドキュメンタリー映画『書くことの重さ  家佐藤秦志』(2013年)だった。高校にゲタで登校している姿がぼくに似ていると思った。
 もちろん役者が演じているのはわかっていたけど、なんだか親近感を覚えた。職業訓練校に通っていたというのもぼくと同じだ。本を探して読み始めたのが平成だから、付き合いは一番短い。
 芥川賞に5度ノミネートされたが、受賞することなく、1990年に41歳で自殺した。全作品が絶版となっていたけど、いまは再評価されて多くの作品が発刊されている。映画化も多い。『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』『オーバー・フェンス』『きみの鳥はうたえる』
 佐藤泰志が6冊と意外に多かった。
『移動動物園(小学館文庫)』7時間18分 群馬点図
『そこのみにて光輝く河出文庫)』4時間59分 群馬点図
『黄金の服(小学館文庫)』8時間27分 函館視障図
『大きなハードルと小さなハードル』9時間26分 函館視障図
『海炭市叙景(小学館文庫)』8時間20分 函館視障図
『もうひとつの朝 佐藤泰志初期作品集』13時間20分 浦安市立図書館
 函館視障図が3冊あるのは、函館出新の佐藤が故郷の人々に愛されているからだろう。
 ここでもう一つ気付いたことがある。
 多くの録音するボランティアグループがある中で、ぼくの好きな作家の録音データを作ったグループが不思議なことに重なっているのだ。
 有名な作家ならともかく、マイナーな作家たちなのにさ。
 日点図は、アラン・シリトー、フィリップ・K.ディック、山川方夫。群馬点図は、フィリップ・K.ディック、山川方夫、佐藤泰志という具合にさ。
 ボランティアグループの中に、ぼくと嗜好が同じ人がいるんじゃないかな。とか考えると、親友が2人出来たようで嬉しくなってくる。

 これまでは妻にお願いをして本を読んで貰う必要があったけど格段に減少する。どんなに本を読んで貰いたい、早く続きを知りたいと思うことがあっても、「いまは無理」とか「続きは暇な時に」と、なかなか思うようにならなかったのだ。

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