第7話 青の書
文字数 2,250文字
水辺を辿って生きる渡り鳥の死骸を解くと、稀に瑠璃紺の結晶を見つけることがあるという。昼夜なく成層圏の青に触れながら飛び続ける鳥達は、空に生きるうちに、何物にも代替できぬ天の色を記憶する。その為か、内臓の一部に青い結石を生ずるのだとか。はじめは欠片があったそれが音も無く育った結果、いつか生命をも奪うまでの重さとなるらしい。
或いは、彼等には存在し得ないはずの神の声を聞いたのかもしれない、とは、貸本屋を営んでいた友人の談である。曰くつきの古書を扱う彼の店には由来の計り知れぬ書物ばかりが山積しているが、本人もすべては把握していないそのうちに、「鳥の歌」と名付けられた色の洋墨で記された本が存在したそうだ。
「とにかく、海にも空にも見たことのない青でね」
題名も内容も、いつ何者が持ち込んだのかも憶えていないというのに、怖ろしいほどの文字の青さだけが、脳と眼球の透間に溢れて夢までも染め上げていくんだ、あれはもう……此の世の色ではなかったよ。
終には視覚を病み両の眼を分厚い綿紗で覆って過ごすようになった友人は、その書を眼にして後、自らの指先が青く結晶化する幻覚に随分と悩まされたらしい。鳥というものは、己が石と化すこの恐怖から逃れるために地の果てまで飛ぶのかも知れないね、と語る口調は、まるで彼自身が鳥となったかのようでもあった。
それほどに追い立てられる青とは如何なるものかと、既に閉じて永い店を何日もかけて探したが、ついに友人の言う書を見つけることは叶わなかった。
しかし、ついでにと頼まれていた蔵書の整理を終え、明かり取りのために上げていた簾を下ろそうとした瞬間、西日を受けて視界の端に青く閃くものを見た。鬱蒼と林立する書物の間を抜けて手に取ると、それは古びた、もう僅かも内容物の残っていない小さな硝子壜であった。
微かに壜の底に沈澱していたのは、紛れもなく瑠璃紺の洋墨。
辺りを探すと、友人が愛用していた硝子筆が、丁度洋墨壜のあった近くに、恐らくは使いかけで手入れをされぬまま無造作に転がっているのが目に付いた。そしてその横には、生成色の紙面が開かれた一冊の雑記帳。
先刻同じ箇所を片付けた際には無かったものだ。
「もう僕の眼は此の青に耐えることができない。人が見てはならぬ色だ」
白紙の片隅に力無く綴られた一文は、確かに友人の筆致によるものだった。だが、判別できる文字が記されたのはこの頁だけで、残りは硝子筆一本、青ただ一色で描いたとは俄かに信じ難い程の、精緻な絵画で埋め尽くされている。
暁光に怜悧な稜線を浮かび上がらせ消失点まで続く真白の山脈。
咲き溢れんばかりの星を映し黙思する、全き静寂の下の湖面。
薄暮の靄の水底に淡く輝きはじめた街の遠景。薄明から逃れられずまさに水と陸の境界を喪った銀砂の海岸線。透き通る冷気の彼方にひとすじ燃え上がる極光。
青い。
透徹した水の孤独でも、無限の空のうつろでも無く。
私達が認知出来る青の極致は純粋な光線であると云うが、嘗て三稜鏡で分解して眺めた光は此程までに青かっただろうか。
すべて鳥の眼を借りて眺めたような高所からの構図は想像だけで補えるものとは到底思えず、私は紙面の奥に秘められたであろう友人の言葉を読み取ろうと幾度も頁を往復して繰った。しかし饒舌であった筈の彼の言葉は僅かも立ち上らず、代わりに幻聴のように鳴り響くのは、耳慣れぬ言語で幾重に紡がれる合唱のみであった。
「それは人間の発声を模倣しています。讃歌、と云いましたか」
不意に、背を向けた入口付近で低い声が響いた。振り返ったさきに立ち塞がるのは巨大な鳥……と思えたのは一瞬で、そこには長身の人影が佇んでいた。開け放たれた扉の向こうは黄金の残光に溢れ、来訪者の相貌を隠しながら、夕刻の終焉が近いことを告げている。
画帳を引き取りに参りました。仄かに金属質を思わせる声色で告げた来訪者は、扉を潜ると滑るように歩んできて此方のすぐ背後に立った。およそ体温や気配を感じさせぬ立ち居振る舞いは、古い石柱を背にしているかの重苦しい冷たさに満ちている。真夏の夜半、天体の他に動くものの無い輝石の広場が持つ静けさと同じで。
細い腕がするりと伸びて、私の手から雑記帳を奪っていった。振り返れずにいるその後ろで、紙面を捲る軽やかな摩擦音と、良い出来です、という独白が交じりながら降り掛かる。
気づけば黄昏は禍時へとその姿を変え、黄金色だと思っていた室内は仄かな瑠璃色を帯び始めていた。
「貴公に依頼したのは正解でした。礼を云います」
「……描いたのは友人です。私ではありません」
感情の窺えない謝辞に背を向けたまま返すと、来訪者はそうですかとだけ述べて黙り込んだ。静寂を石の宵闇が押し潰すかに思える頃、ようやく次の声が掛る。
「我等の歌を聞きましたね。ならば次は貴公の番です」
同胞の魂を救って呉れまいか。
手渡された硝子壜には、薄闇のなかでもそうと分る深く青い液体が満ち、真新しい画帳は静まった水辺の香りがした。訪れた夜は動かぬまま半ば結晶と化し、私自身も又、掌の中に息づく「鳥の歌」ごと青へと融けていくようだ。
去り際に来訪者が告げた歌の意味が、幾度となく聴覚を過る。或いは変容していく我が身の水晶の反響か。
神なる青は魂のうちに。
眼を閉じると、かつて鳥達が見たであろう光景が、青く青く目蓋の裏を覆い尽くすのだった。
或いは、彼等には存在し得ないはずの神の声を聞いたのかもしれない、とは、貸本屋を営んでいた友人の談である。曰くつきの古書を扱う彼の店には由来の計り知れぬ書物ばかりが山積しているが、本人もすべては把握していないそのうちに、「鳥の歌」と名付けられた色の洋墨で記された本が存在したそうだ。
「とにかく、海にも空にも見たことのない青でね」
題名も内容も、いつ何者が持ち込んだのかも憶えていないというのに、怖ろしいほどの文字の青さだけが、脳と眼球の透間に溢れて夢までも染め上げていくんだ、あれはもう……此の世の色ではなかったよ。
終には視覚を病み両の眼を分厚い綿紗で覆って過ごすようになった友人は、その書を眼にして後、自らの指先が青く結晶化する幻覚に随分と悩まされたらしい。鳥というものは、己が石と化すこの恐怖から逃れるために地の果てまで飛ぶのかも知れないね、と語る口調は、まるで彼自身が鳥となったかのようでもあった。
それほどに追い立てられる青とは如何なるものかと、既に閉じて永い店を何日もかけて探したが、ついに友人の言う書を見つけることは叶わなかった。
しかし、ついでにと頼まれていた蔵書の整理を終え、明かり取りのために上げていた簾を下ろそうとした瞬間、西日を受けて視界の端に青く閃くものを見た。鬱蒼と林立する書物の間を抜けて手に取ると、それは古びた、もう僅かも内容物の残っていない小さな硝子壜であった。
微かに壜の底に沈澱していたのは、紛れもなく瑠璃紺の洋墨。
辺りを探すと、友人が愛用していた硝子筆が、丁度洋墨壜のあった近くに、恐らくは使いかけで手入れをされぬまま無造作に転がっているのが目に付いた。そしてその横には、生成色の紙面が開かれた一冊の雑記帳。
先刻同じ箇所を片付けた際には無かったものだ。
「もう僕の眼は此の青に耐えることができない。人が見てはならぬ色だ」
白紙の片隅に力無く綴られた一文は、確かに友人の筆致によるものだった。だが、判別できる文字が記されたのはこの頁だけで、残りは硝子筆一本、青ただ一色で描いたとは俄かに信じ難い程の、精緻な絵画で埋め尽くされている。
暁光に怜悧な稜線を浮かび上がらせ消失点まで続く真白の山脈。
咲き溢れんばかりの星を映し黙思する、全き静寂の下の湖面。
薄暮の靄の水底に淡く輝きはじめた街の遠景。薄明から逃れられずまさに水と陸の境界を喪った銀砂の海岸線。透き通る冷気の彼方にひとすじ燃え上がる極光。
青い。
透徹した水の孤独でも、無限の空のうつろでも無く。
私達が認知出来る青の極致は純粋な光線であると云うが、嘗て三稜鏡で分解して眺めた光は此程までに青かっただろうか。
すべて鳥の眼を借りて眺めたような高所からの構図は想像だけで補えるものとは到底思えず、私は紙面の奥に秘められたであろう友人の言葉を読み取ろうと幾度も頁を往復して繰った。しかし饒舌であった筈の彼の言葉は僅かも立ち上らず、代わりに幻聴のように鳴り響くのは、耳慣れぬ言語で幾重に紡がれる合唱のみであった。
「それは人間の発声を模倣しています。讃歌、と云いましたか」
不意に、背を向けた入口付近で低い声が響いた。振り返ったさきに立ち塞がるのは巨大な鳥……と思えたのは一瞬で、そこには長身の人影が佇んでいた。開け放たれた扉の向こうは黄金の残光に溢れ、来訪者の相貌を隠しながら、夕刻の終焉が近いことを告げている。
画帳を引き取りに参りました。仄かに金属質を思わせる声色で告げた来訪者は、扉を潜ると滑るように歩んできて此方のすぐ背後に立った。およそ体温や気配を感じさせぬ立ち居振る舞いは、古い石柱を背にしているかの重苦しい冷たさに満ちている。真夏の夜半、天体の他に動くものの無い輝石の広場が持つ静けさと同じで。
細い腕がするりと伸びて、私の手から雑記帳を奪っていった。振り返れずにいるその後ろで、紙面を捲る軽やかな摩擦音と、良い出来です、という独白が交じりながら降り掛かる。
気づけば黄昏は禍時へとその姿を変え、黄金色だと思っていた室内は仄かな瑠璃色を帯び始めていた。
「貴公に依頼したのは正解でした。礼を云います」
「……描いたのは友人です。私ではありません」
感情の窺えない謝辞に背を向けたまま返すと、来訪者はそうですかとだけ述べて黙り込んだ。静寂を石の宵闇が押し潰すかに思える頃、ようやく次の声が掛る。
「我等の歌を聞きましたね。ならば次は貴公の番です」
同胞の魂を救って呉れまいか。
手渡された硝子壜には、薄闇のなかでもそうと分る深く青い液体が満ち、真新しい画帳は静まった水辺の香りがした。訪れた夜は動かぬまま半ば結晶と化し、私自身も又、掌の中に息づく「鳥の歌」ごと青へと融けていくようだ。
去り際に来訪者が告げた歌の意味が、幾度となく聴覚を過る。或いは変容していく我が身の水晶の反響か。
神なる青は魂のうちに。
眼を閉じると、かつて鳥達が見たであろう光景が、青く青く目蓋の裏を覆い尽くすのだった。