第8話

文字数 1,908文字

 披露宴までのほんの少しの間、彼は、私の背にそっと触れて言った。
 「お疲れ様。時々心ここにあらずだったけど、何か心配なことでもあった?」
 私のわずかな変化に聡く気付く彼は、私のことを正しく愛してくれているし、私も彼を悲しませたくない、と思った。優しいこの人に気づかれてしまうなんて、一番恐れていたことだった。
 言われた瞬間、血の気がさっと引いていく音を聞いた。でも、私は、上手に嘘をつくことだけは得意だったから、息を吸って、かぶりを振って、静かに微笑んだ。
 「ううん、大丈夫。噛み締めてたの、式を。」
 私は、何があっても彼との関係を守って見せる。それは私が幸せになるためでもあるし、親の願いを叶えるためでもあるし、何よりそうしなくては、君と言葉も交わせない関係になった意味が無い。
 私たちは、互いの考えていることが手に取るように分かるけれど、互いに向けている感情だけには鈍感で、それが分かっていたら君とこんなこじれ方はしなかった。文字通り人生をかけて負い隠してきた感情は、たった二回、肌に触れただけで伝わってしまうほど切実さを帯びていたけれど、私たちはその代償をどう払うべきか、についてもその時すでに合意していた。
 あの日で、私たちは、気軽に連絡をして遊びに行くような関係を終えたのだ。私たちに許されているのは、周囲に気取らせない程度の付き合いと、互いの節目を見届けることだけだった。火いつ用以上に言葉を交わすことすら許されない。誰に、というものではなく、自らが許さないのだ。今一度、声を聴いてその聡明さに触れたら、私は必ず、今必死になって守ろうとしている彼を一切の未練なく捨てて、君のもとに走ってしまうからだ。
 そう?何かあったら俺でも式場のスタッフの方でも、誰かに直ぐに言うんだよ、と彼はなおも心配そうに続けた。
 彼の素敵な点だった。俺に言え、というのではなく、私が声をかけやすいのなら、誰でも良い、と言える冷静さが。彼の魅力は他にも沢山あった。穏やかで声を荒げることや苛立ちを幼稚に表現することは全くと言っていいほどない。二人のことについて考える時には、それぞれの意見を対等なものとして扱うところ。
 披露宴会場へと続くカーペットが敷かれたお城のような廊下を、彼と介添えの女性に支えられながら歩く。一人では何も出来ない、純白のドレスの重みは、私の人生が確実に一つの時代を終えた実感を私に持たせた。
 私に、彼の妻、という肩書が一つ増えるその時、私は嬉しさと同時に私が私のみでいられる場所はもうないのだと覚悟を決めた。
 会場へと続くドアが開き、スポットライトが当てられたその時も、その眩しさは私が涙ぐむ要因ではなかったけれど、見ている人はきっとそのせいだと思っただろう。
 君は、学生時代からの友人を集めたテーブルに楽しそうに座っていて、私は久しぶりに余所行きの君を見た、と思った。愛想のよい君は、誰とでも仲良くなれる割に、特定の誰かと特別仲の良い印象が無かった。
 今日も、この幸せな雰囲気に丁度よくなじむ振る舞いが目立たなくて、そのおかげで私はその振る舞いの特別さを感じ取ることが出来た。自然すぎるせいで滲む存在感は、私だけが気づくものだったと思う。
 新郎新婦の紹介動画が流れている間中、私の視界には君がいた。
 私の自己紹介の時間中、半分以上は大学時代以降のもので、そのほとんどの思い出には君の香りがした。
 一緒に出掛けた時に撮ってくれていた写真は、動画づくりにとても助かった。君が撮る私は、自然に笑っていて、誰に撮ってもらうものよりも綺麗に映っていた。
 あれは大学近くの食堂で、あれは二人で行った四国旅行。あれは私がパスポートを忘れて焦っているところ。あれは君がサプライズで誕生日を祝ってくれた時。あれは社会人になってから、君と休みを合わせて温泉に行った時。
 君との思い出は、多くて、鮮やかで、輝いていた。もう戻れないものだから、余計にそう思うのだ。
 また涙が出てきそうで、必死にこらえていると、凛とした君の背中が、不意に動いて君はこちらを見た。薄暗い会場内で、確かに君と目が合った。
 君との電話の最中、私がとりとめのない話を上滑りする口で話すと、君は、笑えてる?と聞いてきた。私が、ただ、楽しい話を聴いて欲しいと思っている時は、君はそれを言わない。
 どうしてわかるの?と訊くと、君は決まって、なんとなく声に元気がない気がした、と答える。そう言われて私は、自分の中の、気づかないようにしていた不安の萌芽にやっと向き合う。
 今だって、ほら、君には私の顔なんて見えないはずなのに、それでも君は、笑って、と口を動かした。
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