第5話 飛行船

文字数 1,039文字

 上空を旋回するトンビのぴぃっひょろろという間の抜けた鳴き声が、弛緩しきった夏休みの正午に響き渡る。僕は汗でぐっしょりと濡れたYシャツをはためかせながら、どこまでも続く線路の先に目をやった。なんで屋根もないこんな田舎くんだりの無人駅で、直射日光にさらされながら電車を待っているのだろう。もう帰ってしまおうかとも思った。別に大した用事ではないのだ。ただ冷房の効いた部屋に籠りながら無為に一日が過ぎていくのに焦りを感じて、何か行動を起こしてみようと今日の朝思いついただけなのである。僕は茫漠とした、ただし限りのある時間の前で、途方に暮れている一介の学生に過ぎない。暇を持て余したっていいじゃないか。まだこうしてベンチに座っているのだって、克己心からではなく、ただ単に逡巡する気力もないほどに暑さに参ってしまっているからであった。僕はぼやけている思考の焦点を何とか定めるため、駅舎の向こうに佇む遠山に目を向けた。緑の衣を幾重にも纏ったその小さな山は、瑞々しい生命で漲っている。その右に空いた谷間からは、もくもくと大きな入道雲が沸き上がっているのが見えた。こんなどこまでも長閑な風景も、油を熱したかのような蝉の鳴き声と共に滲みでてくる暑さには、耐えられそうにもなかった。僕は虚ろに何を見るでもなく、そんな見慣れた景色をただ眺めているだけであった。その時、かすみがかった僕の視界が何かの動きを捉えた。左の緩やかな稜線からゆっくりとさりげなく、しかし確かな意志をもって姿を現したそれは飛行船であった。

 遠くに見える真っ白な船体は、まるで空がそこだけぽっかりと欠けてしまったかのようだ。それから微かに発せられる、ある種の緊張感とでもいうべきものが、周りののほほんとした空気にそぐわないからそう感じるのかもしれない。国はそれを幸福の象徴だと謳っているが、本当は私たちの生活を監視するために国が飛ばしているのだとみなが噂していたのをふと思い出した。いつもは目に映るとほんの少し話題にのぼっては消えていくその飛行船だったが、今日に限っては妙に心に引っかかって離れなかった。まるで幸福で隙間なく満たされた現実と見紛うほどリアルな夢が、忘れてしまった後もその鮮やかな感触だけが心にとどまって離れないように。少なくともこの感覚が、身体中に溜まっているけだるさにも似たほてりを、忘れさせるにはうってつけであることに疑いはなかった。焼けたアスファルトに垂れた汗は、すでに水蒸気となって大気と混ざり合っていた。

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