第1話 見捨てられたあなた

文字数 1,106文字

 すっかり夜のとばりが降りた塾の帰り道、私は公園を散歩していた。肌を撫でる夜風が少し寒い。このまま帰らなければ、お母さんは心配するだろうか。帰りたくない。このまま夜が明けなければいいのに。街灯は、歩く私の影をいたずらに引き伸ばす。それがなんだか居心地悪くて、あかりが灯っていない細い小道へと分け入ってく。あたりには誰の気配も感じられない。虫の音と私の足音が、余計に静寂を際立たせる。月明かりを頼りに私は前に歩みを進めていく。心の声を押しつぶし、懸命にみんなに合わせようともがくも空を切るばかり。心身ともに擦り切れた。どこか遠くに逃げ出したかった。
 不意にぱしゃと音がして立ち止まる。道を外れて、誘われるように音がした方向に進むと、そこには池があった。魚が飛び跳ねたのだろうか。池に小さな波紋が広がっている。その波紋の中心から淡く微かな光の玉のようなものが浮かび上がってきた。ゆっくりと軌跡を描いて、私の方へと近づいてくる。それをそっと手のひらですくい上げた。とても綺麗で優しい光。スマホやパソコンの乱暴な光と違って、目にしっとりと染み込んでいくようだ。すっかり心を奪われてしまった私は、これを持って帰ることにした。静かにゆっくりとこぼさないように。こぼしてしまったら、もう二度と見つけることができないように思われた。手のひらに隙間が開かないように慎重に持ち運ぶ。もと来た道を戻って公園を出ると、薄暗く人気のない閑静な住宅地を縫って家に帰っていく。誰にも会わないように、気づかれないように。みんながこれを見たらなんていうだろう。友達は同情するだろうか。それとも見なかったふりをするだろうか。お母さんは怒るだろうか。それとも泣くだろうか。これは私だけのものだ。誰かに見せるなんてありえない。途中サラリーマン風の中年男性とすれ違う。私は体をかがめながら、親指で手のひらの光を隠した。男性は私に気づくそぶりもなく、住宅街の一部となって消えていった。もしかしたらあの人も、私に気づかれたくないのかもしれない。規則正しく並べられている街灯が、私の帰路を確かなものにしてくれる。もうそろそろ家に着くころだ。お腹減ったなぁ。今日の晩御飯はなんだろう。
 いつもより遅れて帰ってきたので、怒られるのではとすこしびくびくしていたが、お母さんは変わらずあたたかく迎えてくれた。いつもは怖くて嫌いなお母さんなのに、なんで今日に限って優しいのだろう。私はお母さんに内緒で光の玉を持って来てしまったことに、すこし胸が傷んだ。自分の部屋に戻ると、ゆっくりと手を開く。いつの間にか手のひらにあったはずの水はこぼれ落ち、光の玉もどこかに消えていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み