第2話 青い魚

文字数 741文字

 ある朝目が醒めたら、窓際に青い魚が泳いでいた。道端で行き倒れていたのを拾ってきた、と家人は言う。
 水槽も餌も要さず、日当たりの良い出窓さえ与えておけばその魚は満足げに泳いでおり、暁光より宵闇よりも青く閃く長い尾は、時折みずからの作り出す蔭に幻影を映し出した。
 それはどうやら魚がこれまで見てきた光景らしい。冷たい水を糧に咲く花、水面越しに展開する月蝕、水底に沈む旧い石の街。よく晴れた午前、真白な壁と床に描かれる景色は銀化硝子でできた絵本のように美しく、幾重に降り積む青の其処此処に、虹色を覗かせて煌いた。
 魚はかつては魚らしく水中に棲んでいたようだが、永く生きるうちに水を不要とし、地上にあがったのだとか。あるとき魚が書物から拾ったらしい文字列を順番に映し出したことで、かれと会話ができることを知った。
『海の青さ に 飽きた の で 水を 出ました』
『水 よりも 外の 世界 の ほうが はるかに 青い』
『人間の 絶望とは とても とても青い ものです』
 魚曰く、図書館の書物は大半が青いのだという。人の眼にはただの文字に見えても、実際は絶望ゆえの青い残像を紙面の奥へ隠し持っているそうだ。
『人間は 絶望を 記し 形にして 残す ことで 自分ではない誰かを 救おう とする の かもしれません』
「あなたには絶望はないの」
 訊ねると、魚は暫しの沈黙の後、ひらひらと活字を紡いだ――

『わたしに 絶望を 与えて くれる 者が ないこと が 絶望です』


 魚は今も窓辺に泳ぎ話し相手となってくれているが、困ったことに、魚と秘密を共有した所為か、私自身も永く生きるものとなってしまった。互いに絶望を与えられないことの絶望に、私と魚は今日も青空を仰ぎ見る。
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