第1話

文字数 1,403文字

 次に住む部屋は海か川の近く、それが無理ならせめて、線路の近くが良いな、とあなたは笑った。
 洪水とか津波とか心配だから、現実的に考えたら線路沿いに住みたいな。電車の音なんてすぐ慣れちゃうって。できれば、音だけじゃなくて、走っている電車が見えた方が良いな。新幹線とかじゃなくて、二両とかのローカルな、バスみたいな電車で構わない。むしろその方が好き。ごとんごとんって、のろのろ進んでいくのを見ていたい。
 電車が走っているのを見るとね、なんだかみんな頑張って生きているんだなあって思えるから好きなの。全く知らない人の日常が、電車にはいっぱい詰まっているんだよ。そう考えると、それが見られる線路の近くも悪くないと思えるでしょ?そんなことないって?んー、そっか。
 お!君、良い質問ですよ、それ。
 私は乗るのも好きなんだけど、あんまり長時間はきついんだよね。バスとか電車とか、公共交通機関の、あの座席特有の機械油みたいな匂いがあんまり得意じゃなくて、その匂いを嗅いでると、頭痛くなってきちゃうんだよね。だから、見ているぐらいが楽なの。
 頭さえ痛くならなければ、ずっと乗っていたいぐらいだよ。景色とかお客さんとか見てれば飽きないから。知っている街でも電車の窓から見ると違う町みたいで楽しいし、まして知らない町なんて新鮮でキラキラして見える。
 踏切で待っている人とか、沢山見える建物の一つ一つに、会ったことも無い人たちが全く知らない生活を送っているのって、なんだか考え始めると当たり前なんだけど、不思議な感じがしない?
 改札から出て、町をふらふらするのだって楽しいけど、そんなことしないでそのまま逆方向の電車に乗って帰って来るのでも全然満足できる。同じ駅だと改札通れないから、一つ隣で降りて、歩いたりバス使ったり、一回改札出てお金払って切符買ったりするんだけどね。
 暇な時に山手線一周ぐるぐる乗っています、っていう人いるじゃない?きっとその人と感覚は似ているんだと思う。山手線一周なんてしたことないから分からないけど。
 行ったことないよ、東京なんて。行かなくて良いと思ってる。
 東京って、話に聞いて憧れてるぐらいの距離感がちょうどいいんだって。ずっとそう言ってたのは、君じゃない。
 ねえ、聞いてる?

 あなたは頬を染め、普段よりも幾分か饒舌に話した。瞳はうるんで黒く、至近距離から見るには少々危険な妖しい魅力を放っている。ぴったりとこちらに寄せられた体が火照っているのは、あなたが弱いくせに飲みたがる、アルコールのせいだ。
 普段は色白で、汗なんてかかない、といった風情のさらりとした肌は、珍しくこちらに吸い付くようにしっとりと汗ばみ、熱い。
 今日初めに会った時にはきれいに結われていた胸までの黒髪は、私の肩に頭を擦り付けるような動きをするごとに乱れていく。絹糸のような細くて滑らかな後れ毛が、あなたの首筋にかかる。
 話し続ける程に、だんだんとこちらにかかる重みが増えていき、滑舌は甘くなっていく。
 私は、傾けていた烏龍茶を静かに置いて、もう眠いでしょ?帰ろうか?とあなたに優しく問いかけた。
 あなたはこの言葉を待っていた、というようにふわっと頬を緩ませ、こくりと頷いた。そしてそのまま緩慢な仕草で遠くに押しやっていた自分のバッグに手を伸ばす。
 あなたの体は遠ざかっていき、唐突にぬくもりを失った左腕はあなたの形に風を感じる。
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