第8話 お化け煙突

文字数 1,828文字

 町外れの小高い丘の上には、二本の大きな煙突が建っていた。それは公営火葬場の煙突であり、町のどこからでも見ることができた。町の人々はその煙突のことを「お化け煙突」と呼んでいた。幼い頃の私は、友達と一緒に町中を駆け回って遊んでいた。どんなに見知らぬ場所に来ても、お化け煙突さえ見えれば家に帰ることができた。まるで北極星を見て方位を定める旅人のように。私は町より外に出たことがなかった。スーパーがあり、公園があり、映画館があり、図書館があり、レストランがあり、学校があり、カラオケがあり、コンビニがあり、ビデオ店があった。無知で純朴な少年だった私にとって、町は世界そのものであった。その中心にはいつもお化け煙突があった。どこかで見たギリシャ神話の本に、空を支える巨人の絵が乗っていた。それからというもの、あの二本の煙突は今にも落ちてきそうな空を支えているのだという夢想が脳裏に焼き付いて離れなかった。無論それを現実と取り違えるほど私は幼くなかったのだが、お化け煙突を見るたびに感じる高揚感の背後には、そうした夢想が隠れていたのだろうと思う。二本の煙突は時々か細く頼りない煤煙を吐き出した。それは夕暮れに染まった空によく映えた。

 私は大人になり、町を出て都会に移り住んだ。町へは正月とお盆以外にはほとんど帰らなくなった。それも両親の離婚と引っ越しを皮切りに、町との縁はぷっつりと途絶えてしまった。とはいえ私の人生は順風満帆だった。大企業に就職し、愛する妻と結婚し、子宝にも恵まれた。決して平坦な道ではなかったが、人の一生についてまわる種々の困難をうまく切り抜けられたのは幸運だったといえるだろう。やがて子供たちが巣立っていくと、急に家の中ががらんとしてしまった。子はかすがいとはよく言ったもので、夫婦仲は急速に冷めていった。あんなに居心地のよかったリビングも、いまやぎこちない無言と埋められない隙間があるだけだった。私が都会に出た後、両親もこうした心境だったのかとふと思った。このままではいけない、そう感じていた。

 土曜日、妻には同僚と遊んでくると噓をついて、久しぶりに故郷である町に帰ることにした。特に目的があるわけではなかった。ただ今一度お化け煙突を見てみたかったのである。それはいつも私に今いる位置を、進むべき方角を教えてくれた。もちろんそんな子供じみた発想で解決するような問題ではないことは、自分が一番よくわかっていた。それでもこれしか今の私には思い浮かばなかった。日常の不満や苦悩をかき消すために郷愁に頼るのは大人の悪い癖である。電車を乗り継ぎ約三時間半、ようやく町の最寄り駅に到着した。駅を降りた時、私は心地よい郷愁に混じって妙な緊張と高揚感に襲われた。それは会社員として、父親として日々を過ごしている間に、長年忘れてしまっていた感情だった。さびついていた心が再び動き出し、私に少年の頃の思い出をまざまざと呼び起こした。

 駅に着いて十数分ほど歩いただろうか、私は小さな違和感を覚えた。最初はただの勘違いだと思ったが、それはだんだんと強まってある確信に変わった。ない。ないのだ。あのお化け煙突がどこにも見当たらないのだ。私は混乱してしまった。駅を間違えたのか、はたまた方向を間違えたのか。見知った道のはずなのに、どうしても思い出の中にある道とは重ならなかった。まるでへたくそになぞった写し紙のように。私は車酔いに似た吐き気を催して、近くのレストランに駆け込んだ。水を飲んで休んだら吐き気はいくらか治まった。店員を呼んで注文するついでに、お化け煙突について質問することにした。呼び鈴を鳴らして少しすると、若い女性の店員が来た。働いて日が浅いのか雰囲気がどこかぎこちない。
「ご注文をお伺いします。」
「すみません。ちょっと聞きたいんだけど、ここら辺にお化け煙突ってなかったっけ?」
「えーっと、お化け煙突・・・ですか?」
「そう。町外れの丘の上にある二本の高い煙突。」
「・・・火葬場の煙突のことですかね?それならたしか私が小さい頃に無くなったと聞きましたけど。」
「そうなのか。どうもありがとう。」

 注文を終えると女性店員は申し訳なさそうに去っていった。窓から空を見上げると、重苦しく垂れこめた雲を夕焼けが鈍く照らしていた。辺りが次第に暗くなるにつれて、町は暗澹たる空の底に沈んでいくようであった。お化け煙突はやはり世界の中心であったと改めて気づかされたのである。
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