第1話 青い花

文字数 1,077文字

 その一角は夏の宵を集めて沈黙していた。満潮にも似て迫り来る青色が花によって描かれていると気づいて歩み寄ると、素足に細い蔓が触れる。朝顔だった。
 咲き満ちる無数の花が抱え込むのは小さな四阿で、わずかに残光を残す黄昏に照らされ、うっすらと中の様子が窺える。吊るされた小さな硝子洋灯、線の細い金属製の寝台、そこから白い床に落ちかかる真珠色の寝具と、眠る少女。面立ちまでは見えなかったが、白蝶貝を思わせるなめらかな膚のいろが、淡い光に浮かび上がっている。
「……妹は、ああして夏の間ずっと眠っています」
 声をかけられて振り向くと、銀色の如雨露を手にした青年が背後に佇んでいた。ひとに気取られぬ静かな気配、宵とともに消えかかる深い青色の上衣は花と同化し、話しかけられなければ亡霊として見過ごしそうであった。
「僕達は双子でしたが、妹は僕の半分しか育っていない」
 如雨露の先から音も無く零れ落ちる水滴が、朝顔の青へと、逃れるように消えていく。
「稀にいるそうなのです、とある花の咲く季節、花に身を差し出すようにして眠り続けるものが」
「知っています」
 此方の答えに青年は一瞬手を止めたが、そうですかとだけ呟いてまた如雨露を傾けた。繊月の軌跡をえがく水。光を失って急激に静まる宵。花の青はさらに深く、夜の垂幕に忍びゆく。
「……妹は、いつか醒めることができると思いますか」
 青年は、わたしが同じように永い眠りから抜け出したものであることに気づいているようだった。
「ひとによります」
「では貴女は、どのようにして目醒めたのですか」

「――わたしは既にひとではありません」

 青年の瞳に失意を孕む光が揺らいだが、しかしそれは予め用意されていたものにも見えた。
「やはり、そうですか」
 おかしいと思っていました。
 青年の独白は続く。
 何故僕達の周りだけ、これほどに夏が青いのか。夏は明るいと皆言いますが、僕にとって夏はいつも夜のように青く、そして冷ややかなものでした。植物を廻る水と同じ温度です。
 だが誰かがこうして青に身を捧げることが、多分必要なのでしょう。
 貴方のように。

 水を撒き終えて振り向いた青年は既に全き夜そのものであり、同時に四阿を抱く朝顔の堅牢な籠の主でもあった。その腕の奥に眠る少女の微かなひかりをゆっくりと呑み込んでなお、辺りへと紺青の根を無数に伸ばしてゆく、夜の始まりのひとところ。

 彼は知らない。
 自身こそが、少女の眠りを喰う花であり、夏の夜で在ると。


 そして遥か過去に、わたしが同じく彼の妹だったことを。
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