第18話:合格率低下の原因と対策

文字数 2,807文字

 2008年4月、帰って佐藤慶係長に話すと上層部とのパイプが欲しかったので、伊藤課長に戻ってきて本当に助かったと言ってくれた。真田めぐみ、木村恵子、倉田康子の3名には総務、経理、人事、営業、海外営業など全部署をまわってもらい問題点を聞き出し改善策を考える事、その後、改善策を各部署で実施して仕事の効率化を助ける仕事をお願いした。改善が進んだ後で仕事で使えるテンプレート作りをしてもらう仕事をお願いした。

 GWを終えた頃から建築関連の教室でもソフトウェアの教室でも厳しいとか難しくなったとかとの評判が会社の各部署から話しに出る様になってきた。講師も指示した宿題してこない生徒には厳しく接して言い訳無用にした。6月にマイクロソフト・オフィスのスペシャリスト検定試験での合格者が一気に増えた。これは専門家を講師として採用して初めての目に見える成果だった。

 そしてスペシャリストが10人を越えた段階でマイクロソフト・オフィス・エキスパート検定を受けさせる事も考えた。20008年7月、8月、9月で300人以上がマイクロソフト・オフィス・スペシャリストに合格した。その後、仕事の関係で30人を選抜しマイクロソフト・オフィス・エキスパート試験に挑戦するカリキュラムを考えて教室を開く様になった。年内にマイクロソフト・オフィス・スペシャリストが350人を越えた。

 そして12月の試験でマイクロソフト・オフィス・エキスパートが3人合格した。これには史郎も講師の斉藤進と内藤一雄さんが大喜びした。その頃には、その他の女性3人も総務、人事、設計、営業、海外営業、研究、開発の部門で使える便利なエクセルテンプレートを作成したり、その部門に適したアクセスを使ったデータベースとデータベース管理ソフトを作成して会社の仕事の効率化に大きな貢献をした。

 年も押し迫った2008年12月20日一級建築士の合格発表があり合格者数が15%増えてきてカリキュラムの変更の効果が出てきた。その年の教育研修部の忘年会には内川専務が飛び入りで参加してくれ各担当者に労をねぎらってくれた。そのために教育研修部のスタッフの意気が上がったのは言うまでもない。その年のボーナスの査定評価が高くなり冬のボーナスも以前よりも増えた様であった。

 その後2009年を迎え、年始挨拶に山下専務の部屋へ行き、挨拶後、専務の方から、昨年の教育研修部の活躍は、すごかったねと言われ、今年の4月に伊藤史郎君の部長昇格を役員会に諮って昇進させる様に働きかけると約束してくれた。昨年、結局、ソフトウェア教育グループの成果が順調であり、最終的に383名のマイクロソフト・オフィス・スペシャリストが誕生した。
 今年は千名の合格をめざそうと計画した。

 更に今年はマイクロソフト・オフィス・エキスパートを10人以上、誕生させる目標を立てて我が社の各部署で最低1人以上、総務、人事では将来的に10人マイクロソフト・オフィス・エキスパートという壮大な計画を話し合った。全社員が1万5千人以上いるので教育担当者を増やして一気に増やす検討も始めた。昨年の試験マイクロソフト・オフィス・エキスパート試験で合格した3人、山下和子、山田達夫、姫島康男の3人はパソコン教育研修チームに配属した。

 そしてパソコン教室の会場を増やして5教室ずつ開催する事にしたいと言ってきたので総務部に会議室の予約状況を見て空いてる時間には、できるだけパソコン教育研修に使わせてくれる様にお願いした。建築士のグループは今年の試験から研修のカリキュラムと時間やり方を改良した成果が出てくるので楽しみに待った。パソコン教育研修は授業の講師の数を2人→5人→10人と増やす事によりスペシャリストの数は毎年2倍のペースで増やしていきたい。

 実際に毎月百人を越える合格者が出てきた。そして4月に業績が認められて2009年8月1日付で伊藤史郎が、教育研修部長、就任が役員会で決定した。その他、最初から講師を務めた斉藤進と内藤一雄も係長に昇格した。その後もパソコン教育研修の成果で2009年9月末日でスペシャリストの合格者が5百人を越えた。また、エキスパートも8人が合格し2010年を迎えた。

 2010年9月15日、山下専務に呼ばれて専務室で面会すると第二アクアライン・千葉県富津岬から横須賀の走水の岬の大きな橋について水面下で検討会議が始まったと告げられ、第一回総会が20010年10月12日に我が社の大会議室で行われる事になったと教えられた。関連する企業38社で以前アクアライン建設工事に携わったゼネコン6社から3人ずつ他は責任者1名の50人が出席する事になったそうだ。

 国の建設省の役人と大臣も出席する様だ。その会議に伊藤君も出席してもらいたいと言われ喜んでと答えた。我が社から、その他、営業部の谷川部長も参加する予定だと聞かされた。本来は2013年に東京オリンピックの開催をもくろんでいたのだ、ブラジル・リオデジャネイロに持って行かれた。次回の2020年オリンピック開催に再挑戦する予定であるが開催できるか未定だった。

 第二アクアライン・千葉・富津岬と横須賀・走水の間、約7kmに橋を架けて今のアクアラインの特に土日の激しい混雑緩和と東京に住む団塊の世代が全員75歳を越えるので、その人口を分散させるために関東でも人口密度の少ない地域への分散させる目的で作ろうというものである。千葉のゴルフ場の跡地に老人が多く住む、病院、行政、商店などを使い易くしたコンパクトタウンを20以上つくり東京の高齢者を移住させようと計画した。

 その場合、埼玉の郊外、茨城、千葉県・房総半島から第二アクアラインの橋を渡り横須賀に入り関東の郊外を一周する大きな環状道路ができ郊外と都心を短時間で結ぶ事ができるようになる。完成予定は2018年と考えた。その10年前に第二アクアライン建設準備委員会を立ち上げ第1回総会では総工費と工事予想期間が話題の中心であり総工費はアクアラインの1/3。

 工期は5年・アクアラインの半分と見積もられた。3つのゼネコンでは4年で完成できると話していて工事着工開始を2011年7月1日と決定した。ところが2011年3月11日午後2時47分。東日本大震災が起きて工事着工開始を2011年7月1日が当分延期となった。東京の中心街の震度は5弱で、交通網がマヒして、徒歩で帰宅する人の長蛇の列が各幹線通りにおきた。

 そこで我が社でも帰宅困難者のために大震災の日の晩に東京の本社を開放して会議室で寝た。備蓄の食料品と水を分け与えた。20011年の夏から余震の続く東北へボランティア活動へ若い社員が出かけ、2011年から復興のための建物設計、マンション、工場の免震工事を急ピッチで施工した。
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