第6話 斬猫
文字数 1,295文字
猫用の睡眠薬があったことは、僕にとって一つの大きな発見であった。恐らくどんなに悪意に満ちた企ても、きっかけなくしては発露することはないであろう。日夜私たちの頭をもたげる邪な考えは、あぶくのように次々と生まれては、ほんの少しの優越感や自尊心を満たすことに供されると、その役目を終えて次々と消えていく。最初は健全ともいえるような、ほんの些細な嗜虐心だったのかもしれない。だが何でもないようなきっかけを核として、あらゆる形をもたない小さな悪意が凝結し、やがては立体感を伴って僕の日常に立ちふさがった。それはもはや悪意を越えて、人生の重要な命題であるかのように僕の頭を悩ませた。こうなるなんてだれが想像できるだろう?
耳のカットされていない猫が良い。野生のように見えても実は地域猫である可能性が高く、急にいなくなっては怪しまれるやもしれないからだ。何度か餌付けしてある程度馴らしておくと良い。睡眠薬入りの餌を食べても、どこで寝るかはわからない。したがって餌を食べたのを確認してから眠りに落ちるまで、見張っていなければならないのだ。幾分手間のかかる作業であるが、僕は労を惜しまずひたむきに取り組んだ。繰り返すうちに雑念は取り払われ、背徳と恍惚は使命感に代わっていった。罪業を一身に背負い荒行に取り組む修行僧にも似た気分だった。
今日は事が首尾よく進んだ。リュックサックにはすやすやと眠る小さな三毛猫が収まっていた。うだるような暑さであった。さんさんと降り注ぐ太陽の光を目いっぱい吸収して、たわわに膨らんだ入道雲は、青空を悠々と遮って白く照り輝いている。快闊な外見とは裏腹に底の部分は暗く、重苦しく垂れこめていて、街を踏み潰すのを厭わない巨人の足を思わせた。
「ただいま」
玄関に入ると同時に発した声は、夏休み特有のしまりのないだらけきった日常に吸い込まれていった。もちろん返事を期待したものではなく、いわば念のためである。僕はそそくさと自分の部屋に入り鍵を掛けると、リュックサックを開いた。中には入れた時と変わらず小さな三毛猫が、ふにゃふにゃと丸くなっていた。僕はそっと慎重に手のひらにすくい上げ、板張りのフローリングに寝かせた。野生のわりにふわふわと整った毛並みで、こうして見ているとまるでぬいぐるみのようである。僕は注意深く美しい猫の首に手をかけた。僕の心は波風一つ立てない澄み切った泉のように落ち着いていた。その泉の水面には世界の端と端を丁寧にぎゅっと引き絞る少女の姿が映し出されていた。
僕は通販で買ったサバイバルナイフを鞘から引き抜いた。刃渡り十センチにも満たないカーボンスチ―ル製の刃だが、そこにはえもいわれぬ独特の光沢と重みがあった。僕はゆっくりと腹部に刃を押し当てた。体はなんの抵抗もなく、するりとそれを受け入れた。突然空気にさらされた血肉は、何よりも艶やかで新鮮な輝きを失っていなかった。真っ赤な鮮血。吸い込まれるように真っ赤な鮮血。僕は刃についたそれを舌で舐めた。冷たい刃に滲む鉄分の味が滑らかに舌を伝う。しびれるような脳みその果てに感じたほのかな塩気は、人の涙の味によく似ていた。
耳のカットされていない猫が良い。野生のように見えても実は地域猫である可能性が高く、急にいなくなっては怪しまれるやもしれないからだ。何度か餌付けしてある程度馴らしておくと良い。睡眠薬入りの餌を食べても、どこで寝るかはわからない。したがって餌を食べたのを確認してから眠りに落ちるまで、見張っていなければならないのだ。幾分手間のかかる作業であるが、僕は労を惜しまずひたむきに取り組んだ。繰り返すうちに雑念は取り払われ、背徳と恍惚は使命感に代わっていった。罪業を一身に背負い荒行に取り組む修行僧にも似た気分だった。
今日は事が首尾よく進んだ。リュックサックにはすやすやと眠る小さな三毛猫が収まっていた。うだるような暑さであった。さんさんと降り注ぐ太陽の光を目いっぱい吸収して、たわわに膨らんだ入道雲は、青空を悠々と遮って白く照り輝いている。快闊な外見とは裏腹に底の部分は暗く、重苦しく垂れこめていて、街を踏み潰すのを厭わない巨人の足を思わせた。
「ただいま」
玄関に入ると同時に発した声は、夏休み特有のしまりのないだらけきった日常に吸い込まれていった。もちろん返事を期待したものではなく、いわば念のためである。僕はそそくさと自分の部屋に入り鍵を掛けると、リュックサックを開いた。中には入れた時と変わらず小さな三毛猫が、ふにゃふにゃと丸くなっていた。僕はそっと慎重に手のひらにすくい上げ、板張りのフローリングに寝かせた。野生のわりにふわふわと整った毛並みで、こうして見ているとまるでぬいぐるみのようである。僕は注意深く美しい猫の首に手をかけた。僕の心は波風一つ立てない澄み切った泉のように落ち着いていた。その泉の水面には世界の端と端を丁寧にぎゅっと引き絞る少女の姿が映し出されていた。
僕は通販で買ったサバイバルナイフを鞘から引き抜いた。刃渡り十センチにも満たないカーボンスチ―ル製の刃だが、そこにはえもいわれぬ独特の光沢と重みがあった。僕はゆっくりと腹部に刃を押し当てた。体はなんの抵抗もなく、するりとそれを受け入れた。突然空気にさらされた血肉は、何よりも艶やかで新鮮な輝きを失っていなかった。真っ赤な鮮血。吸い込まれるように真っ赤な鮮血。僕は刃についたそれを舌で舐めた。冷たい刃に滲む鉄分の味が滑らかに舌を伝う。しびれるような脳みその果てに感じたほのかな塩気は、人の涙の味によく似ていた。