第3話 溶ける女

文字数 1,894文字

ジリリリリリ
 けたたましく鳴る目覚まし時計を止めて目を覚ます。もうこんな時間か。僕は眠い目をこすりながら、ランドセルに教科書をしまって学校に行く準備をする。部屋に入り込む日光とうるさい蝉の音に急かされて、ランドセル片手に居間へ向かう。そこには、いつもはいるはずの母さんがいなかった。食卓にはまだ食器は置かれていない。両親の寝室に向かうと、母さんはまだ寝ていた。僕は大声をあげて母さんを起こす。
「母さん、学校遅れちゃうよ。」
母さんはむくりと起き上がり、時計と僕の方にちらりと目をやると、また布団に眠たそうに横たわった。
「何言ってんの。今日は休みでしょ。農薬散布の話聞いてなかったのかい。」
そういえばそうだ。今日は農薬を散布する日だから、外に出るなと言われていたっけ。すっかり忘れていた。僕は部屋に戻ってランドセルを置くと、布団に体を預けた。学校が休みなのに早く起きてしまってなんだか損した気分である。二度寝でもしようかと目をつぶって見るのだが、一度覚醒してしまった体は惰眠を頑なに拒絶する。僕は二度寝するのは諦めて、窓の外を眺めていた。窓には田んぼが広がっており、奥には小さな青々とした山が、なだらかに稜線を描いている。もう見飽きた光景だ。そういえば農薬はどのように散布されているのだろう。農薬の空中散布は夏の恒例なのだが、いつも朝のうちに終わってしまうので、そういえば見たことがなかった。確かヘリコプターから散布されるんだったか。そんなことを思いながら、田んぼをボーっと眺めていると、田んぼの中を移動しているなにかに気がついた。かなり遠くにいるそれに目を凝らすと、どうやら僕と同じくらいの年の少女のようだった。ただランドセルは身に着けていなかった。こんな時になぜ女の子があぜ道を歩いているのだろう?僕と同じように、今日は学校が休みだということを知らなかったのだろうか。でもランドセルは背負っていないし、学校とはまったく別方向に歩いている。というより、どこへ行くでもなくただぶらぶらしているように見える。声をかけてあげた方が良いだろうか。すると空からバラバラと不気味な音が近づいてきた。ヘリコプターが来た。そう思った瞬間、サァーと微かな音とともに、視界が所々ほんの少し途切れていった。それはにわか雨が降った時とよく似ていた。農薬散布が始まったのだ。彼女は無事だろうか。

 最初は水滴のせいで視界がぼやけたのだと思った。次に急に降ってきたなにかに戸惑って座り込んでしまったのだと。しかしそうではなかった。彼女の体は、空から降ってくる水滴によってドロドロと溶けていた。雨に打たれる度に形を崩していく砂のお城みたいに。すでに下半身が溶け出して、立てなくなってしまっている。彼女は助けを求めるかのように、キョロキョロと辺りを見渡していた。僕はその光景に、目が離せないでいた。不思議と恐怖はなかった。アリの巣を潰して、アリたちがどんな反応をするのか眺めているときのような、純粋な好奇心が僕の心を支配していた。すると突然彼女は、僕の方を向いて大きく手を振ったかと思うと、重力に抗えず泥のように溶けてなくなってしまった。あとには、何もないいつもののどかな田園風景が広がっているばかりであった。農薬散布を終えて、遠くへと去っていくヘリコプターの飛行音が、やけに耳に残っていた。

 恐怖は後からやってきた。この話を何人に聞かせたことだろう。両親も、友達も、学校の先生も、誰もその少女を見ていないということだった。僕が見たのは、やはり幻覚だったのだろうか。それでも僕の心の中には、言い知れぬ不安と恐怖がわだかまっていた。大人になった今でも、ヘリコプターの音やにわか雨を見ると、足がすくんで動けずに、ただじっとそれが過ぎ去るのを待っている。プロペラが回転する音、溶けた下半身、なにかを伝えるかのようにこっちを向いて手を振る姿、その光景が恐怖と共に、べったりと脳裏にこびりついて離れない。

 僕たちの身体や意思というのは、本当に確かなものなのだろうか。世界のあるべき動きにほんの少し違反したり、気に入らない行動をとったりしただけで、その存在はいともたやすく消え去って、何もなかったことにされてしまうのではないか?ベルトコンベアーに乗って流れていき、不良品だったらはじかれる工場の部品のように。あるいは穏やかな大河に渦巻く小さな奔流に、なすすべなく飲み込まれる木の葉のように。いずれにせよ世の中を平穏無事に生きていくためには、人の言うことをよく聞き、周りに合わせて動くことが肝要である。たとえそれが“ふり”だったとしても。
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