第19話:「最終章」吉川茂紀部長の死

文字数 3,536文字

 2011年の東日本大震災を経験して義理の父の吉川茂紀さんが生きる気力をなくした様になり4月に病院で調べともらうとアルツハイマー型痴呆がひどくなっていると言われた。5月の連休を過ぎると食事も取らなくなり痩せてきてKU病院に入院する事になり脳梗塞の症状も強くなり6月30日、あっけなく亡くなってしまった。内輪だけの家族葬で父、吉川茂紀さんの葬儀を終えた。

 奥さんの君恵さんは、あまりに突然の死に混乱して現実を受け入れない様で悲嘆に暮れる日々が2週間も続き気になってKU病院を受診すると彼女も痴呆の症状が出ていると言われた。夏が過ぎて毎日、庭を眺めては、寂しそうな顔をしていた。そこで娘のが、この家は嫌いになったのと聞くと茂紀さんの思い出が多すぎて嫌だと言い始めたので老人介護施設に入りますかというと入所しても構わないから、ここから出たいと言い始めた。

 どういう所が良いかと聞くと花があって暖かい温泉がある施設が良いというので、その晩、史郎が帰ってきた時に話をすると家から、それ程離れてなくて温暖で温泉がある所というと房総半島の温泉か箱根、熱海、山梨・・・車ですぐに行ける所と言うと熱海か房総半島の温泉のどちらかが良いと言う事になった。熱海は行楽地で車の渋滞が激しくアクアラインを使って房総半島の方が便利で近いと話をすると房総は冬でも一番先に花が咲く綺麗な所ねと言った。

 母が承諾してくれ外房の鴨川の老人施設に入所する事になり手続きを取り2011年10月に史郎と奥さんとお母さんの3人で出かけた。老人施設から亀田病院までも近く安心できそうなので史郎も奥さんも、お母さんも納得して入所した。そうして毎年、史郎家族が、お母さんの所を訪ねた。その後、年に2回位、早苗さんと2人で南房総・鴨川の早苗さんの母が入所する老人ホームを訪問して、いろんな話をしてくつろいだ。

 そして2013年4月に伊藤史郎も60歳になりKS建設を定年退職した。2013年6月にドル円が77円なり4億円で519万ドルを買った。その2年後2015年4月にドル円が125円に近づき125円で519万ドルを売って8.3億円を手に入れ残金が15億円となった。入所して6年目の冬、早苗さんの母が2018年12月20日に風邪をこじらせ肺炎を併発して帰らぬ人となった。

その後、伊藤家の家族4人と親戚8人の12人で早苗さんのお母さん幸恵さんの葬儀を執り行ってお別れをした。2011年に徳子が上智大学の英米文学科を卒業して、地元横浜のWOWOWに入社した。洋画の日本語訳の仕事を始めた。そうして2014年の4月15日に計画された第二アクアラインが2019年4月に完成した。まず工事費を安く上げるために距離が短い事が第一条件、具体的には千葉県富津岬から横浜横須賀道路の最東端、走水の岬までの7kmが最短。

 そこに橋を渡し館山自動車道の木更津南ICか新日鉄君津の前を通り富津公園、富津岬から橋を渡し横浜横須賀道路の終点の走水と繋げ高速道路同士をつなげようとする計画だった。この第二アクアラインをつくる目的の1つは川崎からのアクアラインの渋滞解消のために計画された。実は、もう1つ大きな目的があった。それは首都圏の75才以上の高齢者を東京都心の下町エリアなどから関東でもまだ人口密度の低い房総半島、三浦半島へ分散させてる事。

 そこにコンパクトタウンを作り、行政、スーパー、医療機関がバスで移動して巡回してまわろうと考えた。またその地域に木造3階建てのアパート形式の安価な価格の老人施設と低価格のプレハブに断熱材を入れた長屋形式の老人施設を考え低い年金生活者のための安価な老人施設を作ろうと考えた。そして各階に病院のナースステイションの様に各部屋の各老人の体温、脈拍、心拍数を1箇所で見られる様に効率的に健康管理できる様な施設を考えた。

 更に各部屋に監視カメラを置き行動の変化にも対応できる様ににした。特に房総半島、三浦半島の空いてる土地に、そう言う施設を作ろうと考えて銀行、行政、商店、洗濯、理容、美容室などのインフラをつくるのではなくバス、またはトレーラー、トラックを改造した形で施設の方から老人施設を巡回してもらうシステムにする。これにより無駄なインフラ施設が必要なくなる。

 これにより2020年のオリンピックを終えて千葉のゴルフ場跡地に再利用可能なプレハブ、木造の3階建ての老人施設を持つコンパクトタウンが次々とできた。その他、首都圏で耐用年数が10年以上と診断されたマンションを国と地方の金で耐震工事をし、その空いた部屋に老人を安く入居してもらい、各部屋に監視カメラをつけて体調変化に対応できるようにし各階に病院の
ナースステーションの様な老人の温度、脈拍、心拍数を1箇所で見られる様にして少ない人数で管理できる施設を考えた。

 これに関連した法改正で新たな企業が老人ホーム市場に参入してきて首都圏の独居老人、老老介護の問題が徐々に解決されていった。伊藤史郎は祖父からの財産を福祉のために使おうと考えていたので、この時期に自分で会社を立ち上げて自分の資産でIFホームと協力関係を結び、この事業に10億円を投資し史郎は房総半島に5ヶ所のコンパクトタウン、三浦半島の西部に5ヶ所のコンパクトタウンを作り16の老人施設を経営した。

伊藤史郎は戦前、祖父が226事件の犠牲者となったが、周りの人達に助けられ、恵まれた人生を送ることができた事に感謝しつつ、今後の高齢者に安心して老後を過ごしてもらおうと願うのであった。その後、首都圏・老人問題協議会のメンバーに就任して1級建築士としていろんなアイディア、意見を出して、この問題解決に奮闘していた。協議会で老朽化して立て替えできないマンションを耐震化して老人施設したいと考えた。

実際に調査して見ると使えるものが千ヶ所あり30万人分の老人施設を提案した。これらの対策で2025年には首都圏の老人問題は徐々に解決の方向に向かった。その他ゴーストタウン化しているニュータウンの手直しで40万人分の住居が確保でき更に低年金生活者のために自分の死後に残った財産を入居一時金として使える様に法律を改正して月々の支払金額を減らす事ができるように改善した。
 そして金融関連会社、リース業者、建設・不動産会社、個人、団体、法人、特殊法人が老人施設市場に参入できるようにした。これにより空き屋が取り壊され次々に3階建ての木造老人ホームができリフォームしたマンションも含め新しい老人施設70万人分ができた。この様な対策で2028年までに東京で100万人分、神奈川、千葉、埼玉で100万人分、山梨、群馬、栃木、茨城で100万人分の老人施設が完成した。

 また関東でも名水も多く簡単な消毒処理で飲料水になったり、未処理の川の水も生活用水として利用でき、風力、小水力、太陽光発電などを利用して、できるだけ自前で水、自然エネルギーを利用する施設も増えていった。そうして今ある鉄道やエネルギーその他のインフラ施設を大事に修理しながら継続使用することを心がけた。社会貢献に積極的な企業も多くなり相互扶助の社会が日本に蘇ってきて2033年になり団塊の世代の人達が多く亡くなり老人施設が余った。

 その施設の再利用の方法を協議会で審議していた時、史郎は急激な頭痛に襲われ病院に担ぎ込まれた。診断の結果、脳梗塞と判明。奥さんの早苗さんと息子の誠一が病室に来てくれ、数日後からリハビリの訓練を始めた。薬物治療の効果も出て少しずつ回復していき3週間後、若干の麻痺が残ったが退院した。

 家に帰って息子の誠一に現在経営している老人ホームの担当者と決算書などを見せ、経営を継続してくれるなら、お願いしたいと言った。それに対し急に決められないので検討すると言った。父、史郎の資産の残金は5.3億円だと打ち明けると経営を継続しても良いと言ってくれた。2033年5月8日、快晴の行楽日和の日に誠一の運転で史郎の経営する房総の老人施設を訪ねた。そこの施設長に状況報告をうけた。

 スタッフ達と、やっと日本も昔の様に人を慈しむの社会に戻り、本当に良かったですねと笑っていたが、また強烈な頭痛に見舞われ救急車で近くの亀田総合病院に担ぎ込まれた。運び込まれた病室のクリーム色のカーテンが海に沈む夕日の赤でビロードの赤の様に染まって史郎の人生という映画の幕が下りた感じがして早苗の目に涙が浮かんだ。そして史郎の死に顔が満足そうに笑っている様に、見えて早苗は感情を抑えられなくなり泣き崩れた。(終了)
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