第6話

文字数 1,834文字

 今日私がお酒を頼んだのは、一度目では変わらなかった関係を、変えなくてはいけなくなったから。あの日、へたり込んだあなたを置いて、もう会わない覚悟を決めた私に、あなたは一か月も経たないうちに連絡をくれた。何事もなかったかのようなメッセージを見た時、私は本気で夢を見ているのだと思った。
 ずいぶんと私に都合の良い夢だった。同意もなくキスをした私を、以前のように飲みに誘うあなた。あの日の出来事に触れずに済むのならそれが良かった。あなたは、いつものように弱いのにお酒が好きで、酔いが回るあなたの隣で私は烏龍茶を飲んでいた。
 私達の歴史の中で、あの日だけが無かったことになって進んでいく日々は、夢のような時間だった。一度捨てたつもりのものだからこそ手放し難くて、私の気持ちが万が一漏れ出ることのないようにより一層臆病になった。帰りはあなたの家に行くのすら元通りだったけれど、あなたは不自然なぐらいに彼の話をしなかった。あれほど楽しそうに嬉しそうに話した彼の話を、あれ以来聞くことなく二人で会い続け、今日でおおよそ9カ月。
 私はやはり、あの日から長い長い夢を見ていたのだと思う。ひどく私に都合の良い、私の欲望が良く反映された、覚めなければ幸せな、そんな夢。
 今日、珍しく集合時間より早く来たあなた。携帯を操作するために外した手袋、左の薬指に光る指輪。婚約指輪なの、と頬を緩ませる。尋ねたら、驚かせようと思っていたけれど、すぐ気づかれちゃったね、とぎこちなく笑う。
 私は、マスクをしてきてよかった、と思う。いつかこうなると幾度も幾度も想像してきてよかった、とも。私の根底を揺るがすその衝撃に、なんてことない顔をして祝う練習をした甲斐があった。
 そうして我に返るのだ。あの日からずっと、あなたといる時に感じる底知れない恐怖の正体はこれであったか、と。
 いつかは絶対に終わる関係に、永遠を願った時点で絶望するのが運命だった。無邪気に永遠を祈っていたことが、どれだけ自らに残酷な行為だったかを、私はあの日に思い知った。私達の関係は酷く歪で脆く、ふとした拍子に崩れてしまうものだと。私が長い時をかけて歪にして、あなたはそれを、あの日から必死に脆いまま守ろうとしてくれていた。
 それを、私はまた、今日壊そうとしている。
 店を出る直前、私はグラスに残ったお酒を、一気に飲み干した。
 最後にこの量を呑めば、どの程度まで酔うか、自分のことはよく知っている。
 どのぐらいの時間で酔いが覚めるかも、よく分かっている。
 私を気遣っていつもの倍の時間をかけてたどり着いたあなたの部屋で、水を持ってこようとテキパキ動くあなたを呼び寄せて捕まえて、抱きしめた。居酒屋の匂い、あなたの香水の匂い。私と同じようでいて、根本は全く異なる、魅力的な匂い。
 今回は本当に、もう二度とかぐことのない、あなたの香り。
 冷たいあなたの頬を、もっと冷えている私の手のひらで包んで、口紅が剝げきった私の唇をあなたの唇へと落とした。互いの吐息が混ざって、一つになって、それはまるで桃色。
 酔いはとっくに醒めていて、でも酔ったふりをして、繰り返しあなたにキスをした。唇に、首筋に、手首に、指に、思いついた順に唇を落としていった。あなたの形を忘れないように。あなたの身体に、私の唇の感触だけでも、残るように。
 あなたの顔だけを見つめて生きていければいいのに。見たくないものから目を背けたままで幸せになれたらいいのに。洗面所に並んだ二つの歯ブラシとか、キッチンにあるペアマグカップとか、靴箱の上の見慣れない鍵とか、全部見なかったふりをしてしまおうか。
 抵抗しないあなたの目は、酔った時とはまた違う湿り気を帯びて暗く輝く。あなたを求める私本来の姿から、今まで演じてきた友達としての私の片鱗を必死に探す眼差しが痛ましい。
 やっと唇を離した私を見つめるあなたの目は戸惑いで揺れて、瞳に映る私は化粧の崩れた顔だった。
 だらんと弛緩していたあなたの左手を持ち上げて、輝く薬指のシルバーを、少しずらす。私は冷え切ったその指を口に入れ、たった今まで指輪のあった、少しへこんだ根元に歯を立てた。
 赤く歯跡の付いたその上に指輪を戻して、あなたに返す。
 「じゃあね、結婚式には呼んでよ。とびきり綺麗な私で出席するわ。」
 茫然とした表情のあなたを、玄関に置いたまま、私は後ろ手にドアを閉めた。
 とたん溢れる涙は、あなたのようにきれいに透き通ってはいなかった。
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