第5話

文字数 1,649文字

 初めてあなたの前でアルコールを飲んだのは、あなたに彼氏ができたと知らされた時だった。
 いつもの居酒屋で、いつものように烏龍茶を頼んだ私とビールを頼んだあなた、飲み物が到着するのを待ちきれずに話し出したあなたの嬉しそうな声、頭から血の気が引いていく冷たい感触。絞り出したおめでとう。一息で飲み干した烏龍茶。
 あなたによく似合うふわふわとして透け感のある白いブラウスとデニム地の足首が見える丈のスカート、あなたの頭の上にかかった私の、色気のないカーキのブルゾン。珍しくテーブル席に座った私たちは、店の真ん中の卓に通されていて、どれだけ訳が分からないことを言われて言葉に詰まろうと二人の間に沈黙など流れるはずもなかった。
 あなたの前では飲まないようにしていたお酒を、頼んで、頭を冷やそうと店の外のお手洗いに立った。鏡の中の私は、母親とはぐれた幼い子供のような顔をしていた。
 もう一度店に戻ると、あなたは足を組んで携帯を触っていて、スリットからわずかに覗く太ももがまるで反射板のようにテーブルの下で光っていた。彼氏に連絡を返しているのだろうな、と思った瞬間、私はすでに置かれていた焼酎の水割りをあおった。
 あなたほど弱くはないけれど、その日は酷く酔いが回り、反対に普段より平気な顔をしたあなたに無遠慮に近づいた。素面なら絶対にしないスキンシップを繰り返して、それでも私は肝心な自分の気持ちを伝える言葉を持たなかった。
 私からあなたの手に触れて、手を重ねて、あなたの指をなぞった。私の右手はあなたの左手を隈なく撫でて、だんだんと腕の方まで登っていった。あなたの頬も、首すじも、全てが愛おしくて手を伸ばした。私が触れられるところは、彼も触れていることが悔しくてならなかった。私に勇気さえあれば、こんなに簡単にできるのなら、もっと早く、あなたに触れておけばよかった、と思った。
 いつの間にか店の外にいた私たちは、いつもと逆で、私がうずくまってあなたが心配そうに私を見下ろしていた。私の右手はまだあなたの左手と繋がっていて、私がいつも思っているように、あなたに強く縋っていた。
 私を心配して帰らせようとするあなたに、言いようのない苛立ちが募った。普段はあんなに私と一緒に自分の家に帰ろうとするくせに、私が酔った時には一緒に帰ろうとしないあなた。私がいるのに、勝手に彼を作ったあなた。帰らせようとするくせに私の手は振りほどかないあなた。こんなに苛立っているのに、私の目にはいつもにまして美しく映るあなた。
 立ち上がらせようと私を引っ張るあなたに、私は自分で立ち上がった勢いそのままに顔を近づけた。驚いて目もつぶれていないあなたから、私も目を開けたまま、唇を奪った。同じところにいて、同じものを食べて、飲んだ私たちは、同じ匂いをしていた。
 少し顔を離すと、二人の間には細い銀の糸が張った。何も言えないあなたの目を見つめて、私の顔が赤いのはアルコールのせいにしてしまえばいい、と思った。私は握っていたあなたの腕を離して、あなたの頭に腕を回した。そうしてもう一度、今度は私は目を閉じて、あなたの首に唇を落とした。息を吸うと、私とは違う、あなたの花のような香りが強くなって、おいしそう、と思った。思ったそのままに、舌を這わせた。
 あなたはくすぐったそうに、身をよじった。
 何が起きたのか、理解が追い付いておらず、その場にしゃがみ込むあなたに背を向けて、私は帰路についた。私がこれまで大切にしてきたあなたとの関係を、完全に壊してしまった、という後悔と少しの爽快感、たくさんのどうしようもなく泣きたい気持ちを抱えて、それでも自分の足で歩いて帰った。
 あなたに彼氏ができて淋しいのは季節が秋に変わろうとしているから。
 私がお酒を飲んだのは淋しさを紛らわせたかったから。
 あなたにキスしてしまったのだって全部アルコールのせいにすればいい。全部そう言い訳して、あなたとはもう会うことも無くて、これから屍のように生きるんだ、と思った。
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