第5話 青の虚

文字数 1,586文字

 その塔は青の虚と呼ばれている。

 誰が、なんの目的で、いつ建てたかも判らない高い高い尖塔である。平屋の多い街の中心にひとすじ、天へ伸べる祈りの手のようにして位置し、どの門から街に入っても同じだけの距離を歩かねば辿り着くことが出来ない。
 建築様式は古く、今では失われた技法が各所に用いられており、歴史的にも価値があるとされる。
 だが、この塔の特異さは、ごくごく単純な直線と曲線で構成されている外観からは窺い知ることができない。
 此処が青の虚と呼ばれる理由は光源にある。頂点まで複雑な幾何学模様を描いて嵌められた窓は、総て青色に塗られた彩色玻璃でできており、その内部は、時季、時刻を問わず何時も重苦しい沈黙と、青い光に満ちているのだ。白壁や艶やかに磨き上げられた大理石の床も、本来の色を見せることはなく、まるで初めからそうであったかのように、どこまでも青く染め上げられる。
 青の沈静効果は遠く旧時代から知られ書物にも精神療法として記されているが、この塔の青色は沈静を通り越し、ひとをひとつの虚とする、と言われている。
 虚。それは無とも、神に近しい全き静寂ともされるが、明確な言葉で語れる者はなく、またそれゆえに誰と共有することもできないのだとか。
 ひとりでは身に余る虚をその身に宿した結果、人は文字どおり青によって我を失うのだ。

 自分というものが瓦解してまさにこの塔と同化し、巨大な伽藍になったような気にはなる。
 と語ったのは、数年に一度、窓の清掃を請負って塔の内部に踏み入る友人である。彼と同じく、生業のゆえに塔と関わる者は少なくないが、不思議なことに、「仕事」としてその青に向き合って虚に喰われた者はいないのだという。
「虚は生きている。だから死んでいるものにしか近づかない」
 その友人の談である。どういうことだ、と尋ねると、彼は傍らの紙片を手に取り、資料も見ずにさらさらと塔の内部を描いてみせた。尖塔の吹き抜けに順に蜘蛛の巣状の線を書き入れ、「こうやって鋼鉄線で足場を組みながら上がっていく。最上部まで辿り着いたら、解体と清掃を同時に行う。命綱はあるが、基本的に細い鋼鉄線上を歩くと思ってくれていい。その上、負荷分散のためにこの形状にしているだけで、転落防止の効果はない」と続けた。旧時代の、建造物整備技術だそうだ。過去の清掃夫というのは軽業師を兼ねる者でもあったらしい。
「つまり足を踏み外せば死ぬ。生きる為の仕事で命を落とすのは御免だから、作業中は如何に生存するかという考えで一杯だ。そこに虚の入る余地などないだろう」
 彼の話は尤もであった。
 では祈りにやって来て喰われる者は死を望んでいるのか。私の問いに、友人は「これは自分の見解だが」と前置きして、淡々と語った。
「祈りや懺悔には、最早変えることのできない事実だったり思いを含んでいる場合がある。だがそれは既に死んだ感情だ。死んでいるのに変えようとするから、その歪さを喰われるんだろう」
 それでも、喰われない者にとってこの静寂と深い青の空間は余りに魅力的であり、ゆえに塔を訪れる者は後を絶たず、必然的に喰われる者も増え続ける。と、感情の読み取れない友人の話は続く。
「或る種の人々にとっては、塔の存在そのものが死であり絶望と言える。この場所に来れば安楽な死を迎えられると信じる者もいるらしい」
 そもそも何の目的で存在するか分からない塔なのだ、或いは元から人を喰うものとして造られた可能性もある、と抑揚の無い声で言い、友人はそこで急に声の調子を低くした。
「……ここだけの話だが、あの塔は入るごとに微妙に大きさが変わっている」

 育って、いる。

 彼の言葉を何処か遠くに聞きながら、そういえば虚に喰われた者たちの亡骸は一様に少し軽くなっていると聞いたことを、私は思い出していた。
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