第1話 若いころから視野が徐々に

文字数 2,560文字

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 若いころから視野が徐々に狭まっていく緑内障だったぼくは、2年前の67歳のときに身体障害者手帳を申請したんだ。まだ一人でも外歩きが出来るので、7級まであるランクの軽いほうだと思っていた。ところが届いた認定書が2級だったので、そんなに悪かったのかと自分でも驚いてしまった。
 しかし、少しだけほっとした。
 妻に「あなたはずるい。都合よく見えたり見えなかったりしている」と言われていたからだ。見えかたが日によって違うし、時間によっても異なっていて、自分の眼に苛立ちを感じていたのにさ。

 身体障害者2級というポジションを示されたことで、妻の意識にそれなりの変化はあったと思うけど、まだ「あなたはずるい。自分に都合のいいように物事を解釈する」と言われている。まあ、これは目が悪くなってからのことじゃないので、聞き流すことができた。
 まず白い杖を入手した。ネットで調べると、目が見えない者、目が見えない者に準ずる者は、道路交通法に白杖の携帯が義務づけられていると書いてあったからだ。そのときは、白杖と書いて「はくじょう」と読むことさえ知らなかった。
 白杖はつなぎ目のない直杖(ちょくじょう)と折り畳み式杖、アンテナの様な伸縮式の3種類があり、ぼくは5段に折りたたむと30センチぐらいになる杖を選んだ。
外出するときには、いつもリュックに忍ばせている。
 しかし一度も使っていなかった。道路交通法で義務付けられているとはいえ、まだ大まかだけど建物や人も見えるのに、わざわざ目が悪いことをアピールしたくない。それに、そんなぼくが白杖を使うのは、全盲の人に対してなんだか気がひけるからだ。
 
 その白杖がデビューするきっかけになったのは、東京で働いていた息子が大阪に転勤してきたことなんだ。
 新型コロナウイルスの感染者が増え続けている2021年3月に、息子から「大阪に転勤が決まった」と連絡があった。
 転居先が高槻市で、引っ越しは4月の初めになるという。
 滋賀県の草津線沿線にある我が家からは、高速道路を走れば1時間半ぐらいで行ける圏内に、息子家族が越してくると知った妻は「東京育ちの朋江さんが苦労するわね」と、ぼくたちも30代に東京から滋賀に転居したころのことを思い出してか、しみじみと言った。しかし、1歳と5歳の孫がやってくることには手放しで喜んだ。
 ぼくも孫たちへの愛情は妻と同じだと思ってはいるけど、東京へ行く理由がなくなったことに少しだけがっかりした。今までは年に数度、東京の息子の家へ行くたびにぼくたちが青春を過ごした高円寺や新宿、渋谷、池袋などの街を散策しては記憶と重ね合わせて楽しんでいたからだ。妻はぼくのような感慨にひたることはないみたいで、すっかり滋賀に馴染んでいる。
 
 4月5日月曜日、朝に引っ越し荷物を出した息子家族4人が、滋賀の我が家へやってきた。朝日新聞デジタルによると、新型コロナウイルスの感染状況は東京で新たに249人、大阪は341人。ちなみに滋賀での感染症患者は県ホームページをチェックすると10名だった。
引っ越し荷物は、水曜日の午前中に高槻の転居先で受け取ることになっているという。ぼくと妻も一緒に行って、息子夫婦が荷ほどきをしたり家具を組み立てたりするあいだ、孫たちの相手をすることを頼まれた。

 水曜日の朝8時過ぎに、妻が運転する車に息子家族4人が乗って高槻の転居先に向かった。2人の孫のどちらかを膝に座らせると6人が乗れるんだけど、ぼくはぎゅうぎゅう詰めの車よりも、一人でバスと電車で行くほうが性に合っている。だから前日に「高速道路を走るから、チャイルドシートに座らせたほうがいい」と言ったのだ。
 孫たちが車に乗る直前まで遊んでいた玩具を片付けてから、9時30分のバスに間に合うように準備をする。
 サイフから硬貨を出して分類してズボンに入れる。2段になっている右ポケットの上側に500円玉、下側に50円と100円玉。左ポケットに10円玉。千円札は2つに折って後ろポケットと決めていた。
 身体障害者手帳は取り出しやすいように胸ポケットに入れる。バス代が半額になる。白杖を使うことはためらうのだけど、実利のあることには躊躇(ちゅうちょ)しない。
白いマスクをして、音声式の置き時計の上ボタンを押す。
 ポーン! 「午前9時20分です」と女性の電子音。
 玄関でリュックの中を確認する。スマートフォン とサイフ、白杖、大判のノートとマジックペン。タオルと予備のマスク2枚。久し振りの外出にわくわくしながらドアを開ける。
外には眩(まばゆ)い4月の陽光が降り注いでいた。

 高槻駅に着いて妻に電話をすると、運送業者のトラックが駐車場を塞いでいて迎えの車を出せないとのことだった。
「悪いけど喫茶店にでも入って、待っていてくれない。北口に阪急百貨店、南口にも松阪屋があるそうよ」
「わかった。早いけど、お昼でも食べて時間を潰すよ」
 ぼくがタクシーで駆けつけても、何の役にも立たないことは目に見えている。
 食事をするお店を探しながら街を散策することにした。
 駅前には大きな商業施設が建ち並んでいるのに、道路幅は狭かった。黄色い点字ブロックが敷いてある歩道も、人がすれ違うと肩が触れそうなぐらい狭い。電柱が建っていると1人しか通れない。
 ぼくはスローなスピードで、利き手の左手をすこし前に出して歩く。前から来る人とぶつかりそうになると、立ち止まって空手の構えみたいに半身(はんみ)になる。相手はきっと驚いているに違いない。
 そこを自転車がベルを鳴らしてどんどん突っ込んでくる。前からも後ろからも。ニュースなどで事故が多発している自転車は、道路交通法で車やバイクなどと同じ「車両」の一種である「軽車両」だから、車道を通行しなければならないと、よくアナウンスしているのにさ。
 危険を避けるには、目が悪いことをアピールする必要がある。立ち止まって、白杖をリュックから取り出したけど、人の目が気になってすぐにしまった。なかなか勇気がいるものだ。
深呼吸をしてから、ここは白杖を使うチャンスだと言い聞かせる。
 もう一度リュックから折りたたんである白杖を取り出した。
杖の芯に伸縮ゴムが入っているので、一気に伸ばして連結部を1段ずつ押し込んだ。

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