第7話 胡蝶の夢

文字数 702文字

 彼女は疲れ果てていた。身も心も擦り切れて、くたくたになっていた。人気のない静かな住宅街。街灯が照らすアスファルトの上を一人家路につく。彼女は思った。
「なんでこんなに苦しいんだろう。」
「なんでこんなに寂しいんだろう。」
喉の奥がどくどくと脈打ち、目頭は熱くなったが、ついに涙が頬を伝うことはなかった。玄関の扉を開けると中は真っ暗だった。夕食を食べ、お風呂に入り、洗濯物を干した後、布団に横たわる。狭く区切られた天井を見上げて、彼女は祈った。
「神様、私のことを少しでも憐れんでくれるなら、どうぞ私のことを殺して下さい。二度と朝が来ぬよう、永遠に眠ったままでいたいのです。」
そうして彼女は目をつぶった。

 人々が深い眠りについた頃、夜空がひらひらとほどけていく。徐々におぼろげだった輪郭は線を結び、線は弧を描くように、弱々しくも軽やかに動き出した。それは光を忘れてしまうほど柔らかく黒い羽を持った幾千の蝶だった。深い闇夜から溢れた黒が蝶の姿になって、よすがを探すように頼りなく飛び交っているのだ。やがて一匹の蝶が、誘われるように地上に降りてくると、彼女の頬に止まった。長い口吻をそっと伸ばして、閉じた瞳から溢れた涙を吸いとっていく。丁寧に。慎重に。やがてすべて飲み干すと、またひらひらと夜空へと戻っていった。
 それはほんの少しの出来事だった。蝶の輪郭は次第にぼやけて、夜空と溶け合っていく。後には静寂と暗闇ばかりが残った。

 彼女の住む1Kのアパートも例外ではなかった。彼女はすやすやと寝息をたてていた。もう眠りを妨げるものは何もない。ソファーの上には、干し忘れたお気に入りの洋服が、くたくたに丸まったままだった。
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