第21話 神谷有恒 上

文字数 44,136文字

イブの夜は番組を視聴しないまま素直にそのまま電源を落とし、そしてベッドに入ったのだが、流石に最後に見たのが印象強すぎて、色んな考えが頭の中を一気に駆け巡ったせいで、中々寝付けなかった。
しかしこれが若さなのか何なのか、気づくと寝落ちしていたらしく、目覚めたのは平日の、学校がある時と同じ時間帯だった。
ずっと頭の片隅に、それでもずっと出演者欄にあった義一の名前が瞼の裏でチラついていたが、普段からパソコンを立ち上げて見る様な習慣は、そもそも無かったので、クリスマスの朝は普段通りに過ごした。
朝は少し時間があったので、休日における普段通りに朝食を摂った後、練習部屋に向かい、師匠から出されていた課題曲に取り組んでいた。
時間になると、予め用意したお泊まりセットの入った荷物を持って家を出た。
約束通りにマンション前で裕美と落ち合い、それからまずは紫の家に直接向かった。
向かう途中、昨日のイブでのパーティーの話をし合っていたが、まだこの時の私の脳裏には、昨日去り際に見せた、裕美の意味深な笑みがこびり付いていたのだが、その時にも言った様に、やはり私の思い過ごしだと”この時は”思っていたので、それには触れないままに雑談に花を咲かせていた。実際、裕美は普段通りに見えた。
話は変わるが、何故今紫の家に向かっているのかを説明しようと思う。去年は荷物を持って直接藤花の通う学園近くの教会に行ったのだったが、やはりというか当然というか、一泊とはいえ中々の荷物、それを抱えてミサが終わった後で街をうろつくというのは、無理ではないが、やりたくはない事だった。
結局去年はそのまま皆揃って紫の家に直行したのだが、話し合った結果、今年のゴールデンウィークでのお泊まり会の時の様に、紫の家に一度荷物を置いてから、それから教会に行こうという話になった。もちろんこれは、紫、そして紫の両親が快く了承してくれたから出来た技だった。感謝しかない。
という事で、私と裕美は真っ直ぐに紫の地元に向かった。
最寄駅に着き、駅から徒歩五分もしないタワーマンションの高層階に行くと、すぐに紫自身が迎え入れてくれた。すでに外行きの格好だ。案内されるままに入ると、人の気配がしないのに気づいて、それを質問すると、「父さんは去年と同じ、お母さんも今日は日曜だけど、済まさなくちゃいけない仕事があるというんで、夕方まで会社に出ている」との事だった。
その流れで、暇だったから一人掃除をしていたというので、私と裕美は揃って紫を褒めてあげた。…両側から二人で小突きながら。
紫が鬱陶しげに苦笑いを浮かべつつ、もうすっかり馴染みになった自分の部屋に通してくれた。入ると、既に私たちが持ってきた様な大きめのカバンが二つ置かれていた。紫の話では、三時間ほど前に藤花と律が揃って来た後らしい。今は何時かというと…昼の三時を少しすぎたところだった。
藤花と律はイブから日付の変わるクリスマスの深夜二時まで教会で過ごしていたはずだが、そこから一度家に帰って寝て、それから改めて二人は合流し、今日は藤花の”本番”があるというので、少し早めに教会に行かなければならないというので、律も合わせて一緒に、私たちよりも一足先に来ていた様だ。
まだ中途半端に時間があったので、一時間ばかり昨日の思い出話をして、そして三人揃ってマンションを出た。
藤花が歌う予定のミサ開始時間が夕方の五時からだったので、丁度良い時間だった。
部屋での雑談の続きを楽しんでいると、あっという間に四ツ谷に着いた。電車一本なのは、やはり羨ましい。
改札を出ると、駅前は普段以上に人でごった返していた。と、教会の方角に、白を基調としたオーナメントで煌びやかに飾られた”本物の”モミの木が、天高くそびえてるのがすぐに目に付いた。教会自体が駅前にあるというのもあって、すごく目立っていた。時期が時期だからだろう、明らかに信者ではなさそうな人々が、思い思いにイルミネーションの前で写真を撮ったりしていた。
その人混みを掻き分けるように進んでいたその時、「あ、琴音ー」と声を掛けられた。声だけで誰だか分かったが、一応念のために確認するが如く声の方を見た。そこには師匠が立っていて、こちらに笑顔で大きく手を振ってきていた。
「師匠ー」と私は裕美と紫を置いたまま駆け寄った。
「師匠、メリークリスマス」
「はい、メリークリスマス」
とお互いに声を掛け合ったその時、私はふと腕時計に目を落としつつ「あれ?私たち、遅かったですか?」と聞くと、師匠は明るい笑顔を浮かべながら首を大きく振って返した。
「んーん、私が早く来すぎたの。あなたたちは時間通りよ…あら、こんにちわー」
と師匠は、ふと私の背後に追いついた他の二人に視線を移すと、同じ調子で言った。
「いや、今晩はかなー?」
と師匠はふと空を見上げてからニヤケつつ言った。確かに今は夕方の五時ちょっと前、空はもうすっかり暗色が大勢を占めており、陽の光は残滓しか残っていなかった。
「ふふ、そうですね」
と裕美も同じように空を見上げてから笑顔で返した。
「今晩は」
「はい、今晩は」
「今晩は、琴音の師匠さん」
と今度は紫が声をかけた。すると師匠はずいっと自分の顔を紫に近付けると、ふとここで軽くニヤケながら返した。
「ふふ、うん、今晩は”ムラサキ”ちゃん。今日も寒いね」
「寒いですねー」
と紫は返しつつ、手袋をしたまま手をこすり合わせて見せた。視線を逸らすと、裕美も同じようにしていた。そんな二人の様子を見て、師匠がこちらに微笑みをくれたので、私もほほえみ返すのだった。
…さて、ここにきて本当に今更な新事実が分かったと思う。それは…実際に私たちが紫のことを、”ゆかり”と本名で呼んでいるのか、”ムラサキ”と、小学生時代のアダ名で呼んでいるのかという事だ。見ての通り、結局私たちは皆して紫のことを”ムラサキ”と呼んでいた。師匠のお陰で、妙なキッカケだが、こうして入学以来の謎(?)がこれでようやく暴かれることとなった。
…まぁこの話はこの辺で置いとくとして、まぁ確認のために一応触れれば、約束通りこうして師匠と合流した。
去年も一人でコソッと聞きに来てはいたのだが、こうして師匠も一緒に…皆で藤花の歌を聞くのはこれが初めてだった。
ついでに言うと、文化祭には師匠を誘えなかったという事もあって、個人的には凄く久しぶりな感覚だった。というのも、十、十一月の二月の間、行こうと思えば行けたとは思うのだが、触れていない間に、コンクールの課題から解放されて、文化祭の準備からも解放された後、自分でも引くくらいに、約一年前まで続けてきたルーティンに復帰する事が、自分でも分からないほどに嬉しかったらしく、こうして口にするのは恥ずかしいのだが、これまでよりも嬉々としてピアノに打ち込むようになっていたのだった。そのせい…だとは思うが、月一の教会での藤花の歌も、日曜日という午前中からレッスン出来るというので、たまたまレッスン予定日と藤花の独唱の日が被ってしまい、結局二度ほどあったはずのチャンスに恵まれずに年末を迎えてしまった。
なので、今日の日の事を話した時に、師匠自身、とても楽しみにしていると言っていた。当然その旨は、”わざと”すぐに藤花に話したが、勿論藤花はウンザリ笑顔で私に文句を言ってきたのは本当だ。それで今に至る。
挨拶を交わしあった後、思い出したように改めて「メリークリスマス」と声を掛け合ってから、四人で教会敷地内を歩いていると、主聖堂の入り口で佇んで立っている長身の女性が見えた。律だ。
「メリークリスマス」と今日何度目かわからないほどの挨拶をお互いに交わすと、それからは律の案内で中に入った。
相変わらずというか、今日という日のためか、今年も去年と変わらずに信者で溢れかえっていた。
「人凄いなぁ…」と、律があらかじめ取っといてくれていた席に座りつつ、思わず呟いた師匠に、すかさず律は「ふふ、昨日のイブなんかは気持ちもっと多いですよ」と微笑みつつ答えていた。紫とかとは違って、もう何度も顔を合わせているせいか、律も師匠との会話に慣れが見えていた。
結構時間がギリギリだったせいか、それからはロクに会話をしないままに、ミサが厳粛な、厳かな雰囲気の元始まった。

…まぁ、ここからは端折らせて頂こう。何せ去年と変わらない流れだったからだ。でもまぁ、前回も思った感想を述べさせて頂ければ、当然信者では無いから勝手な物言いになってしまうが、それでもミサの、この厳粛な雰囲気は嫌いでは無い…いや、むしろ、好きといって差し支えがなかった。…昔からの習慣と化している、もしくは親友の藤花が関係してるからと幾つか理由があるとはいっても、律がこうして信者でもないのに付き合うその気持ちは分かる気がする。
そして肝心の藤花の独唱。これまた去年と同じだった。
何処からともなく大バッハの『平均律クラヴィーア曲集第一巻』の『前奏曲 第1番 ハ長調』が流れてきたので、すぐに何の曲が歌われるのか分かった。グノーが、前段に言ったバッハの曲を伴奏に、ラテン語の聖句『アヴェ・マリア』を歌詞に用いて書いた声楽曲だ。ふとこの時、隣の師匠に顔を向けると、師匠の方でも私に顔を向けてきており、視線が合うとお互いにニコッと小さく笑うとまた正面に戻した。
これも素人ながらの感想を述べるだけに留めておこうと思う。まぁ一口に言って…毎度お馴染みの代わり映えのしない感想で恐縮だが、相変わらずに完璧だった。ただ…去年と同じ曲を聞いたお陰か、一つ新たな発見があった。それは…見るからにではなく”聞くからに”、去年と比べてパワーアップしていた点だった。声楽は素人なので、こんな表現になってしまうのだが、まぁそれでも何とか説明しようと試みると、藤花の澄み渡るような歌声に…何か”芯”の様なモノが加わったような、そんな印象を持った。そしてそれは勿論…熟達し成長している証だった。
三分余りの歌が終わった後、裕美たち含むこの場の千人ばかりの観客(?)全員が、一斉に藤花に向かって拍手を送っていた。そんな中、自分たちも拍手をしつつ、ふとまた私と師匠は顔を見合わせたが、今度は二人ほぼ同時に微笑み合うのだった。のちにこの微笑みの訳を含めて感想を聞くと、大方私と同じものだったので、安心したのと同時に嬉しかったのを覚えている。当然これも藤花にすぐに教えてあげた。…まぁこれは後にという事になったが。
それからミサ自体が終わると、外にゾロゾロと向かう人々が捌けるまでその場で座って待ち、疎らになった所で揃って藤花の元に行った。
既に藤花のそばには両親が立っていた。お母さんは相変わらず良い意味で中学生の子を持つ母親って感じで、お父さんは相変わらず口元のちょび髭が胡散臭さを演出していた。
私たち四人は両親に挨拶をした後、それぞれが想い想いの感想を投げつけている間、師匠は改めて、藤花の両親に挨拶をしていた。師匠と藤花の両親は、もう既に何度か顔を合わせていたが、今日に関しては、この後、一緒に食事をするというので、その話をしていたのだった。師匠のおごりだ。
私たち五人は藤花の両親にお別れをした後、揃って駅に向かい、電車で後楽園まで行き、駅周辺の繁華街から少し外れたところの、外観からしてお洒落な、こじんまりとした洋食屋さんに入った。日本に帰ってからの行きつけのお店の一つだという事だった。私も初めてだった。
中に入ると、あらかじめ注文されていた食事に舌鼓を打った。この話が出た時から、師匠に裕美たちの好みを聞かれていたので、その答えたのに沿った料理が出てきていた。皆、私も含めて満足していた。
ただ…ワイワイとお喋るする中で、小学二年生の頃から私を知ってるせいで、師匠があれやこれやと昔のエピソードを、嬉々として話すのには終始照れてしまった。そんな私を他所に、他の四人はそんな師匠の話を興味深げに、こちらも終始同じ、表情を緩めっぱなしで、時折こちらに笑みを向けてきつつ聞き入っていた。後で裕美が言ってたが、出会う以前の話がふんだんに盛り込まれていたので、とても新鮮に聞けたとのことだった。
そんなこんなで、クリスマスの夜は過ごした。

二十七日からは、我が家恒例の海外旅行に行ってしまったので、年末年始は前回と同様に裕美たちとは過ごせなかった。しかし、今回は若干…いや、だいぶ大きな変更が二つあった。一つは、直前まで微妙だったのだが、結局お父さんが日本で留守番する事になった事だ。お母さんと二人旅だ。せっかくなのに…と、”この頃の”私はまだ辛うじて、そういった感想を覚えていたが、しかし同時に、今回だけはそれでも良かったのかもと思ったりした。
というのも、二つ目に繋がるのだが、毎回年末は、そもそも芸術にさほど興味を持っていない両親なのに、何だかんだ私の為になると思ってくれてのことだと思うが、冬のヨーロッパに旅行に行っていたのだが、今回はあらかじめ”ある人”と会う約束を取り付けていたのだ。…まぁ、”ある人”だなんてもったいつける事も無いだろう。そう、それは京子だった。何カ国か周遊する中で、フランスに寄った時に、パリ郊外住まいの京子が、『折角だし良かったら寄ったら?』と言ってくれたので、その誘いに私たちは乗ったのだった。…ここでさっき言ったことが繋がる。
…さて、ドイツはフランクフルトから国際高速鉄道に乗って”パリ東駅”に着くと、そこで京子と落ち合った。それからは立ち話も外気がマイナス近いからと挨拶もそこそこに、京子が運転してきた車に早速乗り込んだ。レンジローバー イヴォークの赤だ。細かい話は聞いていなかった私も悪いのだろうが、てっきりパリ郊外と言うので、東京ほどではないにしても鉄道網が整備されているパリで、わざわざ車でお迎えだとは…と思っていたのだが、どうやら、私たちの感覚と、京子の感覚は微妙にズレていたらしい。具体的に言うと、京子はパリ中心部から車で一時間ほどの距離にある、『プロヴァン』という、町の殆どが中世からある城壁に囲まれた、周囲が田園地帯の田舎町に住んでいた。
京子の家に着いた時にはもう夜だったので、全景は見えなかったが、京子の家は城壁から少し外に出た、田園に囲まれた所に立地しており、周囲を見渡しても、農家らしき家がポツポツと点在して見えるのみだった。 京子自身の家も、無駄に大きい私の家と比べて倍はありそうな大きさだったが、とても古そうな、伝統的な農家の家に見えた。伝統的な”ザ・ヨーロッパの田舎の家”といった趣のある家だった。中もいい具合に古ぼけていたが、ただ一つ、練習部屋だけは近代的に整備されていて、その区画だけが浮いているのだった。まぁ何はともあれ、この古さが私はとても気に入った。この日はすぐに寝て、次の日は京子にプロヴァンを案内してもらった。町自体が世界遺産に登録されているというのもあって、見渡す限りどこも私好みの風景が広がっていた。中世そのままといった感じの、こじんまりとした町並みだった。
何というか…京子個人でみると、中々快活な性格の持ち主なので、勝手な印象だが、このような閑静な田舎町では自分を持て余すのではないかと一瞬思ったが、すぐに、私の師匠と約二十五年もの知己だし、あの師匠とそこまで馬が合うというのは、こんな共通点もあるからなんだと、妙に納得したりした。
大晦日の夕方になるかならないかくらいの時間帯に、裕美たちから一斉にメッセージを受け取った。『あけおめ、ことよろ』というものだ。こちらは時差の関係で随分早い時間帯に来たなと苦笑いを一人浮かべたが、こちらからも同様のメッセージと、それに私と京子のツーショット、後は、京子に借りてる部屋から見渡せる、どこまでも広がる田園風景の写真を添えて一斉送信した。するとすぐに皆から各様のウンザリした風な返信が来たが、それと一緒に、『いいもん別に。こっちは琴音以外のみんなで初詣に行ってくるから』と、何だか憎たらしく笑うスタンプを添えていたりした。私はそれには素直に『私の分まで楽しんできて』と満面の笑顔のスタンプを添えて返した。それからは少しの間四人でラリーを交わして御開きとなった。
時間は前後するが、とはいっても、結局去年と同じに、帰国してから改めて私の初詣に付き合ってくれた裕美たちであった。
大体大晦日にはドイツのケルンにいて、そこで新年を迎えるのが最近の習わしになっていたのだが、今回はそのまま京子の家で、適当に手分けして部屋を飾り付けたり、三人で料理を作って食べたりと、しっぽりと過ごして新年を迎えた。


「さてと…」
ガラガラガラガラ…
周囲にけたたましく無骨な音をばら撒きながら、引き戸が開いた。
その瞬間、鼻腔を例の古本特有の甘い“ような”匂いが刺激した。
本当に飽きのこない、好きな匂いだ。
今日は一月の第二週目の日曜日。昼の一時だ。今日はレッスンが休みだったので、こうして義一の元に遊びにきた。肩にはトートバッグを提げており、中には十冊以上の借りた本が入っていた。中々の重さだった。
…もちろん、この本を返す事、その内容、そしてそれに繋がるような世の中の話などを議論したり、そして時間があればその後でピアノを弾いてみせたり、一緒に何か映画なり何なりの映像を見たり、そして帰り際にまた十冊以上の新たな本を借りたりと、そんな普段通りのことを過ごすために来たのも一つではあるが、今回は何よりの理由があった。
それは…まぁ言うまでもないだろう。勿論私が義一の紹介で見始めた討論番組に、義一自身が出演していた点について、根掘り葉掘り問い詰め…いや、質問ぜめするためだった。
年末はゴタゴタしていて、結局番組を見てからも何も連絡を入れずにいたのだが、年が変わって帰国した直後に、早速「あけおめ」という挨拶と共に話に触れた。すると、義一はただ電話越しに照れ臭そうにするのみだったので、こうしてお互いの都合を付けて、そして私がわざわざ馳せ参じた次第だった。ただ電話を切る間際に、向こうで「ふふ」という思わせぶりな笑みが少し気になっていた。
「義一さーん、来たよー?」

あれ?
何の反応もない。これは珍しいことだった。大概し型が見えないにしても、声だけは聞こえてくるものだった。
…ま、いっか。
私は特に気を止めるでもなく、靴を脱ごうとしたその時、ふといくつか見知らぬ靴が置かれているのに気づいた。どれも革靴で、どうやら男物のようだった。
不思議に当然思ったが、後で分かるだろうと早速宝箱へと向かった。と、ここでまた一つ、ごく小さな事だが異変があるのに気づいた。宝箱へのドアが閉められていたからだ。これも普段は、少なくとも私が来る時には全開に開け放たれてるか、それとも無くても、若干開いて居るものだった。それが今回は締めきられている。
客観的に見ればあまりにもまどろっこしい様に思われるかもだが、それくらいに珍しかったので、こうして一々考えて判断しつつ、そしてスッとドアを開いた。
開けた瞬間、中から暖かな空気が流れてきた。どうやら暖房が効いているらしい。…効いているのだが、普段よりも室温が高めに設定されているようだ。と、それと共に何やらテレビからなのか、その手の音が耳に入ってきた。テレビを点けてるとは珍しい。
義一さんが昔言ってたけど、本当にドアを閉めちゃえば、中の音が一切聞こえない程に防音がしっかりなされているんだなぁ…
などと、ドアをゆっくり開ける間に、このような事を思っていると、その瞬間、「あ、琴音ちゃん」と声を掛けられた。勿論声の主は義一だ。
ドアの真正面に位置する例の重厚な書斎机を前に座っているのが見えた。…見えたのだが、その机の上には、これまた今まで見たことのない程に、何十冊もの本が所狭しと置かれていた。積み重ねていたので、やっと義一の顔が私の位置からだと見えるほどだった。メガネをして髪を後ろで普段通りに纏めていたが、普段以上にキチンと纏めていないせいか髪がピョンピョンと跳ねていて、それが何だか義一の見た目を窶れてるように見せていた。
「義一さん、こんにちわ」
と私が声を掛けたその時、
「こんにちわ、琴音ちゃん」
と不意に左側から声を掛けられた。テレビとソファーが置かれている方だ。
玄関を見て、他に誰かがいるのは察していたが、こうして急に話しかけられると驚いてしまった。そして、その方を見るとますます驚いてしまった。何とテレビの前のソファーに深く座っていたのが、神谷さんだったからだ。その隣には、オーソドックスにはお馴染みの浜岡もいた。
神谷さんは、こんなに暖房が効いている部屋だというのに、あの年末討論で見た時と同じ、分厚めのネックウォーマーを首にしていた。ジャケットこそ来てはいなかったが、これまた何枚も重ね着しているのが見るだけで分かるほどに膨らんだセーターを身につけていた。膝には毛布をかけている。隣に座っていた浜岡が、スーツ姿とはいえ軽い格好をしているのを見ると、ますます神谷さんの異様さが目立った。
「か、神谷…先生?」
と私は書斎机の前に座ったままで、こちらに微笑みを送ってきていた義一に視線を移しつつ声を漏らすと、
「ふふ…久しぶり」
と神谷さんは力無げに微笑みつつ返した。
年末の番組を見ても思ったが、こうして久しぶりに直接顔を合わせると、見るからに衰弱している様子が際立って分かった。
「ひ、久しぶり…です」
と、当初の目的を忘れて、ただこうして何だか辿々しく応対をしていると、ふと隣の浜岡が立ち上がり、私のそばに寄ってきた。
「あぁ、君だね?義一くんの姪っ子で、よく数寄屋の方に来てくれて、それだけではなく、我々の雑誌の執筆陣に刺激を与えてくれるような会話をしてくれる琴音って子は?」
と、こんな風に一気にまくし立て上げられたので、若干圧倒されながらも「は、はぁ…まぁ」と返すと、浜岡はますます和かに明るく笑いながら続けた。
「…ふふ、初めましてだね?僕のことは、もしかしたら先生…いや、少なくとも義一くんから聞いてるかな?」
「は、はい…浜岡ー…さん、ですよね?」
「お、そうそう!その浜岡さん。…ゴホン、改めて自己紹介させてもらうね?僕は浜岡洋次郎。オーソドックスで編集長の任を仰せつかっている者です。よろしくね?」
「…え?あ、は、はい。私は望月琴音といいます。よ、よろしく…おねがいします?」
急に自己紹介の流れになったので、私からも返そうとしたのだが、何と付け加えればいいのか分からず、結局こんな謎の疑問調になってしまった。
それを受けた浜岡は、「あはは、よろしく」と笑顔で返してくれたが、ふとここで笑顔に照れを滲ませるとボソッと言った。
「まぁー…それも直々変わるけどね」
「…え?」
それってどういう意味ですか?と聞き返そうと思ったが、ここでふと、今まで黙ってこのやり取りを見ていた神谷さんが声を掛けた。
「…ふふ、琴音ちゃんも来て、無事に自己紹介もし終わった所で、浜岡くん、そろそろ行く時間じゃないかね?」
「え?…あ、あぁ、そうですね」
そう言われた浜岡は、いそいそと身支度を済ませ、ビジネスバッグの様な物を手に下げると、義一に顔を向けて声を掛けた。
「じゃあ義一くん、その調子でよろしく頼むよ?僕からも言っておくから」
「…?」
「わかりました」
ふふっと苦笑まじりに義一が返すと、浜岡は一度コクっと満足げに頷き、「では先生、今日はこれで」と神谷さんに声を掛けると「ハイハイ、気をつけてね?」と返されていた。
「はい」と応えた後、浜岡が最後に私の方に向き、
「じゃあ琴音ちゃん、また今度どこか…数寄屋かどこかでゆっくりとお話ししようね?」と言いながら手を伸ばしてきたので、「は、はい、是非…」と思わず私からも手を伸ばすと、それから私たちは握手を交わした。その後は「では…」とだけ言うと宝箱から慌ただしげに出て行ってしまった。外の環境音は相変わらず聞こえなかったが、おそらくあの調子だと、私がするよりも五月蝿く、あの引き戸を開けたことだろう。
私からしたら嵐のような数分間だったが、ここにきてようやく耳に、付けっ放しのテレビの音が耳に入ってくるようだった。

「…ふふ、驚いたかい?」
と義一が話し掛けてきたので見ると、その顔には悪戯を仕掛けて成功して喜んでるかの様な無邪気な笑みを浮かべていた。
「…驚くよそりゃあ」
と私はジト目を向けつつ溜息混じりに呟きながら、例のテーブルの側に置かれた二つの椅子のうちの一つに座った。
「ふふ、驚くよね?」
と神谷さんが笑顔でゆっくりと立ち上がろうとしたのを見た義一が、慌てた様子で言った。
「せ、先生、そのまま座っていて下さい」
それを聞くと、神谷さんはキョトン顔を作りつつ、しかし笑顔は残したままで、立ち上がるのを止めないままに返した。
「ん?何でかね?こうして琴音ちゃんと久しぶりに会えて、キチンと顔を合わせて話そうとしたら、私が近くに行くのが筋ってものだろう?」
「え、あ、いや、じゃあ私が…」
と察して私がすぐさま立ち上がろうとすると、神谷さんは手を前に出して制するような素振りを見せつつ言った。
「あ、いいんだ、いいんだ。琴音ちゃん、君はそのままそこにいてくれ」
「は、はぁ…」
と私はそのまま座り掛けたが、せめてと思い、ゆったりとした神谷さんの動作をチラッと確認しつつ、なるべく素早く椅子を並び替えた。今向かって来る神谷さんの一番近くになるように一つを置き、それを基準に、書斎机の後ろに座る義一とも無理な体勢を取る事なく会話が出来る様に、瞬時に色々と考えてセッティングした。その間、チラッと見ていた中で、ふと神谷さんが私にフッと柔らかな微笑みをくれていたのに気づいたが、何だか恥ずかしくなってすぐに目を逸らした。その間に義一が「じゃあ、僕は先生たちの分のお茶を淹れてきます」と台所に行ってしまった。
「…あぁ、ありがとう琴音ちゃん」
「あ、いえ…」
お礼を言う神谷さんを椅子に座らせると、私もすかさず自分の分の椅子を同じように”丁度良い”位置に置いて座った。結果的には、口で言われるだけじゃ分かり辛いだろうが、義一から見て、テーブルを挟んで右手に神谷さんが、左手に私が座る事になった。神谷さんのまた右手には、先ほどまで座っていた二人がけのソファーがあり、そのまた右手には付けっ放しのテレビがあった。
義一がお茶の準備をしている間、何か話しかけようと思ったが、神谷さんはテレビの方に向いてしまったので、まぁいいかと私も神谷さんの頭越しにテレビを見た。
と、そこにはある番組が流れていたのだが、それは日曜日の昼間限定の情報番組で、何かの特集番組のようだった。画面の右上には何やら文字が出ており、そこには『どうなる!?自由貿易協定』とあった。それはある種の討論番組の形式をとっており、幾人かの様々な肩書きの面々が座っていた。今はその中の一人、何とというか、そこには時の政権の経産大臣が、パネリストの一人からの質問に答えている所だった。
…ん?自由貿易協定…あぁ、なんか聞いた事あるなぁ
と、ボヤーっとした感想をふと持ったその時、すぐそばでカチャンと音がしたので見ると、義一が茶器をテーブルに置く所だった。
「ふふ、先生、琴音ちゃん、テレビに夢中になるのも良いですけど、せっかくの淹れたてなんですから、どうぞ温かいうちに召し上がって下さい」
「…ふふ、あぁ、いただくよ」
「うん、ありがとう」
と私が礼を言うと「どういたしまして」と笑顔で返し、そのあとはいそいそと台所から空きの椅子を一つ持ってきて、それに座った。座り位置としては、私の左隣、ドアを後ろに、前を書斎机にしている位置どりだった。
「では義一くん、いただきます」
「いただきます」
と二人して言うと、「どうぞ」と短く義一が返し、それからは三人共に一口ずつ飲んだ。
「はぁ…」と三人揃って声を漏らすと、ふとここでまず神谷さんが私に笑顔で話し掛けてきた。
「…あ、そういえば、まだ直接は言えてなかったね?琴音ちゃん…コンクール、全国大会準優勝おめでとう」
「…え?」
せっかく言ってもらって何だが、何だかもう遠い過去のように思えて、すぐには反応出来なかったが、その後にはすぐにペコっと一度座ったままお辞儀してから「ありがとうございます」と微笑みつつ返した。
それからは和かな雰囲気の中、私としては思いがけない…いや、さっきから思いがけないことの連続なわけだったが、まさかコンクールの話を蒸し返すとは思ってもみなかった。…みなかったのだが、それでもスマホを持ってきていたので、すぐさま取り出し、神谷さんの望むままに写真を見せていった。画像が切り替わるたびに、神谷さんは面白がってくれた。
と、この時、私は今までに無かった心境を覚えていた。これはもしかしたら双方に失礼かもしれないのだが、正直に言うと、何だか自分のおじいちゃんにアレコレと自分の晴れ姿を見せている孫の心境になっていた。とはいっても、実のおじいちゃんはとっくに亡くなっているし、そもそも私は会ったことが無かったから偉そうに知ったかは出来ないのだが、それでも『おじいちゃんがいたら、こんな感じなんだろうなぁ』と思うのだった。
「ふふ、ありがとう」
と神谷さんにスマホを返してもらったその時、丁度先ほどまで流しっぱなしにしていた番組が終わった所だった。
それに気づいた義一はふと立ち上がり、ソファーに置いていたらしいリモコンを取ると、何やら操作をしていた。しばらくすると、画面には静止画が出てきた。何も聞かなかったが、すぐに先ほどの番組のオープニングだというのが分かった。どうやら、先ほどまで流れていたのはリアルタイムらしいが、どうも今まで録画をしていたらしく、今録ったばかりの番組を出して止めているようだ。
リモコンを持ったまま戻ってくる義一に、早速私は話しかけた。
「…義一さん、これってさっきまでやってた番組だよね?録画してたんだ?」
「え?…ふふ、うん、そうだよー」
義一は手に持ったリモコンをテーブルに置くと、フッと力を抜くように笑いながら答えた。
「ふーん…っていうかさ」
と私は向かいに座る神谷さんにも視線を流しながら言った。
「今日…この宝箱に、神谷先生が来てるって事、聞かされてなかったんだけれど?」
「え?…あぁ!」
と、ふとここで神谷さんが不思議だと言いたげな顔を浮かべていたが、すぐに一人で得心したらしく、笑顔になりながら言った。
「宝箱ね。ここの事かな?」
「え、あ、そうです」「ふふ、そうです」
と、私と義一がほぼ同時に答えた。
「宝箱ね。…ふ、言い得て妙だなぁ」
と神谷さんが部屋を見渡しつつ一人で感心していたが、義一は一口勿体ぶって紅茶を啜ると答えた。
「…ふふ、うん、琴音ちゃん、君を驚かせようと思ってね」
「驚いたよぉ…まさか過ぎて。何で今日、神谷先生がここに…あ」
と途中で言いかけて、本人を前にしていうセリフでも無いかと直ぐに止めて、チラッと気まずげに神谷さんの方を見つつ続けた。
「何も、私が来る時と先生をダブルブッキングしなくてもいいのに…」
とここで私は書斎机の上の書物、そして書類の束、そして静止画が映っているテレビの方にも視線を流してから続けた。
「何かそのー…大事な話でもしてたんじゃないの?さっき浜岡さんも来てたし…。こんな日に、そのー…私なんかが来たら…邪魔じゃない?」
「…ん?イヤイヤ」
と、この私の言葉に、瞬時に反応を示したのは、義一ではなく神谷さんだった。相変わらずというか力無げではあったが、それでも好々爺の痕跡を残す笑みを浮かべていた。
「そもそもね、琴音ちゃん、君がここに来る予定だと言うのを聞いて、だったら私の予定を合わせようって事になったんだ」
「…え?それってどういう…」
と私が聞くと、神谷さんはフッと視線だけ義一に流し、そして笑みを浮かべつつ言った。
「いやね、まぁキッカケは聡くんが勝手にというか、ここにいる義一くんみたいに我々のところに連れて来たわけだけど、幸いな事に、琴音ちゃん、君もどうやら義一くんと同じように、私たちの事に少なからず共感をしてくれてるようだし…」
「あ、はい、それは…そうです」
「ふふ、ありがとう。…でね、そんな君にも、こうして何度も楽しく有意義な議論をしてくれた君だけを、”この事”に関して除け者にする訳にもいかないというので、それでこうして予定を合わせたんだよ」
「”この事”?」
「先生?」
まだ依然として先生がここに来た理由が判然としない中、ふと私が声を漏らすと、ここで義一が苦笑まじりに神谷さんに声をかけた。
「そろそろ本題を…」
それを受けて神谷さんは、照れ臭げに産毛程度を蓄えた頭を照れ臭そうに摩ると、話し始めた。
「あぁ、そうだったね。…ゴホン、琴音ちゃん、今回…といっても、実はよくこのー…”宝箱”だったかな?ふふ、良い名前だ…あ、いや、この宝箱にはよく来ていたんだがね、今日はそのー…いくつか重要な用事があって、それで来たんだよ」
「重要…」
「ふふ、そう。だから…ちょっといきなり全部説明するのは骨が折れるから、順に話すから少し我慢して聞いてくれる?」
「は、はい」
と私はこの”重要”という単語を聞いた時からウズウズしていたのだが、ここがチャンスと、おもむろにカバンからいつものメモ帳とペンを取り出し、それをテーブルの上に置いた。
と、準備が終わりふと顔を上げると、こちらに柔和な微笑みを向けてきていた神谷さんと視線が合った。
もう何度も合わせているというのに、普段はあの数寄屋内の雰囲気の良い薄明かりの中でだったのが、書斎机の後ろの大きな窓から差し込んでくる冬の陽光に照らされてるからか、神谷さんの好々爺とした笑みが強調されて、何だか新鮮なのと同時に気恥ずかしくなり、思わず照れて軽く下を俯くのだった。
それを見た二人は微笑み合うと、神谷さんは話を続けた。
「…さて、そうだなぁー…まぁ、まずはいきなりだけど、我々にとって一番重要な話からしようかな?…なぁ、義一くん?」
と神谷さんは、ここでふと書斎机の方に視線を向けた。私と義一も釣られるようにして見たが、すぐに何かを察したか、気持ち声のトーンを落としつつ「はい」と義一が答えた。
「うん、そうだなぁ…これは、義一くんから話すかい?」
「…そうですね」
と義一は数瞬ばかり考えた後でそう答えると、義一は若干真面目くさった表情を見せたかと思うと私に向かって言った。
「…ふふ、琴音ちゃん、実はね…この度というか、雑誌”オーソドックス”の編集長に、そのー…僕が先生から拝命されたんだよ」
「…え?編集長…?へぇーーー」
と大声を上げはしなかったが、それでも驚きは一入だった。なんとなしにこれから先で、もっと深く義一がオーソドックスに関わっていくだろう事は予測できたが、いきなり編集長というのは予想していなかった。
そんな私の様子を見て、神谷さんは愉快げに笑いつつ言った。
「そう、今までさっきまでいた浜岡くんに編集長をしてもらっていたのだけどね、彼には僕がしていた顧問を引き継いでもらって、その浜岡くんの後を、是非義一くんに引き継いでもらいたくてね、それでこうして”嫌々ながらも”引き受けてくれたって訳なんだよ」
「そりゃあ、嫌々ですよ…」
とすかさず義一が、苦笑まじりに言った。
「浜岡さんですら大変そうだったのに、僕みたいな者が、あの集う面々を制御しきるのは、想像するだけで気が滅入ります」
「あははは。まぁそうだろうけれどさ」
「はぁ…。あ、琴音ちゃん、まぁこういうわけで僕は拝命を受けたわけだけれど、僕で実は編集長は三人目でね?二代目は勿論浜岡さんだけれど、初代は神谷先生だったんだ」
「へぇー…そうなんですね?…っていや」
と私は何かメモろうと思ったのだが、これについては特に書くこともなく、ただただ驚くばかりだったので、頭を整理するためにも二人の話を一度止めた。
「いやいや、あまりの唐突な話すぎて、正直なところ付いていけてないっていうのが本当なんだけど…二人とも、質問して良いですかね?」
「どうぞ」
と神谷さんと義一がほぼ同時に同じ様に笑顔で答えたので、私は自分の頭の中を何とか整理しつつ口を開いた。
「えぇっと…まず根本的な所から。…先生、先生は何でまた急に義一さんに編集長を指名したんですか?」
「…ん?琴音ちゃんはー…義一くんでは不満かな?」
と神谷さんが途端に意地悪げにニヤケつつ聞いてきたので、私は少し慌てつつ返した。
「いえいえ、そんな事は…勿論ないですよ。たださっきも言いましたけど、突然の話だったんで。…まぁ、本人を前にして言うのもなんですけれど、私は義一さんがオーソドックスの編集長をするのは良い事だと思います。そのー…さっきいた浜岡さんが違うのかと訊かれると困りますけど、少なくとも私が知る先生、それに義一さん、この二人はー…はい、これほどの色んな物事についての知見を広めていらっしゃるので、あの雑誌に集う面々を取り纏めるには適任だと…思います」
と、何とか言葉を紡ごうとした結果、何だか頭でっかちな内容になってしまった。それが生意気だったかと、言い終えてから二人を見ると、義一と神谷さんはキョトン顔で顔を見合わせると、どちらからともなく苦笑を浮かべて、そしてまず神谷さんがその笑みのまま口を開いた。
「んー…ふふ、ありがとう琴音ちゃん、そこまで我々を褒めてくれて。でもね、確かに今君が言ってくれたことのほとんどは正しいよ。私なんかは、今君が褒めてくれた様な人間じゃなく、何も知らないただの人ではあるけれど、あの面子を、天文物理化学、人文社会科学や、マサさん、勲さん、美保子さんに百合子さん…それに君、琴音ちゃんの様な芸能に秀でた人間たち、この様な多種多様な個性の強い面々を取り纏めるには、…義一くんの様なあらゆる知見を広めている、そして今も飽くなく広め続けている様な人間が適任だと僕も思って、こうして頼んだんだよ」
「先生も琴音ちゃんも二人して…」
と神谷さんの言葉を聞き終えた義一は、色白の顔をほんのりと紅潮させ、照れ臭げに頭を掻きつつ恨みがましげに言った。
「そんな不用意に褒められたら困るって分かってて言うのは、人が悪すぎですよ?」
「…それを義一さんが言う?」
と私がすかさず淡々とした口調で返すと、義一は今度はバツが悪そうに、相変わらず頭を?いていたが、そんな私たちの姿を見て、「あははは」と神谷さんは愉快げに笑った。
「まぁ勿論、我々オーソドックスに集う人材というのは見ての通り豊富なんだけれどね?それでもまぁ…また本人は照れるかもしれないが、繰り返せば、この中で一番多岐に渡る知見を擁しているのは誰かとなると…うん、やっぱり義一くんかなって思って、私の中では真っ先に編集長の第一候補に挙がっていたんだよ」

「…あ、そうだ」
また照れっぱなしの義一を微笑ましく横目で見つつ、さっき途中からやっとメモを軽く取り出したのだが、ここでまた気づいたことがあったので、早速ぶつけてみる事にした。
「そういえば先生、さっきこう言ってましたよね?『浜岡さんに編集長をしてもらっていたのを、私がしていた顧問を引き継いでもらって、その後を義一くんに引き継いでもらう』と」
「うん、そうだね」
「って事はですよ…?」
と私はここでまた一度メモに目を落として確認してから、神谷さんの顔を直視して聞いた。
「…先生はじゃあどうするんですか?」
「…」
私がそう言った直後、神谷さんは何だか苦笑いを浮かべ…いや、どことなく照れ臭そうに笑いながら自分の頭を軽く撫でていた。
が、すぐにその照れ笑いのまま答えた。
「んー…まぁ、何と言うかなぁ…私はね、琴音ちゃん、これを機に…引退しようと思うのだよ」
「…え?」
「…」
私が言葉を失う中、ふと横を見ると、義一はどこか寂しげに笑いつつ紅茶を啜っていた。
「…え?何で…ですか?」
と私がタドタドしげに聞くと、神谷さんは相変わらず照れ笑いを浮かべながら、しかし先ほどまでと違って、フッと力の抜けた表情で答えた。
「…ふふ、何でって聞かれてもなぁー…。うん、まぁ一口に言えばね、私はもう今ね、歳が76にこないだなったんだよ。後期高齢者だね?…ふふ。まぁ、もう十分この雑誌の中で言い尽くしてきたし、これ以上私みたいな年寄りが居座っても、邪魔でしかないからねぇー…。皆気を使うだろうし」
「そんな事…」
と義一はすかさず苦笑まじりに漏らしたが、それには取り合わずに神谷さんは続けた。
「まぁこうして義一くんを編集長に、そして浜岡くん、後は京都にいる…あぁ、琴音ちゃん、君はまだ会った事ないよね?今年の三月で大学の職を定年って事で退官する佐々木くん…まぁ前から変わらないけど、この二人で新たに雑誌の顧問になってもらうという、そういう新体制に引き継いで、私は引退するわけだけれど…まぁ、まだ私みたいな枯れ果てた老木の与太話を聞きたいとか、議論したいとか言われれば、ヌケヌケと恥もなくまだあちこちに顔を出すつもりだよ。…数寄屋にもね?」
「あ、そうなんですね」
と私が初めに”ほっ”とため息を入れてからボソッと言うと、神谷さんは意地悪げな笑みを浮かべつつ
「あ、琴音ちゃん…今、心底呆れただろう?『この人、引退って言いながら、まだしぶとく幅をきかせようとしてるのか?』って」
「ふふ、いえいえ、そんな事は…ないですよ?」
と私は冗談ぽく、敢えて間を置いてから自信無さげに言うと、「あははは」と神谷さんは陽気に笑い返してくれた。
「なるほどー…では、次の質問良いですか?」
と私がメモに目を落としつつ言うと、「ふふ」と神谷さんは義一に目を向けつつ言った。
「何だか琴音ちゃんにこう訊かれると…まるで記者会見でも受けてるみたいだねぇ」
「あはは、そうですねぇ。…まぁ僕らがそんな表舞台に出る用事は無いですけれど」
と二人して談笑し始めたので、「ちょっと、お二人ともー?」と私がジト目を向けつつ不満を漏らすと、二人はバツが悪そうに笑いつつ口を閉じた。
そんな二人の様子を冷ややかに、しかし笑いつつ見ていたのだが、ここでふと「あっ!」と声を漏らした。我ながら呑気だと思うが、ここにきて何故今日義一の家に来たのか、その理由を思い出したのだった。
私が急に声を上げたので、二人して不思議そうにこちらを見てきたが、それには構わずに早速質問をぶつけてみる事にした。
「…っていうかさ、義一さん、今の話を聞いて何となく分かるは分かるんだけれど…さぁ?そもそも何であの討論番組に、年末に出演していたの?義一さんって…人前に出るのが嫌な人じゃなかった?…私みたいに」
「え?…ふふ、あははは!」
と義一はここぞとばかりに照れて見せながら笑い声を上げた。それを神谷さんはまた愉快げに笑いつつ眺めている。
義一は勿体つけて一度紅茶を飲んでから口を開いた。
「まぁ…そう、今君が言ったように、僕も同じで人前に出るのは嫌なタチだった…いや、今もそうなんだけれど…うん、まぁ、もう察してるとは思うけれど、あれもね、神谷先生に無理やり引っ張り出されて、ついに出てしまったんだよ」
「あははは」
義一の言葉を聞いた瞬間、神谷さんはまた明るく笑い声を上げた。ここで初めて気づいたが、今日の神谷さんは、何か憑き物でも落ちたかのようによく笑っていた。
「でもその割には…」
と神谷さんはまた意地悪げな笑みを浮かべつつ言った。
「あの年末の時、気兼ねなくズバズバと切り味鋭く、あの代表を斬り捨ててたじゃないか?」
「あ、本当ですよねー?」
と私もずっと同じことを思っていたので、意地悪な気が起き、生意気にニヤケながら神谷さんに乗っかった。
「凄くイキイキとしてたよ?義一さん」
「参ったなぁ…」
私たち二人から攻められた義一は、照れた時の例の癖を頻りにして見せていた。
「でもまぁ今まで散々断られていたからねぇー…やっと念願が叶ったよ」
「せ、先生ー…そんな大袈裟な」
と苦笑いを顔全面に浮かべて見せた後、また私に向き直り話を続けた。
「まぁ先生の言葉を借りれば、そのー…新しい”オーソドックス”の新体制のお披露目というか、まぁたまたま討論が”オーソドックス特集”だったってのもあって、まぁ…とうとう出てきてしまったって訳さ」
と義一が心の底からウンザリげに言うので「ふふ、なるほどね」と私が思わず笑みを零しつつ言うと、
「今からそんな風では困るよー?」
と神谷さんも意地悪く笑いつつ言った。
「これからは、どんどんもっと表舞台に出て行って貰うんだから」
「まぁ…そうですけれど」
と義一が苦笑まじりにふと、今だに静止画のままのテレビ画面に視線を向けたので、すぐに何かしら関連があると察した私は、すぐにこのまま質問をぶつけた。これもそこそこ長い付き合いだから成せる技だろう。
「それって…相変わらずあそこで止まったままの映像と、何かしら関係があるの?」
と私が聞くと、その瞬間義一と神谷さんは顔を見合わせると、一度クスッと笑い、その笑顔のまま二人揃って私の方を見た。
「いやいやー、流石の琴音ちゃん。察しが良すぎるねぇ」
「流石の義一くんの姪っ子って事かな?」
と二人してからかってるのか何だか判別つきにくい褒め方をしてきたので、取り敢えず薄眼を使いながらテキトーにいなして、そして改めて義一に聞いた。
すると義一はまた一息いれる為かのように紅茶を一口飲むと話した。「…ふふ、まぁー…そういう事になるね。まぁ本当にたまたまというか何というか… 僕が編集長に抜擢されるかどうかって時に、こんなタイミングでこんな事態が起きるなんてねぇ…」
「…え?」
と何だかまた具体的なことが一つも出ない、何の取っ掛かりのない事を話し出したので、私はまた薄眼調でジッと見つめながら、
「それって、どういう事?」
と聞くと、すぐに私の心中が分かったのか、何だか照れ臭げに頭を掻きつつ答えた。
「あぁ、いや、あのね?実は…いや、実際見て貰う方が早いですかね?」
と途中で急に神谷さんに振ると、「ん?まぁ…そうかもね?いや、判断は君に任せるよ」と返された義一は、
「じゃあ琴音ちゃん、まず僕から説明する前に…ちょっとテレビ画面を見てくれる?」
と言うので、「う、うん」と私は言われるままに視線を向けた。
その瞬間、義一がリモコンで操作したので、先ほど録画したのであろう番組の静止画が、ようやく動画として動き出した。
その番組は何やら”らしい”BGMと共に始まり、最初に司会者らしき初老の男性アナウンサーが挨拶をして、その脇の女子アナも同じ様な挨拶をしていた。それからは一人一人出演者の紹介が始まったのだが、最後に紹介されたのは、先ほども触れた、現政権の経産大臣だった。
全員の紹介が終わると、先ほどの男性司会者が今日のテーマを述べた。それは先ほども見た時に、右上にテロップとして出ていた『どうなる!?自由貿易協定』のそのままだった。
と何気なくそのままテレビを見ていたのだが、ここで急に義一がまた映像を止めた。
「…ん?」
と私は思わず声を漏らしたが、それには触れずに義一はまたリモコンをそっとテーブルの上に戻してから言った。
「…まぁ、見ての通りというか、琴音ちゃんは知ってるか、もしくは知っててもさほど興味ないと思うけど、今急にね、この画面右上に出ている様に、新たな自由貿易協定を結ぶかどうかの話が出て来てるんだよ」
「…うん、まぁ私もニュースでチラッとは聞いたことあるけれど…これが何なの?」
とまだ意図が掴めないままの私がそう聞くと、義一は穏やかな表情のまま答えた。
「うん、まぁ…これは今の一つ前の政権がまず発端なんだけれど、そうだなぁ…今はろくな話も出来ないんだけれどね?要は、僕らのオーソドックスの共通認識としては、この自由貿易協定には断固として反対という立場なんだよ」
「ふーん…」と私はまたテレビ画面に一度目を向けてからまた義一に顔を戻して続けた。
「それは何で反対なの?…って質問したいけれど、それは今すぐには説明出来ないほどに、複雑な問題なんだね?」
そう聞くと、義一はチラッと神谷さんの方に視線を流してから、ニコッと笑い言った。
「うん、その通り。ゴメンね琴音ちゃん、別に隠そうって訳じゃないんだよ。ただ…特に君には、キチンと時間を設けてもらって、それからじっくりと誤解のない様に話したいと…思うんだ」
「…うん、それはよく分かってるよ。義一さん、あなたはこういう事で変に隠し立てしたり、ごまかしたりする様な不誠実な人でない事は分かってるからね」
と私は目を瞑る様にニコッと笑って見せると、「ありがとう」と義一も笑顔で返し、そしてまた穏やかな表情に戻ると先を続けた。
「まぁ今とりあえず簡単に言えるのはね、もしこの自由貿易協定なんかに参加したりしたら、ただでさえ今の日本は滅びかかってるのに、そのスピードに拍車をかける様なことになるんじゃないかって危惧してるからなんだ」
「うん…」
私はのちに質問するのを忘れない様に、メモに”自由貿易協定”と書きこんだ。
「でね…」
と義一は不意に書斎机に顔を向けると続けた。
「まぁ先生もそうおっしゃるし、今言った様に本当にこのままほっとけば日本がますます駄目になると思うから、初めから負け戦、自分の力が微力過ぎて無駄に終わる事を今から予期しつつも、少しは足掻いてみようかと思ってね、それで今ああやって経済学に始まるありとあらゆる分野の学問を総ざらいして、今ね…何冊かの本を同時進行して書いてるんだ」
「…え?義一さん…今本を書いてるの?」
と私も書斎机の上に積まれた本の山に目を向けて言うと、義一はまた静かにニコッと笑って何処か恥ずかしそうに答えた。
「まぁ…ね。実はさっき浜岡さんが来てたのも、僕が本を出すのを手伝ってくれてるからなんだ。浜岡さんは編集長を長年してきたし、その前から本職の文芸批評家というのもあって出版社にコネがあるんだよ。それでね、まぁ…僕なんかの本を出してくれる様な、自分で言うのも何だけど変わってる所を見つけてくれてね、それで今そうだなぁ…去年の十二月の頭くらいからずっと毎日休まずに執筆してたという訳さ」
なるほど…だからこんなに気持ち窶れてるのか
と私は改めて義一の姿をジロジロ見ながら納得した。
「今日に限って言えば、神谷先生にわざわざお越し頂いたのも、先生は元経済学出身っていうのもあって、そこからの観点からの今回の件について、教えを請うためって事でもあったんだ」
「あー…そういえばそうなんでしたね」
と私が感心した風に神谷さんに顔を向けると、当人は何だかバツが悪そうに、
「経済学出身って言ったって若い時の話だからね…若気の至りだよ」と苦笑いを浮かべつつ答えていた。
そんな神谷さんに一度微笑んでから、義一は続けた。
「こんな弱音を琴音ちゃんに言うのもなんだけれど大変だよ。今回の自由貿易協定の批判本、これを書くだけでも骨が折れるのに、それに加えて、そんな上っ面の点だけを批評しても、後から後から同じ様な問題が次々と湧いてくるだろう事は目に見えてるからね…だからもう一冊、これは…そもそも何で今の日本がこんな如何にも駄目だとすぐに分かりそうな事に容易に飛び付いちゃうのか、それを分析したいわゆる思想哲学の本も書いてるんだよ」
「なるほどね…」
と私はまた一度本の山にまた目を向けてから言った。
と、視線を戻した時にふと思いついたので、それをそのまま深く考えないままに口に出した。
「…あ、その思想って…それって、”保守”…って事?」
「え?」
とその瞬間、義一と、そして神谷さんが同時に声を上げた。…上げたが、しかしすぐに顔には好奇心に満ちた表情に変化していた。
「…ふふ、義一くん」
と神谷さんは何だか悪戯っ子のような笑みを浮かべつつ、視線は私に向けながら義一に話しかけた。
「君が最近よく言ってくれてる様に、琴音ちゃんは良く君の所から
、最近は私たちの思う保守思想家たちの本や、それに限らず他の思想家、哲学者の本も読んでるんだねぇ?」
「えぇ、その通り…というか、この通りです」
と義一は何だか若干誇らしさを滲ませつつ、しかし何処かおどけて見せながら答えた。
「まぁ保守に限って言えば、先生が昔に書かれた、西洋保守思想家の大家を網羅した著作に載っている人物、その著作群を全て網羅する勢いで読んでいます」
「そっか…って、別に私の本なんかどうでもいいけれど、ふーん…まだ中学二年…だよね?その年齢にしてそんな事に関心を多大に寄せて、それだけに終わらずに原典を読み込もうとするなんて…よっぽどのモノだなぁ」
「はい、彼女は”善きほど”の転である、”よっぽど”なんです」
「あ、あのー…お二人さん?」
ここまで居た堪れない気持ちに苛まれながらも、我慢して聞いていたが、我慢の限界がきた私は神谷さんと義一にジト目を向けて非難まじりの口調で言った。
「先生も義一さんも、さっき自分たちで話したばっかりじゃないですか…?あまり本人の前で褒めるのは云々と」
「え?…」と義一と神谷さんは顔を一度見合わせたが、次の瞬間、同時に私に顔を向けると、二人して何だか照れ笑いと苦笑の入り混じった笑みでこちらを見てきた。
それを見た私が、やれやれと溜息と共に呆れ笑いを見せると、義一が苦笑のまま口を開いた。
「あはは、ごめんごめん。…さて、君の質問に答えるとだね…うん、そう、僕らの考える保守思想の観点から見ると、この協定があまりにも酷い…うん、そればかりじゃなくて、その議論の持っていきかたがあまりに不誠実だから腹に立ってね?まぁ…だから、さっき君が言ってくれた様に、これやられると全て駄目になっちゃうからってんで、こうして嫌々ながらも物を書いてるって訳だよ」
「ふーん、なるほどね…」
…『なるほどね』っと言っては見たが、実はまだそこまで腑に落ちていなかった。義一の言い分にほとんど納得はもちろんいってはいたのだが、それでもまだもうひと押しある様な気がした。
これは…さっきも言ったが、私と義一の付き合いの中で醸成された直感に近いものだった。この直感には自信があった。
そもそもそれ程外した事が無かったし、それに…これを言うのはとても恥ずかしいのだが、再会して以来ずっと、義一のことを些細なことまでジッと見続けてきたから出来る芸当なのは間違いなかった。…話を戻そう。
「でもさ…」
と私は早速思いついたことそのままぶつけてみる事にした。
「いや、今義一さんが言った事には何の疑問もないし、それ自体には納得行ったんだけれど…でもね、まだ何か…引っかかるの」
「え?何だろ?」
義一はもう説明責任を果たしたと、表情も緩めて紅茶を啜っていた。
「うん、だってさ…やっぱりまだ完全には納得いかないよ。いや、何というか、今言ったのと矛盾する様だけれど…うん、だって、勿論今まで義一さん、あなたともう数え切れないほどに議論や会話を楽しんできて、私は私なりに今の世の中の現状を認識しているつもりだけれど、でも…それって今に始まった事じゃないでしょ? それこそ元を辿れば…うん、義一さん自身からもそうだし、神谷先生、それにオーソドックスに集う皆もそれぞれの視点から論じてる様に、明治維新それ自体に懐疑的だったりして、まずあの時点からボタンの掛け違いで今まで来てしまった…うん、それ自体の論評は私からの質問にもキチンと答えてくれたりしたから分かったつもり…だけれど、だったら何で急に今回の協定を結ぶかって話が出た時に、それ程までに重たかった義一さんの腰が上がったのか、それが…まだ腑に落ちないのよ」
「…」
義一はずっと黙って、途中からは目の奥に好奇心と真剣味を同居させてる様な、議論する時に見せる”いつもの”視線をこちらに向けてきていたが、私が話し終えると、義一はふと目を瞑りながら、紅茶の味を今更ながら味わう様に時間をかけて一口ぶんを啜った。
その間神谷さんは、私と義一の顔を見比べる様に見ていたが、静かな表情の中でも、口元だけは若干品よく緩めていた。
と、カップをカチャンと置いたかと思うと、義一はこれまた見慣れた微笑みを顔の湛えつつ口を開いた。
「…ふふ、相変わらず鋭いんだからなぁー。参っちゃうよ。…あはは、そうだねぇ…まぁ確かに、今までずっと話した事には偽りはないんだけれど、うん…琴音ちゃん、君の推理通り、実は…今回じゃなくて、この貿易協定の話が初めて出た、あれは…今新年だから一昨年になるのかな?琴音ちゃん、君が中学生になったばかりの時の事なんだけどね?で、さっきチラッと僕が言ったけど…その議論、話の持って行き方があまりにもヒドく感じて、ずっと鬱積した思いが溜まりに溜まっていたんだ。でも…ほら、僕は人前に出たがらない、まぁズバッと言ってしまえば”臆病者”でしょ?」
「…え?あ、いや…」
『そんな事は一度も思ったことが無い』と続けようとしたのだが、この私の態度を見て何を思ったか、義一は照れ笑いを浮かべながら続けた。
「あ、いや、琴音ちゃん、君は違うけどね?これはあくまで僕個人の話。…ふふ、でもね、そんな臆病者の僕でも、もう何度も繰り返してるけど、政府の説明やマスコミの報道の仕方、この協定についての説明が酷かったから、それで、んー…」
とここで不意に話を区切ると、義一はまたふと書斎机の方を見たかと思うと、私に顔を戻し聞いた。
「琴音ちゃん、この話をするにあたって、軽くでもこの協定について触れざるを得ないんだけれど…良いかな?」
「…良いかなって」
私は何を今更と言いたげに、フッと先ほど見せた呆れ笑いを浮かべつつ、
「そんなの願ったり叶ったりだよ。早く話して?」
と答えると、義一は神谷さんにチラッと視線を流してから、なぜか申し訳なさげに苦笑を浮かべつつ「ありがとう」と返し、それから話を続けた。
「そうだなぁ、何から話そう…。あ、そうだ、じゃあさっきからしつこく言ってる、世の中のその不誠実な議論の持って行き方というのがどういうものなのか、それについて話させてもらおうかな?」
「うん」
と私は答えつつ、手元にメモとペンをしっかりと準備した。
そんな様子を見てニコッと無言で微笑んだかと思うと、義一は先を続けた。
「まずこの話が出た、今から一年ちょっと前だね?その時の政府がどう説明したかと言うと、『これからはグローバルな時代なんだから、日本も乗り遅れてはいけない』だとか、後は…『第三の開国だ』だとかね?もう…しつこい様だけれど、そんな言い方、そんな理由とかアリなのかって思ってさ」
そう言う義一は、後半から表情も眉間にしわを寄せるようにしながら、苦虫を噛むように苦々しげに言った。
「琴音ちゃんも知っての通り、日本っていうのは過去にも何度か”開国、開国”って呼ばれた出来事があった訳だよ。勿論第一の開国は”ペリーの来航”だよね?そして第二の開国は”先の大戦の敗北”、そして今回って事なんだけれど…世間的にはこの開国って言葉が良い意味として認知されてるみたいなんだけれど、僕にはね、それが全く理解出来ないんだよ…。『何?また開国したいの?…は?また敗北したいわけ?』ってね」
「うん…」
義一の話を聞きながら、一年ちょっと前に、あまりテレビや新聞を”敢えて”見ないようにしてきた私でも、そんな私の耳にもそんな話が届いていた。
そして当然…というか、今義一に言われたからではなく、世間が一様に同じ方向を向き出したのに対して、中身がどうこうまでは精査出来なかったが、その流れ自体に違和を覚えていたのは確かだった。そして今、義一が”また今回も”、私のこの自分では言葉に出来ない心情を、こうしてまた理屈をつけてくれた事に対して感謝を覚えながら相槌を打った。
「私もそれ…すっごく違和感がある」
「…ふふ」
と義一はまたチラッと神谷さんの方に視線を流したかと思うと、すぐさま又私に視線を戻して笑みを浮かべつつ言った。
「ありがとう琴音ちゃん。…さて、それでね、あまりにも開国開国ってウルサイし、まぁこれはここ何十年も言われ続けてきた事だけれど、『日本というのは外圧が無ければ変わらないんだ』って、他の国の指導者なりエリート階級が言ったら袋叩きにあうような事を平気で言うからね、『日本ってこんなクダラナイ国だったかな…?昔からそうなのかな…?』って疑問に思ってさ?それで…いっその事時代を思いっきり遡って、その始め…第一の開国と呼ばれたペリー来航の時に、日本人…日本人はどう行動したのかを改めて調べてみたくなってね、それで…これも琴音ちゃんは知ってると思うけれど、現代では何だか悪い事として捉えられている、天皇を尊んで、それでもって攘夷…要は夷(東方の未開人)を攘う…東方から来る野蛮な未開人を打ち払うって意味の”尊王攘夷”…その手引き書と言われていた、江戸時代の水戸藩士にして水戸学藤田派の学者、会沢正志斎の記した『新論』という本を読み返してみたんだ」
「へぇ…」
と私はここで、まだ義一の話が途中だと言うのを知りつつも、思わず声を上げて口を挟んだ。
私はここ一年近くは、古典文学以外にも歴史書、それに保守思想を中心とした哲学書、思想本を借りて読んでいたのだが、今のところはどうしても西洋を中心としていたので、ふと今、義一の口から江戸の思想家の名前が出たので、それが意外にして、そしてとても面白かったので、それ故に口を出してしまったのだった。
「尊王攘夷ってそんな意味があったんだ…。って事は、夷っていうのは、東…ん?アメリカって事?じゃあペリーのことだよね?んー…尊皇して、東からくる野蛮人を攘う…あれ?何が悪いの?」
「…」
先ほどから同じ様な事が続いていたが、今回もまた、途中から独り言のように、考えをまとめる意味も込めて口に出していたのを聞き終えた二人は、また一度顔を見合わせると、今度は「あははは」とどちらからともなく明るい笑い声を上げるのだった。
私がキョトン顔で二人の方を見ていると、そんな私の様子に気づいた義一が、その笑顔のまま話しかけてきた。
「はぁ…あ、あぁ、いや、琴音ちゃん、気を悪くしないでよ?何だか今更ながら基本的な事に気付かせて貰って、それが愉快だから笑っただけなんだから」
「そうだよ琴音ちゃん?」
と神谷さんも愉快げな笑顔のまま続いた。
「まさに”夷”というのは、地理的に日本から見て東に位置してるアメリカで間違いないよねぇ?…ふふ、ありがとう、根本的な所を思い出させてくれて」
「え、あ、いえ…」
何だか思わぬ形で感謝をされてしまったので、私からはもう何も言うことが無くなってしまい、ただタジタジとする他に無かった。
そんな私の様子を微笑ましげに見てきながら義一は続けた。
「ふふ…さてと、そう、今君が言ってくれてた様にさ、何で尊王攘夷して悪いのか分からないよね?うん…。まぁダメだと言う人たちの言い分というのが、先の大戦の大きな要因の一つだというロジックがあっての事で、もうあの様な戦争は嫌だと、まぁそんな浅薄な考えの元から発生するんだけれど…ってまぁ、今はそんな左翼的な平和主義的な考えについての批判は置いといて…うん、話を戻すと、改めて会沢正志斎の『新論』を読み返してみたんだ。…っと、その前に、今軽く紹介するとね、この尊王攘夷の理論的な学者が二人いて、一人は正志斎、そしてもう一人に藤田東湖という、この人も水戸の人なんだけれど、この人は安政の大地震で死んじゃうんだ。でもこの藤田って人もとても尊敬されていて、有名なところで言えば、西郷隆盛だとか、ああいう人に私淑されていたんだ」
こう話す義一は、こう言っては何だが子供の様な無邪気な笑みを浮かべて見せていたので、今日に限った事ではないが、こうして話す義一を見ると、話の内容に惹かれるのと同時に、その無邪気さがとても微笑ましく思うのだった。
「正志斎も、いわゆる右翼にとってのアイドル、吉田松陰なんかも長州…今でいう山口県だね、そこからわざわざ正志斎に会いに行くためだけに、山口から水戸藩、茨城まで来たくらいに、この二人というのは尊敬されていたんだ」
「へぇー」
「でね、右翼の好きな言葉で『草莽崛起』って言葉があるけど、要は皆んなで立ち上がろうって意味だけど、これはどうもヒントは正志斎にありそう…またそんな説があるっていうのを知って、僕もそうかも知れないと思ったんだ。何故ならね、水戸藩というのは、侍と農民の中間というのか、それくらいに位置している人々に武装をさせていたんだけど、その『自分たちで武器を持って自立して戦え』っていう姿勢を見た松陰がえらく感動して、それで長州に戻ったその時期から言い出した事だというので、まぁ繰り返すけれどそうだと思うんだ。…っと、それでね、正志斎に戻すと、まぁまずその前に、大国の清国がアヘン戦争でイギリスにボロクソに負けたってんで、これは日本にとって大きなショックだったんだ。あんな大国でも西洋列強に、こんなに簡単に負けてしまうのかってね。で、それで大騒ぎしてる、これからどうすればいいのかって右往左往している時に、この正志斎の新論が市中にばら撒かれたんだ。で、この新論に影響を受けた幕末志士たちが尊王攘夷運動にのめり込む様になるんだけれど、実はね、この新論、正志斎がこの本を書いたのは、実はこの騒ぎが起こる、えぇっと…アヘン戦争が起こるのが大体一八百四十年くらいだったから…そう、それから二十年も前に出たものだったんだ」
「はー、二十年も」
「そうなんだよ。正志斎がこの本を書いてる時代でも、たまに海岸とかに西洋の船だとかが漂着したりしてた時期で、漁民が薪や食料なんかを分け与えていたりしてたんだけど、それを正志斎はつぶさに観察するんだね。それでね、ここがまず正志斎が凄いんだけれど、その現場を見て『これはヤバイ。これはまずいな』と思ったんだよ」
「へぇー…凄い先見の明だねぇ」
と私はすっかり当初の『何で義一が表舞台に出ようと決心したのか』と質問したのをすっかり忘れて、”師友モード”の義一の話にすっかり惹きつけられて、一心にメモを取りつつ合いの手を入れた。
「でね、当時の江戸時代の人々も、もうずっと徳川政権の下で戦争もロクに無かったから、今みたいに惰眠を貪っていたから、それで尚更危機感を募らせた正志斎は、世の人々の目を覚まさなくてはと、この新論を書いて、それを水戸藩の藩主、徳川斉脩に見せたんだ。でもその内容というのがね、さっきも言った様に、草莽崛起の元になるくらいだから、国防を司る武士は百姓と一緒に暮らしてみたいな事が書いてあるんだけれど、これは当時の幕藩体制ではご法度だったんだ。農民や職人、商人が刀などの武器を所持するのを禁止してたからね」
「あー」
「でもそうやって皆んなが武装しなくちゃ勝てないぞって書いてあるんだけれど、藩主は『書いてあることは一々納得するし、その通りだと思うけれど…この本を世の中に出したら、幕府に水戸藩が潰される』と危惧して、で結局は水戸藩の幹部クラスの中だけで読まれただけで、その外には広まらなかったんだ」
「はー…」
「でまぁその後、ある時というか、藩政改革の問題点を指摘されて当時藩主になっていた徳川斉昭が隠居・謹慎を命じられると、正志斎も蟄居を命じられた事があったんだ。で、その時に正志斎の弟子たちが、当時のアヘン戦争後の混乱した世の中に向かって、勝手に師匠の記した門外不出だった新論を書き写して、それをばら撒いたんだ」
「あぁ、なるほど…ここに来るんだね」
と私がメモに目を落としつつ言うと、義一は「そう」と明るい口調で返し、それからまた続けた。
「で、清国が敗れたというので国内が沸騰している中で、急に二十年前の預言書の様なものがばら撒かれて、『これってマジか、凄いな』ってあっという間に広まったんだ。…って」
とここで不意に義一は神谷さんの方を見ると、何だか照れくさいのか、バツが悪そうにしながら
「先生…先生がいらっしゃるのに、こんな僕ばかりが話して…良いんですかね?」
と言うと、神谷さんはすぐにまた例の好々爺然とした笑みを浮かべて返した。
「ん?あははは!イヤイヤ、楽しく聞かせて貰ってるから構わないよ?…ふふ、君がまだ高校生の頃の、周りに遠慮する事なくパァパァ話してた時のを思い出してたよ」
「いやぁ…」
そう言われた義一は途端に一層照れて見せたが、まだ若干その表情を残しつつも、私にまた顔を戻して続けた。
「んー…あ、でね?まぁ僕も御多分に漏れずに戦後生まれの戦後育ちだから、周囲から尊王攘夷ってものは、排外主義的で、外人は皆んなぶっ殺せみたいな、そんな危ない考え方だって、少なくとも学校では習ったんだけれど…全然違うっていうのが、昔に初めて読んだ時に気付いたんだ」
「うんうん」
「勿論ね、さっきも言ったけれど皆んな惰眠を貪っていたから、目を覚まさせようって意図のもとで激しいことも書いてるんだけれども、実はあらゆる事を冷静に分析しててね、…いや、その当時に日本国内にいながらにして、入手出来る情報をすべて網羅していたんだよ」
「ふーん」
「例えばね、当時の幕府の幹部クラスは、一般的には鎖国でどうのと思われてるけど、それでも世界情勢はしっかりと認識してたんだけど…」
「…あ、オランダ風説書きとか?」
「あ、よく知ってるねぇ」
「あ、いやぁ…」
思わず思い出した単語を口に出してしまったせいで、すぐにこうして神谷さんに褒められてしまい、おどおどしている私を尻目に義一は微笑みを湛えつつ続けた。
「そうそう。その様な物から知っていてね、よくまぁこれも世間一般的には、いきなり浦賀に黒船が四隻来て慌てふためいたって事が流布されてるけど、全然違っていてね?幕府はちゃんと一年前から、ペリーが黒船四隻で来る事が分かってたんだ」
「へぇー」
「でも幕府としては、そんな情報があっても今更どうしようも無かったってだけの話だったんだよ。でね、話を戻すと、当時幕府官僚だった、肩書きは…最終的には勘定奉行だったかな?今で言う…財務大臣ってところで、川路聖謨って人がいてね、まぁ勘定吟味役の職務の関係で西洋諸国の動向に関心を持つようになってたらしくて、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていたんだ。そんな彼がたまたま正志斎の新論を読んだ時に、驚いたらしいんだ。『何者なんだコイツは?何でこんなに色んなことを知ってるんだ?この戦略性の凄さも只者ではない。ぜひ直接会ってお話ししたい』って言ってたっていうのが、記録に残っているんだ」
「あはは、そんな事まで記録に残ってるんだね」
「ふふ、そうなんだよ。でね、そんな幕府の官僚トップである川路聖謨ですら驚くほどだった…。まぁでも、今から見ると勿論間違いや勘違いもあったりするんだけれど、それは致し方ない事だね。でまぁこの正志斎って人も、水戸藩の中では幹部クラスにいた訳だけれど、自分自ら動く人でさ、水戸…茨城の浜辺に漂着した人がいるという情報を耳にすると、我先にと直接出向いて会いに行くんだよ」
「はー、何だか所謂偉い人とは思えないほどに機動力があるね」
「そうなんだ。でね、少し逸れちゃうけれど、そもそも正志斎の文章自体も凄くてね、僕が言うのもなんなんだけれど…例えば、今現代の所謂論文とかを書こうとする時に、自分の論を書いた後で、その論に反論が来る事を見越して、予めにその反論に対する答えを付け加える…これがまぁアカデミズムという世界での基本的な書き方なんだけれど、既に正志斎は当時にしてマスターしてるんだよ」
「え?」
「そういう書き方をすれば、読んでる方がより説得される…それをもう正志斎…いや、当時、当時までの日本の知識人たちは自然とマスターしてたみたいなんだ」
「はー」
「例えばね…こんな事が書いてあるんだよ。『私…』これは正志斎自身ね?『私は最近になって漂着者が増えていることに対して危惧、危機感を覚えている。国防をしっかり考えないといけないと思う。でも、私がそんな事を言うと、大抵の人からはこう言われる。『イヤイヤ、来ている船は捕鯨船ばっかりだから。軍艦じゃないんだから。侵略や占領したいなどの意図などないんだ。ただ鯨を取りたいだけなんだ。刺激する必要はない』と。しかし、それは根本的な間違いである』と書くんだね。それでなんて書くかと言うとね、『グリーンランドというのがある…』」
「グリーンランド…デンマークの?」
「そうそう、デンマークの。『その近海で鯨が取れると聞いている。何でこんな遠くまで出張って来てまで取ってるんだ?』って書いてあるんだよ」
「はーー」
「正志斎はね、当時ありとあらゆる手段を用いて、こんな情報も手に入れていた訳なんだ。それにね『西洋の商船などは、いざという時には軍艦に変わることが出来ると聞いている。ほっといて大丈夫か?』とも書いてるんだ」
「はぁ…凄いね」
「『そもそも、この辺りをウロウロされて、日本の地理情報をスパイされたら…ヤバイじゃないか』とも書いてて、もうね、本当に綺麗に理路整然と反論していく訳」
「うんうん、本当だね」
自分でも分かる程に、気持ちが高ぶっていくのを感じつつ相槌をうった。
義一も自分で話していてそうなったのか、私と同じように、話始めと比べると、ますますテンションを上げていきつつ続けた。
「あ、そうだ、こんなのもあった。…コホン、尊王攘夷って聞くとさ、『日本は神国だ』だとか、『俺たちは侍、武士の国だ』とか、『あいつらは野蛮人、西洋人など恐るるに足らぬわ』みたいな、なんかマッチョなイメージがある…と思うんだけれど、でも正志斎自体はそんな事は必ずしも書いていないんだ。『国防体制をしっかりと敷いて戦う準備をしろと私が言うと、こう反論するものがいる。『イヤイヤ、何を言う。我が国は神国だぞ?それに我が国は武士、武勇の国なるぞ?夷狄なんぞ恐るるに足らぬわ。だからそんな準備をする必要がない』と。それは違う』って正志斎はせせら笑うんだ。それでなんて返すかと言うとね…『お前な…いくら侍の国って言ったって、二百年も実戦経験が無いんだぞ?』と書いてるんだ」
「はぁー…」
さっきからずっと関心しっぱなしだったが、ここでふと頭を過ぎったのは、何度も言うように普段からそんなに見てはいないのだが、年末に義一が初出演を果たしたあのネットテレビ局に集う、自称保守の面々だった。
「つまりね、正志斎は確かに『神国だ」的な事を書いてたりもするんだけれども、だから大丈夫だなんて書かない…つまり、”自分”というものを見失ってないんだよ。本当の意味で”反省”をしているんだ。もう本当にね…ただただ凄い」
義一はここまで話すと、一度一息入れる意味で紅茶を啜ってから、気持ちテンションを落ち着けつつ続けた。
「いくら自国を神国だと思ってたって、それでも現実を見ないままに怠け続けていれば亡国の一途だって分かるからこそ、新論を書いたって訳だね。…でね、正志斎は何度も言うけれど、この新論を書いた意図としては、だらけてしまった日本人の目を覚まさせようって事でさ?煽り立てるというか、所謂アジテーションの文章だから…もうね、改めて今回読み返したら、その凄い戦略性、論理性、また読み易い文語調でしょ?読み終えた頃には僕はすっかり尊王攘夷論者になってしまったよ」
フフフとここで義一は一度、照れ笑いか自嘲か、はたまたその両方か判断しずらい笑みを浮かべて続けた。
「それでさ、『いつまでも臆病風に吹かれている場合じゃないな!覚悟を決めて表舞台に繰り出そう!何の因果かこうして自由貿易協定などという馬鹿げた話が出て来たんだし…よーし、こうなったら手始めにこの協定からぶっ潰してやる!』って、思っちゃったんだよ」
「…」
急に目の前で義一が豹変(?)して見せて、このように言ったので、ほんの暫くは呆気にとられてただ見ていたのみだったが、フッと思わず笑みを零しながら言った。
「…ふふ、なるほどねぇー。あ、いや、そもそも何で表舞台に出ようと思ったのかを聞いたのに、急にそのー…尊皇攘夷だとか、会沢正志斎だとかの話をし出したから、凄く面白くて聞き惚れつつも、どこか『どこに話が行くんだろう?』って思ってたんだけど、でもそっか…ふふ、その新論を読み返しちゃったもんだから、ついつい勢いで腰を上げちゃったのね?」
と言い終えた後に、思いっきり意地悪な笑みを浮かべて見せると、「あははは」と途端に神谷さんがにこやかに笑う中、義一一人が照れ臭げに頭を掻きつつ答えた。
「んー…ふふ、まぁそういう事なんだよ。当時の幕末の志士達みたいにね、もう百五十年以上前の本だけれど…すっかり煽られちゃってさ?…ふふ、こんな本、読み返さなきゃ良かったよー」
そう言うと、義一はふと書斎机の方に顔を向けた。
そしてまた顔を戻すと、今度はまた静かな笑みに戻しつつ口を開いた。
「まぁそれでね、正志斎の本を読み返すに当たってさ、それからその流れでというか…正志斎って滅茶苦茶に凄いけど、実は他にも日本の思想界には凄い人がいるんじゃないか、過去に読んだはずの思想家達…今読み返せば、正志斎の件のようにまた新たな発見があるんじゃないかって思ってね?それでー…それらを纏めてみようと思ったんだ。…って、あのー…お二方?」
とここに来て、義一は私と神谷さんの方に視線を交互に流すと、いかにも申し訳無さげに聞いてきた。
「また少し脱線しつつ、そのー…また話してしまうと思うんですが、良いですかね?」
「え?」
と声を漏らしつつ私と神谷さんは一度顔を見合わせたが、次の瞬間には示し合わせたわけでもないのに、ほぼ同時にニコッと微笑み合い、そしてまず神谷さんが口を開いた。
「あはは、私は当然構わないよ?そもそも今日は、こんな話を聞くために来たようなものだからね」
…?
当然今の神谷さんの言い回しには引っかかる部分があったが、それでも取り敢えず保留することにして、
「…うん、私も構わないよ。とても面白いし、考えてみればー…ここ最近は私がコンクールがあったりとかで、何だかんだ、ここまで時間をかけて深い話を、議論をしあうような機会が減ってたから、私としては願ったり叶ったりだよ」
言い終えた後で、満面の笑みをトッピングすると、義一は一瞬ますます照れ笑いを浮かべた後で、すぐにまた静かな笑みに戻し、それからゆっくりと口を開いた。
「いやぁ、お気遣いどうも…。ふふ、では…まずね、この正志斎の新論を読んだ後で、この正志斎を研究してる本などを、これは今初めて読み始めたんだけれどね、そこに所謂思想の流れが書かれていたんだけれど、それらの研究書を読むと、どうやら伊藤仁斎って人までまず単純に遡れるって事だったんだ。で、その流れで次に荻生徂徠に繋がっていく…まぁ、そんな流れの先に正志斎が来るようなんだね。…ちょっと脱線するけど、この仁斎、徂徠、この二人も、僕がまだ子供だった頃に読んではいたんだけれどねぇー…?ってまぁ、どうでも良いけど…コホン、でね、この二人の流れを一般的に、古い学と書いて”古学”っていう、日本独自の儒学の伝統があるんだ。…あ、まだ琴音ちゃん、君には既に儒学者の本は貸してたっけ?」
「…え?えぇっと…」
ちょうど”古学”とメモしていた所で声を掛けられたので、すぐには答えられなかったが、顔を上げてふと視線を斜め上に流し思い返した。
「んー…四書五経っていうの?孔子の論語なり大学、中庸、それに孟子、それらの四書と…一応易経、書経、詩経、礼記、春秋…だよね?その五経はー…読んだり、後、当然すぐには読んでも理解が出来ない点があったから、それらは義一さん、あなたに解説してもらったりして、後は…老子だとか、荘子、荀子だとか…うん、その流れで今度は王陽明を貸して貰う約束…だったと…思う…けど?」
と、最後の方が急に途切れ途切れになってしまったのは、途中からふと視界に、好奇心を満々に顔中に満たして笑顔を見せていた神谷さんが入っていたからだった。目元のみは驚きから来るような様子を見せていたのだが、それ以外は綻んで見えた。
私は少し身を小さくしながら言い終えると、義一はそんな表情を浮かべる神谷さんをチラッと見て、何やら二人でアイコンタクトをしたかと思うと、義一はまた私に顔を戻して続けた。
「あぁ、そうだったねぇー。うん、王陽明は近々貸すとして…そっか、結構儒教家の本も気付かないうちに読んでたんだねぇ…あ、いや、今は取り敢えずそれは置いといて、でまぁ話を戻すと、確かに新論を読んでいると、『仁斎先生曰く』だとか、『徂徠先生曰く』だとか出てくるんだ。まぁ、こんな点からも、正志斎が大きな流れで見て、この二人から影響を多大に受けているのは分かる訳だね。でまぁ仁斎と徂徠の本も読み返すと、これまた凄いことばかりが書いてあって、流石にこの二人のことまで触れると、あまりにも時間がかかり過ぎるから端折るけれど、さっきも言ったけれど、正志斎と同様に、この二人のことも纏めておこうと思ったんだ。でね、ここで前々から気になっていた…福沢諭吉」
「あ、一万円札」
「ふふ、そうそう。その福沢諭吉の事もね、前々から…うん、時間があれば、今回のことが無くても一度読み返したいなって思っていた所だったんだ。…ここにいらっしゃる、神谷先生も、『福沢諭吉論』っていう、これまた類例のない、下手したら福沢諭吉本人の著作以上に難しい諭吉論を書かれていて、それを昔に読んでから、その興味が尽きることが無かったんだけれど…」
「ちょ、ちょっと義一くん…?」
とここですかさず神谷さんが口を挟んだ。如何にもな照れ顔だ。
「あまり年寄りを揶揄うもんじゃないよー?」
「ふふ、先程のお返しです。…ね?」
と義一がニヤケつつ同意を求めてきたので、私は一度チラッと何気無く神谷さんの方を見たが、すぐに悪乗りする形でニヤケつつただ「うん」と応じた。
「やれやれ…」と神谷さんが一層照れ笑いを強めて頭をさすってるのを見て、私と義一は顔を見合わせて笑うのだった。
「さてと、ここででも、なんでこの尊王攘夷、そして古学、この流れで何で福沢諭吉が出てくるのかについて、ちょっとまた説明させて貰うね?…コホン、これも世間的な見方だけれど、諭吉っていうのは啓蒙主義的で、彼自身が水戸出身の尊王攘夷論者に命を狙われたりして、開国開明、文明開化が云々カンヌンと、それ関連で触れられることが多いんだけれどね?まぁ実際そんな尊王攘夷って言って、無謀な事をする奴はダメだと言ってはいるんだけれど…先生の前で諭吉論を話すのは恐縮だけれど、まず自分で幼い頃に読んで、それから先生の諭吉論を読んで勉強していたら、何だか世間で言われているイメージと結構な割合でズレてるんじゃないかって密かにずっと思っていてね?その論点から今回読み返してみたら…諭吉は尊王攘夷論者だというのがハッキリと分かったんだ」
「…え?今までの話からは、そう思えないけれど…?」
「ふふ、だよね?僕も意外だったんだけれど、注意深く読んでみたら、どうもその様なんだ。まず尊皇に関しては明確でね、”尊王論”とか”帝室論”なんかを記してる時点で、これは疑いようも無い。でね、『皇統が連綿と繋がってきていて、皇統があるからこそ日本国民が一つに統合されているんだ、そういう良いところがあるんだ』みたいな、そんな事も書かれているんだけれども、その本の初めの方でね、『そういう理屈もあるけど、とにかく私は、皇統が神聖なものだと信じている。そこには理屈なんか無いんだ』とね」
「へぇ…」
「『そうに決まってる。決まってるんだけれども、今の世の中…』これって当時の話だから、その当時ですらね?『今の世の中では、そう言っても分からない奴が増えてきて多いから、こうして理屈を付けて書きました』みたいな事が書いてあるんだよ。…で、次は攘夷だけれど…」
「うん」
「これも明らかなんだ。これは先生も著作の中で指摘されてるけれど、そもそも福沢諭吉が自分に課した使命は、日本国を独立させるって事に尽きるんだ。西洋の列強が迫ってきている中で、どう独立を確保するかというのが大事であると。あの”学問のすゝめ”の中の有名な一節、『一身独立して一国独立す 』というのがあるけど、つまりは一国が独立するためには、国民一人一人が自立して考えて、国の為にはどう自分が行動しなければいけないか、それを説く為に学問を勧めている部分もあるんだ。…でもね、特に戦後の知識人たちは、この諭吉の言葉を個人主義、つまり一人一人が自分で誰にも頼らずに、甘えずに個人で生きなければならないみたいな、何だか見事と言いたくなるほどに上辺しか見てない解釈をして、それを世間に広めたんだけれど…琴音ちゃんは今の話を聞いてどう思うかな?」

「…え?んー…」
また急に話を振られたが、今回は何だか振られそうな気がしていたので、あらかじめ準備をしていたお陰か、スンナリと返した。
「…うん、私はまだ東洋系で言えば、まだ孔子だとかその辺りしか読んでなくて、今福沢諭吉に関しては、義一さんの言葉から判断するしか無いんだけれど、でも、今話を聞く限りでは、個人主義では全然無いなって思うよ。だって…あくまで諭吉は国が独立する為に、国民一人一人が勉強したりして”自立”そして”自律”しようって訴えかけてるんだから、目指してる目標が個人ではなく国家の時点で、個人主義とは相容れないよね」
「うんうん」
と神谷さんが目を瞑って何度か頷いてくれたのを見て、私はホッと胸をなでおろす気分だった。
義一も同意の意味の笑みを一度浮かべると、先を続けた。
「そう、さすが琴音ちゃん、今の話だけでズバッと言ってくれたよ。…ふふ、でね、その流れでしっかりと書いてあるんだけれど、もし日本の独立を脅かす様な無礼な国は…攘うべしと書かれていて、それって…攘夷だよね?」
「うん、まさしく」
「ふふ…っと、まぁ随分長く調子に乗って話しちゃったけれど、まぁさっき言った自由貿易協定に対しての本と、それとまぁ、さっき保守がどうのって言ったけれど、僕個人としては、少なくとも日本における保守思想家だと思う人々の中のうちの、今の時代の様な”開国騒ぎ”に対して対抗というか…まぁ対抗は出来ないにしても、せめて冷水を浴びせかける程度のことはしたいなって事で、仁斎、徂徠、そして正志斎と諭吉と、この四人の事についての本を書いてるんだよ」
と途中からまた視線を机の方に向けつつ言った。
「なるほどねぇ…」
と私も思わず机の上の書籍群に視線を向けたがその時、
ガラガラガラガラ…
とここで不意に玄関の引き戸が開けられる音がした。そしてしばらくすると、ペタペタと廊下を歩く足音がしたかと思うと、ガチャっと宝箱のドアが開けられた。
そこに立っていたのは、なんと言えば良いのか…こう言ってはなんだが、どこにでもいるタイプの、アラフォー女性が立っていた。中肉中背の典型的な日本女性で、真っ黒のダウンコートを羽織っていた。
誰だろうとついつい顔を不躾に眺めていたのだが、どこかで見たことのある様な感想を覚え始めたその時
「…お、房子、来たか」
と神谷さんが柔和な笑みを浮かべて声をかけた。
「…?」
と私は思わず神谷さんに視線を向けたが、その時ふと義一に声をかけられた。
「ふふ、この方はね…神谷先生のお嬢様だよ」
「え?」
「あはは、お嬢様ってほどのものでは無いよ」
とすかさず神谷さんが笑顔で突っ込んでいたが、それには取り合わずに、
「…あら、初めまして」
と房子と呼ばれた女性は、モモあたりに両手を添える様に置くと、上体を深々と下げて挨拶をした。
「私、ここにいる神谷の娘の房子です」
「あ、初めまして…」
と私も、その彼女の佇まいに合わせる様にその場で立ち上がると、同じ様に深々と頭を下げて挨拶を返した。
「私は望月琴音って言います。えぇっと…ここにいる義一さんの姪っ子に当たります」
「あら…あなたがなのね?」
と房子は急に目を大きく見開いたかと思うと、ジロッと一通り私に姿を見た後で、ニコッと何処かの誰か…その誰かの正体は今明かされた訳だが、神谷さんに似た人好きのする笑みを浮かべつつ言った。
「ふふ、よく父や義一さんから、琴音さん、あなたのお話は伺っています。それはもう…大層なモノだと。…ふふ、聞いていた通り、聡明そうなお嬢さんだこと」
「え、あ、いや…」
とまた新たな登場人物の口から急に褒め言葉を頂いたので、不意を突かれた私はまたたじたじとなっていたが、その様子を微笑ましげに見ていた房子は、ふと手首の小ぢんまりとした時計に目を落とすと、「お父さん?」と声をかけた。
「約束通り、もう四時だから、そろそろお暇をしましょう?」
「え?あぁ…もうそんな時間か。よっこらしょっと…」
と神谷さんは少し困難な様子で椅子から立ち上がると、その場で軽く伸びをした。そしてまずチラッと書斎机の方に目を向けてから義一に話しかけた。
「じゃあ義一くん、今日も長いことお邪魔したね?」
「いえいえ先生…ふふ、何をおっしゃいますか」
「あはは。まぁ最近は毎度の別れる挨拶がわりのセリフになってしまったが、義一くん、まぁそのー…大変だと思うけど、まぁ”適当”にバランス良くやっておくれね?」
「…ふふ、はい。”適当”に頑張ります」

それからは皆して玄関の外に出た。外は四時というのもあってか、夕暮れが深まっていて、時折吹く風がとても寒くはあったのだが、普段よりも強めに暖房が入っていたせいか火照っていた体からすると、しばらくは体感的には心地良いものだった。
「じゃあ房子、行こうか」
「はい」
と房子は一度私たちにまた会釈をすると、先に門扉のすぐ脇の垣根にギリギリに寄せていた軽自動車に乗り込もうとしたその時、
「あ、房子、ちょっと待ってくれ」
と神谷さんが呼び止めた。
「なーに?お父さん?」
「あぁ、ちょっと待ってくれ…琴音ちゃん?」
「はい?」
と私が返すと、神谷さんは房子の方に視線を流しつつ言った。
「いや、その、すまないがね、房子にそのー…君の連絡先を教えてあげてくれないかな?」
「え?」
何のことだろうと私が呆気にとられている中、側に房子が寄るのを確認しつつ神谷さんはそのまま続けた。
「うん。いつもそのー…君と何か連絡を取りたい、話したいとふと思った時にね、今は義一くん経由でしか出来ないじゃないか?でね、何だかふとこないだ…ふふ、うん、君が全国大会で準優勝をしたと知った時にも、本当は直接お祝いを言いたかったのに、それも義一くんに伝えてもらうって事になってしまったからね?だから…どうかな?」
何だか議論の時などには立て板に水といった調子で、次から次へと言葉を矢継ぎ早に繰り出しているイメージとは裏腹に、辿々しく、明らかに私に気を遣って話してくれてる、その様子がヒシヒシと伝わってきた私は、思わずニコッと笑みを零しながら、しかし自分なりに慎み深げに
「…はい、私のなんかで良ければ是非」
と答えた。
すると神谷さんと房子は顔を一度見合わせると、二人同時にニコッと笑い、そして房子がおもむろにスマホを取り出したので、私も慌てて同様に出した。
「…よしっと。終わったよ、お父さん」
「うん。…琴音ちゃん?」
と神谷さんはふと房子にまた視線だけ流しつつ、しかしイタズラっぽい笑みを浮かべながら言った。
「これからは義一くんとかだけではなく、私にも遠慮なく、些細な事でもいいから連絡をしてきておくれね?いや、無理にとは言わないけれど、それでもいつでも取り敢えず、房子が受けてくれるからさ」
「遠慮しないでね?」
と房子がダメ押しとばかりにニコッと笑いながら付け加えたので「はい」と短く、しかしハッキリと笑顔で返した。

房子がまず初めに挨拶を改めて述べてから車に乗り込んだのを見た神谷さんも、また一度挨拶を掛けてきた。
「じゃあまたね。…琴音ちゃんも」
「は、はい」
と私はその場でペコっと軽く頭を下げると、神谷さんは明るく微笑んで見せて、
「また数寄屋か、それともなきゃ宝箱でまたお喋りをしよう」
と言いながら、私からの返答を聞くことなく車に乗り込んだ。
「はい」
と聞こえてるかどうかはともかく、取り敢えず返事だけ漏らし、それから車内から手を振ってくれる神谷さんを乗せた、房子の運転する車が見えなくなるまで見送った。
「…さてと、寒いし、もう中に入ろうか?」
と義一が言うので、「うん」と私が微笑み返しつつ言うと、二人揃って家の中に戻っていった。

「…でもそっか、だからかぁー」
と私は、義一が新たに淹れ直してくれた紅茶を一口啜り、一つ大きく息を吐いてから呟いた。
「ん?何がだい?」
と義一も私と同じ様に紅茶を啜っていたが、柔らかな笑みを浮かべつつ返した。
「うん。そのー…ね?何だかんだ私たち二人が顔を合わせるのって、一ヶ月ぶりくらいでしょ?今日久々に顔を見たら、そのー…義一さんがくたびれて見えたからさ?…ふふ、また何をしているのかなって今日来た当初はそう思ったの。髪もぴょんぴょん跳ねてるし」
「え?…」
と義一は自分の頭を手で触れるかどうかの位置で撫でる様にすると、「あははは!」と明るい笑い声を上げた。
「確かにねー。今日は折角君が来てくれるってんで、最近はずっとヘアバンドで誤魔化してたんだけれど、これでもね、一応纏めたつもりだったんだ。…ふふ、自分で言うのも何だけれど、こんな所に疲れが出てるのかも知れないね」
「ふふ。…でもその様子からも分かるけど」
と私はふと机の方に視線を向けつつ言った。
「やっぱり大変なんだね?」
「え?あ、うん…まぁ、大変は大変だけれど…」
と義一も同じ様に机の方を向きつつ言った。
「まぁやり甲斐はあるよ。うん。…実はね、さっきは言いそびれたんだけれど」
と義一はおもむろに立ち上がると、書斎机の方に向かい、その上から何か一冊の本を持ってきた。
そしてそれを私に、何だか若干の恥じらいをもって手渡してきた。私は何も思わないままに受け取り見た。
それはいわゆる新書本で、表紙も味気なくほぼ単色で占められており、そこにただ書名が載っているのみだった。そこには『自由貿易の罠 黒い協定』と横書きで書かれていた。その字の下に小さく『望月義一』とあった。
「義一さん、これって…」
と私がふと顔を上げて聞くと、ちょうど席に座る所だった義一は照れ臭そうに笑いながらも答えた。
「うん…ふふ、そう、それがさっきから話をしていた、僕の処女作…って事になるのかな?」
「へぇ…って、もうこれって完成品…だよね?」
と渡された本をくるくると回して表紙と裏表紙を眺めながら聞いた。
「まぁ…そうだね。それはいわゆる”見本”ってやつでさ?その本の題名はね、本来は出版社が決めるんだけれども、僕の意見を多分に入れて貰ったんだ。そうだなぁ…今年入ってすぐくらいに、浜岡さん含む他の担当の人と共に間違いが無いか最終チェックをしてね、新年すぐで慌ただしいというのに校了したんだ。それでたまたま今日にね、こうして見本が出来上がっていうんで、浜岡さんがわざわざ持ってきてくれたんだよ」
「ふーん…って」
と私は一度その本をテーブルに置くと、軽く意地悪げな笑みを浮かべつつ聞いた。
「もうそれって…あと少ししたら実際に書店に売られる段階まで来てるって事だよね?」
「え?あ、うん、そうだよ。確かー…来週か再来週、遅くとも今月中には本屋に出回るんじゃないかな?」
「ふーん…っていうかさ、私はそんな出版業界の事なんか何も分からないけれど、そんな簡単にすぐには出版までは行き着かない…でしょ?ってことは…義一さん、あなた、私に内緒で、実はあーだこーだ言いながらも、着々と準備を続けてたんじゃないの?」
「…」
そう聞かれた義一は、一瞬真顔になったが、その次の瞬間にはニターっと笑ったかと思うと、今度は若干苦笑まじりに返した。
「ふふ…あ、いやいやー、そんな事はないよー?確かに色々と資料を集めていたのは事実だけれど、それはほら、オーソドックスのための事であって、別に自分で本を書こうってためじゃないんだ。うん。…まぁ実はね、僕自身も今回が初めてというだけあって、出版の事なんか右も左も分からなかったんだけれども…うん、確かに今君が言った通りね、こんなに急ピッチで出版まで漕ぎつくっていうのは余り過去に例が無いことらしいんだ。でもね、まぁ見ての通り新書というのもあるし、表紙もだからシンプルでしょ?だからその分携わる人間が少なくて済んだ…まぁこれは浜岡さんの言葉だけれど、本当に僕は去年の十一月の…うん、早くて中旬あたりに一気に書ききって、それで校正を何度か繰り返して、それでこうして完成となったんだよ」
と義一はおもむろに見本本を手に持ちつつ言った。
「まぁこれは自分で言うのも何だけれど、どうも浜岡さんや担当さんが言うのにはね、どうも今回の自由貿易協定の反対論を書く人がなかなかいなくて、出る本のほぼ全てが揃って賛成意見ばかりだから、僕みたいな異論を出したいって考えもあったらしく、そんな諸々の思惑が上手いことタイミング的に重なって、それで急ピッチに色々と工面してくれたって話なんだ。だからまぁ…この二ヶ月くらいは黙ってた分隠してたって事にはなるから、それについては謝るけれど…それ以外は僕は無実を主張するよ。だからー…信じてよ琴音ちゃん?」
「…ふふ」
義一の最後に見せた表情が、あまりにわざとらしく芝居掛かった哀願の表情と声音だったので、思うわず吹き出し笑いしてから、その流れのままの笑顔で返した。
「…分かったよ。信じてあげる」
「あはは、ありがとう琴音ちゃん」
と義一が言いながら本をテーブルに戻したので、また私はそれを手に取り、パラパラとページをめくってみた。
新書なだけあって文量は少なめだった。ページで言うと、全部で二四〇ページ程だった。軽く見た感じでは、所々に表や出典なども沢山書かれていて、ページ数の割には読み応えがありそうな感が窺えた。
「まぁ処女作というのもあるし、正直恥ずかしさがマックスなんだけれど…」
と義一はジッと何度もペラペラとページを捲る私の様子を照れ半分入った苦笑いで見ていたが、カップを手にしつつ言った。
「もし琴音ちゃんが読んでくれるというのなら…そんな見本段階のではなく、キチンとした本をあげたいと思っているよ」
「…あ、本当?」
と私はようやくここで本から目を離して、思わず声を上擦らせながら返した。
「うん、本当だよ」
と私にリアクションに戸惑いつつも笑みを絶やさぬまま義一が返してくれたので、私の方ではますますテンションを上げて言った。
「やったー!ありがとう義一さん!期待して待ってるね」
「え?…ふふ、うん、今の君の期待分には何とか添えるだろうくらいには自信があるから、まぁ…乞うご期待ってトコかな?」

それから二人で暫く明るく笑い合った後で、今は先ほどずっと話していた思想の本、こちらは新書ではなくもう少し、義一の言葉を借りればキチンとした本になると言うので、少し発売がズレるとの事だったが、それでも来月中には発売の目処が立っているらしい。
繰り返すようだが、出版社のみに限らず、いわゆる執筆業の人らがどんなペースで本を出しているのか分からないが、そんな素人の私から見ても、途轍もないペースだというのだけは分かった。
そんな感想をそのまま述べると、義一はまた例の如く、何だか恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべるのみだった。
と、ここでチラッと時計を見ると、まだ四時半になったところで、まだ若干の時間があると気づき、そして今回のような思わぬ機会に恵まれたというのもあって、それと同時にあることを思い出したので、それをそのまま義一に聞いてみることにした。
「…そういえばさ、義一さん」
「ん?なんだい?」
そう返された私は、閉められた宝箱のドアにふと何気なく顔を一度向けてから言った。
「そのー…これを聞くのは何だか気が引けるんだけれど…聞きたいのはね、そのー…神谷先生の事なの」
「あ…」
と私の言葉を聞いた瞬間、すぐに察したらしく、義一はフッと困惑が少し混じったような、そんな微笑を浮かべつつ漏らした。
「うん…」
「そのー…さ、ほら、私、先生と直接会ったのって、あの落語の師匠が数寄屋に来た時以来でしょ?何だかんだで今日で半年ぶりくらいだった訳だけれど…それから見るとさ、何だか見るからに、そのー…先生の様子が、なんて言えば良いのかな…とても力無いげに見えた…の」
「うん…」
と義一は相変わらずの微笑だったが、それでもどこか寂しげだった。
「いや、その…ね、ついでにと言っては何だけれど、そのー…そもそもね、最後に数寄屋で会った時でも、そんな印象は持っていたの。その時はあの店内が雰囲気良く薄明かりの下だったから、それでそんな風に見えてただけかなって思ったりもしたんだけれど、やっぱりあの時から既に少しそのー…気持ち弱々しげに見えてた…んだけれど…」
『どうして?』とまでは流石の私も言えずに、結局最後はこんな中途半端な物言いになってしまった。
義一は最後の私の言葉を聞いた時にだけ、ふと一瞬目を大きく見開いて見せたが、次の瞬間にはそれ以前よりももっと柔和な微笑を顔に湛えつつ最後まで静かに黙って聞いていた。
そして聞き終えると、一度紅茶を一口啜り、それからは感心した風な表情を浮かべつつ静かに口を開いた。
「…ふふ、琴音ちゃん、君はあの時からそんな感想を持っていたんだねぇ…。いやはや、本当に良く君は”人間(ひと)”というものを見ている…感心するよ」
「で…?」
と私はいつものような不用意な賛辞はいらないと口調のみで主張すると、義一は今度はまた柔和な微笑を浮かべつつ話した。
「うん…そうだなぁ、せっかく今君が前回の時の事に触れたから、そこから始めるとしようか。別に今この場に先生がいないからって、僕がその理由を話しても、何も悪くは思われないのも知ってるからね。…コホン、まぁまずあの数寄屋の時点での事だね?あれはね…まぁ先生は恥ずかしがって認めたがらないけれど、そのー…実はね、あの数日前にね、先生のそのー…奥方、奥さんがね、…亡くなられたばかりの時だったんだ」
「え…」
と私が神妙な調子で声を漏らすと、義一は力無げに一度笑みをこぼしてから続けた。
「先生の奥さんはね、ここ十年以上も心臓の方に病を患ってらしてね、それでその十年前の時点で余命が一年もないみたいな事を宣告されていたんだ。それで先生ご夫妻はね、そんな余命が幾ばくもないのなら、何もつまらない病院にいる事もないだろうと、そのすぐ後で退院して自宅療法を受けていたんだ。それまでは所謂西洋式の医療を受けていたんだけれど、それからは、たまたま知り合いに紹介してもらった漢方医にね、つまり東洋医学を受けていたんだ。そしたら、今言った通り、余命が一年どころか、十年も延命が出来た…これは先生の弁だけれど、それだけで奥方本人と共に、儲けものをしたような、そんな心持ちでいたから、別にこうしてとうとう亡くなるという結果になったとしても、何も悔いは無いとおっしゃってたんだ」
「そんな事があったんだ…」
「うん…ふふ、だからね、そうは言ってもずっと先生は献身的に奥方の介護に情熱を持ってなされていて、本当に…他人が聞いたら、僕が先生を尊敬してるって色眼鏡があるから信用されるかどうか分からないけれど、それでもやっぱり客観的に見て、お互いに信頼、信用、尊敬しあっていた、理想的な夫婦でいらっしゃったんだって思うんだ」
「うん…そんな感じだね」
神谷さんの奥さんは当然見たことはなかったが、それでも普段の神谷さんの様子を見るに、あの例のネット番組にゲスト出演をする際に、何かにつけて照れ笑いを浮かべつつも、ハニカミながら自分の妻のことを話している姿を見ていたので、素直に今の義一の言葉に納得がいったのだった。
「ふふ、だからね、先生以外の僕らの仲間内でもね、先生はそう否定なさってたけれど、あの時はそのショックがまだ大きかった時期で、それで心なしか元気が無いんじゃないかって、話し合っていたんだよ。…それでね」
とここで、神谷さん夫婦の話をしていた時には明るい笑顔でいたのに、ここにきてまた一段と表情を物憂げにしつつ、声のトーンも落とし気味に言った。
「…実はね、先生の奥方も心臓病だったんだけれど…先生ご自身もね、実は一度癌で入院されてたんだ」
「え…癌…?」
義一があまりに何気なく言うものだから、受け手の私としても何だか直ぐには実感が湧かなかった。それよりも頭を過ぎったのは、やはり落語の師匠の事だった。
「うん…。まぁ師匠と違って”あの頃”の時点では初期段階だったから、胃癌だったんだけれど、内視鏡で済んだんだ。 …ただね、去年の今頃にね、何だか身体に違和感を覚えたというので、先ほど来ていた房子さんを連れ立って病院に行ったら…癌が身体中に転移しているのが分かったようなんだ」
「…え」
「うん…。まぁ最初の癌治療の時に、どうやら見過ごしがあったらしくてね、それでその癌から人知れず、本人も知らない間に徐々に転移をしていったらしくて、もう今の時点ではそのー…手遅れって事らしいんだ」
「…」
もう私は声を漏らす事すら出来なかった。おそらく話している義一も、いや、私以上に辛いはずなのだが、それでも普段の調子を崩すことなく話を続けた。
「まぁ一般論として、見落としがあっただなんて聞いたら、その前の病院なり医師なりに文句を言ったり慰謝料を要求したりするものかも知れないけれど、そこはやはりというか…先生なんだなぁ」
と義一はここでふと視線を斜め上に泳がせて、何か懐かしむようにしながら続けた。
「やはりね、あの”師匠”と親友のように付き合ってきた人だから、そんな自分の死さえも何というか…笑い飛ばしちゃうんだね。…僕に初めて告白してくれた時にはね、こうおっしゃってくれたよ。『別にまぁ私は、普段から言ってるように、何も今の時代の技術が絶対に間違いを犯さずだなんて愚かな事は思ってこなかったし、こんな事もあるだろうって感想しか持たないよ。それに…これは師匠がよく言ってた事だけれど、勿論末期癌で苦しみながら死んでいく人もいるんだろうから一概には言えない…でも、ポックリ逝きたいって人が多いだろうけど、…癌というのは、未練を整理する時間が設けられているんじゃないか?もしも神というのがいるとしたら…ってのをね」
「あぁ…なるほど…」
私はここでふと亡くなった”師匠”のことを思い出し、ふと思わず目頭が熱くなる気配を覚えた。
「だからさ、僕はこれをキチンと運命と受け止めて、まぁ…それでも痛いのは嫌だから、鎮痛のための治療だけ受け続けて、余命を生きようと思ってるよ』とおっしゃってたんだ。…僕としては、そうは言っても何が何でも先生には長生きをして、この国の行く末を見届けて…いや、今の僕の感情としては、漸く臆病を押し殺して立ち上がろうとしている僕の事を、叱咤激励も含めて見ていて欲しい…んだけれどね。まぁ…仕方ない…んだよ」
先程からずっと私から顔を背けて、途中から相変わらず静止画のままのテレビ画面の方に視線を飛ばしながら話していたのだが、そう言い終えた義一の横顔は、今まで見てきた中でも一番に哀愁が漂っていた。生意気ながらその義一の心情が手に取るように分かる…いや、伝わってくるようで、私は何も返さずに、義一と同じ様に、ただテレビ画面を眺めるのだった。
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